1431年、但馬の守護山名持豊(宗全)が、その家臣太田垣光景に築かせたと伝わる。百姓を動員して13年かけて山頂に城を築かせ...
続きを読むたため、田んぼに松が生えたという。
その後は太田垣氏7代が城主となるが、1580年羽柴秀長が但馬を攻略し、その家臣桑山重晴が城主となった。1585年に重晴が和歌山に転封となると、斎村政広(赤松広秀)が城主となった。今日見られる竹田城は、彼の時代に築かれたものである。政広は関が原の戦いで西軍に属して切腹させられ、竹田城はその後廃城となった。
標高353.7メートルに位置する天守台を中央に、北に二の丸・三の丸・北千畳、南に南二の丸、南千畳、西に花屋敷と、3方向に延びる尾根に曲輪を配置している。縄張りの規模は南北約400メートル、東西約100メートルにも及び、完存する石垣遺構としては全国屈指のもので、2006年日本城郭協会により「日本100名城」に選ばれた。自然石を巧みに配置した近江穴太衆による石垣は、400年を経た今も当時の威容を誇っている。
秋から冬にかけてよく晴れた早朝に川霧が発生し、雲海に包まれた竹田城跡は「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれている。
時間と体力の都合上、城跡まで登らず、麓から撮影した。朝来和田山医療センターの前に、いかにも「ここに登って撮影して下さい」と言わんばかりの小山があったので、そこまたは病院裏の高台が絶好の撮影ポジションである。
閉じる
投稿日:2015/05/31