2016/03/03 - 2016/03/05
4位(同エリア391件中)
montsaintmichelさん
- montsaintmichelさんTOP
- 旅行記375冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,067,877アクセス
- フォロワー141人
瑞雲萬歳山大寧護国禅寺は、1410(応永17)年に大内家の分家 鷲頭弘忠が開基し、能登総持寺の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師が開山した長門国屈指の古刹です。かつては「西の高野」と称された曹洞宗中国三ヶ寺のひとつであり、末寺513寺を抱えたと『日本名刹事典』は記しています。また、室町時代に西国の覇者として栄華を極めた大内氏の終焉の地としても知られ、大きく歴史が動いた舞台ともなった寺院です。
1551(天文20)年に起きた「大寧寺の変」は、戦国時代の下剋上を象徴する事件です。後の「厳島合戦」の原因ともなりました。西国随一と称された大内義隆は、この頃には九州にも版図を拡大する勢いでした。しかし出雲 尼子氏を攻めて敗北すると、養嗣子 晴持の死と敗戦のショックから政務に興味を失い、文芸や遊興に耽るようになり、譜代武将の信任を失いました。文化偏重政策の負担は民衆にのしかかり、周辺では領土の奪い合いが日常茶飯事でした。これを見兼ねた筆頭家老 陶隆房(後の晴賢)は、讒言にも乗ってクーデターを画策し、その噂は公然となるも慢心した義隆はそれを気にも留めませんでした。
やがて隆房が挙兵すると、大内家の多くの武将は隆房に同調しました。対する義隆は、陶軍の山口到着の前日まで酒宴を催すなど、全く無防備でした。味方に付いた重臣は冷泉隆豊だけで、僅か1日で山口を追われ、さらに仙崎から石見へ船で逃れようと図るも嵐のために阻まれ、この大寧寺に逃げ込みました。
大寧寺に残る逸話では、寺に着いた義隆は顔を洗おうと兜を脱いで池の畔に立ったが、自分の姿が池に映っていないことに気付き、死を覚悟したとしています。そして義隆父子は住職 異雪慶珠から戒名を授かり、翌日、境内で自刃しました。かくして大内家は31代にして断絶の憂き目を見ました。大寧寺本堂裏山には、大内義隆の墓と最後まで付き従った家臣たちの墓があります。堂宇はこの乱で焼失しましたが、後にこの地を支配した毛利氏によって1829(文政12)年に再興され、長州藩時代からも引き続き崇敬を受け今日に至っています。
境内散策マップです。
http://www.taineiji.jp/guide/mainsights.htm
http://yassite.jp/JB/Yama/jiin/data/001_21.jpg
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
-
湯本観光ホテル西京
ホテルの部屋から見た大寧寺方面の景色です。奥に見える頂が瑞雲山です。
ホテル到着が17:00過ぎでしたので翌朝の予定だった大寧寺散策を前倒しして決行します。 -
大寧寺川
紅葉で有名な清流 大寧寺川に沿って進みます。
また、この辺りは、ゲンジボタルの発生地として国の天然記念物に指定されています。
この大寧寺川が境内までエスコートしてくれます。 -
川沿いには所々で山桜が花を咲かせています。
桜の名の由来は、日本神話にある木花開耶姫(このはなさくやひめ)が語源と言われています。花の美しさからこの姫に例えられ、「佐久良」と変化したそうです。 -
現代では、お花見の対象はソメイヨシノになっていますが、ソメイヨシノが広まる明治以前は、お花見と言えばヤマザクラだったそうです。つまり、吉野の桜とは、このヤマザクラのことでした。
