2016/01/16 - 2016/01/17
316位(同エリア530件中)
ひま人さん
今回の100名城は、大分県の府内城祉、岡城址から熊本県の熊本城、長崎県の島原城へと九州を東から西へと横断して4城を訪ねました。府内城はJR大分駅から10数分の大分市街の中心に位置する梯郭式平城です。安土桃山時代後期、府内にに12万石で入封した福島直高が築城の始まりです。岡城は、大分県竹田市の天神山(標高325m)に築かれた山城です。城域は東西2500m、南北362m、総面積23万4千平方mの広さでした。伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したのが始まりであるといわれています。
熊本城は熊本市北区植木町から南に伸びる茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。中世に築かれ安土桃山時代後期から江戸時代初期にかけて加藤清正が現在のような姿の城を築きました。日本三名城(大坂城、名古屋城)の一つとされています。
島原城は長崎県島原市街にあり、有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する連郭式平城です。寛永元年(1624年)五条(奈良県)から入封した松倉重政が築城しました。
表紙写真は熊本城大天守と小天守です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JR特急 JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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府内城(ふない)天守台。慶長7年(1602年)に、四重櫓の天守閣が築かれていたが、寛保3年(1743年)の大火により焼失。以後再建されることなく現在に至っています。
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天守台。府内城は府内に12万石で入封した福原直高が築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させました。
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大手門。府内城の玄関口であるため大手門と呼ばれているが、正確には「多聞櫓(たもんやぐら)」という名称です。
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人質櫓。寛保3年(1743年)の大火により、天守をはじめ城内の多くの建物が焼失しました。その後も明和6年(1769年)の大地震、安政元年(1854年)の大地震、昭和20年(1945年)の空襲により、損壊した建物が多く、再建されたものは少なく、江戸時代の建物はこの櫓で文久元年(1861年)に再建さたものです。
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隅櫓。
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廊下橋。かつて茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた山里丸と西の丸を結ぶ渡り廊下です。
大分市発足30周年記念事業である府内城再建事業により、平成7年に復元されました。古絵図に描かれていた、大手門の廊下橋の意匠を元にしています。 -
廊下橋。
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史蹟 岡城阯石碑。文具元年(1185年)緒方惟義が築城したのが始まりです。南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされています。
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岡城跡登城口。
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岡城石垣。
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大手門石垣跡。
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近戸門跡。
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天守台石垣。
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二ノ丸跡。
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三の丸高石垣。
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瀧廉太郎像。後方は九重連山。「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれているため、この像がこの城址に設置されました。
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熊本城西大手門。正門であり復元されたものです。熊本城は54万石の城下町・熊本のシンボルであり、日本三名城の一つと数えられています。現在の城が立つ茶臼山には、中世にすでに千葉城と隈本城があり、出田氏、鹿子氏、城氏、佐々氏と城主を変えた後、天正16年(1588年)に加藤清正を迎えました。清正は、優れた土木治水の技術を発揮し、7年をかけて築城。慶長12年(1607年)のことです。城郭の周囲は5.3km、面積98万?。城内には大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門を備えた堂々たる威容を誇り、加藤家の改易後は、約240年間にわたって細川家の居城となりました。
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南大手門(平成14年復元)。
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大天守。
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大天守・小天守。昭和35年(1960年)鉄筋コンクリート造りで外観復元された大天守と小天守。再建は、古写真や絵地図をもとに瓦の列や枚数など細部まで忠実に行われました。大天守は三層6階で地下1階、高さ30m。二層の千鳥破風の上に唐派風を備え、外壁は各階の軒下部分だけに白壁を配した以外は黒の下見板で囲われ、品格ある重厚な趣を漂わせています。
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武者返しの石垣。天下一流と名を馳せた熊本城の石垣は「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配です。加藤清正が近江国から率いてきた石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が持つ特殊技術を駆使して造られたといわれています。
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本丸御殿昭君の間。加藤清正により創建され、行政の場、歴代藩主の対面所(会見の場)として使われてきたが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失。平成15年から復元工事に入り同20年に完成しました。
中国宮中の物語をモチーフに、絵師とされる狩野言信の筆に基づいた極彩色の障壁画は、下地に金箔を重ね、当時の岩絵具を用いて描かれたものです。 -
本丸御殿昭君の間。
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本丸御殿昭君の間。
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外周からの大天守・小天守・宇土櫓。左の宇土櫓は、西南戦争後にも焼け残った唯一の多層櫓です。三層5階、地下1階からなり、第三の天守ともいわれています。直線的な破風と望楼に廻縁勾欄をめぐらした建築様式で、城内に残る唯一のものです。慶長年間(1596〜1614年)の建物です。国指定重要文化財に指定されています。
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島原城天守閣(復元)。元和4年(1618年)奈良・五条から入封した松倉重政が築城開始、寛永元年(1624年)島原城完成。寛永15年(1638年)高力忠房が4万石で入封。以後、譜代大名が4家入れ替わる。明治7年(1874年)廃城令により、廃城処分となり民間に払下げられる。
昭和39年(1964年)鉄筋コンクリート造りで天守復元。キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となっています。 -
島原城天守閣。
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天守閣・丑寅の櫓。
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丑寅の櫓。
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天草四郎像。
島原の乱:寛永14〜15年(1637〜38年)、初代重政、2代勝家の圧政により島原の乱が起こる。勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。松倉氏は改易となる。約3万の農民が一揆をおこし12万の幕府大名軍と対決したが悲惨な結果となった。
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