2017/04/30 - 2017/04/30
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montsaintmichelさん
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乙訓(おとくに)寺は居並ぶ京都の寺院の中ではマイナーな存在ですが、実は聖徳太子や空海、最澄が関わった由緒ある古刹です。正式には真言宗豊山派大慈山乙訓寺と言い、牡丹で有名な奈良 長谷寺の末寺に当たります。
784(延暦3)年、継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築いたとも伝わるこの地に、太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同年に推古天皇の勅願で聖徳太子が十一面観音菩薩を本尊に開山した乙訓地方最古の寺院です。その裏付けとして、寺院の設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われています。
また、『水鏡』によると、長岡京の都造りの中心人物だった藤原種継暗殺の疑いで継体天皇の弟 早良親王が幽閉された寺でもあります。更には、811(弘仁2)年には空海がこの寺の別当に任じられ、その翌年に訪れた最澄と密教について法論を交わしたとされる仏教史上有数の寺院でもあります。
その後、永禄年間(1558~69年)織田信長の兵火により一時衰微しましたが、1695(元禄8)年、護持院隆光が5代将軍 綱吉の母 桂昌院の援助により再興されました。
現在も「今里の弘法さん」と親しまれています。また、勘の鋭い方はご察しの通り、長谷寺の末寺ですからここも牡丹が売りです。毎年、4月下旬~5月上旬は30種2000株の大輪の牡丹が境内に咲き誇り、「牡丹の寺」として広く親しまれています。
乙訓寺のHPです。
http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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-
表門(惣門、赤門:市指定文化財)
背の高い樹木に見守られるように、住宅街の道の先に山門が佇んでいます。
長岡京は乙訓地域に位置し、向日市や大山崎町の2市1町からなり、数々の歴史舞台として知られ、『記紀』には「弟国(おとくに)」という地名が登場するほどです。
784(延暦3)年、桓武天皇の命により、奈良の平城京から遷都されたのが幻の都「長岡京」です。唐都の長安を模し、堂々たる都城造りが進められ、乙訓寺は都の鎮めとして重んじられました。平安京に遷都されるまでの僅か10年間の歴史には、藤原種継の暗殺事件を発端に、その罪を疑われた早良親王の流罪とその後の天変地異による飢饉など不吉なことが続いてやむなく遷都するに至る「祟り伝説」が語り継がれています。 -
表門
1695(元禄8)年の建立となる、一間一戸、四脚門、切妻造、本瓦葺です。
『日本書紀』の垂仁天皇15年の条に弟国(=乙訓)の地名の起源説話があります。皇后の日葉酢媛(ひすばすひめ)の妹 竹野媛の容姿が醜かったことから、出生地の丹波国に戻されました。その道中、葛野(かどの)にて自ら輿から堕ちて命を絶ちました。そこで、その土地が堕国(おちくに)と呼ばれるようになり、それが訛って弟国(おとくに)になったそうです。そして後に乙訓に改まりました。 -
表門
今から約1200年前、この寺で歴史に残る2つの大きな出来事が起こっています。
一つは日本密教の原点を築いた空海と最澄の2大巨星がこの寺で最初の出会いを果たし、その後の日本仏教が大きな発展を遂げる礎となったことです。
もう一つは、長岡宮の造営長官 藤原種継の暗殺事件への関与を疑われた早良親王がこの寺に幽閉され、淡路島へ護送途中に憤死したことに起因する社会的不安の発生です。この事件では「怨霊の祟り説」が流布され、都を恐怖のどん底に陥れ、長岡京が平安京に遷都されるきっかけとなりました。 -
表門
丹塗りの山門に掲げられた扁額には山号「大慈山」とあります。
