2015/04/17 - 2015/04/17
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ムッシュさん
福島市内から北へ向かう。先ずは、松尾芭蕉が立寄った医王寺へ。続いて岩谷観音に参拝して、桑折宿、貝田宿を歩きます。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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医王寺境内案内図。長い参道の先に薬師堂などが立つ.
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先ずは、【松尾芭蕉立寄りの医王寺】へ。山門を入ると、薬師堂までの長い参道が有る。
【芭蕉と醫王殿】
俳聖芭蕉は元禄二年(1689)陰暦五月二日、46歳の時、「奥の細道」の行脚で醫王寺を訪れています。伝え聞いていた佐藤一族の忠孝、その墓を詣でて懐古の情断ち難く当寺を去り、その夜は飯坂温泉に宿をとりました。
句碑は本堂の左手前にあります。
月の輪のわたしを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり、飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先づあわれなり、女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔月のことなり。その夜飯塚に泊まる
(奥の細道より) -
中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺。医王寺
【謡曲「摂待」と医王寺】
謡曲「摂待」は、佐藤継信、忠信の遺族を中心とする忠孝の至情を描いた曲です。継信、忠信の母が、山伏摂待にことよせて、落ち行く義経一行を待ち受けていると、さあらぬ態でここ館(寺)に立寄った主従十二人を迎えた。
初めは義経一行であることを隠したてていた弁慶も母尼に見破られて名乗りあい、義経の身代わりとなって戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。母尼は今は亡きわが子を忍びつヽ一行に酒を勧め、継信の遺児鶴若もけなげに給仕して夜を徹した。
分かれの朝、鶴若は御供を乞うたが皆に慰めすかされ涙ながら一行を見送った。
医王寺は義経一行が城主基治を訪れ、当寺に兄弟の遺髪を埋葬して法要を営み、冥福を祈った寺で、佐藤一族の菩提寺である。
謡曲史跡保存会 -
【医王寺】
記
当寺は瑠璃光山医王寺といい平安時代淳和天皇の御代、天長三年(826)の開基で弘法大師御作の薬師如来をおまつりしております。
当地方を信夫といい、信夫の荘司であった佐藤基治は治承の昔(1177)大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を治め非常な権勢を持っていました。信仰心の篤い基治は御堂を改修し堂塔伽藍を建立し源氏の再興を祈願し一族の菩提寺として寺門を興隆させました。
やがて平泉の鎮守府将軍、藤原秀衡のもとにあった源義経が平家討伐に向う時、基治はその子継信、忠信の二人を遣わしました。
兄弟は義経の忠義な家来としてめざましい活躍をしたが、惜しくも兄継信は屋島の合戦で能登守教経の矢を受け義経を守る盾となり、また後に頼朝との和を失った義経一行が京都で追手に遭い苦戦に陥った時、弟忠信は義経を名乗って敵を引きつけ主君を逃がし自分は身代わりとなった。
その後弁慶等とともに無事奥州に下った義経一行は、平泉へ向う途中大鳥城の基治に会い、継信、忠信の武勲を伝えるとともに当寺に参籠して二人の追悼の法要を営みました。
時は移っても、後の世までも伝わる継信、忠信兄弟とその妻たちの忠孝に心を打たれた松尾芭蕉や松平定信をはじめとする文人墨客が香華を手向けております。
瑠璃光山醫王寺 -
【松尾芭蕉の句碑】字は読めませんが次のフォトに詳細あり
笈も太刀も さつきにかざれ 紙のぼり 芭蕉翁
この句碑は寛政十二年十月 隈東の谷無川と言う人が芭蕉翁歿後百六年目に建立したものであります
【芭蕉と醫王殿】
俳聖芭蕉は元禄二年(1689)陰暦五月二日、四十六歳の時、「奥の細道」の行脚で醫王寺を訪れています。伝え聞いていた佐藤一族の忠孝、その墓を詣でて懐古の情断ち難く当寺を去り、その夜は飯坂温泉に宿をとりました。
