2016/11/04 - 2016/11/04
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morino296さん
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坂東33観音霊場を少しずつ巡ってみようと出掛けました。
今回は、5番札所の飯泉山勝福寺(飯泉観音)です。
小田急線足柄駅で下車、まずは五百羅漢で知られる玉宝寺を訪ね、勝福寺へ向かいました。
その後は、リニューアルを終えた小田原城に寄ってみました。
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小田急線足柄駅
小田急線小田原駅の隣にある足柄駅、初めて下車しました。足柄駅 駅
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小田急線 足柄駅
こじんまりした駅舎です。
ここで降りたのは、坂東33観音5番札所の飯泉山勝福寺(飯泉観音)へ行くためです。
飯泉観音へ行く前に、この近くにある五百羅漢に寄ります。足柄駅 駅
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天桂山玉宝寺 山門
曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺で、天文3年(1534)小田原北条氏の家臣垪和(はが)伊予守の建立によるもので、開山は、香雲寺四世実堂宗梅和尚。
この寺は、通称「五百羅漢」と呼ばれ、五百羅漢及び十六羅漢などを安置しています。
また、この寺が近くにあることから伊豆箱根鉄道大雄山線の駅名は五百羅漢といいます。 -
玉宝寺 山門脇に並ぶ六地蔵
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玉宝寺 本堂
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玉宝寺 境内の延命地蔵
優しい顔をされています。 -
玉宝寺 境内の閻魔様
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玉宝寺 本堂前の観音像
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玉宝寺 鐘楼
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玉宝寺 本堂
戸が閉まっています。
五百羅漢がどちらにあるのか分からず、寺務所に伺ったところ、「本堂にお入りください。」とのこと。 -
玉宝寺 本堂に入らせていただきます。
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玉宝寺 本堂に並ぶ五百羅漢像
この羅漢像は、享保15年(1730)村内の添田氏が出家し、智鉄と号して広く篤信者から浄財の寄進を求め、五百羅漢像の造立を発願したことに始まります。
7年間に170体を造立しましたが、志を果たせず病没してしまいました。
そこで、智鉄の弟が出家し、真澄と号し、兄の意思を継いで、28年間の歳月をかけて、宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。 -
玉宝寺 本堂の五百羅漢
その後、五百羅漢像は嘉永、安政の大地震で損失し、万延年間(1860~1861)に補足、補修が行われて、現在に至っています。
像高24cm~60cmの羅漢像526体が、本堂内に所狭しと並びます。
(小田原市のHP「小田原の観光」を参照) -
伊豆箱根鉄道大雄山線の踏切
この直ぐ左手に「五百羅漢駅」があります。 -
酒匂川に架かる飯泉橋西詰め
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酒匂川に架かる飯泉橋を渡ります
小田原市の北東部、酒匂川の東側に飯泉と呼ばれるところがあります。 -
小田原の梅干し工場
飯泉地区は、曽我梅林にも近く、梅干し工場もあります。梅の里かみお 専門店
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飯泉山勝福寺(飯泉観音)の仁王門
小田原市飯泉1161(足柄駅からは徒歩約25分。小田原駅または新松田駅からバスで飯泉観音前下車。)
真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。
建立は、奈良時代の頃で、弓削道鏡が流されて下野に赴く時、千代の里に寺を建立し、孝謙天皇より賜った唐国伝来の観音像を安置したのに始まると伝えられる(千葉山弓削寺)。
後に寺が焼けて当地に移され、飯泉山勝福寺と称した。坂東33観音の5番札所としても有名で、国府津の親木橋から当寺までの道路は巡礼街道と呼ばれている。
毎年12月17日、18日に、関東で一番早くだるま市が開かれ、境内には数多くのだるまを売る店が並び賑わうそうです。 -
勝福寺(飯泉観音) 仁王門の扁額と天井
仁王門は、宝暦8年(1758)造営、全体に木割りが太く、二重虹梁蟇股式の妻架構が堂々とした外観を構成しています。
