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「箕面の滝」は、大阪周辺に住む人たちには身近な紅葉狩りの景勝地です。年間200万人程の観光客が訪れますが、紅葉シーズンにはその4割に当たる80万人が怒涛のごとく押し寄せます。また、遠足で訪れることも多いポピュラーな観光スポットです。箕面の滝は、大阪府北部の箕面市にある約1000haの広さを持つ「明治の森国定公園」の一画にあり、滝がある公園は「箕面公園」と呼ばれて国定公園のランドマーク的存在です。遊歩道(滝道)の最深部に大滝が轟音を放って流れ落ちる様は圧巻です。<br />かつて役行者が滝行で修行した雄大な滝と紅葉のコントラストが美しく、箕面を大阪一の紅葉スポットに押し上げています。瀑布の落差は33m、幅5mあり、四季折々に姿を変える周囲の山々に瀑音が木霊する様は壮観です。その美しさは古来から人々の心を捉えて離さず、大阪府で唯一「日本の滝100選」にも選ばれています。戦国時代には織田信長が鷹狩の途中に立ち寄ったと伝えられています。勢いよく流れ落ちる水が、岩に砕けて腰折る様はとても神秘的です。<br />ガイドマップです。<br />http://kankou.minoh.net/05.html<br />http://www2.citylife-new.com/mino/MAP2.pdf<br />http://midokoro.minoh.net/wp/wp-content/uploads/2013/10/1minohnikitaramazuhakoko.pdf

情緒纏綿 大阪 箕面逍遥①箕面公園<前編>

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2015/12/01 - 2015/12/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

「箕面の滝」は、大阪周辺に住む人たちには身近な紅葉狩りの景勝地です。年間200万人程の観光客が訪れますが、紅葉シーズンにはその4割に当たる80万人が怒涛のごとく押し寄せます。また、遠足で訪れることも多いポピュラーな観光スポットです。箕面の滝は、大阪府北部の箕面市にある約1000haの広さを持つ「明治の森国定公園」の一画にあり、滝がある公園は「箕面公園」と呼ばれて国定公園のランドマーク的存在です。遊歩道(滝道)の最深部に大滝が轟音を放って流れ落ちる様は圧巻です。
かつて役行者が滝行で修行した雄大な滝と紅葉のコントラストが美しく、箕面を大阪一の紅葉スポットに押し上げています。瀑布の落差は33m、幅5mあり、四季折々に姿を変える周囲の山々に瀑音が木霊する様は壮観です。その美しさは古来から人々の心を捉えて離さず、大阪府で唯一「日本の滝100選」にも選ばれています。戦国時代には織田信長が鷹狩の途中に立ち寄ったと伝えられています。勢いよく流れ落ちる水が、岩に砕けて腰折る様はとても神秘的です。
ガイドマップです。
http://kankou.minoh.net/05.html
http://www2.citylife-new.com/mino/MAP2.pdf
http://midokoro.minoh.net/wp/wp-content/uploads/2013/10/1minohnikitaramazuhakoko.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 阪急箕面駅<br />箕面公園へは、阪急電鉄箕面線「箕面」駅が最寄駅になります。阪急「梅田」駅からなら、まず宝塚線に乗車して「石橋」駅で箕面線に乗り換えます。梅田から乗り換え時間を含めて30分程というアクセスのよさも魅力のスポットです。<br />箕面駅の改札口を出て正面の信号を渡ると、箕面大滝まで続く「箕面滝道」の始まりです。駅から箕面大滝までは2.8kmあり、寄り道しなければ40分程で辿り着きます。<br />9:30頃のスタートになりました。

    阪急箕面駅
    箕面公園へは、阪急電鉄箕面線「箕面」駅が最寄駅になります。阪急「梅田」駅からなら、まず宝塚線に乗車して「石橋」駅で箕面線に乗り換えます。梅田から乗り換え時間を含めて30分程というアクセスのよさも魅力のスポットです。
    箕面駅の改札口を出て正面の信号を渡ると、箕面大滝まで続く「箕面滝道」の始まりです。駅から箕面大滝までは2.8kmあり、寄り道しなければ40分程で辿り着きます。
    9:30頃のスタートになりました。

  • 阪急箕面駅<br />何故、終着駅のホームをカーブさせる必要があったのでしょうか?<br />1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道会社によって箕面までの電車が開通しました。往時は現在の終着駅のような折り返し運転ではなく、線路が駅前広場 (ロータリー)を一周してループ状に敷設され、降車場と乗車場は分かれていたそうです。その形から愛称「ラケット線」と呼ばれ、ループの真ん中に箕面公会堂が建ち、広い運動場も併設されていました。線路がカーブしているのはその名残だそうです。<br />どうしてラケット状にしたのかと言えば、往時の鉄道技術では列車の進行方向を変える設備器械を作ることが困難だったからではありません。鉄道会社の創始者 小林一三氏が乗客へのアトラクション効果を狙い、意図的にそのように造らせたのです。降車場には2本の電飾塔も立てられていたそうです。

    阪急箕面駅
    何故、終着駅のホームをカーブさせる必要があったのでしょうか?
    1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道会社によって箕面までの電車が開通しました。往時は現在の終着駅のような折り返し運転ではなく、線路が駅前広場 (ロータリー)を一周してループ状に敷設され、降車場と乗車場は分かれていたそうです。その形から愛称「ラケット線」と呼ばれ、ループの真ん中に箕面公会堂が建ち、広い運動場も併設されていました。線路がカーブしているのはその名残だそうです。
    どうしてラケット状にしたのかと言えば、往時の鉄道技術では列車の進行方向を変える設備器械を作ることが困難だったからではありません。鉄道会社の創始者 小林一三氏が乗客へのアトラクション効果を狙い、意図的にそのように造らせたのです。降車場には2本の電飾塔も立てられていたそうです。

  • 箕面山<br />箕面公園の正式名は「明治の森箕面国定公園」と言い、1967年に東京の高尾山と共に明治100年記念事業として整備された公園のひとつです。1100種の植物と3000種の昆虫が住む「自然の宝庫」でもあり、「森林浴の森100選」にも選ばれています。国定公園に指定されているのは箕面山の山麓に広がる約1000haに及ぶ広大な地域全体ですが、「箕面公園」と呼ばれているのは大阪府が管理している約90haの部分になります。

    箕面山
    箕面公園の正式名は「明治の森箕面国定公園」と言い、1967年に東京の高尾山と共に明治100年記念事業として整備された公園のひとつです。1100種の植物と3000種の昆虫が住む「自然の宝庫」でもあり、「森林浴の森100選」にも選ばれています。国定公園に指定されているのは箕面山の山麓に広がる約1000haに及ぶ広大な地域全体ですが、「箕面公園」と呼ばれているのは大阪府が管理している約90haの部分になります。

  • 「滝の道ゆずる」くんの石像<br />阪急箕面駅を降りると、箕面山が目の前に迫ってきます。そして最初に目に入るのが柚子(ゆず)の形をしたマスコット「滝の道ゆずる」くんです。凛々しい眉毛がチャームポイントです。「柚子」と「譲る」という2つの意味を併せ持ち、4年連続大阪ナンバー1に輝いたゆるキャラです。全国では2011年に9位になったのが最高位です。<br />なぜ箕面で柚子なのと不思議に思われるかもしれませんが、実は箕面は大阪では有数の柚子の産地です。特に箕面特産の柚子は「実生(みしょう)ゆず」と呼ばれる全国的にも珍しい種類のものです。多くの柚子は接木で栽培しますが、実生ゆずは種から育てて足掛け18年の歳月を待って収穫されます。そのため柚子の粒は大きく、甘酸っぱい香りも非常に豊かです。饅頭やサイダー、ソフトクリームなど、水の美味しい箕面ならではの実生ゆずを是非ご賞味ください。<br />石像の左には「東海 自然歩道 西の起点」と書かれた碑が立っています。箕面が東海自然歩道と関係しているとは知りませんでした。

    「滝の道ゆずる」くんの石像
    阪急箕面駅を降りると、箕面山が目の前に迫ってきます。そして最初に目に入るのが柚子(ゆず)の形をしたマスコット「滝の道ゆずる」くんです。凛々しい眉毛がチャームポイントです。「柚子」と「譲る」という2つの意味を併せ持ち、4年連続大阪ナンバー1に輝いたゆるキャラです。全国では2011年に9位になったのが最高位です。
    なぜ箕面で柚子なのと不思議に思われるかもしれませんが、実は箕面は大阪では有数の柚子の産地です。特に箕面特産の柚子は「実生(みしょう)ゆず」と呼ばれる全国的にも珍しい種類のものです。多くの柚子は接木で栽培しますが、実生ゆずは種から育てて足掛け18年の歳月を待って収穫されます。そのため柚子の粒は大きく、甘酸っぱい香りも非常に豊かです。饅頭やサイダー、ソフトクリームなど、水の美味しい箕面ならではの実生ゆずを是非ご賞味ください。
    石像の左には「東海 自然歩道 西の起点」と書かれた碑が立っています。箕面が東海自然歩道と関係しているとは知りませんでした。

  • 久國紅仙堂(ひさくにこうせんどう)<br />箕面駅からスタートして直ぐの所では、「もみじの天ぷら」や柚子のお菓子を売る懐かしい雰囲気のお店が軒を連ねて賑わいを見せています。みかん狩りやいちご狩りとは違い、紅葉狩りは目で愉しむ風流ですが、大阪の箕面は一味違います。関西人には常識となっていますが、他の味覚狩りと同様に、もみじを本当に食べて愛でます。知らない方からすれば、「天下の台所、食い倒れの町はもみじまで食べ尽くすのか」と目を白黒されるかもしれません。富くじ発祥の地でもあり、「運気」を上げる(揚げる)お菓子というキャッチコピーもあります。<br />因みに、「もみじの天ぷら」は、紅葉狩りで有名な京都府の高雄や愛知県の香嵐渓でも販売されているそうです。<br /><br />久國紅仙堂は、今年で創業75年の歴史をもち、箕面銘菓「もみじの天ぷら」をはじめ、お煎餅やクッキーなど箕面らしいお土産が揃っています。天ぷらにできなかったもみじを使って染めた服やバッグなども販売されています。<br />オンラインショップもあるようです。<br />http://www.hisakuni.net/product01.htm

    久國紅仙堂(ひさくにこうせんどう)
    箕面駅からスタートして直ぐの所では、「もみじの天ぷら」や柚子のお菓子を売る懐かしい雰囲気のお店が軒を連ねて賑わいを見せています。みかん狩りやいちご狩りとは違い、紅葉狩りは目で愉しむ風流ですが、大阪の箕面は一味違います。関西人には常識となっていますが、他の味覚狩りと同様に、もみじを本当に食べて愛でます。知らない方からすれば、「天下の台所、食い倒れの町はもみじまで食べ尽くすのか」と目を白黒されるかもしれません。富くじ発祥の地でもあり、「運気」を上げる(揚げる)お菓子というキャッチコピーもあります。
    因みに、「もみじの天ぷら」は、紅葉狩りで有名な京都府の高雄や愛知県の香嵐渓でも販売されているそうです。

    久國紅仙堂は、今年で創業75年の歴史をもち、箕面銘菓「もみじの天ぷら」をはじめ、お煎餅やクッキーなど箕面らしいお土産が揃っています。天ぷらにできなかったもみじを使って染めた服やバッグなども販売されています。
    オンラインショップもあるようです。
    http://www.hisakuni.net/product01.htm

