2017/06/09 - 2017/06/13
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tono202さん
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室戸岬を原付ツーリングの4日目は、不動岩で辺路修行の行場を訪ねて半日ゆっくりと「研修」。午後は、奈半利川沿いの気になる3人の旧居を訪れてみることにする。原付のいいところは、立ち止まれること、すぐに反転可能なこと、スピードがゆっくりしているので景色が飛んでいかないこと、頭に残っていく。そんな利点を活かしながら気になるものに出会うと原付を止めて立ち寄り、確かめる。そんなことを繰り返しながらの無目的の旅が続く。
しかし、今回は目的地は浜口雄幸・清岡道之助・中岡慎太郎である。
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原付バイクのハンドルにスマートホンをつけてナヴィを利用すると、目的地に連れて行ってくれる。いろんなところに寄り道しながらも、たどり着くことが出来る。
その分、地図を見なくなった。かつては、国土地理院の地図は旅の必需品であったのが、今は不要品あつかい。そして、脳は退化していく・・
便利なものは使う。役に立つものが一番。これが功利主義の教えるところ・・。
どうでもいいことを考えている内に、目的地着。 -
濵口家の前にはライオン宰相の胸像が・・。
いい表情ですね。てらいが無いというか・・ -
「なすことのいまだ終わらず 春を待つ」
東京駅で狙撃された後の病床で読まれた句だそうです。
無念の思いが伝わってきます。 -
玄関をくぐって中へ
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広庭にあるのは400年を越えるソテツ。
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「永遠に生きよ、永遠に栄えよ、而して吾も汝と共に・・」と、官邸の榧の大木をみて呟いていたと言われるが、その脳裏には故郷のこのソテツが目の奥には浮かんでいたのではないかと言われる。
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濵口家は奈半利川流域の開墾に努め、その功績により鄕士になり、その後に下士であるが上士待遇を受ける「白札格」の名家であった
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典型的な鄕士屋敷で勘定の間を供えた作りになっている。簡単な裁きはここで行われたりもした。
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広い敷地の中に屋敷だけが残されている。
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雄幸はここで生まれたわけではない。制第三高等学校在学中に高知市五台山唐谷の水口家から浜口家に養子に入ったのだ。だから、彼がここで暮らした年月は長くない。第三高等学校から東京大学時代、そして大蔵相時代と在京生活が続く。
ちなみに、雄幸夫人夏子の伯母が清岡道之助夫人静にあたる。 -
妻夏子を通じて清岡道之助は、どのように語られていたのだろうか。
どちらにしても、清岡道之助のことは身内のこととして語られ、政治の非情・卑情さは肌で感じていたのではないか。
雄幸の実直さや正義感、頑固さは、身内の歴史と向き合った成果なのではないかと思ったりした。 -
そしてやってきたのが濵口家の親戚であり、丘の上の集落「土生岡」の清岡道之助の旧邸。
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彼のことが簡略にまとめられている。
土佐勤王党に集まった下級士族や鄕士たちが藩上層部の決定に反旗を翻し、小数で立ち上がって行く。その際の先頭に立ったのが道之助だった。 -
作りは先ほど見た濵口家と殆ど変わらない「鄕士屋敷」である。
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母屋の東側に、倉も残っている。
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高知の幕末を見たときに感じるのは、山深い奥地にまで国学思想が入り込み、その影響を受けた?士クラスの指導者達が「尊王攘夷」という言葉に熱く反応し熱を持ち出す。そして、行動を起こしていく。
あるものは脱藩し、草莽の士と連携し蜂起していく。 -
ここで道之助は「世直し」の方策を考え、そのために何をやるかを考えたのだろう。
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ここからは奈半利川河口方面を見渡すことが出来る。
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蜂起した道之助等は阿波藩によって捉えられ、獄囚としてここへ送致され奈半利川の河原で処刑された。いまはその処刑場所が記念公園になり、記念碑も建っている。その石碑の揮毫は浜口雄幸である。
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