最後の官選沖縄県知事島田叡(しまだあきら)氏、沖縄県警部長荒井 退造(あらいたいぞう)氏他458名の沖縄戦で亡くなられた県庁職員が祀られています。
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- 旅行時期:2015/06(約11年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
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沖縄県営平和祈念公園内の摩文仁の丘に位置する?島守の塔?は、沖縄戦での県職員の戦没者460名が祀られている慰霊塔になります。兵庫県出身で沖縄県最後の官選知事であった島田叡氏は、昭和20(1945)年1月10日に沖縄県知事の打診を受け、即受諾したそうです。そして県警本部長の荒井退造氏とタッグを組み、赴任してすぐに沖縄駐留の第32軍との関係改善に努められ、前知事時代に一向に進まなかった?県民の疎開?や?食料の分散確保?等緊急を要することを処理されて行きます。横柄さのない人柄は?人の心?をつかみ、次第に県民が知事に深い信頼の念を抱いています。海軍沖縄根拠地隊司令官大田實少将もその一人であり、島田知事とは?肝胆相照らす(互いに理解し合い親しく交際すること)?関係であったそうです。それが昭和20(1945)年6月6日に大田司令官が、海軍次官に打電した?沖縄県民斯く戦えり?の中にある?県知事より報告せらるべきも??本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども?の一文に垣間見ることができます。
第32軍の沖縄島南部への撤退に対し、既に県民の多くが疎開している状態での撤退は?住民を道連れにするのは愚策である?として牛島司令官に噛み付くも、戦局の推移に伴って軍と行動を供にし南部へと撤退します。ちょうど学徒隊の解散時期と被る昭和20(1945
)年6月9日、同行した県職員や警察官に?どうか命を永らえて欲しい?と最後の訓示をした後、県及び警察組織の解散を命じます。そして昭和20(1945)年6月23日未明(22
日説あり)、牛島司令官・長参謀長が自決し沖縄戦の組織的抵抗が終了します。時期的に情報網が途絶し、正確な情報が得られない状況だったとはいえ、軍と行動を供にしていた島田知事には、それほど距離の離れていない場所での司令部崩壊の情報を知っていたのではないでしょうか。司令官の自決から3日後の昭和20(1945)年6月26日、荒井警察部長と供にこもっていた摩文仁の壕を出た後行方不明になりました。その後の消息は諸説あるもののいずれも核心には至っていません。
戦後元県庁職員の手によって?島守の碑?建立の話が進められ、昭和26(1951)年6月25日に完成します。それによって島田氏の功績は後世に語り継がれることになりました。その後平成4(1992)年には、島田氏の出身地である兵庫県・神戸市沖縄県補助及び沖縄県職員の寄付、島田知事所縁の兵庫県、神戸市及び日高町の支援を得て慰霊塔が完成し現在に至っています。
訪れた6月23日は、平和祈念公園での?戦没者追悼式?の他、沖縄県各地で?慰霊式典?が執り行われていました。この?島守の塔?と?沖縄県職員慰霊塔?には、所縁の沖縄県庁等の?献花?の他に島田知事所縁の?兵庫県?のものもありました。
なぜ大阪府の内務部長をしていた島田氏が、戦争の最前線である沖縄県知事の打診を受諾したのか、それも?快諾?という表現をされて…。?誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。?と返した逸話はあるものの、頭で考えるだけならともかくそれを?実行された?島田氏のお人柄は?ヘタレ?を自認する私には想像すらできません。しかし?隣にいる人?が?信用できない?時代の中で、70年もの間?変わらぬ評価?をされていることは、?慈愛?に満ち溢れた人だったことを?客観的?にも表しているように思います。
新しく建てられた慰霊塔の後方には、島田知事が籠っていた?壕?が残っています。?島守の塔??慰霊塔?へのお参りの際には、是非見学して頂きたく思う場所です。また?平和の礎?にも?島田叡?氏の名前が刻まれています。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- さすがに慰霊の日はこんでいました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 同一敷地内の3基の慰霊塔には圧倒されます。
クチコミ投稿日:2015/07/09
いいね!:14票
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