  • 箕面かじかそう<br />老舗旅館のひとつであった河鹿荘の外観雰囲気を残したままリノベーションした落ち着いた趣のカフェイタリアンダイニングです。2012年の秋にリニューアルオープンしました。<br />1953(昭和28)年に建築され、料理旅館として営業されてきましたが、10年程前に廃業し、風情ある建物はその後も撮影のロケ地やアートイベント会場として使用され、滝道を代表する建物として知られていました。この河鹿荘が売りに出されたことから、箕面市が滝道の資源として買い取り、サブリースで有効活用を図っています。現在、こちらを経営しているのはミルクシューのmaimonを展開されている絹株式会社です。<br />http://minoh-kajikasou.com/

    箕面かじかそう
    老舗旅館のひとつであった河鹿荘の外観雰囲気を残したままリノベーションした落ち着いた趣のカフェイタリアンダイニングです。2012年の秋にリニューアルオープンしました。
    1953(昭和28)年に建築され、料理旅館として営業されてきましたが、10年程前に廃業し、風情ある建物はその後も撮影のロケ地やアートイベント会場として使用され、滝道を代表する建物として知られていました。この河鹿荘が売りに出されたことから、箕面市が滝道の資源として買い取り、サブリースで有効活用を図っています。現在、こちらを経営しているのはミルクシューのmaimonを展開されている絹株式会社です。
    http://minoh-kajikasou.com/

  • ゆずるの足湯<br />人波に揉まれながらの山登りでは、足がくたびれてしまいます。そうした思いから、2014年に箕面滝道入口に「ゆずるの足湯」がオープンしました。足湯があるのは、関西ではCMでお馴染みの「箕面温泉スパーガーデン」のエレベータ前です。温泉施設で使っているのと同じ天然温泉を足湯に使い、タオルの自販機も置かれています。<br />歩き疲れた足をお湯に浸してのんびりしていると、身心共に癒されます。泉質は「ナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物泉」で「重曹泉」と呼ばれ、美肌効果があり、足はツルツルのスベスベになります。しかも利用料は無料ですのでそそられます。<br />誰も入っておらず貸切状態ですが、これから大滝まで登らねばならないため、断腸の思いで諦めます。

    ゆずるの足湯
    人波に揉まれながらの山登りでは、足がくたびれてしまいます。そうした思いから、2014年に箕面滝道入口に「ゆずるの足湯」がオープンしました。足湯があるのは、関西ではCMでお馴染みの「箕面温泉スパーガーデン」のエレベータ前です。温泉施設で使っているのと同じ天然温泉を足湯に使い、タオルの自販機も置かれています。
    歩き疲れた足をお湯に浸してのんびりしていると、身心共に癒されます。泉質は「ナトリウム‐炭酸水素塩・塩化物泉」で「重曹泉」と呼ばれ、美肌効果があり、足はツルツルのスベスベになります。しかも利用料は無料ですのでそそられます。
    誰も入っておらず貸切状態ですが、これから大滝まで登らねばならないため、断腸の思いで諦めます。

  • 箕面温泉スパーガーデン<br />かつては、電車の開通に合わせて日本で3番目に開園した箕面動物園がありました。日本最大級の総面積3万坪、延長5kmの回遊式遊歩道が設けられ、ライオンや象、虎はもちろん、火喰い鳥などの珍しい動物もいたそうです。因みに、川端康成著『少年』には、彼が遠足で箕面動物園を訪れたことが記されています。<br /> しかし、1916(大正5)年に動物園は閉鎖され、大型動物は宝塚動物園や天王寺動物園にひきとられました。現在の大江戸温泉物語 「箕面観光ホテル」「箕面温泉スパーガーデン」はその跡地に建ち、動物園の名残が各所で見られます。スパーガーデンまで続く道は動物園の園路と同じ形をしています。また、高層エレベーターの袂には、山をくり抜いて化粧煉瓦を施した獣舎の跡が残っています。

    箕面温泉スパーガーデン
    かつては、電車の開通に合わせて日本で3番目に開園した箕面動物園がありました。日本最大級の総面積3万坪、延長5kmの回遊式遊歩道が設けられ、ライオンや象、虎はもちろん、火喰い鳥などの珍しい動物もいたそうです。因みに、川端康成著『少年』には、彼が遠足で箕面動物園を訪れたことが記されています。
    しかし、1916(大正5)年に動物園は閉鎖され、大型動物は宝塚動物園や天王寺動物園にひきとられました。現在の大江戸温泉物語 「箕面観光ホテル」「箕面温泉スパーガーデン」はその跡地に建ち、動物園の名残が各所で見られます。スパーガーデンまで続く道は動物園の園路と同じ形をしています。また、高層エレベーターの袂には、山をくり抜いて化粧煉瓦を施した獣舎の跡が残っています。

  • 鉄柵のデザインも紅葉をモチーフにしています。<br />箕面市は、面積約50平方km、人口約13万人を擁する町で、人口のほとんどは南部地区に集中しています。1956年に市に制定されてからは、高級住宅地あるいは大阪市のベットタウンとして発展してきました。<br />市のシンボルの木は「イロハモミジ」で、箕面公園にはこのイロハモミジが多いそうです。

    鉄柵のデザインも紅葉をモチーフにしています。
    箕面市は、面積約50平方km、人口約13万人を擁する町で、人口のほとんどは南部地区に集中しています。1956年に市に制定されてからは、高級住宅地あるいは大阪市のベットタウンとして発展してきました。
    市のシンボルの木は「イロハモミジ」で、箕面公園にはこのイロハモミジが多いそうです。

  • 箕面の歴史は古く、遺跡から発掘された土器や石器から縄文時代にまで遡ります。飛鳥時代には修験道の開祖 役行者が、19歳から3年間、箕面の滝で修行したとの記録が残されています。「箕面」駅から滝までは、滝道と呼ばれる自然豊かな滝道を歩いて行きます。大滝までの道中、役行者が建立した修験道の根本道場「瀧安寺」や大聖歓喜天霊場の根本道場である「西江寺」にも足を運べます。また、滝道は癒しの散歩道とも言われ、自然に癒されながら歩くその心地よさが、より箕面の滝の魅力を引き立てているとも言えます。

    箕面の歴史は古く、遺跡から発掘された土器や石器から縄文時代にまで遡ります。飛鳥時代には修験道の開祖 役行者が、19歳から3年間、箕面の滝で修行したとの記録が残されています。「箕面」駅から滝までは、滝道と呼ばれる自然豊かな滝道を歩いて行きます。大滝までの道中、役行者が建立した修験道の根本道場「瀧安寺」や大聖歓喜天霊場の根本道場である「西江寺」にも足を運べます。また、滝道は癒しの散歩道とも言われ、自然に癒されながら歩くその心地よさが、より箕面の滝の魅力を引き立てているとも言えます。

  • 一の橋<br />涼やかな音をたてて流れる箕面川の清流に架けられており、最初に渡る橋ゆえ「一の橋」と呼ばれています。豊かな自然が残る箕面公園への玄関口でもあり、ここから楓のトンネルや杉木立に彩られた遊歩道(滝道)が大滝までうねりながら2.4km続きます。<br />因みに、一の橋から大滝まで手を繋いだまま辿り着けたら、その2人は幸せになれると言われています。

    一の橋
    涼やかな音をたてて流れる箕面川の清流に架けられており、最初に渡る橋ゆえ「一の橋」と呼ばれています。豊かな自然が残る箕面公園への玄関口でもあり、ここから楓のトンネルや杉木立に彩られた遊歩道(滝道)が大滝までうねりながら2.4km続きます。
    因みに、一の橋から大滝まで手を繋いだまま辿り着けたら、その2人は幸せになれると言われています。

  • カフェ&バー 橋本亭<br />一の橋の手前に佇むレトロな3階建ての建物が「橋本亭」です。休憩でもしようかと思ったのですが、次に来た時の愉しみにとっておくことにしました。<br />元々は1910(明治43)年に建てられた旅館でしたが、後継者難や建物の老朽化により閉鎖されてたものをリノベーションしたお洒落なカフェです。店内からは一の橋を行き交う人々の姿や箕面川を眺めながら飲食が味わえます。週替わりでレシピが変わる野菜たっぷりの「美肌ランチ」やオリジナルカレーが人気だそうです。またオーガニックに拘ったスイーツや箕面のオリジナルビール「箕面ビール」もあるようです。<br />橋本亭のHPです。<br />http://www.minohfalls.com/3k7w<br />

    カフェ&バー 橋本亭
    一の橋の手前に佇むレトロな3階建ての建物が「橋本亭」です。休憩でもしようかと思ったのですが、次に来た時の愉しみにとっておくことにしました。
    元々は1910(明治43)年に建てられた旅館でしたが、後継者難や建物の老朽化により閉鎖されてたものをリノベーションしたお洒落なカフェです。店内からは一の橋を行き交う人々の姿や箕面川を眺めながら飲食が味わえます。週替わりでレシピが変わる野菜たっぷりの「美肌ランチ」やオリジナルカレーが人気だそうです。またオーガニックに拘ったスイーツや箕面のオリジナルビール「箕面ビール」もあるようです。
    橋本亭のHPです。
    http://www.minohfalls.com/3k7w

  • カフェ&バー 橋本亭<br />現在は、1階がカフェ、ギャラリー。2階は宴会などに利用できる貸しスペースとして営業しています。金田一耕助シリーズに登場しそうな面構えです。<br />おあつらえ向きに手を繋いだカップルが颯爽と一の橋にやってきました。途中でトイレに行かなければ、大滝まで手を繋いでいそうな雰囲気です。<br />幸多からんことを祈ります!!

    カフェ&バー 橋本亭
    現在は、1階がカフェ、ギャラリー。2階は宴会などに利用できる貸しスペースとして営業しています。金田一耕助シリーズに登場しそうな面構えです。
    おあつらえ向きに手を繋いだカップルが颯爽と一の橋にやってきました。途中でトイレに行かなければ、大滝まで手を繋いでいそうな雰囲気です。
    幸多からんことを祈ります!!

  • 音羽山荘<br />1926(大正15)年建築の大正モダニズムと気品漂うアール・デコ様式が融合したデコモダンをモチーフにした邸宅をリノベーションした、「和モダンなオーベルジュ」をコンセプトにした泊まれる料亭です。玄関から拝見しただけですが、大正時代にタイムスリップしたかのように、日本人の心の琴線に触れる懐かしさとエレガンスさに溢れています。<br />旧き佳き時代の雰囲気に包まれたレストランウェディングも人気だそうです。<br />手前の橋は「聖天橋」です。ここを渡ると聖天宮西江寺〜聖天展望台に至ります。

    音羽山荘
    1926(大正15)年建築の大正モダニズムと気品漂うアール・デコ様式が融合したデコモダンをモチーフにした邸宅をリノベーションした、「和モダンなオーベルジュ」をコンセプトにした泊まれる料亭です。玄関から拝見しただけですが、大正時代にタイムスリップしたかのように、日本人の心の琴線に触れる懐かしさとエレガンスさに溢れています。
    旧き佳き時代の雰囲気に包まれたレストランウェディングも人気だそうです。
    手前の橋は「聖天橋」です。ここを渡ると聖天宮西江寺〜聖天展望台に至ります。

  • 音羽山荘<br />玄関を入った所の中庭を一寸だけ拝見させていただきます。<br />和のテイストに包まれた異空間です。<br />大正ロマン漂う山荘内は、この中庭を挟んで2棟が渡り廊下で結ばれています。

    音羽山荘
    玄関を入った所の中庭を一寸だけ拝見させていただきます。
    和のテイストに包まれた異空間です。
    大正ロマン漂う山荘内は、この中庭を挟んで2棟が渡り廊下で結ばれています。

  • 音羽山荘<br />玄関に吊り下げられたランプもクラシックで素敵です。<br />結婚式を挙げた2人をこの人力車で送りだす趣向でしょうか?