寛平年間(889~98年)に仏門に入った宇多法皇が一時ここを行宮にするために堂塔を整備したことから、「法皇寺」とも呼ばれていたそうです。室町時代になると衰えますが、それでも12坊あったとされます。
その後内紛があり、足利義満は僧徒を追放して南禅寺 白英徳俊にこの寺を与え、禅宗 臨済宗の寺院に改めました。その後、織田信長の兵火でも衰微しました。そして江戸時代に徳川綱吉とその母の桂昌院の援助で再興され、護持院隆光が入寺して再び真言宗に改宗しています。 -
表門 鬼瓦
司馬遼太郎著『空海の風景』は氏の歴史小説の中では異色の作品ですが、その中に出てくる乙訓寺の記述が印象的ですので紹介いたします。
「…乙訓寺へ空海は別当としてゆくのである。ひとたびは牢として使われさらには桓武以後の宮廷が異変のあるたびに、「早良親王の祟りではないか」とおびえているような不吉な寺にゆくというのは、祟りなど空海の思想からみて歯牙にかけるべき現象ではないとはいえ、しかしこの当時の一般の感覚からすればめでたい寺の名前とは言いがたい。…乙訓寺はいまもある。京都府長岡京市今里にあり、まわりは住宅にかこまれて往年明星野といわれた宵の明星のうつくしい雑木林は、わずかに寺の裏に残っている程度である。境内は三、四千坪になり、本堂その他の建物があるにすぎず、往年の乙訓寺をしのぶことはやや無理かと思える。このあたりの孟宗竹の薮は徳川期に入ってからのものだから、空海の頃にはそれはない。雑木林が多かったといわれる。寺は空海の頃にはすでに荒れていた」。 -
表門 鬼瓦
鬼瓦も阿吽で表現しています。
鳥伏間には三つ葉葵の紋が輝いています。5代将軍 綱吉の母 桂昌院の援助により再興されたことの証です。
山門で時間を費やすのはもったいないので、先へ駒を進めましょう。 -
参道
山門を潜った先は、こうした「牡丹の回廊」となっています。しかしこのお寺の牡丹の歴史は比較的浅く、1940(昭和15)年からのことだそうです。
元々は表門から本堂まで続く松の並木が美しいことで有名な寺院でした。それらが1934(昭和9)年の室戸台風で倒木し、また、応仁の乱も生き延びたモチノキや弘法大師お手植えの菩提樹も多大な損害を被りました。その惨状を目にした乙訓寺第19世 海延の伯父の長谷寺第68世能化(住職)海雲全教和上が、本尊への供花、荘厳花として、また同時に参拝者に暫しの安寧を念じ、長年育てた牡丹のうちの2株を寄進されたのが始まりです。
その後、歴代の住職達の手によって徐々に増やされ、現在では30種2000株の大輪の牡丹が境内を妖艶に彩っています。 -
通常、まず赤色の牡丹が咲き、次に白色の牡丹、最後に黄色の牡丹という順番でリレー式に咲いていくそうです。しかし桜同様に今年は開花が遅かったのか、見事にどの色の牡丹も一斉に咲いています。
因みに開花する花色の順番は、偶然の一致なのか童謡『チューリップ』の歌詞と同じです。「赤、白、黄色~♪」。 -
白い牡丹がそよ風になびく様は、まるでティッシュペーパーで模造した花を彷彿とさせ、頬が弛みます。
牡丹と芍薬の違いをご存知でしょうか?
共に牡丹科牡丹族ですが、牡丹は低木(木本植物)で木の姿で冬越し、芍薬は草(草本植物)で冬は地上部が枯れて根が生き残ります。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言われますから、芍薬はすらりと伸びて背が高く、牡丹は木で枝分かれして低い位置に咲きます。
しかし例外もあり、ここの牡丹は背が高く、芍薬と勘違いしそうです。と言うのも、近年は牡丹と芍薬の交配が進んでいるそうですから…。 -
牡丹色とはこの花の色彩を指すそうです。明治時代に爆発的に流行した色で、華やかな色彩が女性たちに支持されたようです。
牡丹の花は古来、その絢爛な色と形から「富貴の花」として観賞され、その観賞記事は『枕草子』や『栄花物語』などの平安文学にも見られます。色彩名として牡丹の名前が登場するのは平安時代後期の女房装束の袿(うちぎ)の重ね(5つ衣)に用いられた「襲の色目(かさねのいろめ)」の色名としてであり、表裏の組み合わせは淡蘇芳、白、濃い赤などとされています。 -
