福井城址
名所・史跡
3.51
福井城址 クチコミ・アクセス・周辺情報
福井市 観光 満足度ランキング 3位
慶長9年(1600)の関ケ原の戦ののち、越前六十八万石を領して入封した結城秀康の築城になる。以来、徳川氏の親藩として秀康以降、越前松平氏代々の居城となり明治に至る(最後は三十二万石)。城は、北ノ庄城の北方600メートルの新北ノ庄に築かれた平城で、規模は姫路城に匹敵する偉容を誇ったと伝えるが、度重なる火災で天守をはじめ主要建造物を焼失した。現在は石垣と堀を残すのみで、本丸跡には県庁舎が建っている。◎結城秀康(1574-1607)浜名郡雄踏(宇布見)生れ。徳川家康二男。初代福井藩主。豊臣のち結城氏の養子となる。関ケ原の戦に宇都宮で在陣、上杉を抑えた功により越前に封ぜらる。◎松平忠直(1595-1650)大坂生れ。福井二代藩主。大坂夏の陣に越前藩兵を率いて参戦、大坂城一番乗りの功名をたてる。◎松平慶永(1828-90)江戸生れ。号春嶽。福井一六代藩主。政事総裁職となり、幕政改革・公武合体・雄藩連合政権樹立を目指し活動。王政復古後は、徳川宗家救済に大尽力。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
現在は県庁と福井県警本部があります
4.0
- 旅行時期 2024/03
- by あおしさん
御三家につぐ、越前松平藩の居城だったお城です。 現在は本丸の石垣が残っています。 本丸だけでこの広さなので、二の丸、三... 続きを読むの丸があったころはさぞかし壮大なお城だったことでしょう。 城の中は福井県庁と福井県警本部の建物がありました。 閉じる
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満足度の低いクチコミ
福井城址
2.0
- 旅行時期 2023/04
- by walkingmanさん
堀と石垣、それに井戸が残っていますが、建物は消失してしまいました。 敷地の一部は史跡として保存されているようですが、本丸... 続きを読むだった場所には県庁のビルが建っています。かつての為政者の後(跡)に県庁というのは、なんだか県が権力者にとってかわったようでいい気がしませんでした。それに石垣と四角い没個性のビルというのはミスマッチ。石垣が見事なだけに、公園とか芸術発信拠点とか、別な用途にすればよかったのに…。 閉じる
クチコミ・評判 4ページ目
61~80件(全182件中)
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〝福井〟の名の由来と言われています。
- 5.0
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 10
福井城址にある歴史ある井戸です。慶長6(1601)年の北ノ庄城築城当時からあったものと言われており、安永年間の天守台が掛か... 続きを読むれている絵図には〝福井〟と記された井戸が描かれています。
寛永元(1624)年に福井藩三代藩主松平忠昌によって北ノ庄が福井と改められましたが、その名前の由来となっていると言われています。
戦後を迎えた昭和23(1948)年の福井地震では、場内の石垣は崩れたものの、福の井は崩壊しませんでした。しかし井戸のかたちが大きく歪んだことから、震災後に井戸枠が大きく作り変えられています。
井戸の上屋は〝県都デザイン戦略〟に基づいて平成29(2017)年に新しく作られたものとなっています。見た目は〝キレイ過ぎる〟気がしてその歴史は感じられなくはなりましたが、それでも福井の歴史ここにあり!という威厳は今なお健在でした。 閉じる投稿日:2019/11/20
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僅か70年足らずの天守閣。
- 5.0
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 11
この地に移封して来た徳川家康の次男結城秀康が、柴田勝家の居城であった北ノ庄城跡に建立した福井城。初代福井北ノ庄藩主と越前松... 続きを読む平家宗家初代でもある秀康は、松平姓を名乗ることを許されます。しかし秀康は若くして病死、2代忠直は配流、3代忠昌の時代に〝北ノ庄〟の〝北〟の字が〝敗北〟に繋がるとして〝福居〟に改められ、後に7代藩主吉品によって〝福井〟と改称されている。
4代藩主光通の時代に大火によって天守閣を焼失、その後は藩の財政悪化や幕府からの許可が出なかったなどという説の下再建されることもなく、その際に類焼した〝本丸南西隅〟の二重巽櫓を三重に再構築し天守の代用として用いそのまま明治維新を迎えている。
廃藩置県の折福井藩は福井城の解体を幕府に願い出て認められ、一時陸軍省の管轄地となるも旧藩士達がその地を借り受けて開墾を進め、その地を元17代藩主茂昭が買い戻している。そして最後の当主となった康荘が〝松平試農場〟を設立し、移転までの約半世紀の間続くこととなった。大正12(1923)年には福井県庁が城址に移転し、昭和56(1981)年に現庁舎に建て替えられ現在に至っている。
城下町に県庁所在地があることは多々あるが、福井県の場合は極めつけと思えるところがある。外堀こそ外堀は埋められているものの内堀・石垣・天守台などの遺構は残っており、それに加えて〝県都デザイン戦略〟のひとつとして、福井城と周辺の歴史史跡などを整備し史跡の保全や市民の憩いの場の公園としての整備が現在でも進められており、その過程に於いて〝御廊下橋〟と〝山里口御門〟が復元されている。
福井地震や空襲の影響を受けて損壊したものもあるが、歴史ある史跡内に行政施設を組み込んで公園化することは役所が身近なものになると思うところがある。公園の整備は即ち史跡保存にもつながる訳であり、明瞭な税金の使い道とするに問題はないようにも思う。歴史の波乱に揉まれ続けた福井城と福井藩、そして越前松平家。今なおわかっていない部分も多いとは聞くが、それはそれで今後の楽しみだと思える。何かのきっかけがあり再訪する機会にまた変貌を遂げている福井城址を見るのが楽しみだと思った。 閉じる投稿日:2019/11/18
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徳川家康の次男で越前北ノ庄藩初代藩主、そして越前松平家宗家の初代でもある。