    音羽山荘
    玄関に吊り下げられたランプもクラシックで素敵です。
    結婚式を挙げた2人をこの人力車で送りだす趣向でしょうか?

  • 音羽山荘<br />大正15年から増築を重ねられてこられたこの山荘、ウェディングだけではなく、カフェスペースや温泉、宿泊施設も揃っています。<br />このように滝道に沿って建てられているため被写体にはうってつけです。<br />山荘のHPではアール・デコ調を売りにされていますが、こうした和風建築をアール・デコと呼んでしまうのはいかにも現代感覚と言えます。

    音羽山荘
    大正15年から増築を重ねられてこられたこの山荘、ウェディングだけではなく、カフェスペースや温泉、宿泊施設も揃っています。
    このように滝道に沿って建てられているため被写体にはうってつけです。
    山荘のHPではアール・デコ調を売りにされていますが、こうした和風建築をアール・デコと呼んでしまうのはいかにも現代感覚と言えます。

  • 梅屋敷(大阪府営休憩所)<br />明治20年頃に箕面公園に茶店が立ち始めました。1910(明治43)年に電車が開通し、茶店や料亭が50店程に増えました。梅屋敷もその前年に開業し、隣に梅林があったことが由来で「梅屋敷」と名付けられ、藁葺屋根と網代(あじろ)天井の数寄屋造りが特徴でした。<br />その後、1921(大正10)年に経営者が建物を大阪府に寄贈して有料休憩所として解放され、ぜんざい、おはぎ、おしるこなどでもてなし、句会やお茶会の会場にも利用されてきました。2002年には無人になって老朽化が進んだため解体が決まりましたが、保存を求める声が起こり、2006年にリノベーションを行って無料休憩所として復活させています。<br />

    梅屋敷(大阪府営休憩所)
    明治20年頃に箕面公園に茶店が立ち始めました。1910(明治43)年に電車が開通し、茶店や料亭が50店程に増えました。梅屋敷もその前年に開業し、隣に梅林があったことが由来で「梅屋敷」と名付けられ、藁葺屋根と網代(あじろ)天井の数寄屋造りが特徴でした。
    その後、1921(大正10)年に経営者が建物を大阪府に寄贈して有料休憩所として解放され、ぜんざい、おはぎ、おしるこなどでもてなし、句会やお茶会の会場にも利用されてきました。2002年には無人になって老朽化が進んだため解体が決まりましたが、保存を求める声が起こり、2006年にリノベーションを行って無料休憩所として復活させています。

  • 梅屋敷(大阪府営休憩所)<br />1910年にここで全国素人囲碁大会が開かれ、碁会所の発祥地となったことはあまり知られていないようです。<br />そしてこんな立派な休憩所ですが、お屋敷のある位置はまだ疲れるほど歩いた所ではないため、ほとんどの方が素通りされてしまいます。そもそもここがどんな場所なのか知られていないのでは???

    梅屋敷(大阪府営休憩所)
    1910年にここで全国素人囲碁大会が開かれ、碁会所の発祥地となったことはあまり知られていないようです。
    そしてこんな立派な休憩所ですが、お屋敷のある位置はまだ疲れるほど歩いた所ではないため、ほとんどの方が素通りされてしまいます。そもそもここがどんな場所なのか知られていないのでは???

  • 梅屋敷(大阪府営休憩所)<br />網代天井が茶店の雰囲気を醸しています。<br />屋根は、現在トタンで覆っているようです。

    梅屋敷(大阪府営休憩所)
    網代天井が茶店の雰囲気を醸しています。
    屋根は、現在トタンで覆っているようです。

  • 一汁ニ菜 うえの 箕面店<br />紅葉は遊歩道を入ってすぐの1982年竣工の「一の橋」付近から最深部にある滝までの2km以上に亘って愛でることができます。滝へは山を登って行くため、単純に考えると標高が高い滝の周辺から紅葉が始まり、徐々に麓に降りてくると思ってしまうのですが、ここでは何故か麓から紅葉が始まります。標高差があると言ってもそれほどではないため、陽当たりや樹木の種類などの条件が影響しているのだと思われます。ですから、麓の散り紅葉を見て落胆したりしないでください。<br />この日も滝道の起点付近では散り初めていましたが、滝からさらに登った一目千本周辺では見頃を迎えていました。特に一目千本からの太陽の光を通して見る「透かし紅葉」の美しさは絶品です。さすがに紅葉名所として上位に挙げられるだけのことはあるなと実感できるスポットです。

    一汁ニ菜 うえの 箕面店
    紅葉は遊歩道を入ってすぐの1982年竣工の「一の橋」付近から最深部にある滝までの2km以上に亘って愛でることができます。滝へは山を登って行くため、単純に考えると標高が高い滝の周辺から紅葉が始まり、徐々に麓に降りてくると思ってしまうのですが、ここでは何故か麓から紅葉が始まります。標高差があると言ってもそれほどではないため、陽当たりや樹木の種類などの条件が影響しているのだと思われます。ですから、麓の散り紅葉を見て落胆したりしないでください。
    この日も滝道の起点付近では散り初めていましたが、滝からさらに登った一目千本周辺では見頃を迎えていました。特に一目千本からの太陽の光を通して見る「透かし紅葉」の美しさは絶品です。さすがに紅葉名所として上位に挙げられるだけのことはあるなと実感できるスポットです。

  • 一汁ニ菜 うえの 箕面店<br />大正15年築の建物をリノベーションした、「ミシュラン ガイド2012年版」で2つ星を獲得した料亭です。関西2014年版では、1つ星を落としています。1日に昼・夜共、各3組限定の完全予約制だそうですので、数ヵ月先まで予約が埋まっているようです。<br />もし谷崎潤一郎が生きていたら、贔屓にして小説の舞台にしていたかもしれません。そんな風に思わせる和の名店です。

    一汁ニ菜 うえの 箕面店
    大正15年築の建物をリノベーションした、「ミシュラン ガイド2012年版」で2つ星を獲得した料亭です。関西2014年版では、1つ星を落としています。1日に昼・夜共、各3組限定の完全予約制だそうですので、数ヵ月先まで予約が埋まっているようです。
    もし谷崎潤一郎が生きていたら、贔屓にして小説の舞台にしていたかもしれません。そんな風に思わせる和の名店です。

  • 一汁ニ菜 うえの 箕面店<br />目に鮮やかな真紅の紅葉があります。<br />料理は高嶺(高値)の花ですので、せめて紅葉だけでも愛でさせていただきます。

    一汁ニ菜 うえの 箕面店
    目に鮮やかな真紅の紅葉があります。
    料理は高嶺(高値)の花ですので、せめて紅葉だけでも愛でさせていただきます。

  • 夫婦橋<br />梅屋敷を通り過ぎると連続して2つの橋が架けられています。<br />S字状に屈曲している箕面川をバイパスする近道として架けられた二の橋とその奥の三の橋をセットで夫婦橋と呼んでいます。<br />

    夫婦橋
    梅屋敷を通り過ぎると連続して2つの橋が架けられています。
    S字状に屈曲している箕面川をバイパスする近道として架けられた二の橋とその奥の三の橋をセットで夫婦橋と呼んでいます。

  • 躑躅原<br />手前の二の橋を渡って右の山側を見ると、そこに「躑躅原」と彫られた石柱がものうげに立っています。ここから見るこんもりした所が、かつての「つつじ山」です。この辺たりにはツツジが茂っていたそうですが、現在は木々が繁茂して陽当たりが悪くなったため、ツツジが絶滅してしまい、その片鱗すら見受けられません。<br />この石柱だけが往時の姿を偲ばせています。

    躑躅原
    手前の二の橋を渡って右の山側を見ると、そこに「躑躅原」と彫られた石柱がものうげに立っています。ここから見るこんもりした所が、かつての「つつじ山」です。この辺たりにはツツジが茂っていたそうですが、現在は木々が繁茂して陽当たりが悪くなったため、ツツジが絶滅してしまい、その片鱗すら見受けられません。
    この石柱だけが往時の姿を偲ばせています。

  • 散り紅葉とまだこれから盛りになる紅葉の美しい競演です。

    散り紅葉とまだこれから盛りになる紅葉の美しい競演です。

  • 森秀次像<br />夫婦橋を渡った所に箕面公園の生みの親と称される森秀次の銅像があります。和泉市に生まれ、池田市の医師の養子に入り、1895(明治28)年に40歳で府会議員になるや箕面山の府立公園化に奔走し、その3年後にそれを実現させました。その後衆議院議員となり、政界で活躍し、1925(大正15)年に没しました。この銅像は、1930(昭和5)年にその功績と人徳を讃えて所縁の地の箕面公園内に立てられました。<br />像の題字が浜口雄幸の筆であることも注目されています。浜口は当時の総理大臣でしたが、これを書いて暫くした後、凶弾に倒れました。気骨ある政治家かつ平和主義者でした。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、金の輸出解禁や軍縮などを断行した総理大臣として日本史の授業で教わりました。1930(昭和5)年、浜口は出張で西下する際、東京駅プラットホームで愛国社社員の放った凶弾に倒れました。一命はとりとめますが、翌年に傷がもとで永眠しました。『随感録』では、凶弾に倒れた時のことを冷静に振り返り、また、政治家としての思いの丈を綴っています。決して暗殺を恐れず、政治家として国を正しい方向へと導き、日本を豊かな平和な国にしようという抱負も述べています。この本に接し、政治家としての偉大さと同時に明治生まれの男の凄みに身震いした記憶があります。何が起ころうと、自らの命を顧みずに国のために奉じるという武士道精神を垣間見た気がしました。どこかの総理大臣に爪の垢を煎じて飲ませたい気分です。<br />因みに、雄幸とは妙な名ですが、実は幸雄と付けるつもりが、役所に届ける時に父親が酒に酔って順番を間違ってしまったそうです。「鳶が鷹を生む」とはこういうことでしょうか???

    森秀次像
    夫婦橋を渡った所に箕面公園の生みの親と称される森秀次の銅像があります。和泉市に生まれ、池田市の医師の養子に入り、1895(明治28)年に40歳で府会議員になるや箕面山の府立公園化に奔走し、その3年後にそれを実現させました。その後衆議院議員となり、政界で活躍し、1925(大正15)年に没しました。この銅像は、1930(昭和5)年にその功績と人徳を讃えて所縁の地の箕面公園内に立てられました。
    像の題字が浜口雄幸の筆であることも注目されています。浜口は当時の総理大臣でしたが、これを書いて暫くした後、凶弾に倒れました。気骨ある政治家かつ平和主義者でした。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、金の輸出解禁や軍縮などを断行した総理大臣として日本史の授業で教わりました。1930(昭和5)年、浜口は出張で西下する際、東京駅プラットホームで愛国社社員の放った凶弾に倒れました。一命はとりとめますが、翌年に傷がもとで永眠しました。『随感録』では、凶弾に倒れた時のことを冷静に振り返り、また、政治家としての思いの丈を綴っています。決して暗殺を恐れず、政治家として国を正しい方向へと導き、日本を豊かな平和な国にしようという抱負も述べています。この本に接し、政治家としての偉大さと同時に明治生まれの男の凄みに身震いした記憶があります。何が起ころうと、自らの命を顧みずに国のために奉じるという武士道精神を垣間見た気がしました。どこかの総理大臣に爪の垢を煎じて飲ませたい気分です。
    因みに、雄幸とは妙な名ですが、実は幸雄と付けるつもりが、役所に届ける時に父親が酒に酔って順番を間違ってしまったそうです。「鳶が鷹を生む」とはこういうことでしょうか???