仏教的な寺院に相応しい牡丹の色としては、こうした蓮の花をイメージさせる薄桃色もいいかもしれません。
こうしたピンク系は結構見かけました。 -
境内
牡丹の廻廊を抜けると正面に十三重石塔、その左に空海が手植えしたとされる菩提樹、その奥に鐘楼などが見渡せます。
手前左には地蔵堂が佇み、右側にあるのは地蔵塔です。 -
地蔵堂
こちらのお地蔵さまは、日限(ひぎり)という地蔵尊を祀っており、全国各地に存在するオーソドックスな地蔵尊です。
日限地蔵は、その名の通り「日を限って(日を限定して)祈願すると願いが叶えられる」と伝えられています。欲の皮が突っ張らないように、期間限定で祈念なさってください。
堂宇の左側には大きなわらじが奉納されています。「地蔵とわらじ」で思い出すのは、松尾山麓に佇む鈴虫寺です。ここの「幸福地蔵様」は唯一わらじを履いておられます。このお地蔵様にお願い事をすると、私たちのもとへ歩いて来て、願いを叶えてくださるからと言われています。ここも同じような伝承があるのでしょうか? -
地蔵堂
扁額には「日限地蔵尊」とあります。
こちらの堂宇では、ドラと鈴でけたたましく地蔵尊を呼び出すようです。
恵比寿社には「たたき板」や「木槌」が供えられている所もあるのですが…。恵比寿は元々耳が遠く、大きな音をたてないと振り向いてくれないためです。 -
地蔵堂
天井には、中央の梵字を挟むように檀家と思しき方々の家紋と苗字が記されています。 -
地蔵堂 絵馬
悪業を戒め、説法をされているシーンでしょうか? -
地蔵堂 絵馬
牡丹寺に因む絵馬もあります。 -
地蔵塔
地蔵堂の向かいに建つのが、地藏つながりの地蔵塔です。
整然と並べられた5段の豆地蔵さまたちには吃驚ポンです。
全部で300体ほどあるようです。 -
地蔵塔
赤い前掛けをしているお地蔵さんとそうでないものが混在しており、それぞれに寄進者が存在するようです。
では何故、お地蔵さんは赤い前掛けを着けているのでしょうか?
それには2つの説があるようです。
1.「赤」は人間の煩悩を表し、赤色の前掛けをお地蔵さんに託すことによって、
自己の煩悩から逃れることができるそうです。前掛けの赤色が風雨に晒されて徐々に色褪せていくと、人々はお地蔵さんが自分の煩悩を引き受けてくれていることを実感できるという説です。
2.水子供養において赤色はとても大切な色で、まず、生まれたての子供のことを赤ちゃん、赤ん坊、赤子など「赤」という色で表現します。赤は太陽の色でもあり、生命の起源をも象徴しています。従って、お地蔵さまの赤いよだれかけは、水子の再生の可能性を表しているという説です。 -
牡丹の日除け・雨除けのために、白い和傘が所狭しと開かれています。優雅に傘をさす貴婦人の様な気品溢れた牡丹の花姿は、まさに「百華の王」の風格です。因みに牡丹の花言葉は、「王者の風格」「高貴」です。
今日はお天気も良く、まだ4月だというのに夏日になりました。そのせいか傘の下の牡丹は活き活きとしていますが、直射日光を浴びている牡丹は午前中ながらすでに頭を垂れてぐったりしています。 -
チアガールが持つポンポンを彷彿とさせる真ん丸の牡丹が蒼空に向かって背筋をピーンと伸ばした姿は、気高く、そして凛々しくもあります。
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わらじ絵馬
乙訓寺では、「健脚祈願わらじ絵馬」という可愛いお守りが授与されます。
絵馬と同様に願い事を書いて奉納するもよし、持ち帰ってお守りとすることもできます。因みにわらじのお守りは各所で見られますが、必ず両足が揃っているものを選ぶと良いそうです。
と言うことは、地蔵堂に奉納されていた「わらじ」は、健脚祈願と言うことかもしれませんね!? -
修行大師像
空海の修行時代を表した像です。
811(弘仁2)年、空海は、嵯峨天皇から乙訓寺の別当に任じられました。これは、乙訓寺に幽閉されていた早良親王が流罪処分となり、淡路島へ護送される途中に非業の死を遂げた後、次々に皇族が亡くなる、疫病が広がる、天変地異が起こるなどの不穏な事態が発生し巷では「早良親王の祟りの仕業」と騒がれ、その祟りを鎮めるために祈祷を行うのが目的でした。
