2016/03/06 - 2016/03/06
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chiaki-kさん
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2011年3月11日、東日本大震災発生。中華民国外交部はただちに日本政府に30万台湾ドルの義援金を送ることを表明、翌12日には、1億台湾ドル(約2億8000万円)に増額した。13日には被害の拡大により、被災地に援助隊を派遣することを表明。馬英九総統は演説で、日本が台湾中部大地震などで台湾を支援したことに触れ、「我々も同様に積極支援する」と語った。
3月17日・18日には、チャリティー番組が放送され、8億9000万台湾ドル(約24億3000万円)が集まった。3月21日時点の義捐金の合計は15億台湾ドル(約41億円)に、4月1日には100億円を突破した。これは同時期に米国赤十字が発表した同国の金額を上回る。4月15日には140億円を超え、世界各国中、最多(当時)となり、その後、200億円以上となった。結果的には僅かの差でアメリカが最多となったが、方や3億人、これに対して台湾の人口はわずか2,300万人。一人あたり支援金額とすればダントツの世界一と言える。
(Wikipedia参照)
今回台湾へ行くことを思いついたのは、支援に対するお礼と、世界でもトップクラスの親日国、そしてIT大国の台湾をこの目で見たかったのが最大の動機。ちなみに、上空通過やトランジット、緊急着陸などで台湾の空港へ立ち寄ることはあったが上陸するのは初めて。当初は全て自分で手配するつもりだったが、昼便のエアが取れなかった(腕が悪い?)のと、宿泊したかったホテル(コスモスホテル)が予定日満杯だったので、やむをえずH○Sさんの、エア・ホテル・送迎のみ付いたスケルトンツアーを申し込む。
写真は3月7日に撮影した台湾総統府。中華民国の元首および首脳である中華民国総統が執務をおこなう官邸。日本統治時代の1919年に完成した建物で、当時は台湾総督府として利用されていた。1949年、国民党が国共内戦に敗れ、大陸から追われる形で台湾に中華民国の首都機能を移転。以降、中華民国の総統府として利用されるようになった。現在、文化資産保存法により国定古蹟として登録されている。
2024/03/05 一部修正
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- キャセイパシフィック航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
PR
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3/6
14:00、成田空港第2ターミナル72Gにやってきたのはキャセイパシフィック航空CX451便。機種はボーイング777-300ER。 -
尾翼のマークは翼をイメージしたブラッシュ・ストロークと呼ばれるロゴ。英スカイトラックス社による航空会社の格付けで、実質最高評価の「ザ・ワールド・ファイブ・スター・エアラインズ」の認定を得ている。
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CX451の座席モニターには通常のフライトマップに加えて、胴体下から前方を眺めるカメラが設けられており、こんな映像が見られた。まずは第1滑走路に沿ったランプウェイをタクシング。右前方に○○ウド・インターナショナルホテル成田が見える。
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エンジン全開!
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テイクオフ!
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食事は1回のみ。カレーを選択。独特の味付けが良かった。行きは向かい風の影響で4時間のフライト。食後は「アナ雪」初鑑賞。愛の力って姉妹愛だったのね。
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18:50に台湾・桃園国際空港にランディング。イミグレの処理スピードが遅く、久々に1時間近く並んだ。バゲッジを受け取り、迎えのガイドさんとも無事に出会ったまでは良かったが、他のツアーなどでやってくるお客さんまで一緒のバスに乗せるため、さらに1時間近く待たされる。やっと出発したバスは50人近くの混載車で、台北市内に着いてから始まるホテル巡り。そして我々はカンボジア同様、又々最後になってしまった。余談であるが送迎バスの中は若い皆さんで一杯。高齢者は我々だけ・・・
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結局、台北駅近くのコスモスホテルにチェックインしたのは22時過ぎ! 小腹が空いたので夜食を食べにホテルを出るが、この時間には殆どの食堂やレストランは閉まっており、やっているのは夜市、コンビニ、ファーストフード店くらいなので、仕方なく徒歩5分くらいの場所にあったモスバーガーに食らいつく。写真は私が注文した焼き肉をライスで挟んだバーガー(どちらかというと焼き肉おにぎり)。豚肉がどっさりはさんであって、おいしかったです。
この後ホテルに戻り、シャワーを浴びて速攻で睡眠タイム。どこか遠くで「ありの・・・ままの・・・姿みせるのよ〜・・・」が聞こえていたような、いないような・・・・ -
3/7
コスモスホテル1817号室の様子。忠孝西路と隣のビルとの角部屋。ホテルについては口コミをご覧あれ。 -
朝食は3Fにあるダイニングルームでバイキング。
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なんと朝から東土皮肉(トウロンポウ*土と皮は一文字)が・・・思わず2枚GET!