さらに時代を遡ると、花見の対象がヤマザクラになったのは平安時代以降とされています。往時の花見は一般庶民のものではなく、もっぱら文化人や貴族の宴であり、主に歌集や文学作品の中から窺えます。一方、平安以前のお花見は、中国文化の影響が根強く、花と言えば梅でした。 -
大寧寺 虎渓橋
境内の前を流れる大寧寺川には、朱塗りの虎渓橋と石造の盤石橋が架けられています。
虎渓橋を渡った先は、名刹 大寧寺の聖域となります。 -
大寧寺 盤石橋
大寧寺川に架けられた、本堂に通じる第一の橋です。玄武岩2枚の橋梁を大小の自然石を組み合わせた橋脚で支えた刎橋(はねばし)で、素朴ながら風雅な姿をしています。盤石橋は、石刎橋としては国内に2例しかない2径間橋です(もう1例は、岡山県藤田の石橋)。
刎橋として有名なのは日本三大奇橋のひとつの猿橋ですが、こうした石造の刎橋は珍しく、山口県以外ではほとんど見られない形式のものです。 -
大寧寺 盤石橋
この石橋は、1668(寛文8)年に懸架され、1764(宝暦14)年に再建架されたことが橋石に刻銘された偈文から判明しています。橋長14.2m、幅2.4m、水面からの高さ3mあり、突桁式工法と呼ばれる両側のと中央の3箇所の柱に平板状の石を渡した構造であり、一般的にはゲルバー橋と呼ばれます。ドイツで開発されたゲルバー橋(1868年)以前に突桁式工法の架橋技術がこの時代の日本に存在したことを示す貴重な遺構として高い文化的評価を受けています。
因みに、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並び、「防長三奇橋」のひとつにも数えられています。 -
大寧寺 盤石橋
現在は、崩壊の危険性があるためか、通行は禁じられています。
後世に残すためにも、これ以上痛まないような対策が必要かもしれません。 -
大寧寺 兜かけの岩
大内義隆は、陶晴賢の反乱によって山口を追われてこの地に逃れてきました。境内に入る前に乱れた髪を整えようと岩に兜を掛け、 側の池に顔を映そうとすると、水面に自分の姿が映らず、運命を悟り、行水後、白装束で異雪和尚の法話を本堂で聞き、重臣 冷泉隆豊の介錯で自刃したと言います。
やがて寺に火が放たれ、最期に冷泉隆豊が経蔵に入って割腹。ハラワタを天井に投げ付ける悲憤の最後を遂げたと伝えられています。
「みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず」(隆豊辞世の句)、享年39歳。 「末」は陶隆房の「陶(すえ)」を充てたものと言われています。辞世の通り、陶隆房も4年後に厳島で毛利元就に敗れ自刃しています。 -
大寧寺 姿見の池(旧称 鬢水池(びんすいいけ))
兜かけの岩と姿見の池、何れも旧参道にあったものを近年この場所に移したとあります。連綿と続いた中国地方の覇者 大内家の終焉を覚悟した時の義隆の心中は如何ばかりだったでしょうか。
義隆亡き後、陶隆房により大友義鑑の次男 義長が大内家当主に担がれ、傀儡として大内家は続きました。しかし、やがて義長も毛利元就の防長経略で討たれ、長府「長福寺(現 巧山寺)」にて自刃しました。戦国時代の宿命と言うか、武将の儚さを感じずにはいられません。 -
大寧寺
本堂まで続く趣のある参道です。
白蓮池には石橋が架けられ、渓流が流れる野趣溢れる境内です。
その先の左手には、「大内義隆公終焉の地」とある石柱が立ち、正面の石段の前には、かつて豪華絢爛たる大きな山門が存在しました。今は、建物の柱部分を支えた丸い石の基盤だけが整然と並んで往時を偲ばせます。 -
大寧寺 山門跡
山門は、1640(寛永17)年の野火で焼失した後、1677(延宝5)年に益田元尭によって再建されましたが、明治末期に倒壊しました。明治維新後、藩の庇護がなくなると諸堂の維持管理が行き届かなくなり、山門は明治末期に倒壊の憂き目に遭いました。そのまま再建されないまま12個の礎石を遺すだけですが、その礎石が門のスケールの大きさを物語っています。