その翌年、空海と同時に入唐し、先に帰国していた最澄が空海をこの寺を訪れ、真言の法を教えて欲しいと頼みました。空海は懇切丁寧にその法を伝授しました。在唐期間の短かった最澄はその後も再三空海との交流を深め、2人はそれぞれ日本真言宗(空海)、日本天台宗(最澄)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えました。 -
本殿(附宮殿 市指定文化財)
1695(元禄8)年の創建になる、正面三間、側面五間、宝形造本瓦葺の附宮殿(つけたりくうでん)です。建立当初は大師堂と呼んでいました。
空海は、八幡明神の霊告を受け、秘仏の合体大師像と毘沙門天立像を刻んだと伝承されています。附宮殿には、本尊「合体大師像(重文)」が安置されていますが、秘仏のため拝観することは叶いません。その姿は、参詣の人々に授けられる厄除け札に描かれた姿と同定され、体は空海、首から上は八幡大菩薩だそうです。
江戸時代には幕府の許可を得て33年に1度開帳していたそうですが、1760年以降は1度も開帳されていなかったようです。お寺の関係者によると、「阪神大震災の被害を受けた本堂修復の落慶で1997年に開帳されるまで237年間も秘仏だった」とのこと。「仏より人に近い、耳が大きく僧侶を仏像にしたような雰囲気。威厳があって圧倒された」と感想を述べられています。
次のご開帳は33年後の2030年なのか、1760年まで遡って2024年なのか気になるところです。
寺院のリーフレットに載せられている秘仏らしきものの絵です。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/010/444/07/N000/000/012/127288771114816219323.jpg -
本殿
空海が別当に任じられた時、桓武天皇が長岡京に遷都した際に都の七大寺の筆頭として増築した寺は、雨漏りするなど荒廃し、無残な姿を晒していたそうです。その理由は、この寺が怨霊を生み出した発端の場所と伝わり、人が近寄らなくなっためです。
遷都の翌年、天皇は造営官長 藤原種継暗殺の疑いで弟 早良親王をこの寺に幽閉しました。絶食で無罪を主張した親王は、その後淡路島への流刑途中に非業の死を遂げました。その後、天皇の近親者が次々と死に、天変地異や悪疫が続いたことから、怨霊と恐れて親王の復権を図り、崇道天皇と追号して陵墓を奈良に移すなどの措置を講じました。しかし騒ぎは治まらず、やがて平安京遷都を決意するに至りました。
古文書には次のように記されています。
空海は早良親王の怨霊を鎮めるために八幡大菩薩を彫っていました。疲れてまどろむ中、境内の八幡社から八幡大菩薩が老翁となって現れ、「大師はその首を造りたまえ、我は支体を造らん」と告げ、八幡大神は空海をモデルに肩から下、空海は八幡大神をモデルに首から上を彫りました。これを合わせると寸分の狂いもなく無く合体したとされ、「互為の御影」と語り継がれています。
ある学者は、「恐らくは僧形八幡像。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹思想=神仏同体説に基づくもので、東寺、薬師寺、東大寺に同様の彫像(国宝)があり、調査すれば国宝級だろう」としています。 -
本殿 不動明王像
本堂の左前で睨みを利かせています。その前方には、小さな護摩場のような囲いがあります。
空海37歳、最澄44歳の時、この寺で仏教界の巨星2人が仏法について熱く語り明かしたと伝わります。最澄が空海を訪ねた主な目的は、灌頂の許可を得るためでした。つまり、密教に於いては、空海が最澄の師であることを公然と認めたことになります。この後の書簡には、「弟子 最澄」と自署しているほどです。因みに空海が高野山に金剛峰寺を建立したのは、この寺を去った4年後になります。 -
本殿
内部は撮影禁止のため外からズームアップしましたが、これが限界です。
本堂正面には大きな鏡が祀られています。鏡は神社が祀るものと思い込んでいたため、意表を突かれました。合体大師像の八幡大菩薩からの由来でしょうか?
