日本大学創立者、謎の最期
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- 旅行時期:2015/05(約11年前)
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by bluejaysさん(男性)
朝来・生野 クチコミ:7件
山田顕義は1844年、萩藩士として生まれた。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。
藩校明倫館と松下村塾で学び、尊王攘夷運動に身を投じる。八月十八日の政変では、七卿に随行し長州へ下る。大村益次郎から西洋兵学を学び、禁門の変で戦った。鳥羽・伏見の戦いでは副参謀として活躍し「小ナポレオン」の異名を取った。
明治維新後は兵部省創設に尽力し、陸軍中将に昇進。1885年最初の司法大臣となり、日本法律学校(後の日本大学)、国学院(後の国学院大学)を創設するが、大津事件で大逆罪を適用しようとして頓挫し、病気を理由に辞任した。
1892年山口護国神社を訪れ、生野の変で自刃した従兄弟の南八郎(本名は河上弥市)の顕彰碑に参拝し、生野銀山に立ち寄ったが、そこで倒れて死亡したとされる。だが頭部を損傷しており、誤って立抗に転落したとも、恨みを抱く人に突き落とされたとも言われるが定かではない。「山田顕義終焉の地」碑はかつて生野銀山にあったが、現在は生野駅西口に移されている。
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
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- 生野駅西口すぐ
- 人混みの少なさ:
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- 見ごたえ:
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クチコミ投稿日:2015/06/14
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