  • シホウチク(四方竹)<br />銅像の後方の斜面に生える竹は、「シホウチク」と言う珍しい種類の竹だそうです。筍は秋に収穫されて食用となり、茎断面が四角いイネ目イネ科タケ亜科シホウチク属、中国原産の常緑多年草です。節の周りに短いイボのような棘(気根)があります。<br />ピントが合っていないので外観では判り難いと思いますが、手で触ってみると確かに角を丸めた四角形をしています。

    シホウチク(四方竹)
    銅像の後方の斜面に生える竹は、「シホウチク」と言う珍しい種類の竹だそうです。筍は秋に収穫されて食用となり、茎断面が四角いイネ目イネ科タケ亜科シホウチク属、中国原産の常緑多年草です。節の周りに短いイボのような棘(気根)があります。
    ピントが合っていないので外観では判り難いと思いますが、手で触ってみると確かに角を丸めた四角形をしています。

  • 時雨<br />元祖「一の橋」の橋柱は、滝道の要所でリサイクルされています。時雨の広場、瀧安寺参道鳥居の手前、修業の古場の3ヶ所です。<br />表には「名勝箕面山」と書かれていますが、背面を見ると「一之橋」や「いちのはし」の文字がかすかに読み取れます。老朽化した橋を架け替える際、この橋柱に「名勝箕面山」を彫り加えて設置したものと思われます。残りの1本は所在不明のようです。

    時雨
    元祖「一の橋」の橋柱は、滝道の要所でリサイクルされています。時雨の広場、瀧安寺参道鳥居の手前、修業の古場の3ヶ所です。
    表には「名勝箕面山」と書かれていますが、背面を見ると「一之橋」や「いちのはし」の文字がかすかに読み取れます。老朽化した橋を架け替える際、この橋柱に「名勝箕面山」を彫り加えて設置したものと思われます。残りの1本は所在不明のようです。

  • 時雨<br />裏側を覗くと、かろうじて「一之橋」と読めます。<br />確かに年季が入っています。

    時雨
    裏側を覗くと、かろうじて「一之橋」と読めます。
    確かに年季が入っています。

  • 野村泊月(のむらはくげつ)の句碑<br />昆虫館の手前には、野村泊月の句碑「椎の花八重立つ雲の如くにも」があります。<br />泊月は、1922(大正11)年に「山茶花」を創刊し、花鳥諷詠を主とした写生と実作主義を貫いた俳人です。後に高浜虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』派の重鎮となっています。この句は、1948年(66歳)の初夏に瀧安寺にて詠んだ句です。椎の花は5月の新緑の頃に咲き誇ります。瀧安寺を中心に箕面山には数多くの椎の大木があり、その季節には山肌はクリーム色の花に覆われます。滝道から山を見上げ、椎の花が幾重にも重なり、雲が湧くように見える情景を詠んでいます。<br />句碑の背後には荒々しい活断層の露頭が見えます。このように活断層の露頭が剥き出しになっているのは珍しいそうです。この断層は、有馬西部から高槻の東部に至る約55kmの間を走る「有馬−高槻構造線」と呼ばれる活断層帯の一部が露頭したものです。この断層が活動した直近の地震が約400年前の1596(慶長元)年に起こった慶長伏見大地震です。この地震では豊臣秀吉がその2年前に建てたばかりの伏見城天守閣が一瞬にして崩落し、秀吉は建て直す気力さえ失ったと言われています。この大地震では北摂地域も壊滅的な被害を受け、そのため箕面ではこの時代以前の木造建築物はほとんど残っていません。<br />尚、その400年後の1995年に起きた阪神淡路大震災は、この構造線のすぐ西隣で起きました。<br />

    野村泊月(のむらはくげつ)の句碑
    昆虫館の手前には、野村泊月の句碑「椎の花八重立つ雲の如くにも」があります。
    泊月は、1922(大正11)年に「山茶花」を創刊し、花鳥諷詠を主とした写生と実作主義を貫いた俳人です。後に高浜虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』派の重鎮となっています。この句は、1948年(66歳)の初夏に瀧安寺にて詠んだ句です。椎の花は5月の新緑の頃に咲き誇ります。瀧安寺を中心に箕面山には数多くの椎の大木があり、その季節には山肌はクリーム色の花に覆われます。滝道から山を見上げ、椎の花が幾重にも重なり、雲が湧くように見える情景を詠んでいます。
    句碑の背後には荒々しい活断層の露頭が見えます。このように活断層の露頭が剥き出しになっているのは珍しいそうです。この断層は、有馬西部から高槻の東部に至る約55kmの間を走る「有馬−高槻構造線」と呼ばれる活断層帯の一部が露頭したものです。この断層が活動した直近の地震が約400年前の1596(慶長元)年に起こった慶長伏見大地震です。この地震では豊臣秀吉がその2年前に建てたばかりの伏見城天守閣が一瞬にして崩落し、秀吉は建て直す気力さえ失ったと言われています。この大地震では北摂地域も壊滅的な被害を受け、そのため箕面ではこの時代以前の木造建築物はほとんど残っていません。
    尚、その400年後の1995年に起きた阪神淡路大震災は、この構造線のすぐ西隣で起きました。

  • 箕面川<br />石積みの堰のたおやかな流れが白糸を彷彿とさせます。

    箕面川
    石積みの堰のたおやかな流れが白糸を彷彿とさせます。

  • 箕面川<br />波立たない水面には、逆さ紅葉も味わえます。

    箕面川
    波立たない水面には、逆さ紅葉も味わえます。

  • 紅葉橋<br />瀧安寺公園の東側に紅葉橋が架かっています。橋の向こう側は化石谷へ続く500段程の石段が続く険しい登りになっており、そこを登り切ると望海丘展望台へ出られます。この展望台以外にも西江寺のさらに上にも聖天展望台がありますが、ネット情報ではそちらの方が大阪平野の広い範囲が見渡せるようです。

    紅葉橋
    瀧安寺公園の東側に紅葉橋が架かっています。橋の向こう側は化石谷へ続く500段程の石段が続く険しい登りになっており、そこを登り切ると望海丘展望台へ出られます。この展望台以外にも西江寺のさらに上にも聖天展望台がありますが、ネット情報ではそちらの方が大阪平野の広い範囲が見渡せるようです。

  • 箕面山瀧安寺(ろうあんじ)<br />修験道聖護院派天台系の寺院です。寺伝によれば、658年(一説には650年)に役小角(えんの おづの)が箕面滝の下に草庵を創建し、本尊の滝の神格「弁財天」像を安置して「箕面寺」と命名したのが始まりです。役行者は伝説の呪術師と言われ、七福神の一神の弁財天から啓示を受けて箕面の滝で修業しました。お寺に祀られている弁財天は水の神格で、古代インドの河の女神「サラスヴァティ」と同格です。竹生島や江ノ島、厳島と共に四弁財天のひとつとして知られ、その中でも最古と言われています。平安時代、後白河天皇が編纂した『梁塵秘抄』には、「聖のすみかは何処何処ぞ 箕面よ勝尾よ」と詠まれています。後醍醐天皇が隠岐に島流しになった際には、護良親王がこのお寺に帰還祈祷を依頼したとも伝わり、その後後醍醐天皇から「瀧安寺」という寺号を賜り改名しています。堂塔が織田信長によって焼き討ちされたとの伝承もありましたが、現在では『信長公記』の記述から否定され、慶長伏見大地震によって崩壊したと考えられています。その後、後水尾天皇の援助によって現在地に再建されました。<br />その他、山岳霊場としても栄え、空海や日蓮、蓮如が修行した他、現在も護摩法要が行われています。

    箕面山瀧安寺(ろうあんじ)
    修験道聖護院派天台系の寺院です。寺伝によれば、658年(一説には650年)に役小角(えんの おづの)が箕面滝の下に草庵を創建し、本尊の滝の神格「弁財天」像を安置して「箕面寺」と命名したのが始まりです。役行者は伝説の呪術師と言われ、七福神の一神の弁財天から啓示を受けて箕面の滝で修業しました。お寺に祀られている弁財天は水の神格で、古代インドの河の女神「サラスヴァティ」と同格です。竹生島や江ノ島、厳島と共に四弁財天のひとつとして知られ、その中でも最古と言われています。 平安時代、後白河天皇が編纂した『梁塵秘抄』には、「聖のすみかは何処何処ぞ 箕面よ勝尾よ」と詠まれています。後醍醐天皇が隠岐に島流しになった際には、護良親王がこのお寺に帰還祈祷を依頼したとも伝わり、その後後醍醐天皇から「瀧安寺」という寺号を賜り改名しています。堂塔が織田信長によって焼き討ちされたとの伝承もありましたが、現在では『信長公記』の記述から否定され、慶長伏見大地震によって崩壊したと考えられています。その後、後水尾天皇の援助によって現在地に再建されました。
    その他、山岳霊場としても栄え、空海や日蓮、蓮如が修行した他、現在も護摩法要が行われています。

  • 山本珈琲館<br />瀧安寺を過ぎると、右手にテラス席の白いテーブルと椅子が印象的なお店が見えてきます。高原に佇む洋館のイメージに「ここは何処?」状態に陥ります。1950(昭和25)年創業の老舗珈琲メーカー「山本珈琲株式会社」が経営し、種類豊富なコーヒーの味は定評です。<br />窓からは箕面川や紅葉の景色を眺めることができ、川のせせらぎや森の風情を感じながら飲むコーヒーは贅沢な味わいです。お勧めは、マイルドコーヒーです。その名の通り優しい味わいが、口の中に滑らかに広がり、香りも優しいコーヒーです。滝道の中間地点手前にありますので、休憩には丁度いいかもしれません。

    山本珈琲館
    瀧安寺を過ぎると、右手にテラス席の白いテーブルと椅子が印象的なお店が見えてきます。高原に佇む洋館のイメージに「ここは何処?」状態に陥ります。1950(昭和25)年創業の老舗珈琲メーカー「山本珈琲株式会社」が経営し、種類豊富なコーヒーの味は定評です。
    窓からは箕面川や紅葉の景色を眺めることができ、川のせせらぎや森の風情を感じながら飲むコーヒーは贅沢な味わいです。お勧めは、マイルドコーヒーです。その名の通り優しい味わいが、口の中に滑らかに広がり、香りも優しいコーヒーです。滝道の中間地点手前にありますので、休憩には丁度いいかもしれません。

  • まだこれから紅葉する楓もあります。

    まだこれから紅葉する楓もあります。

  • 陽を浴びて黄金色に光り輝く紅葉です。

    陽を浴びて黄金色に光り輝く紅葉です。

  • この時期に紅葉のグラデーションが見られるとは今年はラッキーな年です。

    この時期に紅葉のグラデーションが見られるとは今年はラッキーな年です。

  • 覆いかぶさってくるような妖艶な紅葉です。

    覆いかぶさってくるような妖艶な紅葉です。

  • 野口英世像<br />滝までの中間点辺りに、世界の医聖 野口英世の像が左手の丘の上に見えます。<br />「野口英世像」の標識があったら川側に寄って上の方を仰ぎ見てください。かなりの高台に立てられているため、気付かずに通り過ぎる方も多いようです。<br />では、標識に従って坂を登ってみることにしましょう。

    野口英世像
    滝までの中間点辺りに、世界の医聖 野口英世の像が左手の丘の上に見えます。
    「野口英世像」の標識があったら川側に寄って上の方を仰ぎ見てください。かなりの高台に立てられているため、気付かずに通り過ぎる方も多いようです。
    では、標識に従って坂を登ってみることにしましょう。