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そしてシェフが目の前で作ってくれたヌードル(名前失念)
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カミさんも大満足の朝食だった。
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台北最初の買い物はこれ、悠遊上下(ヨウヨウカー・Easy Card*上と下は一文字)日本のスイカと同様のチャージ式プリペイドカード。MRT(地下鉄のこと以後MRTと呼ぶ)、バス、入園料、コンビニなどで使用できるすぐれもの。最初MRTのインフォメーションで購入しようとしたが、駅員さんの説明が今いち不明だったので、結局コンビニで購入。カード代100元(台湾ドル:以後元と呼ぶ)に500元をチャージする。
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8:00 ホテル出発。公園路を南下し二・二八和平公園(旧台北公園)へ。
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公園内はこんな感じ。丸いドーム屋根の建物は国立台湾博物館。月曜日は休館。
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かわいいお出迎えが。
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公園の中ほどにある二・二八記念碑。ここで二・二八事件についてスタディ。
概略
二・二八事件は、1947年2月28日に台北市で発生し、その後台湾全土に広がった国民党政権(外省人(中国人))による民衆(本省人(台湾人))弾圧の引き金となった事件。 -
1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が発生。このタバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、台湾人一人を死亡させた。
この事件をきっかけとし、民衆の怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけたが、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行い、多くの市民が殺害された。
写真は記念館前に置かれていた展示物を撮影したもの。 -
本省人側は国民党政府の諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない部族もいたが、「君が代」は全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。「軍艦マーチ」を流しながら日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。
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在台湾行政長官兼警備総司令は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請。「台湾人が反乱を起こした、武力をもってせん滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。
写真の建物は公園内にある二・二八記念館。旧NHK台北放送局。 -
蒋介石はこの内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して、政府部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。
写真は当時の台北放送局。ほとんど現在と変わらない。 -
この事件によって、約28,000人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。
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事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されてきた。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。台湾に「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。
(Wikipedia参照)
写真は犠牲者の写真横にたくさん結びつけられていたカードの一枚。 -
記念館近くにあった「健康歩道」
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カミさんは3歩でギブアップ。
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かわいいお見送りさん登場。
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二・二八和平公園から公園通りを挟んで隣にある建物は台北賓館。日本統治時代に建てた台湾総督官邸。今は迎賓館として利用されている。
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台北賓館から東のロータリーの真ん中に東門がある。正式名称は「景福門」。オリジナルの門は清朝時代に建てられたが、一旦壊された後、1966年に国民党政府によって全く新しく建て替えられた。
ちなみに台北府城には東門・南門・小南門・西門・北門と5つの門と城壁が存在していたが、日本統治時代に北門を除いて城壁と一緒に取り壊されている。 -
こちらは東門と同様に国民党政府によって新しく建て替えられた南門。正式名は「麗正門」。なお時間の都合で小南門へは行かなかった。
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唯一破壊されなかった北門。正式名は「承恩門」。なお、西門は再建されていない。
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1895年6月、基隆に上陸した日本軍はこの門をくぐって台北府城に無血入城した。
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中正祈念堂の正門が見えてきた。
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正門から中正祈念堂を望む。門の額には「自由広場」の文字が。
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広場の中に入るとこんな格好をしているお姉さん達発見。きっと門を支えているトリック写真を撮影しているんだろうね。
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左手にある建物は国家音楽堂。まるで北京にある紫禁城のよう。
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右手の同じような建物は国家戯劇院。
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自由広場の中央にはこんなテント?が。昨晩の夢はこれだったか・・・