句碑は本堂の左手前にあります。
月の輪のわたしを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり、飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先づあわれなり、女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔月のことなり。その夜飯塚に泊まる
(奥の細道より) -
松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に訪れ、
「笈も太刀も 五月に飾れり 紙のぼり」
という句を詠んでいる。 -
境内には、平安時代末期の武士で【奥州藤原氏の姻族・佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑】が残されている。
平安時代天長3年の開基以来1,200年。弘法大師作の薬師如来が祀られている『医王寺』。源義経に仕えた武将・佐藤一族の菩提寺である。
奥の院「薬師堂」後方には、源平合戦で義経の身代わりとなって壮絶な死を遂げた佐藤継信・忠信兄弟と父・基治公、母・乙和の墓碑がある。
この立像は、中央が義経、左右が佐藤継信・忠信兄弟である
福島市飯坂町
「笈(おひ)も太刀(たち)も 五月(さつき)に飾(かざ)れ 紙(かみ)幟(のぼり)」
松尾芭蕉は奥の細道の途上、福島市飯坂町にある医王寺を訪ねました。旧暦の五月朔日のこと。
医王寺は山号を瑠璃光山といい、平安時代の天長3年(西暦826年)に開基。
弘法大師御作の薬師如来をおまつりし、霊験あらたかで数多くの人々の信仰を集め、鯖野の薬師と呼ばれて親しまれているところです。
医王寺は信夫の荘司、佐藤家の菩提寺でした。
源氏と平氏が争っている時代に、佐藤基治は息子継信と忠信を源義経へ遣わしました。
兄弟は義経の家来の四天王にかぞえられていましたが、兄の継信は屋島の合戦で義経の盾となって戦死しました。
また、弟の忠信は、頼朝と和を失った義経が京都の堀川の館で苦境に陥った時、義経を脱出させるため、主君を装って応戦し討ち死にしました。
その後、義経主従は平泉へ向かう途中、医王寺に立ち寄り、兄弟の追悼の法要を営みました。その際に、弁慶が背負っていた笈や義経の直垂が宝物として現存しています。 -
こちら【薬師堂】
天長三年(今より約千百年前・西暦826年)に弘法大師が御開基になられ御直作薬師如来を安置されてありました、その後鎌倉時代に大鳥城城主佐藤基治が守本尊として立派なお堂を建立し佐藤公一門並に義経公等も深く御信仰なされた霊験あらたかな薬師如来であります。
聲がたたねば鯖野の薬師 七日こもれば聲がたつ 等と唱えられ 毎月八日には御縁日にて参詣人も多くお茶の接待をして居ります。 -
基冶・乙和御前夫婦の墓碑の傍にある古木は、「乙和の椿」と呼ばれ、
乙和御前の悲しみ、そして母情が乗り移ったのか、開花の時がきても咲かずして、蕾のまま地上に落ちてしまうと伝えられている。
【「乙和椿」由来】 医王寺名木
信夫荘司佐藤基治公一族の墓域の西端にあった樹齢数百年つぼみが色つけば落ち一輪も花と開かず悲史母情を知るつばき
義経の家来として継信、忠信の二人を西国に失った母乙和子姫の悲しみは謡曲「摂待」や「甲冑堂物語」の傳うるところであるがいつの世にも華粟原ぬ親の心がしのばれる
咲かで落つ 椿よ 西の 空かなし 黙翁
昭和六十一年九月 福島飯坂ライオンズクラブ -
乙和椿の石碑
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さあ、医王寺の参道を引き返します。
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次の訪問地は、福島市信夫山の【岩谷観音堂】です。
岩谷下交差点から、100mほどで「岩谷観音」 への階段に着く。手すりがないと上れないほどの急な階段が信夫山の上方に向かって続いている。
【市指定史跡及び名勝「岩谷観音」】 (説明板)
観音堂>
平安時代の末に、飯坂の大鳥城に居城を構えて信夫郡一帯を支配した佐藤庄司基治は有名ですが、その叔父と伝える伊賀良目七郎高重は、ここ五十辺に館を構えていました。この子孫である春顕が応永23年(1416)10月に先祖伝来の観音像を本尊として建立したのが観音堂の始まりであると伝えられています。
磨崖仏>