  • 野口英世像<br />結構高台にあるため、紅葉を見下ろすことができます。<br />息を切らせて登って来た甲斐がありました。

    野口英世像
    結構高台にあるため、紅葉を見下ろすことができます。
    息を切らせて登って来た甲斐がありました。

  • 野口英世像<br />会津磐梯山の麓の貧農に生まれ、大阪とは直接関係のない野口博士の銅像が、何故箕面公園にあるのでしょうか?<br />1915年、野口英世は15年に亘る米国留学から一時帰国し、年老いた母 シカを箕面の滝へ連れて行って孝養しました。世界的に有名になった英世を歓迎しようと滝道の料亭「琴の家(ことのや)」では豪華な料理を振る舞い、日本三名妓のひとりと称された富田屋の八千代達が踊りを披露しました。しかし、そんな舞妓達には目もくれず、自ら箸をとって料理を母親の口に運び、人目を憚ることもなく老いた母親をかいがいしく労わる博士の孝行の姿は皆の涙を誘ったそうです。そんな母親思いの英世の姿に女将の妹 南川光枝は心を打たれ、所有する土地を処分して50万円を工面し、心ある人たちにも寄付を募って箕面市や地元民に働きかけ銅像の制作に至りました。そして、1955年、生前の偉業とその崇高な人格を讃えて設立されました。<br />この時、英世はすでにこの世を去っていました。ガーナで黄熱病の研究中に感染して殉職したのです。銅像は横浜で制作され、川西までは汽車、そこから牛車を使って現在の箕面駅付近まで運び、そこからは紅白の綱を子供たちが力一杯曳き上げたそうです。

    野口英世像
    会津磐梯山の麓の貧農に生まれ、大阪とは直接関係のない野口博士の銅像が、何故箕面公園にあるのでしょうか?
    1915年、野口英世は15年に亘る米国留学から一時帰国し、年老いた母 シカを箕面の滝へ連れて行って孝養しました。世界的に有名になった英世を歓迎しようと滝道の料亭「琴の家(ことのや)」では豪華な料理を振る舞い、日本三名妓のひとりと称された富田屋の八千代達が踊りを披露しました。しかし、そんな舞妓達には目もくれず、自ら箸をとって料理を母親の口に運び、人目を憚ることもなく老いた母親をかいがいしく労わる博士の孝行の姿は皆の涙を誘ったそうです。そんな母親思いの英世の姿に女将の妹 南川光枝は心を打たれ、所有する土地を処分して50万円を工面し、心ある人たちにも寄付を募って箕面市や地元民に働きかけ銅像の制作に至りました。そして、1955年、生前の偉業とその崇高な人格を讃えて設立されました。
    この時、英世はすでにこの世を去っていました。ガーナで黄熱病の研究中に感染して殉職したのです。銅像は横浜で制作され、川西までは汽車、そこから牛車を使って現在の箕面駅付近まで運び、そこからは紅白の綱を子供たちが力一杯曳き上げたそうです。

  • 野口英世像<br />何故わざわざこんな高台に銅像を立てたのでしょうか?<br />恐らく、母親孝行をした「琴の家」をいつも見下ろせるようにとの思いが込められているのだと思います。<br />九十九折の急坂を登っていなかったら気付けなかったかもしれません。<br />眼下に屋根だけ見えている建物が「琴の家」です。現在は、某企業の保養所になっています。

    野口英世像
    何故わざわざこんな高台に銅像を立てたのでしょうか?
    恐らく、母親孝行をした「琴の家」をいつも見下ろせるようにとの思いが込められているのだと思います。
    九十九折の急坂を登っていなかったら気付けなかったかもしれません。
    眼下に屋根だけ見えている建物が「琴の家」です。現在は、某企業の保養所になっています。

  • 野口英世像<br />躍動感が漲る紅葉です。この辺りは、まだこれから盛りを迎えそうです。<br />野口英世像がある所は、箕面駅と大滝のほぼ中間点です。<br />まだ中間点と思うか、もう中間点かと思うか、人それぞれです。

    野口英世像
    躍動感が漲る紅葉です。この辺りは、まだこれから盛りを迎えそうです。
    野口英世像がある所は、箕面駅と大滝のほぼ中間点です。
    まだ中間点と思うか、もう中間点かと思うか、人それぞれです。

  • 落合谷トンネル<br />トンネルを抜けてその先の落合橋を渡ると五月山方面へ行くことができます。<br />橋の傍らには、何やら石碑のようなものが立っています。<br />滝へ向かうルートからは外れますので注意してください。

    落合谷トンネル
    トンネルを抜けてその先の落合橋を渡ると五月山方面へ行くことができます。
    橋の傍らには、何やら石碑のようなものが立っています。
    滝へ向かうルートからは外れますので注意してください。

  • 修業の古場(しゅげのこば)手前の滝道右岸の最も急な登り坂です。<br />でも前方を仰ぎ見ると、黄葉紅葉を借景に柿がたわわに実っています。<br />露光を+1.5に設定し、カメラ女子風のソフトなふんわりしたタッチにしてみました。

    修業の古場(しゅげのこば)手前の滝道右岸の最も急な登り坂です。
    でも前方を仰ぎ見ると、黄葉紅葉を借景に柿がたわわに実っています。
    露光を+1.5に設定し、カメラ女子風のソフトなふんわりしたタッチにしてみました。

  • 修業の古場<br />急坂を登りきったところを左にカーブした所が修業の古場です。ここは多くの修験者が活動していた頃には修験場だった場所ですが、現在は修験場の面影を窺い知ることはできません。<br />一寸した茶店とトイレがあり、小休止の場になっています。

    修業の古場
    急坂を登りきったところを左にカーブした所が修業の古場です。ここは多くの修験者が活動していた頃には修験場だった場所ですが、現在は修験場の面影を窺い知ることはできません。
    一寸した茶店とトイレがあり、小休止の場になっています。

  • 木漏れ日を浴びた美しい紅葉です。

    木漏れ日を浴びた美しい紅葉です。

  • 長左衛門谷<br />谷の名の由来は、江戸時代、勝尾寺古参道の町石を寄進した大坂淡路町の小嶋屋長左衛門と言われています。かつて観光馬車が滝道を走っていた頃は馬の水飲み場だったそうですが、現在は水は湧いていません。<br />昔は料亭「つるや」(現在はマンション)前から滝見橋まで馬に曳かれた観光馬車が走っていたそうです。修業の古場(しゅげのこば)手前の急坂では、満員のお客を乗せてムチで叩かれて蹄から火花を散らして登ったそうです。しかし、動物愛護や衛生面の問題もあり、1983年に観光馬車は廃止になりました。<br />因みに、馬の品種は「ペルシュロン」だったようです。この馬種はフランスのペルシュ地方で改良された馬で、大型で体躯は太く、重荷を曳くのに適し、国産のブネトン種と共に代表的な曳き馬のひとつです。<br />

    長左衛門谷
    谷の名の由来は、江戸時代、勝尾寺古参道の町石を寄進した大坂淡路町の小嶋屋長左衛門と言われています。かつて観光馬車が滝道を走っていた頃は馬の水飲み場だったそうですが、現在は水は湧いていません。
    昔は料亭「つるや」(現在はマンション)前から滝見橋まで馬に曳かれた観光馬車が走っていたそうです。修業の古場(しゅげのこば)手前の急坂では、満員のお客を乗せてムチで叩かれて蹄から火花を散らして登ったそうです。しかし、動物愛護や衛生面の問題もあり、1983年に観光馬車は廃止になりました。
    因みに、馬の品種は「ペルシュロン」だったようです。この馬種はフランスのペルシュ地方で改良された馬で、大型で体躯は太く、重荷を曳くのに適し、国産のブネトン種と共に代表的な曳き馬のひとつです。

  • 石子詰<br />石子詰は罪人を生きながら穴に入れ、その上に小石などを詰めて埋め殺す刑罰として中近世に血を見ることを嫌った社寺の私刑として行われたものです。しかし、本当にここで石子詰という凄惨な刑が行われたのかどうか、何の記録も残っていないそうです。お寺の境内でもないし、かつては山道だったはずの所です。この辺りには大きな石がゴロゴロしているため、こんな名前が付けられたのかも知れません。<br />奈良 興福寺に石子詰の話が伝わっています。菩提院大御堂で13歳の三作という少年が誤って春日の神鹿を殺したため、石子詰になった話です。江戸時代、寺子屋で習字の手習いをしていた三作が一寸目を離した隙に、鹿が草子をくわえて逃げ出したのです。草子をとり返そうとして三作が投げた文鎮が運悪く鹿の急所に命中し、そのまま息絶えてしまいました。往時、春日大社の鹿は神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があったため、鹿を殺した三作は掘られた井戸の中で石と瓦で生き埋めにされました。<br />母親は、三作の霊を弔うために朝な夕なに鐘を撞いて供養しました。すると49日目に墓の上に観音様が立たれたそうです。そして子を思う母親の一念で、自分がこの世を去れば息子は鹿殺しの罪人として香華を供える者はいなくなると嘆き、墓の脇に紅葉の木を植えました。「鹿に紅葉」の絵があるのは、石子詰の悲しくも美しい母子愛を称えるためだそうです。<br />近松門左衛門がこの伝説に取材して浄瑠璃『十三鐘』を草したことは有名です。刑の執行を告げるその鐘の音を聞く母親の嘆きを歌ったものです。

    石子詰
    石子詰は罪人を生きながら穴に入れ、その上に小石などを詰めて埋め殺す刑罰として中近世に血を見ることを嫌った社寺の私刑として行われたものです。しかし、本当にここで石子詰という凄惨な刑が行われたのかどうか、何の記録も残っていないそうです。お寺の境内でもないし、かつては山道だったはずの所です。この辺りには大きな石がゴロゴロしているため、こんな名前が付けられたのかも知れません。
    奈良 興福寺に石子詰の話が伝わっています。菩提院大御堂で13歳の三作という少年が誤って春日の神鹿を殺したため、石子詰になった話です。江戸時代、寺子屋で習字の手習いをしていた三作が一寸目を離した隙に、鹿が草子をくわえて逃げ出したのです。草子をとり返そうとして三作が投げた文鎮が運悪く鹿の急所に命中し、そのまま息絶えてしまいました。往時、春日大社の鹿は神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があったため、鹿を殺した三作は掘られた井戸の中で石と瓦で生き埋めにされました。
    母親は、三作の霊を弔うために朝な夕なに鐘を撞いて供養しました。すると49日目に墓の上に観音様が立たれたそうです。そして子を思う母親の一念で、自分がこの世を去れば息子は鹿殺しの罪人として香華を供える者はいなくなると嘆き、墓の脇に紅葉の木を植えました。「鹿に紅葉」の絵があるのは、石子詰の悲しくも美しい母子愛を称えるためだそうです。
    近松門左衛門がこの伝説に取材して浄瑠璃『十三鐘』を草したことは有名です。刑の執行を告げるその鐘の音を聞く母親の嘆きを歌ったものです。

  • 唐人戻岩<br />大門橋にさしかかる手前に迫り出した大きな岩です。 昔、この付近が山深く険阻な頃、唐の貴人が箕面大滝の評判を聞きつけてこの巨岩の所まで来たが、あまりの山道の険しさに恐れをなし引き返したとの伝説から、「唐人戻岩」という名が付けられています。<br />次のような話が『役行者御伝記図会』記されています。時は嵯峨天皇の頃、京の都にやって来た百済の役人は、何を見ても唐と比べて小馬鹿にしていました。案内人が箕面へ連れて来た時、役行者が滝の上の龍穴に入って龍樹菩薩から法を受けたと説明すると、滝など子供の水遊びではないかと侮ったものの龍穴は見てみたいと言い、案内することになりました。滝道を進んで行くと巨石が道を塞いでいましたが、案内人はその岩角をするりと難なく通り抜けました。しかし、百済の役人は足を踏み外すのが怖くて岩の上を越えて行こうと試みました。そして、岩に登ろうとしましたが、岩から転げ落ちてしまいました。3度試みて3度失敗し、遂に諦めて引き返し、滝を見ることもなく京へ帰っていったそうです。<br />因みに、この岩は、知る人ぞ知るパワースポットでもあります。あまりに大きく、その全容を窺い知ることはできませんが、岩に手を当てて心を静めてみると、岩から何か伝わってくるものがあります。