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中正祈念堂は中国国民党の蒋介石総統を記念し、1980年に建てられた高さ70mの巨大な建物。階段の数は89段で、蒋介石の享年と同じ。
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内部には大きな蒋介石の像と像を警備する衛兵さんが2人、向かい合っている。
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天井の中央には中華民国の象徴である青天白日が。
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中国服をまとい、ゆったりと椅子に座る蒋介石。
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そしてピクリともしない衛兵さん。
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祈念堂1Fには抗日戦争の歴史を絵画・写真・ジオラマ等により説明したコーナーがある。その中の1枚にこの写真があったが、所謂カイロ会談。
カイロ会談は1943年11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談。(右側の女性は蒋介石夫人の宋美齢)
蒋介石は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
(Wikipedia参照) -
突然「カッ、カッ、カッ」と響く軍靴の音、時刻は10時直前なので衛兵交代式が始まったのだ。ちなみに衛兵さん達は1Fからスタートしエレベータに乗り込んで3Fへ移動し、交代式に臨む。
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ここからは普通に歩いてEVに乗車。一般者は式中、EVの使用が出来ないので右側に見える階段をダッシュで3Fへ。なお、左側に立っている黒スーツの男性は観客の整理をしたり、衛兵の服装を直したりする世話人のような方。想像だが衛兵と同じ兵隊さんでは。
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交代する4人の衛兵と指揮官1人が蒋介石像に敬礼。
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そして退場。この間約10分。次の交代時間まで2人の衛兵さんは身じろぎもせず見張り台の上で固まっている。
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祈念堂から右手を見る。国家音楽堂とビル群が見える。
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左手はこんな感じ。国家戯劇院と正門、そしてアナ雪のテント。
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パノラマで撮影してみる。
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中正祈念堂を出て東側へ移動。目指すは・・・
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皆さんの口コミで評価の高い杭州小籠包。
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11時の開店と同時に入店。後ろからも10人ほど入ってきた。まずはとりあえずビール。
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最初は普通の小籠包
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次はカニ入り小籠包
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ビールのつまみのピータン。どの料理もおいしゅうございました。
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台湾総統府が見えてきた。(再掲)
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写真撮影場所の向かい側に立っているグレーのジャンパーの男性は警備員。総統府は指定した場所以外の撮影は禁止されている。
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冒頭にも記述したが、日本統治時代の1919年に完成した建物で、しかも終戦直前に米軍の空襲で一部破壊されたりしていたが、見事に修復して今日まで使用してもらっている。
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総統府の後ろ側。ここからなら撮影OK。
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西門までやってきた。前方の建物は中山堂。1936年に建てられた旧台北公会堂。1945年の日本敗戦に伴う降伏調印式がここで行われ、同年中華民国政府により台北市中山堂と改称されている。
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中正祈念堂にあった写真を見ると台湾が日本支配から解放された式典もここで行われた。しかし、日本軍に替わって台湾にやってきた国民党軍は質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かった。(国共内戦状態の為、人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られていたこともある)
日本統治時代の台湾では、厳しい同化政策などはあったが、不正は少なく、台湾の経済は日本内地の地方都市を超えて東京と同じ水準だった。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。二・二八事件はそんな背景もあって勃発したのだ。このことを当時の台湾人たちは、「犬去りて、豚来たる」と揶揄した。(Wikipedia参照) -
西門町で一番有名なのが「西門紅楼」。1908年に公衆衛生を管理するための施設として建設されたが、まもなく公営市場へ転用される。当時の扱い品目は多岐にわたり、日用品、生鮮食料品および各種雑貨を販売、さらには飲食店、写真屋、喫茶店も併設されていたという。日本が撤退してからは中国本土からの外省移民が借用し「紅楼劇場」いう名の劇場となり、その後映画館にもなる。現在はカフェ、劇場、ショップの複合施設として、また広場を利用したイベントスペースとしても台北市民に愛されている。
当たり前だが外国人に自分たちの国を統治されることなど嬉しい訳が無い。そんな過去の苦い歴史にもかかわらず、総統府から始まり、迎賓館、中山堂、西門紅楼など日本統治時代の建造物をいつまでも修復しながら大切に使ってもらっている台北市民に、そしてプロローグに記述したとおり東日本大震災へ支援を頂いた台湾国民に、ただ、ただ感謝である。
これで「2016台北旅行記1:ありがとう台湾」は終了です。最後までご覧いただきありがとうございます。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- しろさん 2020/07/31 09:40:14
- ご投票いただきありがとうございます。
- chiaki-kさん初めまして!