また、八脚門としては県下でも最大級で格式の高い門です。
この仁王門も老朽化のため、昭和34年から38年までにかけて解体修理され、茅葺から銅板葺に改変された以外は、貫などの新材で補修した個所はあるものの、原形をよくとどめています。(解説より) -
勝福寺(飯泉観音) 仁王像
立派な仁王像がお出迎えです。 -
勝福寺(飯泉観音) 仁王像
曽我兄弟が仇討祈願のために日参し、仁王像から五郎が百人力、十郎が十人力を授かり、富士の裾野で仇討ちに成功したとの伝説があります。 -
勝福寺(飯泉観音) 仁王門の彫刻
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勝福寺(飯泉観音) 仁王門の彫刻
干支の彫刻もあります。 -
勝福寺(飯泉観音) 境内にある弘法大師像
仁王門を入った左手にいらっしゃいます。 -
勝福寺(飯泉観音) 境内の大イチョウ
雌雄でしょうか2本の大イチョウがあります。 -
勝福寺(飯泉観音) 大イチョウ(県天然記念物)
樹高30m、胸高周囲7.5m、樹齢約700年(推定)。
かつて乳イチョウと呼んで、乳のでない婦人が願をかけたといわれます。 -
勝福寺(飯泉観音) 青銅の手水鉢(市重文)
竜頭船の形で、船尾には十一面観音菩薩の坐像があり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。
作者は、江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永、宝暦元年(1704)7月と記されています。
(全長270cm、幅55cm、高さ82cm) -
勝福寺(飯泉観音)の本堂(観音堂)
棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもの。
江戸時代初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物といわれますが、老朽化のため昭和44年に改修されました。
建物は、密教系寺院独特の構えで、内陣は後部3間(5.45m)、外陣は前部2間(3.63m)の板の間です。 -
勝福寺(飯泉観音) 本堂(観音堂)
本尊の木造十一面観音立像は平安時代のもので藤原朝風の像といわれます。(県重文)
本尊の御開帳は33年に一度だそうです。 -
勝福寺(飯泉観音) 堂内の欄間
見事な彫刻が施されています。 -
勝福寺(飯泉観音) 堂内の欄間
両脇には迦陵頻伽が舞います。 -
勝福寺(飯泉観音) 鐘楼
銅鐘(市重文)は、江戸時代初期の寛永6年(1629)に地元小田原の鋳物師青木源右衛門の作。
小田原の鋳物は、戦国時代に北条氏の加護を受け、関東鋳物業の中心で、江戸時代になっても鋳物は栄え、小田原の梵鐘として広く知られたそうです。
この銅鐘もその一つであり市内に残る数少ない銅鐘の中でも優れたもの。
(総高139cm、鐘身高100cm、口径74cm、竜頭高28cm) -
勝福寺(飯泉観音) 二宮金次郎の本尊拝礼像
文化元年(1804)、二宮金次郎は、旅僧の「観音経」を聞き、一念発起した地であるといわれます。 -
勝福寺(飯泉観音) 納経所
寺務所は新しくて立派な建物です。勝福寺(飯泉観音) 寺・神社・教会
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勝福寺(飯泉観音) 境内に並ぶ四国88ヶ所霊場の石仏
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勝福寺(飯泉観音) 境内の水向十三佛
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勝福寺(飯泉観音) 境内のお地蔵さん
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勝福寺 北向大師堂
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勝福寺 境内にある土俵
この土俵とは別に、雷電為右衛門が、田舎相撲の大岩大五郎を倒したとの伝説がある土俵跡があるそうです(写真はなし)。 -
勝福寺 馬頭観音堂
この後、小田原城へ向かいます。 -
八幡神社
勝福寺と並び飯泉地区の鎮守である八幡神社があります。
寺院と神社の境はなく、神仏習合時代の面影を残しています。
主祭神:誉田別命
古来、ここ飯泉は、鎌倉街道、大山街道、足柄山道、箱根山道などが交錯し、特に酒匂川の渡し場、坂東33観音5番札所の宿場と共に、交通の要衝であったが、同時に洪水、地震、噴火に悩まされた住民は鎮守神を豊斎すべく、時の宗我播磨介広之(宗我都比古神社社主)に請願し、鎌倉八幡宮の分霊を祀ったもの。
その後、近郊の末社を集合し、郷社として天下泰平、五穀豊穣、安産、永世平和の守護神として崇敬され祀られてきた。(解説より) -
小田原城 学橋から眺めるお濠
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小田原城 銅門(あかがねもん)
平成9年(1997)に復元。
馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。
入母屋造瓦葺きの渡櫓門で、土塀で周囲を囲んだ枡形門の構造。