    唐人戻岩
    大門橋にさしかかる手前に迫り出した大きな岩です。 昔、この付近が山深く険阻な頃、唐の貴人が箕面大滝の評判を聞きつけてこの巨岩の所まで来たが、あまりの山道の険しさに恐れをなし引き返したとの伝説から、「唐人戻岩」という名が付けられています。
    次のような話が『役行者御伝記図会』記されています。時は嵯峨天皇の頃、京の都にやって来た百済の役人は、何を見ても唐と比べて小馬鹿にしていました。案内人が箕面へ連れて来た時、役行者が滝の上の龍穴に入って龍樹菩薩から法を受けたと説明すると、滝など子供の水遊びではないかと侮ったものの龍穴は見てみたいと言い、案内することになりました。滝道を進んで行くと巨石が道を塞いでいましたが、案内人はその岩角をするりと難なく通り抜けました。しかし、百済の役人は足を踏み外すのが怖くて岩の上を越えて行こうと試みました。そして、岩に登ろうとしましたが、岩から転げ落ちてしまいました。3度試みて3度失敗し、遂に諦めて引き返し、滝を見ることもなく京へ帰っていったそうです。
    因みに、この岩は、知る人ぞ知るパワースポットでもあります。あまりに大きく、その全容を窺い知ることはできませんが、岩に手を当てて心を静めてみると、岩から何か伝わってくるものがあります。

  • 唐人戻岩<br />唐人戻岩の真下に、小さな四角い石柱が少しだけ頭を覗かせて埋まっています。昔の写真には案内標識の石柱が立っているため、これは戻岩橋を架けるために道を嵩上げした時に埋まり、頭の先だけが残ったものと言われています。かつては戻岩橋という橋はなく、大門橋だけがあり、道は右岸をそのままに大門橋の西詰めまで伸びていたそうです。しかし、大門橋の手前で崖が崩落して通れなくなり、1970年に新たに戻岩橋を架け、ここを通るようにしたそうです。この時、橋の両岸の高さを揃えるため、戻岩の下の道を嵩上げしたそうです。その生き証人がこの石柱ということになります。<br />

    唐人戻岩
    唐人戻岩の真下に、小さな四角い石柱が少しだけ頭を覗かせて埋まっています。昔の写真には案内標識の石柱が立っているため、これは戻岩橋を架けるために道を嵩上げした時に埋まり、頭の先だけが残ったものと言われています。 かつては戻岩橋という橋はなく、大門橋だけがあり、道は右岸をそのままに大門橋の西詰めまで伸びていたそうです。しかし、大門橋の手前で崖が崩落して通れなくなり、1970年に新たに戻岩橋を架け、ここを通るようにしたそうです。この時、橋の両岸の高さを揃えるため、戻岩の下の道を嵩上げしたそうです。その生き証人がこの石柱ということになります。

  • 釣鐘渕<br />唐人戻岩と滝の中間付近に「釣鐘渕」という釣鐘の形をした深い渕が覗けます。かつて瀧安寺(箕面寺)は大滝の直下にあり、そこへ納める釣鐘を牛の背に乗せて通りかかったところ、余りに急な坂道だったので牛もろともに転げ落ち、牛も釣鐘も2度と浮上しなかったそうです。今も瀧安寺に釣鐘や鐘楼がないのはこのためだとの伝説が残されています。<br />伝説の真偽はともかくとして、この淵は一世代前の箕面の滝の滝壺だったようです。大滝が今の場所に移る前はここにあったと推定されています。箕面の滝は、約20万年前に六甲変動なる地殻変動によって北摂山地が隆起した時、現在の一の橋の辺りに生まれました。その後次第に後退を続けながら輝緑凝灰岩(緑色岩)と言う固い岩盤に行き着き、現在滝がある場所で止まったものと推測されています。

    釣鐘渕
    唐人戻岩と滝の中間付近に「釣鐘渕」という釣鐘の形をした深い渕が覗けます。かつて瀧安寺(箕面寺)は大滝の直下にあり、そこへ納める釣鐘を牛の背に乗せて通りかかったところ、余りに急な坂道だったので牛もろともに転げ落ち、牛も釣鐘も2度と浮上しなかったそうです。今も瀧安寺に釣鐘や鐘楼がないのはこのためだとの伝説が残されています。
    伝説の真偽はともかくとして、この淵は一世代前の箕面の滝の滝壺だったようです。大滝が今の場所に移る前はここにあったと推定されています。箕面の滝は、約20万年前に六甲変動なる地殻変動によって北摂山地が隆起した時、現在の一の橋の辺りに生まれました。その後次第に後退を続けながら輝緑凝灰岩(緑色岩)と言う固い岩盤に行き着き、現在滝がある場所で止まったものと推測されています。

  • 合田百一氏殉職之碑<br />滝の100m程手前に箕面町初代警察長 合田百一氏の碑があります。箕面川はダムができるまでは暴れ川で、しばしば増水したそうです。1951(昭和26)年7月11日、箕面川が集中豪雨により氾濫し、箕面公園内の飲食店や旅館が押し流されるとても危険な状態になりました。救援要請を受けた合田氏は、自ら部下3名の先頭に立ち、豪雨の中、滝道を登って行きました。最奥地の滝付近まで辿り着いた時、滝壺の横にあった飲食店に助けを求める人影を見つけました。滝道が濁流と化していたため、合田氏は山の斜面を這うように進みましたが突如足元の地面が崩れ落ち、濁流に飲み込まれて殉職しました。<br />碑には合田警察長は、温厚で責任感が強く、情けに厚い人で町民や部下から慕われていたと書かれています。<br />男気に惚れたのか、缶ビールが供えられています。迂闊に園内を汚したり、馬鹿騒ぎはできないなと思いました。箕面の滝は1300年以上前には役行者が修業した場所であり、合田氏がその尊い命を犠牲にした神聖な場所なのですから…。<br />

    合田百一氏殉職之碑
    滝の100m程手前に箕面町初代警察長 合田百一氏の碑があります。箕面川はダムができるまでは暴れ川で、しばしば増水したそうです。1951(昭和26)年7月11日、箕面川が集中豪雨により氾濫し、箕面公園内の飲食店や旅館が押し流されるとても危険な状態になりました。救援要請を受けた合田氏は、自ら部下3名の先頭に立ち、豪雨の中、滝道を登って行きました。最奥地の滝付近まで辿り着いた時、滝壺の横にあった飲食店に助けを求める人影を見つけました。滝道が濁流と化していたため、合田氏は山の斜面を這うように進みましたが突如足元の地面が崩れ落ち、濁流に飲み込まれて殉職しました。
    碑には合田警察長は、温厚で責任感が強く、情けに厚い人で町民や部下から慕われていたと書かれています。
    男気に惚れたのか、缶ビールが供えられています。迂闊に園内を汚したり、馬鹿騒ぎはできないなと思いました。箕面の滝は1300年以上前には役行者が修業した場所であり、合田氏がその尊い命を犠牲にした神聖な場所なのですから…。

  • 箕面の滝<br />「天下の名瀑」として知られる「箕面の滝」の名称は、木々の間から流れ落ちる滝の形が農具の「箕(みの)のおもて」に似ていることから、かつて「箕滝」と呼ばれていたことに由来していています。箕面という地名そのものもこの滝の名前から付けられたそうですから、この地においては滝の存在が重要だったことが窺えます。<br />滝全体を見ても「箕」の形をイメージするのは難しいのですが、腰折れた最下部の形を「箕」になぞらえているように思えます。<br />霧のような水飛沫が風に乗って頬に吹き付けられます。暫く、滝の音を聞きながら、ヒンヤリした空気とマイナスイオンを満喫します。

    箕面の滝
    「天下の名瀑」として知られる「箕面の滝」の名称は、木々の間から流れ落ちる滝の形が農具の「箕(みの)のおもて」に似ていることから、かつて「箕滝」と呼ばれていたことに由来していています。箕面という地名そのものもこの滝の名前から付けられたそうですから、この地においては滝の存在が重要だったことが窺えます。
    滝全体を見ても「箕」の形をイメージするのは難しいのですが、腰折れた最下部の形を「箕」になぞらえているように思えます。
    霧のような水飛沫が風に乗って頬に吹き付けられます。暫く、滝の音を聞きながら、ヒンヤリした空気とマイナスイオンを満喫します。

  • 箕面の滝<br />2006年、ニュース番組『VOICE』が「箕面の滝は人工滝になった」と報じました。その後も複数のマスコミの餌食にされた結果、人工滝との風評が広がりました。「箕面グリーン道路のトンネル工事が原因で滝の水量が激減し、滝壺の水を汲み上げて循環させている」という事実無根の報道がなされ、悲しいことに未だにその報道を信じている方も少なくないのです。<br />どのトンネルでも同様ですが、トンネル工事に湧水は避けられませんので湧水を坑道の下に貯水し、それをポンプで汲み上げて河川に放流しているのは事実です。しかし、放水量は滝の流量の5〜10%に過ぎず、また、放水場所は箕面川ダムよりも上流の滝から3.4kmも離れた地点です。ですから滝の流量にはほとんど影響しないレベルなのです。<br />こうした報道がなされたのは、箕面グリーン道路の建設に反対する府や市の一部の議員によるネガティブキャンペーンが発端でした。半年後に開通予定のトンネル工事阻止のためには手段を選ばない人たちで、客観的根拠のない主張であったことを視聴者が知るすべはなかったのです。公明正大な報道が当たり前な中、故意ではないにしろ、バイアスの掛かった出演者を選んだ番組の在り方には怖さを感じます。本来報道は事実関係を検証してなされるものであり、インパクトやスクープ狙いであってはなりません。<br />因みに、湧き水を戻すための経費は、大阪府道路公社によるトンネル維持管理の一環につき、箕面グリーンロードの通行料で賄っているそうです。

    箕面の滝
    2006年、ニュース番組『VOICE』が「箕面の滝は人工滝になった」と報じました。その後も複数のマスコミの餌食にされた結果、人工滝との風評が広がりました。「箕面グリーン道路のトンネル工事が原因で滝の水量が激減し、滝壺の水を汲み上げて循環させている」という事実無根の報道がなされ、悲しいことに未だにその報道を信じている方も少なくないのです。
    どのトンネルでも同様ですが、トンネル工事に湧水は避けられませんので湧水を坑道の下に貯水し、それをポンプで汲み上げて河川に放流しているのは事実です。しかし、放水量は滝の流量の5〜10%に過ぎず、また、放水場所は箕面川ダムよりも上流の滝から3.4kmも離れた地点です。ですから滝の流量にはほとんど影響しないレベルなのです。
    こうした報道がなされたのは、箕面グリーン道路の建設に反対する府や市の一部の議員によるネガティブキャンペーンが発端でした。半年後に開通予定のトンネル工事阻止のためには手段を選ばない人たちで、客観的根拠のない主張であったことを視聴者が知るすべはなかったのです。公明正大な報道が当たり前な中、故意ではないにしろ、バイアスの掛かった出演者を選んだ番組の在り方には怖さを感じます。本来報道は事実関係を検証してなされるものであり、インパクトやスクープ狙いであってはなりません。
    因みに、湧き水を戻すための経費は、大阪府道路公社によるトンネル維持管理の一環につき、箕面グリーンロードの通行料で賄っているそうです。

