2016/07/16 - 2016/07/16
56位(同エリア229件中)
naoさん
京都府船井郡京丹波町須知(しゅうち)は、古くから山陰街道や、山陰街道から分かれて丹後地方や若狭方面へ向かう街道が通る交通の要衝だった所で、必然的に宿場町が形成され、明治末期まで多くの旅人で賑わいます。
明治32年(1899年)に京都鉄道(現在のJR山陰本線)が京都〜園部間に開通し、園部以北の鉄道の要所として須知の発展が期待されましたが、明治43年(1910年)に綾部まで延伸された京都鉄道は、須知を大きく迂回する形で敷設されたため、須知の思惑は外れてしまいます。
鉄道の迂回により発展から取り残されたことと相まって、国道9号線が山陰街道の東側をバイパスとして通されたため、宿場町の町並みがそのまま残る結果となりました。
南北に縦貫する山陰街道に沿って800m余り続く須知の町並みは、丹波地方でよく見られる、白漆喰で塗籠めた中二階建ての妻入り町家が大半を占めるほか、一部には大規模な切妻平入の町家やかつての茅葺屋根を鉄板で覆った町家など、江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたと思われる町家が軒を連ねています。
中でも、江戸時代以来宿場町須知を代表する旅籠で、往時の道中講の講札を軒下に掲げた料亭が店を開いており、現在は宿泊できないものの、夏の鮎、秋の松茸、冬の猪など、地元丹波の食材を使った季節料理や会席料理などが味わえるそうです。
平成27年に全線開通した京都縦貫自動車道の工事により、町並みの一部が取り壊されたとのことで残念な気持ちは否めませんが、『スピード』という利便性をもたらす「現代の山陰街道」のダイナミックな姿と共存する、須知の新しい魅力が発見できて良かったと思いました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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山陰街道、須知宿(しゅうち)へやってきました。
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ここは古くから山陰街道の要衝だった所で、明治末期まで多くの旅人で賑わいました。
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かつての宿場町はもう少し南側になるんですが、この辺りも風情ある町並みを見ることができます。
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荒壁のままの土蔵があります。
まさか、今後上塗りするまでの養生期間ということはないでしょうね・・・。
昔は、荒壁の状態のままひび割れが完全に止まるまで待って、仕上げの漆喰塗をしたものです。 -
幅の広い玄関を構えた入母屋妻入りの町家。
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虫籠窓のある、2階建ての大きな町家です。
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この辺りから南側がかつての宿場町になります。
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木部にベンガラを塗った町家は、空き家のようです。
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駐車場に面して、幅の広い納屋が建っています。
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納屋の妻面外壁は、上塗りの白漆喰がはげ落ちて荒壁がむき出しになっていますが、かつての雄姿を想像させてくれます。
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平入と妻入りの町家が仲良く並んでいます。
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町並みには、かつての茅葺屋根を鉄板で覆った町家も点在しています。
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南側へ続く町並みです。
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虫籠窓に格子を備えた伝統的な町家です。
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ここにもかつての茅葺屋根を鉄板で覆った町家があります。
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かつて店舗だったのか、間口の大半がにガラス格子の出入戸がはめられています。
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今は街道筋に店を構えている和菓子屋さんの、元のお店のようです。
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こちらは和菓子屋さんの作業場のようで、左手に現在のお店が繋がっています。
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作業場の土壁の竹小舞が露わになっています。
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和菓子屋さんの先の、分かれ道の分岐点の北側にも良い町並みが続いているので、ちょっと歩いてみます。
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妻入り町家の風情ある格子と張り合うように、2階の荒壁に口を開けるアルミサッシが輝いています。
違和感は否めませんが、これも時代の流れですね。 -
この伝統的な町家も空き家のようです。
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こちらは須知妙見堂と呼ばれている、妙見宗長栄教会です。
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「妙見宗」は、山岳信仰を根源とする天台宗修験道の流れを汲む新興宗教として、昭和21年(1946年)に創立されたもので、大阪府能勢町の本瀧寺が総本山になります。
なお、同じ大阪府能勢町の「能勢の妙見さん」と呼び親しまれている日蓮宗能勢妙見山は全く別の寺院です。 -
天台宗修験道の流れを汲む以上、宗教上は仏教に分類される「妙見宗」ですが・・・
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狛犬が鎮座する須知妙見堂の姿はまるで神社のようです。
では、先ほどの分岐点に戻って、町歩きを続けます。 -
分岐点まで戻ってきました。
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分岐点に建っている町家は、平入部分もそうなんですが、とても荒々しい魅力に溢れています。
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入母屋妻入り町家の窓周りには、いろいろ手が加えられています。