西国三十三観音本尊像をはじめ、60体に及ぶ供養仏がありますが、宝永2年(1705)の聖観音像・同7年の巳待供養弁財像が年紀のわかるものとしては古いものです。三十三観音もおおかたこのころから彫られたものと思われますが、西国の札所名と本尊のお姿が正確で仏像の儀軌に通じた修行僧が敬虔な鑿(のみ)をふるったものと思われます。
岩谷観音保勝会・福島市教育委員会 -
84段の階段を上り詰めると、右側に[岩谷観音堂] が建っている。
応永23年(1416)周辺を支配した伊賀良目七郎高重が建立したと伝えられている。その後、伊賀良目氏の裔 にあたる尼僧が経文6百巻を納堂したとのこと。
【岩谷観音】 福島市指定史跡および名勝
古くから「岩谷観音」の名で親しまれていたこの地は民衆の素朴な霊場です。
それは、平安末期から鎌倉期にかけて五十辺の「館」に居館をかまえてきた豪族、伊賀良目氏が持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まるものと思われますが、遠い都の貴族たちの三十三観音巡拝の風が地方の民衆にまで普及するにつれて、西国三十三観音の磨崖仏が彫られ、現在の「岩谷観音」が形成されました。その時期は宝永六~七年(1709~10)前後と思われます。
ともあれ、市内唯一の磨崖仏であり、かつ三十三観音のほか六十体にもおよぶ供養仏が群像をなしている偉観は他に類例が少く、そのできばえも素直で美しく、民衆の信仰の敬虔なこころをよく伝えております。
さくらの花どきや新緑の風かおる季節、はては松林に紅葉をめでながら眺望するもよく、半肉彫りの仏像群を拝し歴史をしのびながら遊歩するにたる史跡および名勝地として指定しました。
昭和三十九年九月十四日 福島市教育委員会 -
観音堂に隣接する大岩には沢山の仏さんが彫り込んであります。
お堂の周辺の岸壁には、宝永年間(1704~11年)に制作された磨崖仏がある。
西国三十三観音を模した仏像の他60体に及ぶ供養仏が彫り込まれているとのこと。
古くから、岩谷観音の名で親しまれてきたこの地は、民衆の素朴な霊場であった。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、五十辺の館に居館をかまえてきた
豪族伊賀良目七郎高重が、持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まる。
宝永6~7年(1709~10年)に、都の三十三観音巡拝の風が伝わってきて、ここに西国三十三観音の磨崖仏が彫られ、岩谷観音が形成されたようだ。
その後、三十三観音の他に60体にも及ぶ供養仏が彫られた。 -
あちらにも、
山岳信仰と結びついた山で、熊野山には湯殿神社、羽黒山には羽黒神社、羽山には月出羽三山が勧請され祀られている。 -
こちらにも、石仏が。
信夫山の中腹、東側の岸壁に彫られた麿崖仏群です。
平安末期のこの地の豪族・伊賀良目氏の持仏、聖観音を安置したのがはじまりとされています。現在の観音堂は慶長19年(1614)に再建されたものです。江戸時代には麿崖に三十三観音が刻まれるようになり、人々の信仰を集めました。 -
【岩屋観音】
古くから「岩屋観音」の名で親しまれてきたこの地は民衆の素朴な霊場です。
それは平安末期から鎌倉期にかけて五十辺の「館」に居館をかまえてきた豪族,伊賀良目氏が持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まるものと思われますが,遠い都の貴族たちの三十三観音巡拝の風が地方の民衆にまで普及するにつれて,西国三十三観音の磨崖仏が彫られ,現在の「岩屋観音」が形成されました。その時期は宝永六~七年(1709~10)前後と思われます。
ともあれ,市内唯一の磨崖仏であり,かつ三十三観音のほか六十体にもおよぶ供養仏が群像をなしている偉観は他に類例が少く,そのできばえも素直で美しく,民衆の信仰の敬虔なこころをよく伝えています。 -
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岩谷観音堂の近くに、【岩谷成田山】
鐘楼からさらに上ると、「岩谷成田山不動明王」 がある。一見して民家と見える建屋である。
さらに坂道を登ると山腹に、岩谷成田山不動明王がある。
東山道の岑越駅のあった信夫山南麓の森谷町には成田山新勝寺の末寺・成田山不動院がある。 -
さあ下ります。