山門の由緒書きには次のようにあります。
「天正年間(1570年代)毛利永代家老益田藤兼公(全鼎)が当寺15世関翁殊門禅師に帰依し山門を寄進、のち寛永17年野火によって焼失した山門は延宝5年(1677)に益田元尭公によって再建された。桁行5間・梁行2間尺・桧皮葺入母屋重層の荘厳な山門であったが、明治以後、藩の庇護も疎くなり維持困難を極め明治末期に倒壊し今日に至っている」。 -
大寧寺 本堂
毛利元就が再建した本堂は、寛永年代に再び野火によって焼失しました。その時に焼け残った僧の寄宿寮「衆寮」という曹洞禅道場のひとつを1829(文政12)年に移築したものが現在の本堂です。こうした様式の本堂は珍しく、規模も県下仏教寺院中最大で建築史上希少価値があり、県の重要文化財(有形文化財)の指定を受けています。
桁行5間、梁間7間、正面に1間の葺下しの向拝を配し、外陣は両脇の18畳と大間の24畳からなり、その奥の両脇に12畳、中央に16畳の内陣を設けています。内陣中央奥に仏壇を置き、その背面に来迎壁を付し、天井は向拝、内陣及び外陣中央部は格天井、その他は棹縁天井とし、内陣板敷部分の天井板は彩色絵を施しています。 -
大寧寺 本堂 扁額
扁額の文字「瑞雲山」が禅寺を象徴するような鮮やかな青色です。
揮毫は、第33世住職 無隠道費(むいん どうひ)です。 -
大寧寺 本堂 梵鐘
本堂の廊下の軒下に吊られた梵鐘は、1396(応永3)年の室町時代前期、筑前州垣崎庄葦屋津(福岡県遠賀郡芦屋町)にあった長福寺の鐘として芦屋の鋳物師が制作したものと伝わります。お寺の創建より梵鐘の方が古いとは吃驚ポンです。
芦屋は、鎌倉時代から鋳物師の里として有名でした。この地の領主 麻生氏は大内氏に属し、「大内殿有名衆」の筆頭で、麻生氏の分骨が大寧寺に数基あることや遠賀郡には大寧寺8代永満和尚が開山した竜昌寺が大寧寺の末寺としてあることなど、大寧寺は遠賀郡や麻生氏と因縁が深いことからこの鐘がもたらされたと推察されています。 -
大寧寺 本堂
祠堂側から見る本堂です。
時間が遅く、すでに閉まっていました。 -
大寧寺 冷泉坂
坂道には石が埋められていますが、凹凸があり結構歩き難い道です。
そのために手摺が設けられているのかもしれません。
地面が濡れている時は、スリップに要注意です。 -
大寧寺 経蔵跡
冷泉坂の途中にある、やや開けた平坦地が経蔵跡です。
大内義隆の重臣 冷泉隆豊が最後まで踏みとどまって力戦奮闘するも遂に力尽き、火を放った経蔵に入って腹を掻き割り、血滴るハラワタを天井に投げ付けて壮絶な終焉を遂げた場所です。経蔵はすっかり焼け落ちたとみえ、今は跡だけが遺されています。往時の経蔵の柱と伝えられる黒焦げた柱片が本堂隅に吊り下げられており、歴史の一端を垣間見ることができます。
余談ですが、大内義隆は、フランシスコ・ザビエルに2度会い、2度目でキリスト教の布教を許可しています。しかし、ザビエルと謁見した時、西洋の進んだ技術や工芸品にだけ関心を寄せ、キリスト教の教理に強く反発しました。その理由の最たるものが、キリスト教では男色が罪だということでした。隆豊は、その相手のひとりだったと言われています。うまくすれば庇護してくれるかもしれない義隆の顔色を窺うことをせず、男色は罪だと毅然と言い切ったザビエルの心意気に拍手を送りたいものです。 -
大寧寺 遊仙窟 歴代住職の無縫塔
冷泉坂を登り切った所が墓石群の入口です。
ひんやりとした空気が張り詰める中、手前には開山石屋真梁から43世までの歴代住職の無縫塔が配置されています。これらは、中世期の無縫塔形式の変遷を知る上で貴重なものとされています。 -
大寧寺 遊仙窟 大内義隆の墓所