大扉は「銅門」の名前の由来になった銅版・銅鋲で装飾されています。小田原城 銅門 名所・史跡
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小田原城 二の丸から本丸への石段
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小田原城 常盤木門
昭和46年(1971)に復元。
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅牢に造られています。
2つの多聞櫓と渡櫓門からなる枡形門で、前面には「坂口門」がありました。
本丸の名松「巨松」になぞらえて「常盤木門」の名が付けられたといわれています。常盤木門 名所・史跡
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小田原城 菊花展
本丸広場にて第66回『小田原城菊花展』が開催されていました。
小田原城のミニチュアを小菊で飾った小菊総合花壇をはじめ、大菊・盆栽・スプレー菊など約700点が展示されています。
開催期間:平成28年11月3日~11月115日小田原城菊花展 祭り・イベント
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小田原城 天守閣
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。
稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興。
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。
(小田原市のHPより)小田原城 名所・史跡
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小田原城 常設展示室1
2016年5月に耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。
展示などグラフィックを多用し見ごたえ充分。
小田原城の天守の高さ27.2mは全国の城の中で7番目だそうです。
ちなみにトップは大阪城41.5m、次いで、名古屋城、島原城と続きます。小田原城 名所・史跡
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小田原城の模型
小田原城 名所・史跡
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小田原城の展示品
小田原の名物ういろう
ういろうには、薬とお菓子がありますね。小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守再現(常設展示室3)
江戸時代に天守に祀られていた摩利支天像の安置空間を再現。小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守再現
平成の大改修で使われた柱(現物大)小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守閣からの眺め(東側)
小田原城下から江の島方面小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守閣からの眺め(北側)
小田原駅と丹沢の山並み小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守閣からの眺め(西側)
西日に輝く箱根方面小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守閣からの眺め(南側)
伊豆半島、真鶴半島方面小田原城 名所・史跡
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小田原城 天守閣の記念写真撮影場所
小田原城 名所・史跡
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夕暮れの小田原城 天守閣 16:25頃
日も短くなってきましたので、そろそろ帰ります。
坂東33観音の内、これで11ヶ所を訪ねました。
神奈川県には9ヶ所の札所があり、7ヶ所(○印)を訪ねましたので残りは2ヶ所となりました。
○第1番 大蔵山 杉本寺(杉本観音) 鎌倉市二階堂903
○第2番 海雲山 岩殿寺(岩殿観音) 逗子市久木5-7-11
○第3番 祇園山 安養院 田代寺(田代観音) 鎌倉市大町3-1-22
○第4番 海光山 長谷寺(長谷観音) 鎌倉市長谷3-11-2
○第5番 飯泉山 勝福寺(飯泉観音) 小田原市飯泉1161
第6番 飯上山 長谷寺(飯山観音) 厚木市飯山5605
第7番 金目山 光明寺(金目観音) 平塚市南金目896
○第8番 妙法山 星谷寺(星の谷観音) 座間市入谷3-3583-1
○第14番 瑞応山 弘明寺 (弘明寺観音) 横浜市南区弘明寺町267
次回は、第6番、第7番を訪ねたいと思います。
(おしまい)小田原城 名所・史跡
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