本尊が納まる厨子の右横には、十一面観音菩薩像(市指定文化財)が安置されています。勿論、聖徳太子が彫った本尊ではなく、鎌倉時代末期に南都仏師が造像した等身大の像であり、護持院隆光により奈良の秋篠寺から移されてきたものです。
俗に長谷寺式と称され、右手に錫杖、左手に水瓶を持ち、方形台座(金剛宝盤石)に立つ十一面観音に「迫力」という言葉は相応しくありませんが、眼力の強さがこの像の魅力です。キラキラした漆箔像ではなく、黒褐色の渋い素地ゆえに白目が引き立ち、暫くその前で釘付けになりました。 -
本殿
804年の遣唐使派遣の際、最澄はエリート組の短期還学生として、最澄より7歳年下の空海は地位の低い留学僧として共に唐に渡りました。しかし2人は別々の船で赴き、顔を合わせることはありませんでした。最澄は滞在期間8ヶ月半で正統天台の付法と大乗戒を受けて帰国。最澄は唐で密教が盛んになっていることに驚き、密教を学ぼうとするも体得できませんでした。恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待ち、接近したのはそのためです。
空海は20年の予定を2年に切り上げて帰国し、高雄山寺に入山。最澄は、空海から経籍12部を借り、その後、金剛界や胎蔵界の結縁灌頂を授かりました。2人の親密な関係は暫く続きましたが、やがて最澄が伝法灌頂も授けて欲しいと願うと、3年の実践修行が必要と拒絶しました。やむなく最澄は、最愛の高弟 泰範を空海の元に送り、密教を学ばせました。しかし空海の弟子となり、最澄の元には戻りませんでした。そして最澄が申し出ていた『理趣釈経』の借覧を空海が断わると2人の関係は更に険悪化し、最澄は空海と袖を分かち我が道を進むことを決意しました。
信任を得ていた桓武天皇の没後、平城天皇~嵯峨天皇の御世となり、最澄は厳冬の時代を迎えました。詩文を愛好した教養人 嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変化から置き去られました。それでも最澄は怯むことなく、気高く求道して止みませんでした。空海が包容力に富む弾力のある生き方をしたのに対し、最澄は信念のためには一点の妥協も許さない徹底主義を貫きました。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したと言えるかもしれません。 -
鎮守八幡社 本殿(市指定文化財)
一間社流造、銅板葺。1695( 元禄8)年に檜皮葺の鎮守社として建立されました。
本尊の合体大師像を空海と共に彫った老翁(八幡大菩薩の化身)が現れたとされる八幡社です。 -
聖観世音菩薩像
種類の多い観音像の基本形とされる仏像です。菩薩はまだ悟りには至らず修行中の立場にあり、如来に比べて我々に近い存在ですので慈愛に満ちた姿に心が癒されます。
観音菩薩は、観世音菩薩や観自在菩薩とも言われますが、どれも同じです。梵語をむりやり漢字に翻訳したため、訳し方が異なったことによります。
観音菩薩像には共通する特徴があります。観音菩薩は阿弥陀如来が変化した姿とされ、額の部分に阿弥陀如来が装飾されていることが多く、これを化仏(けぶつ)と言います。こちらの像は、宝相華文様をいただいているようです。
また、蓮の花を持つこともあり、これは泥の中から綺麗な花を開かせる蓮の花は清浄な世界を意味しています。 -
若楓を借景に緑の中に広がる白い和傘です。
楓の葉影が白い和傘に落ちる様は、詫び・寂びの世界を演出しています。
かつて明星野と呼ばれた宵の明星の美しい雑木林の片鱗は、この辺りで偲ぶことができます。 -
鐘楼(市指定文化財)
方一間、入母屋造、本瓦葺で、江戸時代中期、牧野成貞からの寄進による建立と伝えられていますが、確かな記録がなく建立年代は不明のようです。
元々あった梵鐘は、1696(元禄9)年、三条釜座の第2代和田信濃大掾 藤原國次によって鋳造されたものです。しかし太平洋戦争時に金属供出となり、現在のものは1968年に再鋳造されたレプリカです。再鋳造されたものに以前の鐘銘を刻印していたことから、この梵鐘が名工の鋳造品と判明したそうです。
牡丹の手入れはもっぱら地元ボランティアの方がなされ、3人で2000本の面倒を見られているそうです。実は、牡丹の花が見易いように葉が落とされています。お寺なのに殺生をされるのかと疑問に思っていましたが、ボランティアの方が我々のことを思ってなされていたことなのですね。 -