- 5.0
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 14
徳川家康の次男として幼い頃から人質や養子に出された過去を持ち、北関東の大名であった結城氏に婿養子に入り結城秀康と名乗るよう... 続きを読むになる。これには実父家康が豊臣秀吉から旧北条領を含む関東一円240万石に国替えと加増されたことによるが、その後関東平定の功労者として更なる加増にと考えた結果のことであると言われている。
結城家当主であり、徳川宗家の血を引く秀康は、関ケ原の戦いの前哨戦とも言われる会津征伐にも参戦しており、上杉景勝に呼応するべく石田三成が挙兵した際には宇都宮に留まって上杉・佐竹の動きを牽制する任務を受けている。
関ケ原の戦いに於いて勝利した家康は秀康を越前北ノ庄68万石に加増移封させ、結城旧来の家臣の力を削ぐ意味合いも込められていた。
その後松平姓を名乗ることを許されたらしいが、福井での生活は長くは続かず、伏見城の留守居役を命じられるも、病気のため職務を全うすることが出来ずに越前へと帰国。間もなく34歳にてこの世を去った。
結城秀康公が福井にやって来たのは事実ではあるが、それ以前にも朝倉氏・柴田氏といった大名が治めた場所でもあることを考えると、なぜ秀康が〝偉人〟の如く取り扱われるのかはわからない。徳川譜代の領地となったことでのネームバリューでもあったのか…。そんな理由が知りたいと感じた結城秀康公石像であった。 閉じる投稿日:2019/11/13
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復元された橋
- 4.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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井戸
- 4.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 1
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天守には官庁
- 4.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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本丸跡に
- 3.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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威厳が感じられない像
- 2.5
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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きれいに整備されています。
- 3.5
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 0
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福井市観光
- 3.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 0
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福井城址内、県庁の前。
- 4.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 0
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堀を渡って。
- 4.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 0
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堀や石垣、見ごたえあり。
- 4.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
- 0
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築城当時からの井戸
- 3.0
- 旅行時期:2019/05(約7年前)
- 0
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藩主専用の橋
- 3.5
- 旅行時期:2019/05(約7年前)
- 0
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天守跡を初めて訪れました
- 4.0
- 旅行時期:2019/05(約7年前)
- 0
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ライトアップと早朝散歩 ♪
- 5.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
- 1
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福井城址にかかる橋です。
- 4.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
- 0
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福井城址内にあります。
- 3.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
- 0
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福井城址天守台にあります。
- 3.0
- 旅行時期:2019/04(約7年前)
- 0
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このスポットに関するQ&A(0件)
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