私の拙い旅行記にいいねいただきありがとうございました。
chiaki-kさんはあちこち行かれてるんですね!
しかも4トラのメルマガにも載るくらい有名人なんですね。
すごい!尊敬します!!
台湾はまだ2度ほどしか行ったことないのですが、機会があればまた行きたいなーと思いながらなかなか機会が巡ってこないです。
タイメインなもので。。。
また寄らせていただきます。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。
- chiaki-kさん からの返信 2020/08/01 08:22:04
- 一国集中も良いですね
- ・
しろさん、おはようございます。コメントありがとうございます。
> chiaki-kさんはあちこち行かれてるんですね!
このサイトには私より遙かに沢山の国や地域に行かれている方が
大勢いらっしゃいますので、まだまだと思っています。
> しかも4トラのメルマガにも載るくらい・・・
そうなんでか。私はメルマガには登録していませんがどなたかが、
載せてくれたのかな? 今度覗いてみますね。
> タイメインなもので。。。
さきほど、しろさんの旅行履歴を拝見しました。今年は残念でした
が、2014年から毎年タイへ出かけられているようですね。
私は何でも見てやろうという発想なので、上辺だけの旅行になりが
ちなのですが、しろさんのように一国に集中するというのも良い
発想だと思います。
もし、私が一国に決めるのならハワイかなって思っているのですが
このコロナ禍では、いかんともしがたいですね。今は治療薬とワク
チンが一日も早く完成することを祈るばかりです。
> また寄らせていただきます。
> 今後とも何卒よろしくお願いいたします。
こちらこそ、よろしくお願い致します。
chiaki-k
-
- グオさん 2016/03/20 01:42:40
- こちらこそありがとうございます
- こんばんは
台湾人の郭と申します。
先日台南での地震の災害に対して、台湾も日本からの援助をたくさんもらいました。
お蔭様で、台湾人の心が温かくなりました。
こちらこそ誠にありがとうございます。
日本は台湾の友達なので、もし未来の日本が他の困難に遭遇すれば、台湾人たちも必ず応援とお助けをお送り致します。
(こちらの日本語がまだ未熟ですからすみませんね)
- chiaki-kさん からの返信 2016/03/20 08:52:22
- 返礼ありがとうございます
- ・
郭さん、はじめまして。
台湾旅行記に”いいね”をありがとうございます。
また、丁寧な返礼をいただきまして恐縮です。
台湾は初めてお邪魔しましたが、イミグレの担当官
から始まり、ホテル、レストラン、ファースト
フード店、屋台に至るまで片言でも日本語で答え
ようと努力してくれる、こんな国は初めで感激
しました。
2日目(到着翌々日)はあいにくのお天気でしたが
1日目は気持ち良く晴れ、台北府城内のウォーキング
そして九分はとても快適に観光が出来ました。
本当はもっといろいろな場所へ行き、もっとたくさんの
おいしいものを頂きたかったんですが、若い人のまねは
もう出来ないことを悟った旅ともなりました。
そんな訳で今回行けなかったところや、やり残した
ものが沢山、宿題として残ってしまいましたので、
これはもう一度(二・三度?)台湾へ行かなければ
と思っています。
> (こちらの日本語がまだ未熟ですからすみませんね)
とんでもありません、私たちこそ、その地の言葉を
少しは覚えて行かなければいけないのに、つい甘えて
ばかりで申し訳ないような気持ちです。