大内義隆の墓所は、歴代住職の無縫塔と対峙した遊仙窟と呼ばれる場所にあります。開けた一画ながら、ここだけは胡乱な澱んだ空気が漂う気がします。2区画の墓所が並び、向って右手に大内義隆・義尊親子とその家臣たち31人が眠ります。
その左側にある鎌倉時代からの武家の墓形式「宝篋印塔」が義隆のものです。義隆親子を囲むように、最期まで忠心を誓った武将たちの名が刻まれた墓標が立ち並んでいます。奥から、冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、天野隆良と続きます。 -
大寧寺 遊仙窟 大内義隆の宝篋印塔
義隆の宝篋印塔の高さは、1.4mあるそうです。
「討つ人も討たるる人も諸ともに 如露亦(にょろやく) 如電(にょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)」が義隆の辞世(享年45歳)です。討つ人も討たれる人も、人生は露のように稲妻のように儚いものだと無常観を詠んでいます。
最後の部分は、金剛般若波羅蜜経の一節を引用しています。 -
大寧寺 遊仙窟 大内義隆の墓所
1888(明治21)年に、14代藩主 毛利元徳によって死者の名を刻した標柱が新たに建てられています。
義隆に最期まで添え遂げて殉死した家臣たちの墓が整然と並び、苔むした宝篋印塔が無言のうちに悲哀の歴史を語りかけてきます。ここには、遠く過ぎ去った時の流れと静寂があるだけです。 -
大寧寺 遊仙窟 三条公頼の墓所
義隆の墓所の左手には、左大臣 転法輪三条公頼ら公卿の10基の墓標があります。左から、持明院基規卿、三条公頼卿(石室付き)、二條良豊卿、二條尹房卿と並んでいます。
大内時代の深川庄は、三条家の領地でもありました。偶然、義隆に招かれて山口にいた公頼は、不運にもこの事件に巻き込まれ、山口を逃れた義隆を追って深川に向かうも、途中で暴徒に襲われて無残な最期を遂げたそうです。その場所も明らかではありません。
左端に並ぶのは、大寧寺の変で犠牲となった大内家の20歳前後の姫君や女官たちの墓です。 -
大寧寺 遊仙窟 三条公頼の宝篋印塔
三条公頼だけは、三条家代々の墓所がある京都の二尊院ではなく、この地にひっそりと眠り、義隆に寄り添っています。
余談ですが、公頼の次女は、武田晴信(信玄)の正室「三条の方」です。
これまで「三条の方」と言えば、歴史小説とそれを脚色した大河ドラマの影響で史料的根拠も乏しいままに高慢で嫉妬深い正室とのネガティブなイメージばかりが喧伝され続けてきました。しかし、当時の記録から、実際には温和で信仰心篤く、正室の各役割を果たしていたことが判明し、彼女の過小評価に異論が呈され、再評価されています。実際の武田信玄と三条夫人との夫婦関係は、これまでの俗説とは全く異なり、特に共に仏教への篤い信仰を介して大変に仲睦まじく、また三条夫人は夫に従順でよく仕える良き妻であったそうです。(上野晴朗著『信玄の妻 円光院三条夫人』)
何故こんなことになってしまったのかと言えば、作家が根拠を蔑ろにして、物語を面白おかしくするために、単純な発想で境遇が同じと言うだけで誰もが知る徳川家康の正室だった築山殿をモデルに三条夫人の悪妻イメージをインスピレーションで創作してしまったことにあるようです。2人ともヒステリックで我侭、夫を尻に敷く、高慢で嫉妬深いなど、そっくりポンに刷り込まれています。勿論、こうした創作は氷山の一角なのですが、作家の創作によって本来の人物像が歪められてしまうのは残念でなりません。死人に名誉毀損罪はないにしろ、子孫や関係者の方々は悲しい思いをなさっていることでしょう。 -
大寧寺 墓所
その他、境内には鷲頭弘忠の墓や室町時代の関東管領だった上杉憲実のものと伝える墓や江戸時代の毛利藩重臣の墓などがあり、寺史の古さを窺わせます。