鐘楼
鐘楼を寄進した牧野成貞について少し調べてみました。
成貞は、徳川綱吉が将軍になる以前からの忠臣です。気になるのは、1661年には2千石の扶持でしたが、綱吉の将軍就任後に1万3千石の大名に列していることです。その翌年に老中格となり、1688年には7万3千石にスピード出世を遂げています。しかし成貞が有能なら不思議はありませんが、後の柳沢吉保ほどの才覚は史書からは認められず、至極平凡な人物だったそうです。何かきな臭いものがありそうです。
実は出世できたのは、妻の阿久里や娘 安子の犠牲の賜物でした。成貞は阿久里を綱吉に献上し、石高の加増はその対価でした。そして1687年には、成貞の屋敷を訪れた綱吉が娘 安子に乱暴をはたらいています。婿養子の牧野成時は憤慨し、その夜に割腹自殺し、安子もその2年後にこの世を去りました。1688年の加増は「慰謝料」と察せられ、「犬公方」の性根の悪さを象徴する逸話のひとつと言えます。
こうした事情を知るに及び、せめてこの鐘楼の寄進が妻や娘とその婿への供養であってくれれば、少しは救われるのですが…。合掌 -
鐘楼
空海が中国から持ち帰った仏典は、これまで日本にないものばかりであり、最澄も驚くほどでした。嵯峨天皇は空海の新しい仏法に期待し、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備していきました。 -
李白は牡丹を楊貴妃の美貌に例えて詩を詠んでいます。玄宗皇帝は、牡丹を沈香亭の前に植え、楊貴妃と共に鑑賞しました。その宴席に呼ばれた李白は、皇帝の命で彼女の美しさを讃える詩「清平調詞」(連作三首)を即興で作詩しました。彼は二日酔いでしたが、すらすらとこの詩を作って献上し、2人を喜ばせたと伝わります。
「清平調詞 三首 其の二」
一枝の濃艶 露 香を凝らす
雲雨巫山 枉げて断腸
借問す 漢宮誰か似たるを得ん
可憐の飛燕 新粧に倚る
(一枝の艶やかな牡丹の花、その上にある露は花の香の結晶のようだ。これに比べれば、雲となり雨となった巫山の神女も人の心を虚しくさせるだけである。お訊ねするが、美形揃いの漢の後宮で、誰が楊貴妃に比肩するだろう。それは可憐な趙飛燕が、化粧したての美貌を誇る姿であろうか。) -
「清平調詞」には後日談があり、李白の名声や玄宗からの寵愛に嫉妬した宦官 高力士は、いわれなき讒言の挙に及びました。「あの詩で楊貴妃様を下層階級出身の趙飛燕と同列に扱った。許せない非礼だ」。これが後に李白が長安を追われる原因の一つになりました。
かつて称賛された詩が、時が変わって讒言のネタにされるとは、何とも皮肉なことです。「この世は、妬み、僻み、やきもちのルツボだ」との名言があります。李白の酒グセの悪さも一因だったとしても、宦官をはじめ側近たちの李白に対する妬み、僻み、嫉妬こそが彼の栄光を奪ったと言えます。ましてや現代はITの時代。インターネットでいわれなき誹謗中傷が簡単にできてしまう世の中です。そして嫉妬は、程度の差こそあれ誰もが抱く感情です。でも、そのエネルギーを自己成長のバネに置き換えるか、他人を蹴落とす道具にするかでその人の価値が決まります。
因みに高力士のその後は、安史の乱の際、玄宗の蒙塵に従って成都に至るも、後輩宦官 李輔国の讒言により失脚させられ、後に許されるも帰京の夢を果たすことなく、途上で没しています。 -
空海は、長安の西明寺にて梵語の勉強を続け、唐随一と称された密教の師 青龍寺の恵果和尚に師事し、瞬く間に密教を習得していったと伝えられています。伝法阿闍梨位の灌頂を受けたのは師事してから3ヶ月の後、何十年も懸けて得られない修行を短期間で習得したところに彼の非凡さが窺えます。
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早良親王供養塔
供養塔の手前にある奉納台にはペットボトルに詰められた折り鶴が奉納されています。折り鶴は2cmにも満たないサイズのもので、恐らくは一千羽が納められていることでしょう。ペットボトルに詰められた千羽鶴を見るのは初めてですが、なるぼどこれなら風雨にも負けません!文明の利器をリサイクルした、画期的なイノベーションではないでしょうか?
