2017/01/30 - 2017/01/30
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風 魔さん
かって駿府(静岡市)は室町~戦国時代に、今川義元公が京都より守護役を任ぜられ今川館(駿府城)を居城として京文化が栄えました。
その後徳川家康公は、幼少名を「竹千代」と名乗り今川家の人質として駿府に居住していた時期(臨済寺にて勉学)がありましたが、義元公が「桶狭間の戦い」で織田信長公に討ち取られた後、出身地の岡崎城へ戻りましたが臨済寺(禅宗)が今川家の菩提寺となりました。
11月に「臨済寺本堂障壁画」が静岡市の有形文化財に指定されたことを記念して、本寺では1/29~ 30日に所蔵する本堂障壁画(江戸時代初期の狩野派の作品)を特別に公開しました。
普段は寺院の境内、内部を非公開としているためこの機会に文化財や、今川家~徳川家の歴史を学ぶため、駿府城(今川館)の北西にある臨済寺を見学に訪れました。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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臨済寺は、静岡市郊外・賎機山の麓の高台に位置します。
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1/29 ~ 30日のみ障壁画・公開のため、多くの見物客が訪れました。
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臨済寺は、臨済宗・妙心寺派の禅寺です。
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今川家が、駿府を統治する。
今川義元公は武家の出身であり、本姓は源氏で家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一族・吉良家の分家にあたりますが、室町幕府より駿府の守護役を任ぜられました。
ちなみに駿府(=静岡市)とは、駿河の国の府中(=国府)を意味する呼称です。 -
臨済寺は、静岡市葵区大岩町にある「臨済宗妙心寺派の禅寺」で山号は大龍山と称する。
駿府では、初代の今川氏親公から、氏輝、義元、氏真公と今川家・四代の「栄枯盛衰の物語」が歴史をつくりました。 -
格式ある山門。
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臨済寺には遠い親戚の墓があり、幼い頃父に連れられて「墓参り」に来た思い出がよみがえりました。
帰り道に、地元デパートの食堂で食べる洋食ランチが子ども心に楽しみでした。 -
臨済寺では、禅宗の寺として「座禅の会」が催されます。
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山門の仁王像。
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今川家が「駿府」に残した、職人の工芸品の進化。
今川家の駿府統治に伴い、駿府へ京都から多くの工芸職人が同行して「東の京」と言われた街づくりを行い、各種工芸が栄えました。
○ 木工芸 ⇒ 家具製造 ⇒ 後にプラモ模型作りへ進化
○ 仏壇・仏具の製造
○ 下駄・サンダルの製造
○ 漆塗り工芸 ⇒ 駿河塗下駄 -
本堂への長い階段を上がる。
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途中には、諸堂があります。
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山門へ歩いて進む。
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古い鐘楼。
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ベンチに腰掛けて、長い寺の歴史に想いを寄せる。
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風格ある書院造り。
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境内は、手入れがよく行き届いています。
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障壁画の展示される本堂。
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襖に描かれた墨画。
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沖六鵬先生の「観音経」。
静岡市出身の沖六鵬先生(おきりくほう: 明治28~昭和57年)は、 昭和期の書家、全日本書道連盟副理事長でした。 -
墨画の襖絵。
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観音菩薩の頭部像。
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こちらを向く観音菩薩様に、心の内の邪念を読まれそうな気がする!
