伊東市と曽我物語の史跡を尋ねて、音無神社、葛見神社、東林寺、伊東祐親の墓の順に訪問推奨
- 5.0
- 旅行時期:2015/12(約10年前)
-
-
by kirstiNorgeさん(非公開)
伊東温泉 クチコミ:12件
日本三大仇討ちとは、なにかご存じであろうか。曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入りと鍵屋の辻の決闘を日本三大仇討ちを呼んでいる。ここ伊東市には曾我兄弟の仇討ちの背景となった史跡が数多くあり、訪問推奨する。市内中心部から出発した場合、最終目的場所を伊東祐親の墓と定めた場合、音無神社、葛見神社、東林寺、伊東祐親の墓の順に巡るのが良いだろう。
音無神社では、伊東祐親が京に赴任中、流人源頼朝が伊東祐親の娘八重姫との間にもうけた千鶴丸の運命を知り、葛見神社では伊東氏の先祖について知り、伊東祐親の菩提寺である東林寺では、本堂の一角に伊東祐親や千鶴丸の木造が安置され、伊東祐親や河津祐泰等の位牌があるはずである。実際に訪問した際には余りにも暗くてどれがどれだか分らなかった。次に東林寺南側に小高い山があり、山の頂上付近には河津三郎の墓と曽我兄弟の墓といわれるものがある。この墓への参道入口には、相撲四十八手の一つ「かわづがけ」の創始者として名高い、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟の実父である伊東祐親の嫡男・河津三郎祐泰の記念碑がある。参道には多くの観音像があり、江戸時代の山道を歩いているような感じとなるが、老人にはかなり急な坂道であり、推奨しない。曽我物語の発端は、伊東祐親との領地争いによって、祐親を深く恨んでいた工藤祐経は部下に命じて、伊東祐親を遠矢で殺そうとしたが河津三郎祐泰に当たり、河津三郎祐泰は落命する。河津祐泰の子祐成(元服後十郎祐成)と時致(元服後五郎時致)は母が曾我祐信と再婚したことから曽我姓を名乗る。1193年5月源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。この機会に、曽我兄弟は工藤祐経を討ち果たすこととなる。
曽我兄弟の祖父伊東祐親は、もともと平家側に立ち、源平の争乱の中において、活躍するが、源頼朝が優勢となり、1182年3月21日、自害して果てた。
その墓は河津三郎祐泰と曽我兄弟の東に直線500m付近に、嫡男三郎と孫の十郎、五郎の墓の方向、真東に向いて立っている。
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2016/01/14
いいね!:0票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する