早良親王は桓武天皇の弟でしたが、母方が下級貴族であったことから皇太子への道は閉ざされており、それを理解して早々に出家しています。出家後は親王禅師と称し、大安寺東院に住んでいましたが、兄の桓武天皇が即位すると父 光仁上皇の勧めで還俗し、それが彼の悲劇の幕開けとなりました。
桓武天皇の右腕 藤原種継に天皇が平城京からの遷都を発願し、種継は長岡京への遷都を提唱しました。そして長岡京遷都の翌年、造営作業の監督に出掛けた種継が矢で射られて暗殺される事件が起きました。これが世に言う「藤原種継暗殺事件」です。実行犯だった大伴竹良が捕縛され、取調後、官僚を含む十数人が逮捕されて斬首されました。また、事件に連座した多数の者も流罪に処せられました。しかし事件は、それだけで解決しませんでした。暗殺団一味と交流があったことから早良親王までもが讒言によって嫌疑をかけられ、廃嫡となり一時この乙訓寺に幽閉されました。 -
早良親王は身の潔白を示すために断食して訴えましたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送の途中、淀川べりで絶命しました。遺骸はそのまま淡路島に送られ葬られました。その後、天皇の母や皇后の死、皇太子の重病などが相次ぎ、また、悪疫の流行や天変地異が発生しました。これは無実の罪で死んでいった早良親王の祟りと噂され、怨霊を鎮めるために朝廷は事件の15年後に親王を復権させ、崇道天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなどの措置を講じました。
全国至る所に存在する「御陵神社」は、早良親王の怨霊鎮めが元になっています。また、空海の乙訓寺別当就任は「宮廷が祟りを恐れ、空海の祈祷の効験に期待した」と伝承されています。 -
桓武天皇は弟を無実の罪で幽門するなど冷徹な人物のように見られますが、彼と暗殺された藤原種継には目に見えない強い繋がりがあったことは確かです。実は、父の光仁天皇の即位は、それまで長らく天皇の座に就いていた天武系から天智系へ戻すという大胆不敵なクーデタだったのです。
その即位にまつわる秘密が隠され、そのキーパーソンが藤原百川でした。彼は、光仁天皇の先代の女帝 称徳天皇の崩御の際、遺言を偽造して「後継を光仁天皇にする」という嘘を企てて実行したとされています。ですから、光仁天皇と藤原百川は一蓮托生、切っても切れない関係になったのです。そして、光仁天皇の息子の桓武天皇と藤原百川と同じ藤原家の藤原種継は、先代から続く強いつながりを互いに意識し合っていたのです。 -
何処からともなくざわざわと風が立ち、牡丹の大輪を揺らせていきます。早良親王の仕業かどうかは判りませんが、まつろわぬ者たちの霊に合掌しながら、その無念を晴らしてあげたいという思いが強くなります。
合掌 -
毘沙門天堂(市指定文化財)
ここに安置されている「毘沙門天立像(重文)」は、平安時代後期の作とされ、右手に宝棒、左手に宝塔を持つ寄木造です。拝めば、財宝富貴のご利益が得られます。
因みに、牡丹のシーズン(前・中・後)、それ以外は事前に予約した場合だけ拝観することができます。
牡丹に徹したお寺ですので、シーズン・オフは閑散としているのだと察します。普段は住職も檀家への出張サービスに余念がないのかもしれません。面倒かもしれませんが、是非予約を入れて毘沙門天像を拝んでください。 -
毘沙門天堂 毘沙門天立像(重文)
毘沙門天は「弘く名の聞こえた者」との原語を持つ仏法世界北方の守護神で四天王の随一 多聞天に当たります。そのため一般的には厳めしい形相をしていますが、ここの毘沙門天は深い憂いを湛えたその表情から「憂愁の毘沙門天」の異名があります。左手は顔の辺りまで上げて宝塔を護持し、右手で腰の辺りに宝棒を持ちます。腰を左にひねり、右足を半歩外側に踏み出すも、それ以上の動きは封じられ、安定感があります。
檜材寄木造であり、彫眼、彩色仕上げで各種の截金(きりかね)文様が表面に残されています。像高1mあり、平安時代後期の作とされています。 因みに足下の邪鬼は、一木造で当初からのものだそうです。
お寺のリーフレットに載せられている毘沙門天像の画像です。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/010/444/07/N000/000/012/127288708323216316587.jpg -