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風情のある庭園。
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拝観者は、この廊下に座り庭園の景色を眺めます。
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幼少期に今川家の人質として、臨済寺にて勉学に励んだ竹千代君(家康公の幼名)の「 御手習い之間 」。
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今で云う勉強部屋である「 御手習い之間 」は、四畳半ほどの小さな部屋でした。
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家康公は「竹千代」と名乗った幼少期の頃、人質としては優遇され「太原雪斎」を師として勉学に励みました。
雪斎は今川家・家臣の戦国時代の武将・政治家であり、臨済宗の僧侶(禅僧)であるとともに「軍師」のような存在でした。 -
太原雪斎の書。
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廊下の壁面には、飛翔する鳥の姿が描かれていました。
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徳川幕府・最後の第15代将軍 徳川慶喜公直筆の書。
明治維新後、慶喜公は余生を趣味(写真、絵画、狩猟など)に生きて、駿府で過ごしました。 -
徳川家の重臣・榊原康政所蔵の鉄山釜。
榊原康政は「徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑」に数えられ、家康公の覇権の功臣として活躍し、兄・清政は久能城の城代として後の「久能山・東照宮」の管理を同家系が継承しました。 -
鉄山釜は、静岡市の「重要文化財」に指定されています。
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徳川家ゆかりの展示品。
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春日局の所持していた扇。
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また、「家康公」御手造りの品や、「竹千代君」使用の硯もありました。
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明治期に入り、写真の技法を趣味とした徳川家・第15代将軍「慶喜公」愛用の写真帳。
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虎と松の枝の襖絵図。
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徳川家達公の直筆の書・「萬古清風」と、画・「富士三保図」。
徳川家達公(いえさと:文久3年~ 昭和15年)は、徳川宗家の第16代当主でしたが、静岡藩の初代藩主となりました。
徳川幕府の将軍職は、最後の第15代慶喜公をもって明治維新となりますが、徳川宗家は第16代当主・家達公~第17代当主・家正公から、第18代の「現当主・徳川恒孝氏」へと継承されました。 -
徳川家正公の書 ・「知足常樂」。
徳川家正公(明治17年 ~ 昭和38年)は、第16代当主・徳川家達公の長男として、徳川宗家の第17代当主となり、日本の外交官・政治家でした。
なお第18代の現当主・徳川恒孝氏(つねなり:会津・松平家より養子)は、徳川家関連の記念行事、講演などのためよく来静されます。 -
襖の板間には経年による変化もなく、緑鮮やかな「狩野派の孔雀図」が飾られてありました。
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古代中国の「七賢人の画」。
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「龍頭観音菩薩」。
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廊下の所々に、鳥獣や花々を描いた襖絵がありました。
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風情ある手水場。
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徳川家・葵の家紋の付いた長持(大名家の道具入れ)。
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義元公直筆の画・「蝉丸」。
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静岡市指定の「虎と竹林の襖絵」。
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お経を唱える大きな木魚。
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墨絵のボカシが印象的でした。
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摩利支天~今川義元公~今川氏輝公。
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「摩利支天」とは、古代インドのヴェーダ神話に登場する「暁の女神ウシャス」で仏教の守護神です。
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この礼装からは、「雛人形か百人一首の歌仙」をイメージする。
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戦国時代に、義元公はその武勇から「海道一の弓取り」の異名を称せられました。
しかし、戦場へは「輿」(人力で持ち上げて運ぶ乗り物)に乗り出陣するなど「公家のようなイメージ」です。 -
本堂を出ると、上空は厚い雲に覆われていました。
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丸屋根の寺院建築造り。
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遠くに、静岡市・中心街の高層ビルが見えます。
徒歩で30分ほど歩いて行くと、中心街へ到ります。 -
方丈庭園。
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緩やかな階段と下り坂を下りる。
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帰り道、住宅地にあるレストランに立ち寄る。
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民家のレストランで、軽い和食ランチ。
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この旅行記へのコメント (2)
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- あーななちゃんさん 2017/01/31 22:40:48
- 徳川家
- 風魔さん こんばんは♪
徳川家とは所縁がある静岡県。私の実家の富士市も、こまごました所縁のある場所がありました。歴史の上に今があるって、不思議なことですよね。
駿府城には中学・高校の頃に、駿府城マラソンのために何度か行った思い出があります。なんだか懐かしいです(*^^*)
お城が全部復元されたらいいのにな、なんて思ったりしたことを思い出しました。
いつも素敵な旅行記をありがとうございます♪
あーなな。
- 風 魔さん からの返信 2017/01/31 23:29:52
- RE: 徳川家と駿府の所縁とは!
- あーななさんさん
こんばんは〜
> 徳川家とは所縁がある静岡県。私の実家の富士市も、こまごました所縁のある場所がありました。歴史の上に今があるって、不思議なことですよね。
>
> 駿府城には中学・高校の頃に、駿府城マラソンのために何度か行った思い出があります。なんだか懐かしいです(*^^*)
> お城が全部復元されたらいいのにな、なんて思ったりしたことを思い出しました。
>
> いつも素敵な旅行記をありがとうございます♪
いつも旅行記への訪問&コメントをありがとうございます。
駿府とは、駿河の国の府中(国の都)の呼称であり、徳川家とはたいへん縁の深い所で、家康公が幼少期に今川家の人質時代から、初代将軍を引退後は「大御所」として江戸幕府の政治に対して意見と指導を行いました。
駿府城は、当時としては日本一の天守閣(高さ・面積)を有していましたが「関ヶ原の合戦」の後、城内からの失火により焼失したまま現在に至りました。
以前より天守閣の再建の機運はありますが、未だに資金面より実行に移されていません!
数年前の「大道芸世界大会」においては、段ボールで制作された駿府城の縮小版を展示しました。
しかし「東御門〜未申櫓」が再建され、満開の桜が周囲を囲む堀に映る春の「駿府城公園の風景」は見応えあります。
そういえば、間もなく「駿府マラソン」が開催されランナーが、堀を周回する春の風物詩が見られる時期となりました。
また、訪問します。
風 魔
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