  • 箕面の滝<br />箕面の滝にまつわる「滝壷に落ちた刀」という民話を紹介いたします。     <br />昔、ひとりの侍が箕面の滝を見物にやってきました。ところが滝壺を覗き込んだそのはずみで、刀がドボンと滝壺の中に落ち、そのまま沈んでしまいました。侍の命と言われる刀をなくしては一大事です。必死になって滝壺の中を探しましたが、どうしても見つけることができません。途方にくれた侍は、とうとう最後に滝に祀ってある不動尊に願をかけることにしました。<br />侍は滝に篭って、毎日祈り続けました。そして、17日目の夜、侍の夢枕に不動様が現れ、<br />「お前の刀は、攝津の国の島下郡垂水村出水に流れ着いた」と教えてくれました。喜び勇んで侍が垂水村へ駆けつけると、不思議や不思議、本当に自分の刀が流れ着いていました。<br />なんと箕面の滝の滝壺の底は、垂水村まで通じていたのでした。

    箕面の滝
    箕面の滝にまつわる「滝壷に落ちた刀」という民話を紹介いたします。     
    昔、ひとりの侍が箕面の滝を見物にやってきました。ところが滝壺を覗き込んだそのはずみで、刀がドボンと滝壺の中に落ち、そのまま沈んでしまいました。侍の命と言われる刀をなくしては一大事です。必死になって滝壺の中を探しましたが、どうしても見つけることができません。途方にくれた侍は、とうとう最後に滝に祀ってある不動尊に願をかけることにしました。
    侍は滝に篭って、毎日祈り続けました。そして、17日目の夜、侍の夢枕に不動様が現れ、
    「お前の刀は、攝津の国の島下郡垂水村出水に流れ着いた」と教えてくれました。喜び勇んで侍が垂水村へ駆けつけると、不思議や不思議、本当に自分の刀が流れ着いていました。
    なんと箕面の滝の滝壺の底は、垂水村まで通じていたのでした。

  • 箕面の滝<br />2013年に箕面大滝の前で初めての結婚式「滝前式」が行われたそうです。結ばれたお二人は、箕面山の美化活動を行っているボランティア団体「箕面の山パトロール隊」に所属 されていました。滝の神、そして箕面山の大自然が2人の門出を見守ったそうです。<br />文字通り「FALL IN LOVE !」ですね!!

    箕面の滝
    2013年に箕面大滝の前で初めての結婚式「滝前式」が行われたそうです。結ばれたお二人は、箕面山の美化活動を行っているボランティア団体「箕面の山パトロール隊」に所属 されていました。滝の神、そして箕面山の大自然が2人の門出を見守ったそうです。
    文字通り「FALL IN LOVE !」ですね!!

  • 箕面の滝<br />箕面の滝は真っ直ぐに滝壺に落下するのではなく、水面の一寸上にある出っ張った岩に一度当って跳ね返ってから落ちる腰折れが最大の特徴です。 <br />上方落語『蛇含草』にも箕面の滝が登場します。餅好きの男が重箱に一杯詰められた餅を見て、俺なら全部食べられると豪語します。食べられるものなら食べてみろと言うことになり次々と食べ始めるのですが、普通に食べるだけでは面白くないと餅の曲食いを始めます。<br />最初は「放り食い」。空中に餅を放り上げてパクッと口で受けます。次は「お染久松夫婦食い」と言って、2つ同時に放り上げます。そして、「淀の川瀬の水車」は体の周りを回してから口で受けます。最後が「箕面の滝食い」。放り投げた餅を額で受け、ポンと跳ね返ったところを口でパクリ。見事にワンクションを置いて口に入れます。

    箕面の滝
    箕面の滝は真っ直ぐに滝壺に落下するのではなく、水面の一寸上にある出っ張った岩に一度当って跳ね返ってから落ちる腰折れが最大の特徴です。
    上方落語『蛇含草』にも箕面の滝が登場します。餅好きの男が重箱に一杯詰められた餅を見て、俺なら全部食べられると豪語します。食べられるものなら食べてみろと言うことになり次々と食べ始めるのですが、普通に食べるだけでは面白くないと餅の曲食いを始めます。
    最初は「放り食い」。空中に餅を放り上げてパクッと口で受けます。次は「お染久松夫婦食い」と言って、2つ同時に放り上げます。そして、「淀の川瀬の水車」は体の周りを回してから口で受けます。最後が「箕面の滝食い」。放り投げた餅を額で受け、ポンと跳ね返ったところを口でパクリ。見事にワンクションを置いて口に入れます。

  • 箕面の滝<br />ぎりぎりまで寄ったアングルです。ここでマイナスイオンを目一杯浴びておきます。日頃パソコンの電磁波ばかり浴びておりますから…。虹も架かっていますね!<br />もう一つ、箕面の滝が登場する『素麺喰い』なる落語もあります。今は無き4代目桂文枝以来演じ手がなく、あまり知られていない落語です。素麺は小麦粉を食塩水でこね、油を塗りながら手で細く長く延ばして作ります。ですから当初は短く切らない「長そうめん」でした。江戸時代になると両端を切り揃えた「切りそうめん」も出始めましたが、庶民は安い「長そうめん」を好んだそうです。<br />落語では、大食漢で知ったかぶりの八公に、ひと泡吹かせようと特別に長い「長そうめん」を食べさせます。箸で挟んで持ち上げてタレに漬けようとするも、持ち上げても持ち上げても素麺が途切れず、とうとう立ち上がってしまいます。「長い素麺だなあ。まだある。まだある。これどないなってんねや。ちょっとすんません。そこの階段を貸してもらいまっさ」。<br />階段を上り、2階へ上ったが、そこで足を踏み外して転んでしまい、したたかに腰を打ちます。階段には素麺が上から下までず〜っと懸かる。「やあ、綺麗やないか。箕面の滝みたいや」。「あ〜、それで腰を打ったんや!」。これがオチです。ここでも「箕面の滝喰い」と同様、滝が滝壺に落ちる直前に岩に当たって腰折れになっていることをオチにしています。

    箕面の滝
    ぎりぎりまで寄ったアングルです。ここでマイナスイオンを目一杯浴びておきます。日頃パソコンの電磁波ばかり浴びておりますから…。虹も架かっていますね!
    もう一つ、箕面の滝が登場する『素麺喰い』なる落語もあります。今は無き4代目桂文枝以来演じ手がなく、あまり知られていない落語です。素麺は小麦粉を食塩水でこね、油を塗りながら手で細く長く延ばして作ります。ですから当初は短く切らない「長そうめん」でした。江戸時代になると両端を切り揃えた「切りそうめん」も出始めましたが、庶民は安い「長そうめん」を好んだそうです。
    落語では、大食漢で知ったかぶりの八公に、ひと泡吹かせようと特別に長い「長そうめん」を食べさせます。箸で挟んで持ち上げてタレに漬けようとするも、持ち上げても持ち上げても素麺が途切れず、とうとう立ち上がってしまいます。「長い素麺だなあ。まだある。まだある。これどないなってんねや。ちょっとすんません。そこの階段を貸してもらいまっさ」。
    階段を上り、2階へ上ったが、そこで足を踏み外して転んでしまい、したたかに腰を打ちます。階段には素麺が上から下までず〜っと懸かる。「やあ、綺麗やないか。箕面の滝みたいや」。「あ〜、それで腰を打ったんや!」。これがオチです。ここでも「箕面の滝喰い」と同様、滝が滝壺に落ちる直前に岩に当たって腰折れになっていることをオチにしています。

  • 箕面の滝<br />『摂津名所図会』には、「天下賞して滝の第二とす。那智の滝を日本第一として南滝と呼び、箕面の滝を日本第二として北滝と呼ぶ」と記されています。また、「それこの一山は丹楓(もみに)多くして、秋の末は三千の樹々錦繍のごとく、滝の流は紅を濯ぎ、樵夫は錦着て家に還り、山僧のこころを染めぬ。紅の色艶しく、風のかけたるしがらみは蜀錦(しょくきん)を布くがごとし」とも記され、古来より名勝地として知られていました。実際に芭蕉や西行、藤原定家、鴨長明、頼山陽、夏目漱石など多くの文人歌人が訪れた名勝でもあります。<br />

    箕面の滝
    『摂津名所図会』には、「天下賞して滝の第二とす。那智の滝を日本第一として南滝と呼び、箕面の滝を日本第二として北滝と呼ぶ」と記されています。また、「それこの一山は丹楓(もみに)多くして、秋の末は三千の樹々錦繍のごとく、滝の流は紅を濯ぎ、樵夫は錦着て家に還り、山僧のこころを染めぬ。紅の色艶しく、風のかけたるしがらみは蜀錦(しょくきん)を布くがごとし」とも記され、古来より名勝地として知られていました。実際に芭蕉や西行、藤原定家、鴨長明、頼山陽、夏目漱石など多くの文人歌人が訪れた名勝でもあります。

  • 箕面の滝<br />芭蕉が箕面を訪れたことは、紀行『笈の小文(おいのこぶみ)』に記されています。1687(貞享4)年に江戸を旅立った芭蕉は、翌年布引の滝(神戸市)を訪れた後、京都に向かい、その途中、箕面の滝や勝尾寺を訪ねています。残念ながら『笈の小文』には箕面の句は記されていませんが、4年後の江戸において、門人 山口素堂との間で次の連句を詠んでいます。「箕面の滝や玉を簸る(ひる)らん」(芭蕉)<br />「箕面の瀧のくもる山降」(千川)<br />農貝の箕は、風の力を利用して米と籾殻を選別する農具ですが、芭蕉は箕面の滝の形が箕に似ていることから滝が水玉を簸る(選別する)と詠んでいます。僅か14文字で箕面の滝の形や飛び散る水玉の映像を即興で句にした芭蕉の表現力には驚かされます。<br />布引の滝はこちらを参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/11006016

    箕面の滝
    芭蕉が箕面を訪れたことは、紀行『笈の小文(おいのこぶみ)』に記されています。1687(貞享4)年に江戸を旅立った芭蕉は、翌年布引の滝(神戸市)を訪れた後、京都に向かい、その途中、箕面の滝や勝尾寺を訪ねています。残念ながら『笈の小文』には箕面の句は記されていませんが、4年後の江戸において、門人 山口素堂との間で次の連句を詠んでいます。 「箕面の滝や玉を簸る(ひる)らん」(芭蕉)
    「箕面の瀧のくもる山降」(千川)
    農貝の箕は、風の力を利用して米と籾殻を選別する農具ですが、芭蕉は箕面の滝の形が箕に似ていることから滝が水玉を簸る(選別する)と詠んでいます。僅か14文字で箕面の滝の形や飛び散る水玉の映像を即興で句にした芭蕉の表現力には驚かされます。
    布引の滝はこちらを参照してください。
    http://4travel.jp/travelogue/11006016

  • 箕面の滝<br />夏目漱石は、小説『彼岸過迄』で箕面を「山の行き当たりに滝があって、大変好い所でした」と褒めています。友人に案内されて紅葉の名所 箕面を訪ねたという設定です。その中に、「友人は僕を休ませるために社の倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました」とあり、「秋錦楼」と言う料理屋で小説の取材を行っていることから、「秋錦楼」やその近くにあった「琴の家」をモデルにしたと言われています。箕面で心身を癒した漱石ですが、病気を繰り返し5年後の1916年(大正5)年に49歳で亡くなっています。<br />『彼岸過迄』を片手に、滝の流れ落ちる音を聴きながら明治にタイムスリップしてみるのはいかがでしょうか?