十三重石塔の前にある「黄冠」です。
黄色の牡丹は数株しかありません。希少が故に、鮮やかな黄牡丹の花にはフォトジェニックのようにカメラマンが群がります。 -
境内には柑子(こうじ:みかんの事)の木が植えられています。
弘法大師が、平安時代の812(弘仁2)年、境内の蜜柑を摘んで詩を添えて嵯峨天皇に献上したと伝承されています。その柑子の子孫は、歴代の住職によって実生から育てられ、今も伝わっています。
空海はこの寺で仏典を研究する傍ら、みかんの木を栽培したり、狸の毛で筆を作ったりしたそうです。みかんは往時、西域渡りの珍果でした。空海は「沙門空海言さく。乙訓寺に数株の柑橘の樹あり。例により摘み取り、来らしむ」としたため、「…よじ摘んで持てわが天子に献ず」の詩を添えて献上しています。これは空海の弟子 真済(しんぜい)が編集した『性霊集』に記されています。 -
日除けの白い和傘も景観のアクセントになっています。
蒼空に映える姿も魅力的です。
カラフルでなく、モノトーンでまとめているのが素敵です。 -
十三重石塔
「弘法大師お手植えの菩提樹」を借景に屹立しています。
菩提樹は、科の木(しなのき)科シナノキ属。釈迦がその下で悟りを開いたとされるのは、インドボダイジュですがそれとは異なる植物です。
なぜ間違って伝えられたかと言うと、禅宗を広めた僧 栄西が中国の天台山に行き、葉の形がインドボダイジュに似ていることからそこに植えられていた菩提樹を本物と勘違いして日本に持ち帰ったのです。因みに釈迦が亡くなったのは、沙羅双樹の木の下です。
少し発芽が遅いように思えますが、夏の頃には菩提樹の木陰に寄り添って静かに瞑想すると心が安らぐことでしょう。
手前が早良親王供養塔、左端の建物が地蔵堂になります。 -
客殿の前には藤棚があります。
この周辺の藤の名所は「鳥羽水環境保全センター」ですが、藤と牡丹を同時に愛でられるのはここだけの特権です。 -
クロガネモチ (市有形文化財 天然記念物)
モチノキ科モチノキ属の常緑高木で、幹回2.93m、根元周3.55m、樹高9m、樹齢400~500年です。1934(昭和9)年の室戸台風で幹が折れるなどの被害を受けました。京都府内でも屈指の大きさと言われています。近年枯れ枝が目立ち始めたそうですが、治療が奏功して樹勢が戻ってきたようです。 -
クロガネモチ
若い枝や葉柄が黒紫色であることや葉が乾くと黒鉄色になることからクロガネモチと名付けられています。地上2mほどの高さの所で四方八方に力強く枝分かれし、灰白色の幹の色、樹肌の瘤のような凹凸、枝のくねくねとした曲がりといったクロガネモチの特徴を顕わにしています。
東のモチノキ西のクロガネモチと言われ、昔から庭木には欠かせない一つです。延焼予防のために家の周りに植える「火かぶせ木」のひとつでもあり、「苦労せずに金持ちになれる」との語呂合わせから縁起の良い木と重宝される地域もあります。しかし、所変われば意味も変わります。三重県三重郡川越町では町の木に指定されていますが、「人は、苦労し努力してこそお金持ちになれる(クロうしてカネモチ)」という意味に捉えるそうです。 -
マーブル模様の島錦だと思います。
朝方の牡丹は鮮やかで瑞々しいのですが、陽射しに弱く、午後には色が褪せてぐったりするそうです。また、この時期の牡丹園はどこも人で溢れていますが、それでも朝早く訪れればゆっくりと花を愛でることができます。花の鑑賞に「早起きは三文の得」、それどころか「Price Less」かもしれません。 -
沢山の「京美人」に出会うことができました。
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ラストは「黄冠」で締めます。
島根県八束郡八束町の渡部三郎氏が米国産「ハイヌーン」に「新扶桑」を交配して日本初の黄色品種を作出しました。
海外の黄色品種は、育て難かったり、小輪で横向きに咲くなど改良の余地があったそうです。彗星の如く現れた「黄冠」は、巨大輪で受け咲き、樹勢も強く、花色も珍しい黄色とあって、まさに「牡丹の王様」とも称される存在です。
乙訓寺の牡丹に後ろ髪を引かれつつ、次の目的地となる細川ガラシャ所縁の勝龍寺城跡に向かいます。
この続きは、青嵐薫風 長岡京逍遥③勝龍寺城跡(エピローグ)でお届けします。
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