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分岐点の南に延びる町並みです。
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「かつての茅葺屋根を鉄板で覆った町家」と一言でいっても、細かく見ていくといろいろバリエーションがあるのが判ります。
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正面から見ると間口の狭い妻入り町家にしか見えませんが、横に廻ると奥行の深い「ウナギの寝床」でした。
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街道筋から西に分岐する脇道を入ると、突き当りに旧須知小学校があります。
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映画「銀河鉄道の夜」の舞台となった旧須知小学校は、明治5年(1872年)に旧須知村当時の有力者が尚綗校を創立したのが始まりとされています。
明治20年(1887年)の学制改正により須知尋常小学校と改称された後、明治23年(1890年)に現在地に移転されました。 -
以後、何度かの増改築を経て、昭和10年(1935年)に全面的に改築され現在に至っていますが、当時の小学校建築の典型的な姿を見ることができます。
なお、学校統合のため平成12年に閉校され、学童保育やスポーツ生涯学習の場として利用されています。 -
もちろん、この人も健在でした。
では、町歩きに戻ります。 -
この町家は、元の虫籠窓の周囲には、鏝細工が施されています。
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建てられた当時の姿を、ほぼそのまま留める町家には・・・
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「ばったり床几」も残されています。
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この伝統的な町家には・・・
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煙出しの越屋根がしつらえられています。
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ツバメさんが「ピーチク、パーチク」おしゃべりの真最中です。
ツバメさんも三羽揃えば「かしましい」ですね・・・! -
伝統的なたたずまいを、端正な姿のまま保っている町家です。
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玄関先には、犬矢来がしつらえてあります。
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荒物屋さんが店を開いています。
店先には荒物が並んでいるのが見えますが、恐らく荒物だけではなく、いろんな物を扱っているような気がします。 -
南側に延びる町並みです。
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こちらは、江戸時代以来須知を代表する旅籠で、往時の道中講の講札が軒下に掲げられています。
現在は、地元丹波の食材を使った季節料理や会席料理などが味わえだけで、宿泊はできないようです。 -
軒下に掲げられた道中講の講札が、かつて旅籠だった名残りを伝えています。
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今風の外格子をしつらえた町家。
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北側の町並みの様子です。
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この辺りで、街道は桝形状に大きく屈曲しています。
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こちらの洋服店は、ガラス戸越しに業務用ミシンが見えます。
これがなければ商売になりませんからね・・・。 -
そろそろ京都縦貫自動車道の高架橋が見える辺りまでやって来ました。
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明治43年(1910年)に京都鉄道(現在のJR山陰本線)が綾部まで延伸された時には、須知を大きく迂回するルートになったのと・・・
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国道9号線も山陰街道の東側をバイパスとして通されたため、宿場町の町並みがそのまま残る結果になった、までは良かったんですが・・・
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京都縦貫自動車道が町並みを横断する形で通されました。
しかし、京都縦貫自動車道は高架橋の上を通っているので、町並みが完全に分断されることが避けられたのは不幸中の幸いでした。 -
京都縦貫自動車道の工事を免れたのかは定かではありませんが、高架橋の下に残っている町家も見受けられます。
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京都縦貫自動車道の高架橋の南側に連なる町並みです。
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妻面の虫籠窓に、漆喰塗籠めの庇をつけた町家。
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石積みの基礎の上に建てられた長屋門。
敷地の奥に主屋があるようです。 -
長屋門の脇出入口が開いたままになっています。
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町並みの周辺には、木々の緑に包まれた山並みや、緩やかに小川が流れる牧歌的な山里風景が広がっています。
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そんな素晴らしい風景を切り裂くように、平成27年に京都縦貫自動車道が全線開通しました。
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工事の関係で町並みの一部が犠牲になったとのことで、残念な気持ちは否めませんが、『スピード』という利便性をもたらす「現代の山陰街道」のダイナミックな姿と共存する、新しい魅力が発見できて良かったと思いました。
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こちらは、町並みに面して朱塗りの鳥居が並ぶ導観稲荷神社で、地域の皆さんから「道観さん」と親しまれています。
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では、須知の町並みを後に、次の目的地へ向かいます。
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