現在では、近世以降の岩谷堂伊達氏の岩谷堂城跡の遺構が色濃く残っています。
標高115mほどの江刺館山の頂上部にあり、館山...
続きを読む八幡神社)のほか、藤原経清・清衡父子を偲んで造られたという二清堂が建っています。
藤原氏御館跡といえば、付近では藤原の郷にある豊田館かと思いますが、館山の辺りも平成に入って当時の遺構(砦跡?)が見つかったということで、それを記念して二清堂が平成11年に建てられたとのことです。
なお、現在、表に出ている遺構は土塁跡くらいで大したことありませんが、藤原の郷と違って、こちらは無料で見学することができます。
館山史跡公園がある頂上部は、木立に囲まれていて、展望はあまり開けませんが、日陰になるためか、アジサイが植栽されていて、6、7月には見ごろを迎えるようなので、その頃に訪れると風情があるかもしれません。
冬期に訪れると、人首川を挟んで向かいにある向山公園から架かる夢乃橋が冬期閉鎖(12月―3月)されていて、向山公園と合わせて訪れることができません(一旦、山を下りて向かうことになります)。
周辺の見所の一つ、旧岩谷堂共立病院も冬期(11月中旬―翌3月中旬)は閉鎖されているので、冬は訪れるにはあまりおススメの季節ではないのかもしれません。
訪れた時も、ちょうど冬型の気圧配置の時雨模様の日で、時々、霙がざっと降る鉛色の雲の垂れこめる日で、展望もあまり冴えませんでした。
雪雲の波状攻撃をくらい、霙が降り注いでいる間は、空堀の前に建つ東屋に逃げ込むか、二清堂のある木立の下をウロウロするかくらいしかできませんでした。
しばらく寒さに震えて周辺の景色を眺めながら、二清堂の前に立って藤原経清の無念、藤原清衡の臥薪嘗胆の忍耐を偲びました。
藤原経清は、陸奥国の蝦夷の有力者、安倍氏の娘を娶り、前九年の役では朝廷側から地元側に付いて朝廷側(源頼義・義家)と戦い、最後は首をはねられた人物です。
息子、清衡は父を殺した敵である出羽国の有力者、清原氏と再婚した母に従い、清原家に入りましたが、後三年の役で異父弟との勢力争いに、今度は逆に朝廷(源義家)の加勢を得て勝利し、その後の奥州藤原氏繁栄の基礎を築きました。
父の仇の家に入って肩身が狭い中、清衡は母から京の名門、藤原氏の血筋であることを言い聞かせられて育ったのでしょうか。
最後は、弟、家衡に妻と子を殺されながらも、父を殺した仇でもある、源頼義の子、義家と結んで、実母と清原の血筋の子である家衡に勝利し、悪夢のような清原家での出来事を捨て去るように、再び清原から藤原姓に戻しています。
閉じる
投稿日:2020/02/25