国指定史跡「比企城館跡群 松山城跡」
名所・史跡
3.30
国指定史跡「比企城館跡群 松山城跡」 クチコミ・アクセス・周辺情報
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松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城。平成20年に、国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。現状の城の縄張りは、後北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。「鎌倉大草紙」には、応永23年の鎌倉六本松の合戦において「松山城主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394~1428)には松山城は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと言える。 天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、その中には、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。
クチコミ・評判
1~10件(全10件中)
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曲輪と空堀が特徴です
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- 旅行時期:2024/02(約2年前)
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松山城跡 遺構が見事
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- 旅行時期:2022/04(約4年前)
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山城を攻める大変さがわかります
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- 旅行時期:2020/04(約6年前)
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吉見百穴とセットで
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- 旅行時期:2020/02(約6年前)
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明るい内に登城した方が良い
- 3.5
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
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説明が足らないので不安で登りませんでした
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- 旅行時期:2015/09(約10年前)
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国破れて山河あり、城春にして草木深し
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- 旅行時期:2015/03(約11年前)
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東松山市在住の郷土史家の案内で松山城跡を学びに行った。
松山城の築城は、山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背... 続きを読む景とした15世紀後半という考え方が有力である。松山城が中世史上に登場してくるのは大永4年(1524年)1月以降であり、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏の対立から、関東制覇を進める後北条氏が進出する時期と言える。この中にあって関東各地は一気に戦乱の渦中に巻き込まれるが、松山城もその例外でなく常に戦略の最前線として、後北条氏・甲斐武田氏と岩槻太田氏・越後上杉氏との間で幾多の合戦が繰り広げられた。天正18年豊臣秀吉による関東攻略が行われた際には、前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した、という。
往時は城郭部に樹木はなく、曲輪の山肌が見えたという。今はかつての面影は少なく、到る所に草木が生い茂り、ひっそりと静まり返っていた。 閉じる投稿日:2015/03/24
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足場の悪い道を歩いた先にあります
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- 旅行時期:2015/01(約11年前)
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城跡遺構は良好のようですが、本丸跡しか行きませんでした。
- 3.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
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新田義貞の築城伝説
- 3.0
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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