上杉憲実とは、越後守護上杉房方の3男に生まれ、室町時代の「関東管領」として主君 足利持氏に仕え、足利学校や鎌倉文庫の再興者として高名です。幕府内の世継ぎに絡む政争に辟易して出家し、諸国遍歴の後、大内氏を頼って当寺第4世 竹居(ちっきょ)和尚の弟子となり、ここ大寧寺を安堵の地としました。 -
大寧寺 釈迦三尊及び十六羅漢像
大寧寺には、江戸初期制作とされる2組の十六羅漢像があります。その1組がこれらの石仏で、釈迦像を中心に配置されています。もう1組は木像で、現在は本堂内陣に納められています。
制作年は不詳ですが、1677(延宝5)年建立の山門の棟札に羅漢像が信者から寄進されたとの記録があり、両者共にこの頃の制作と考えられています。
このように木造と石像の2組の像が受け継がれてきた寺院は珍しく、栄えた往時が偲ばれます。 -
大寧寺 釈迦三尊像
釈迦如来像は、左手に開敷蓮華を執り、右手で施無畏印を結んでいます。
迦葉と阿難の2大弟子が脇侍を務めています。 -
大寧寺 十六羅漢像
石仏群は、大正初期まで大寧寺川対岸にあった大寧寺十景の「三笑岩」に安置されていましたが、県道取付工事により「三笑岩」の岩場が破壊され、崖上の山中に移設されました。しかし、崖や石仏の風化が進み、崩落の危険があるため、2005年に現在地に安置されました。 -
大寧寺 十六羅漢像
像の背面にはそれぞれ施主の名が刻まれ、先人のひたむきな信仰心が偲ばれます。 -
長門豊川稲荷神社
千本のぼりと言われる参道ですが、なんとなく雰囲気だけは味わえます。
千本のぼりを過ぎた先には、稲荷神社特有の赤い鳥居と本堂がお目見えします。 -
長門豊川稲荷神社 本殿
1961(昭和36)年、ここに愛知県妙厳寺の守護神 豊川稲荷が勧請されています。
ご祭神は仏法を護持する叱枳尼真天(だきにしんてん)なる仏で、白藤董(しらふじただす)氏が秘蔵していたご神体がこの寺に贈呈されたことが縁起です。 -
長門豊川稲荷神社 本殿
何故長門に豊川稲荷が勧請されているのでしょうか?
幕末、朝廷との対立から、7人の公卿が都を追われて長州に逃れてきました(七卿落ち)。その中の三条実美を手厚く保護したのが、大寧寺45世 簣運泰成(きうんたいじょう)和尚でした。維新後、長州藩では兵制改革が原因で反乱事件が起り(脱退兵事件)ました。反乱鎮圧後、首謀者らが処刑された際、助命運動に尽力した和尚は藩の反発に遭い、豊川の妙厳寺に身を寄せました。その頃起こったのが、神仏分離令による妙厳寺豊川稲荷潰しでした。そこで和尚は、住職らと共に政府に豊川稲荷の救済を求めました。新政府の要人に三条卿や多くの長州人がいたことが奏功し、豊川稲荷はその危機を救われました。このような奇縁から、長門豊川稲荷をこの地に勧請することができたそうです。 -
長門豊川稲荷神社 本殿
破風の龍の彫刻も見事な物です。 -
長門豊川稲荷神社
見事な破風に掲げられた扁額には「豊川閣」とあります。
叱枳尼真天の真言は、「唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶(おんしらばったにりうんそわか)」と手を合わせ7回唱えます。 -
長門豊川稲荷神社
仏像が彫られた六地蔵石燈籠です。
六角形の火袋の各面に地蔵像が彫ってあります。 -
長門豊川稲荷神社 参道
白と淡いピンク色の梅の花の競演です。 -
湯本観光ホテル西京
アワビの踊り焼き付き会席です。
ホテルの別館にある芝居小屋「夢 遊湯亭」では、宿泊客は無料で大衆演芸を鑑賞することができます。最近、大衆演芸が人気になってきているようです。
大衆演芸の情報サイトです。
http://0481.jp/c/yumeyuuyutei/ -
音信川(おとづれがわ)
夕食後、温泉郷まで出てみました。
風雅な「音信川」の名の由来となる、せつなくも心に染み渡る伝説があります。
