小國神社〔神社〕
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- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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by 横浜臨海公園さん(男性)
森 クチコミ:3件
小國神社(おくに じんじゃ)は、静岡県周智郡森町に所在する遠江國一之宮神社である。
御祭祀は、
大己貴命(おおなむちのみこと)
御1柱である。
社伝に拠れば、第29代 舒明帝(じょめい てんのう)(継体3年(509年)〜舒明32年(571年)5月24日)在位中たる舒明16年(555年)2月18日に遷宮したとされる。
延長5年(927年)に編纂された 延喜式神名帳(えんぎしき しんめいちょう)に於いて、遠江國式内社指定社は合計62坐で、名神大社2坐、小社60坐が確認されており、名神大社では、榛原郡敬満神社、及び、濱名郡角避比古神社が記載されていた。
然るに、前者は、当時の東海道に於いて交通難所で急勾配で地形が嶮しく粗悪な日本坂経由道を忌避し現行ルートに改変が実施された事で衰退忘却され、後者は、貞観11年(869年)7月9日に発生した貞観大地震(じょうがん だいじしん)に拠り津波に見舞われ、更に、明應7年(1498年)9月11日に発生した明應大地震で浜名湖が遠州灘と接続した際に該社が大津波で再流失後は該存在すら所在不明社となった。
平安末期ともなると、中央集権体制の崩壊の兆しと共に律令制度衰退が原因で、朝廷は全国有力社寺から直接年貢徴収を実施せざるを得なくなり、遠江國では、名神大社たる、角避比古神社、及び、敬満神社が衰退し、此れら2社に代り該社が年貢朝貢社として躍進し頭角を伸ばす。
該社が一之宮を称する様になったのは、現存文書から、概ね、平安末期たる永萬元年(1165年)から鎌倉初期たる文暦2年(1235年)頃の間と推定される。
該社にとって、戦国時代末期は多難な時期を迎える事になる。
元亀2年(1571年)に、該社別当神宮寺たる蓮華寺僧侶が、該社別当として派遣助勤させられていたが、当初の予想をはるかに上回る長期間に亙った事から、蓮華寺側から反発を招来させた。
蓮華寺から該社に対し、再三に亙り該寺僧侶返還を要求したが、該社が該要求を黙殺し継続した事から、両社間が騒乱の場と化してしまった。
然も、該騒乱が互いに一歩も譲らず意見を主張し続けた為に、最終的に京都朝廷をも巻き込んだ泥縄状態に陥った。
当時の天台座主が仲介したが全く埒があかず、最終的には、第106代 正親町天皇(おうぎまち てんのう)(永正14年(1517年)6月18日〜文禄2年(1593年)2月6日)が、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日〜元和2年(1515年)6月1日)に対し、綸旨を以って返還依頼させる有様だった。
翌元亀3年(1572年)には、遠江國目代 武藤氏定(むとう うじさだ)( ? 〜天正9年(1581年)3月)は、武田信玄(たけだ しんげん)(大永元年(1521年)12月1日〜元亀4年(1573年)5月13日)に呼応すべく、主君たる 家康を裏切り、武田軍勢を招入し、該社を城郭にしようと目論んだ。
然るに、当時の該社神主 鈴木重勝(すずき しげかつ)は元来が三河國出身で家康とは旧知昵懇の仲であり、重勝は包囲状態化で窮地に陥った状況下すら武田方に組する事を潔しとせず、此の為に、長男 千松麻呂を人質として家康に差出し、改めて家康に忠誠を誓うと同時に、該社御神体を別場所に移設させた上で、家康は該社境内が敵陣地として使用不可能にすべく、同年9月22日に該社造営物に対し悉く焼捨させた。
此れら造営物が全部再建され遷宮が完了するのは、天正11年(1583年)12月7日である。
また、家康は焼失させた造営物の穴埋代替として590石の一宮神領朱印状を認知した。
遠江國に一之宮に就いては、該社以外に事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)が該当すると言う解釈も存在する。
然るに、江戸期に事任八幡宮は事任と称する事も途絶し、日坂八幡宮として忘却衰潮の一途を辿っており、元禄10年(1697年)12月には、該社境内に事任神社が遷宮される状態だった。
然るに、該社が一之宮とする古文書が30点以上現存するのに対し、事任八幡宮に関する文書は室町期の物を含め4点しか存在せず、然も、全部が京都吉田神道家関係のものばかりである。
室町中期以降、吉田神道家勃興に依り、該家は宗源宣旨と称し神道長上の名を以って私事神位指定を徳川末期に至るまで行った。
即ち、吉田神道家は京都の地に在り、当時の交通不便な時代に遠江國の如き遠隔地の実情に就いて直見では無く伝聞を主とした当時の状況下では疎くなるのも致し方無く、此の事をして、遠江國のみならず全国一之宮の存在の混乱を招来させた一因を否定出来ない。
因みに、吉田家に依る神位指定行為は、明治維新直後の神祇制度改定に拠り全面的に禁止された。
明治維新と共に、大政官布告として次々と社寺関係令が発せられた。
明治元年(1868年)4月20日 神仏分離令
明治4年(1871年)1月 5日 社寺領上地令
社寺領上地令と共に、遠江國では角避彦神社が國幣中社に指定された。
然るに、角避彦神社は、前述の如く、明應7年(1498年)9月11日に発生した明應大震災で浜名湖と遠州灘を遮る土地が陥没し、大津波で流出後は所在不明社である事から論社比定不能と判定され、翌明治5年(1872年)7月1日に指定解除され同時に該社が國幣小社に指定昇格した。
該社が國幣小社指定の経緯に就いては、
國幣小社小國神社ハ延喜式神名帳所載ニシテ、祭神大穴牟遅命ヲ鎭祭スト云フ。明治六年六月國幣小社列セラル。其達書左ノ如シ。
右國幣小社列自今
官祭被仰出候事
明治六年六月十三日
大政大臣 三條實美
なる当時の文書から、遠江國筆頭神社たる事が確認された。
明治15年(1882年)3月8日1時頃、境内作事小屋から出火し火は見る見る間に境内主要造営物に引火炎上した。
原因は、作事小屋に於いて屋根職労務者が禁止されていたにも拘らず、暖を摂る為に密に焚火をした後の残火の不始末が原因と断定された。
造営物以外で焼失した財宝類は、家康奉納の宗近作大刀、小刀、家康奉納の采配、尊朝親王発家康宛親書、舞楽装束楽器、面等々88品に及び、若し、愚にもつかぬ火災で烏有に帰せず今日現存していれば、悉く国重要文化財指定拝命は確実だった逸品ばかりであり遺憾である。
直ちに内務省主導で復興計画が練られ実行されたが、被災前後で一番相違したのは本殿構造であり、被災前は熊野系権現造だった物が、復旧後は御祭祀に因み、出雲系大社造様式に変化を見せた。
明治5年(1872年)7月 1日 縣社列格
明治6年(1873年)6月13日 國幣小社 昇格
小國神社(おぐに じんじゃ)
静岡県周智郡森町一宮3956−1
?: 0538−89−7302
9:00〜16:00
天竜浜名湖鉄道遠江一宮駅 徒歩40分
http://www.okunijinja.or.jp/
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
クチコミ投稿日:2013/06/25
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