    箕面の滝
    夏目漱石は、小説『彼岸過迄』で箕面を「山の行き当たりに滝があって、大変好い所でした」と褒めています。友人に案内されて紅葉の名所 箕面を訪ねたという設定です。その中に、「友人は僕を休ませるために社の倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました」とあり、「秋錦楼」と言う料理屋で小説の取材を行っていることから、「秋錦楼」やその近くにあった「琴の家」をモデルにしたと言われています。箕面で心身を癒した漱石ですが、病気を繰り返し5年後の1916年(大正5)年に49歳で亡くなっています。
    『彼岸過迄』を片手に、滝の流れ落ちる音を聴きながら明治にタイムスリップしてみるのはいかがでしょうか?

  • みのお滝茶屋 楓来坊<br />滝のすぐ手前にある茶屋ではこのように炭焼きされた鮎の塩焼き(1尾500円)がいただけます。

    みのお滝茶屋 楓来坊
    滝のすぐ手前にある茶屋ではこのように炭焼きされた鮎の塩焼き(1尾500円)がいただけます。

  • 箕面の滝 展望テラス<br />茶屋の横にある階段を上がると一寸した展望テラスがあります。その階段にはこうしたプレートが掲げられています。<br />関西の団塊世代&ジュニアにとって、「箕面の猿」ほど思い出の詰まった動物はいないそうです。観光客の乗用車の窓から中に押し入り、人に襲いかかる凶暴な猿の映像を記憶されている方も少なくないと思います。我が家もご多聞に漏れず、箕面公園は近くて遠い存在でした。阪神地区に30年以上住んでいながら凶暴猿のインパクトが強すぎて初めての訪問です。<br />ところが近年、猿の影が極端に薄くなっています。土産物店から猿グッズが消え、コーナーを席巻するのはゆるキャラ「滝の道ゆずる」くんです。店主からは「餌を与えると、アンタ罰金一万円やで!」と釘を刺される始末です。観光客や遠足の児童から食べ物や手荷物を奪うほど「やんちゃくれ」だった猿にどんな異変が起こったのでしょうか?<br />そもそもニホンザルの研究と観光を目的に、霊長類学の大阪市立大教授らが餌付けを始めたのが間違いの始まりでした。そして猿と観光客とのご対面が、意外な方向へ猿を導いたのです。往時100頭程だった猿は、観光客の餌付けで増殖し、2009年のピーク時には約670頭に激増。そこで市が打った苦肉の策が「餌やり禁止条例」でした。人が与える食べ物の味を覚えた結果、猿が高栄養・高カロリーの食べ物を摂取し、3年に一度のペースだった出産が毎年になり、個体数が急増したのです。人には動物に餌を与えたがる衝動があり、それが止まらずに野生の猿をペット化してしまったのです。箕面山の猿は「暴力猿」と言下されましたが、これは人の身勝手がそうさせたのであって猿が悪かった訳ではありません。「反省」すべきは猿ではなく、人の方だったのです。<br />現在は滝の奥の山中で小麦を中心とする給餌と共に、避妊薬で出産を抑え、元の生態に戻す取り組みが進められています。

    箕面の滝 展望テラス
    茶屋の横にある階段を上がると一寸した展望テラスがあります。その階段にはこうしたプレートが掲げられています。
    関西の団塊世代&ジュニアにとって、「箕面の猿」ほど思い出の詰まった動物はいないそうです。観光客の乗用車の窓から中に押し入り、人に襲いかかる凶暴な猿の映像を記憶されている方も少なくないと思います。我が家もご多聞に漏れず、箕面公園は近くて遠い存在でした。阪神地区に30年以上住んでいながら凶暴猿のインパクトが強すぎて初めての訪問です。
    ところが近年、猿の影が極端に薄くなっています。土産物店から猿グッズが消え、コーナーを席巻するのはゆるキャラ「滝の道ゆずる」くんです。店主からは「餌を与えると、アンタ罰金一万円やで!」と釘を刺される始末です。観光客や遠足の児童から食べ物や手荷物を奪うほど「やんちゃくれ」だった猿にどんな異変が起こったのでしょうか?
    そもそもニホンザルの研究と観光を目的に、霊長類学の大阪市立大教授らが餌付けを始めたのが間違いの始まりでした。そして猿と観光客とのご対面が、意外な方向へ猿を導いたのです。往時100頭程だった猿は、観光客の餌付けで増殖し、2009年のピーク時には約670頭に激増。そこで市が打った苦肉の策が「餌やり禁止条例」でした。人が与える食べ物の味を覚えた結果、猿が高栄養・高カロリーの食べ物を摂取し、3年に一度のペースだった出産が毎年になり、個体数が急増したのです。人には動物に餌を与えたがる衝動があり、それが止まらずに野生の猿をペット化してしまったのです。箕面山の猿は「暴力猿」と言下されましたが、これは人の身勝手がそうさせたのであって猿が悪かった訳ではありません。「反省」すべきは猿ではなく、人の方だったのです。
    現在は滝の奥の山中で小麦を中心とする給餌と共に、避妊薬で出産を抑え、元の生態に戻す取り組みが進められています。

  • 箕面の滝 テラス<br />大高源五著の紀行文『二つの竹』でも箕面の滝は絶賛されています。赤穂四十七士のひとり、大高源五は、『忠臣蔵』の物語の中でも特に重要な場面に登場する人物です。<br />『二つの竹』(元禄15年刊)によると、箕面を訪れたのは討ち入りの1年3ヶ月前の元禄14年9月(新暦では10月)のことでした。<br />大滝を次のように讃えています。<br />「広さ三丈ばかり緑波静に、紅葉影を浸し、瀲艶(れんえん)として涯(かぎ)りをしらず。瀑布下ること三十余丈、所謂、箕面山弁財天の鎮座なりと。実(げ)に木々のすがた、岩のたたずまひ、神仙の境に入かとあやし」。<br />紅葉に映える滝を始めとする箕面山の情景を豊かな表現で記しています。

    箕面の滝 テラス
    大高源五著の紀行文『二つの竹』でも箕面の滝は絶賛されています。赤穂四十七士のひとり、大高源五は、『忠臣蔵』の物語の中でも特に重要な場面に登場する人物です。
    『二つの竹』(元禄15年刊)によると、箕面を訪れたのは討ち入りの1年3ヶ月前の元禄14年9月(新暦では10月)のことでした。
    大滝を次のように讃えています。
    「広さ三丈ばかり緑波静に、紅葉影を浸し、瀲艶(れんえん)として涯(かぎ)りをしらず。瀑布下ること三十余丈、所謂、箕面山弁財天の鎮座なりと。実(げ)に木々のすがた、岩のたたずまひ、神仙の境に入かとあやし」。
    紅葉に映える滝を始めとする箕面山の情景を豊かな表現で記しています。

  • 滝見橋<br />滝の手前に架けられた赤い橋は滝見橋と呼ばれています。<br />標高200mの所にあり、箕面駅前の標高が83mですので、標高差120mを登ってきた計算になります。<br /><br />

    滝見橋
    滝の手前に架けられた赤い橋は滝見橋と呼ばれています。
    標高200mの所にあり、箕面駅前の標高が83mですので、標高差120mを登ってきた計算になります。

  • 箕面山<br />まさに錦織りなすといった錦秋に染まる風情を湛えた箕面山です。<br />今年の紅葉は、色付くタイミングにバラツキがあったように思います。この原因のひとつが「10月のままで足踏み状態の気温」と言われています。10月は気温が例年よりやや低く、日照時間が長くて雨が少ないという紅葉には絶好の気象条件でした。このおかげで日光などは鮮やかな紅葉がTVニュースで取り上げられていました。  <br />ところが11月は一転して暖かく、中旬までの気温は10月並の所がほとんどでした。例年11月には冬型気圧配置が度々現れるのですが、今年はこの傾向が当て嵌らずに晴れ→曇り→雨が短周期で繰り返されました。このため太平洋側を中心に陽射しが少なく、朝の冷え込みも弱かったため、葉が痛み、落葉も進み、11月中旬〜12月初旬に見頃を迎える地域では紅葉が遅れたり、一斉に色付くことができなかったようです。<br />因みに、このような年には、雨降りの日に紅葉狩りをすると色鮮やかだそうです。<br />ポジティブに考えれば、それだけ長い間紅葉狩りを愉しめたということになりますが…。<br />皆さんの今年の紅葉狩りはいかがでしたでしょうか?

    箕面山
    まさに錦織りなすといった錦秋に染まる風情を湛えた箕面山です。
    今年の紅葉は、色付くタイミングにバラツキがあったように思います。この原因のひとつが「10月のままで足踏み状態の気温」と言われています。10月は気温が例年よりやや低く、日照時間が長くて雨が少ないという紅葉には絶好の気象条件でした。このおかげで日光などは鮮やかな紅葉がTVニュースで取り上げられていました。
    ところが11月は一転して暖かく、中旬までの気温は10月並の所がほとんどでした。例年11月には冬型気圧配置が度々現れるのですが、今年はこの傾向が当て嵌らずに晴れ→曇り→雨が短周期で繰り返されました。このため太平洋側を中心に陽射しが少なく、朝の冷え込みも弱かったため、葉が痛み、落葉も進み、11月中旬〜12月初旬に見頃を迎える地域では紅葉が遅れたり、一斉に色付くことができなかったようです。
    因みに、このような年には、雨降りの日に紅葉狩りをすると色鮮やかだそうです。
    ポジティブに考えれば、それだけ長い間紅葉狩りを愉しめたということになりますが…。
    皆さんの今年の紅葉狩りはいかがでしたでしょうか?

  • 箕面山<br />「山が燃える」と言う表現にピッタリの画です。<br />石川さゆりさんは、「天城越え」の中でメラメラした女の情念が燃え上がる様を歌い上げています。しかし、「天城越え」の歌詞の解釈には色々あるそうです。<br />作詞は、野坂昭氏が作詞した童謡「おもちゃのチャチャチャ」を補作詞してヒットさせた吉岡治氏ですが、抽象的な表現を使ったところに解釈の多様性が生まれたのだと思います。<br />因みに、石川さゆりさんの解釈は、「他の女の所に行ってしまった男を取り戻しに行き、2人で元のように人生を苦労しても歩きたい」、つまり略奪愛として歌われているようです。<br />心の持ち方次第でこうした絶景も切なさや情念に変わってしまうものなのですね!<br />平和ボケして能天気な当方には「あ~、きれいやな~ぁ」としか思い浮かばないのですが…。<br /><br />長くなりましたので、この続きは②箕面山瀧安寺にてお届けいたします。

    箕面山
    「山が燃える」と言う表現にピッタリの画です。
    石川さゆりさんは、「天城越え」の中でメラメラした女の情念が燃え上がる様を歌い上げています。しかし、「天城越え」の歌詞の解釈には色々あるそうです。
    作詞は、野坂昭氏が作詞した童謡「おもちゃのチャチャチャ」を補作詞してヒットさせた吉岡治氏ですが、抽象的な表現を使ったところに解釈の多様性が生まれたのだと思います。
    因みに、石川さゆりさんの解釈は、「他の女の所に行ってしまった男を取り戻しに行き、2人で元のように人生を苦労しても歩きたい」、つまり略奪愛として歌われているようです。
    心の持ち方次第でこうした絶景も切なさや情念に変わってしまうものなのですね!
    平和ボケして能天気な当方には「あ~、きれいやな~ぁ」としか思い浮かばないのですが…。

    長くなりましたので、この続きは②箕面山瀧安寺にてお届けいたします。

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