多謝、台湾。再見。
chiaki-k
-
- TOOさん 2016/03/18 01:11:04
- 初めまして
- こんばんは。TOOと申します。
楽しい旅行記、拝見させていただきました。
桃園空港での送迎バス、すごかったですね。
私どもは、3/5-3/7のツアーでしたが、まったく同じ状況でした(80人、バス2台)。
おじさんおばさんは我々だけで、あとはワカモノ達でした。
ホテルもコスモス、同じタイミングで泊まっていたようですね(笑)
また寄らせてください。
- chiaki-kさん からの返信 2016/03/18 08:04:00
- はじめまして
- ・
TOOさん、はじめまして。
台北旅行記にたくさんの”いいね”をありがとうございます。
旅行時期ですがTOOさんは3月5日から7日、私は6日から9日と
ほぼカブッていますね。しかもエアはキャセイ、ホテルは
コスモス、そしてフリーツアーまで同じとは・・・
~最終日、桃園空港でキャセイのラウンジを堪能~拝見しました。
3月7日の朝、ホテルの朝食会場の写真がありましたが、ちょうど
同じ時間私たちも会場にいました。もしかして写っていないか
と写真を拡大しちゃいましたよ。
*エバーリッチ免税店・・・同じです
*圓山大飯店が見えた・・・同じコースです
*キャセイラウンジ・・・ここが違いました(^^;;
スリに逢ったり、雨にたたられたりしましたが、ハワイ同様
台湾もとても気に入った場所となりましたので、いつかまた
再訪しようかと妄想しています。
では、また。
chiaki-k
-
- わきさん 2016/03/12 12:02:18
- 1947年2/28事件興味深く拝見
- こんにちは。
台北旅行記でも、2・28事件に触れた旅行記は
少ないと思いますので、興味深く拝見致しました。
闇タバコ密売?の女性は、確か林江{まん}?(萬にしんにょうの文字)
と言ったと思います。
気になったのは、
最初の死者である射殺された青年陳文渓という方の出自です。
この陳文渓の兄は、萬華の老鰻(ヤクザ)陳文栄と言われていたことを
思い出しました。
陳兄弟のことについては、資料が殆どなく、
正面から紀念館には登場しないのですが、
台湾史のターニングポイントとなるこの大虐殺が
ヤクザの発案による示威行動が端緒であったという事実
が、紀念館のあり方としては、その意にそぐわないと判断されたのでは
ないかと当方はおもっております。
貴重な旅行記読ませていただき
ありがとうございました。
- chiaki-kさん からの返信 2016/03/13 07:17:50
- ありがとうございます
- ・
わきちゃんさん、こんにちは。
台北旅行記に”いいね”をありがとうございます。
う〜ん、そうなんですね。私の歴史データはほとんど
Wikipediaからいただいたものなのですが、Wikiにも
そこまでの記述は無かったと思います。
> 台北旅行記でも、2・28事件に触れた旅行記は
> 少ないと思いますので・・・
旅行前に皆さんの旅行記を2ヶ月ほど毎日拝見しましたが
グルメ、マッサージ、ホテル関係の記事が多く
歴史的なものが少ないなと思ったので、少々かたい
内容になりましたが、こんな風にまとめてみました。
> 貴重な旅行記読ませていただき
> ありがとうございました。
こちらこそコメントありがとうございました。
このあとは九分、淡水などの旅行記をUPする予定
ですが、よろしければ、続編もご覧ください。
では、また。
chiaki-k
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