その昔、藩お抱えのお茶屋「清音亭」に働く湯女(ゆな)が叶わぬ恋に堕ち、想いの丈を文(=音信)に綴り、川下の相手に伝えようと橋の上からそっと文を流したというロマンチックな伝説です。「川の流れよ、この気持ちをどうかあの人に届けておくれ」と願った、待つ身が辛い湯女たちのせめてもの流し文…。これが音信川のいわれです。恋に焦がれて鳴く蝉より、鳴かぬ蛍が身を焦がす…。真夏の一夜の夢幻のように妖しく美しく乱舞する蛍たちは、いじらしい湯女たちの化身とも言われています。果たして、音信は無事に届けられたのでしょうか?川面は、ゆらゆらと遷り変わる景色の彩を映すだけで何も語りはしません…。
その伝説は今も受け継がれ、ここを訪れるカップルたちは短冊に想いを託して流していくそうです。その縁ということなのか、長門湯本温泉は「恋人の聖地」としても認定されています。
湯本地区の蛍鑑賞マップです。
http://www.onsen-portal.jp/sozoro/map/onmap078.pdf -
長門湯本温泉 恩湯
長門湯本温泉は、山口県長門市(旧国長門国)にある瑞雲山麓に佇む温泉郷です。温泉街中央を流れる音信川がせせらぐ両岸にはレトロ・モダンな旅館や古風な佇まいの温泉宿が軒を連ね、夏の頃にはゲンジジボタルが幻想的な光芒を放って乱舞し、河鹿が鳴き、素朴でしっとりとした湯の町情緒を漂わせます。
県下では最古の歴史をもつ温泉と言われ、室町時代、大寧寺3世定庵和尚の時、長門一宮住吉明神のお告げで寺の東を掘ったところ、温泉が湧き出し、衆僧が沐浴に使ったことに始まる「神授の湯」です。古くからの湯治場でもあり、江戸時代には湯坪役を納め、温泉を中心とした町が形成されました。
その伝説を裏付けるように、湯本温泉の泉源所有者は大寧寺となっています。 -
長門湯本温泉 恩湯
「神授の湯」の浴場は、2つに分かれ、昔は上の礼湯を武士や僧侶、下の恩湯を一般人が使っていたそうです。現在は、この2つが公衆浴場となっています。
恩湯は、千代橋の袂に瓦屋根のどっしりとした寺院風の破風の構えを見せています。
泉質は、アルカリ性単純温泉、無色透明です。ph9以上ある肌にやわらかなお湯で、化粧水成分に近く「美肌の湯」とも呼ばれています。湯温はぬるめですが、身体の芯から温もり、冬でも湯冷めしにくいのが特徴です。効能は、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復、健康増進など。 -
長門湯本温泉 礼湯
恩湯の左脇にある小さな坂道を少し登った所に礼湯があります。
ここが、1427(応永34)年に、大寧寺住職 定庵禅師が、石の上で修行する住吉大明神と出会い、そのお告げで発見したと伝わる礼湯です。
「温泉湧出の伝説」を紹介しておきましょう。
ある月の明るい夜、定庵禅師が寺の周りを散歩していると、石の上で座禅をしている老人に出会った。老人は「私は長門一の宮の住吉明神です。禅師のお説法が聞きたい。」と言いい、老人はその後、名僧・定庵の説法の席に通い仏道を修めたという。定庵禅師から法衣を贈られた老人は法恩に報いるため、「お礼に温泉を出しておきました。信者や病気の人に利用していただければ幸いです」と告げた。するとたちまち雷鳴が轟き、老人は大きな竜の姿になって雲の上に消えていったと言う。 -
湯本観光ホテル西京
お世話になったホテルです。建て増しをしているため、歪な構造になっています。
今回の旅行は、事前にツアー会社に禁煙ルームの手配をお願いしていたので快適なステイができました。
この続きは、ツアー3日目の早春賦 西国放浪記⑩宮島(山辺の古径・五重塔・豊国神社)にてお届けいたします。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
montsaintmichelさんの関連旅行記
長門市・長門湯本温泉(山口) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
42