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成田山の参道は、この石段です。石段を降りて、再び街道歩きに向かう
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『大日如来像】がある。
享保年間(1730)の頃、天台宗松尾山本福寺として、東面して建立されたが元治2年(1864)の頃に類焼した。再建され、大日堂は残ったが、本福寺は廃寺となったと伝えられる。 -
【本内八幡神社】 への参道】
本内八幡神社は、本内館(もとうちやかた)のあったところで、本殿の周囲には、L字型の土塁が残っているとのこと。 -
【石森神社】
八反田川を渡ると、左に「石森神社」がある。街道から少し離れているが、訪れると拝殿前には狛犬ではなく、狐が鎮座していた。社号標には石森稲荷神社とあることから、もとは稲荷神社で、近隣の諸神社が合祀又は合体され、地名を冠した社名に改称したのではないかと考えられるとのこと。 -
石森神社の本堂に向かっています。それにしても、階段を上った 両側に配置された、自然石の巨大な常夜灯には圧倒される。
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拝殿前には狛犬ではなく、狐が鎮座していた。
八反田川を渡ると左側に【石森神社】がある。社号標には、石森稲荷神社と記してある。鎌田石ヶ森にある神社で、平安時代に創建されたようだ。 -
同じ敷地にある古峰神社
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同じくお稲荷さん。
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丁度桜も散ってしまている。石森神社を離れ、再び街道へ。
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福島市瀬上町の本町に来ると、右側にある【浄土真宗台巌寺】
ここの公孫樹は樹高15mで福島市保存樹に指定されている。また伊達郡国見町石母田 字中ノ内にある石母田供養石塔(国史跡)の拓本を取っての模刻は市有形文化財に指定されている。享和3年(1803年)に桑折村の名主久保勝直により作成 されたものである。 -
直ぐ隣には、信達三十三観音13番札所の 「龍源寺(りゅうげんじ)」 がある。
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【西念法師霊堂、諏訪神社】
街道左側に、西念法師霊堂と、その後ろに諏訪神社と彫られた大きな石柱がある。
西念は信州高井の生まれで、親鸞の弟子二十四輩との一人とか。その人を祀ったお堂なであろう -
門構えの立派な旧家がある。やはり、旧街道は先祖の精神を大事に守っている家があるからだろうか。黒瓦の重厚な門構えである
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立派な佇まい。街道沿いの旧家かな。赤瓦葺の重厚な門構えである
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桑折宿枡形の最初の角を曲がったとこにあるのが、この【火伏防不動尊】の幟の建っている宝積(ほうしゃく)寺である。
鎌倉時代後期の長野善光寺様式の銅でできた仏像が安置されている。
この背後には諏訪神社がある。伊達氏が城の守護として、創建した神社だ。 -
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【旧伊達郡役所】
明治16年(1883)に造られた洋風建築で、 大正15年(1926)まで郡役所として使われ、その後も公共施設の事務所として利用された。建設当初から位置が変わらない事でも珍しいとされ昭和52年 に国重要文化財に指定されている。「旧伊達郡役所」は桑折町の大工山内幸之助と銀作が棟梁として造られた所謂擬洋風建築である。
【旧伊達郡役所】 重要文化財(建造物)(昭和52年6月27日指定)
この建物は、明治十六年(1883)十月、三島通庸県令のときに、桑折町の大工棟梁山内幸之助・銀作の両氏によって建てられた。
洋風官衙建築として、東北地方に残る優品の一つであり、当時の形態と位置を同じくして現存する珍しい建物であることが高く評価されています。
大正十五年(1926)七月一日郡役所の制度が廃止になるまでの約四十三年間、郡行政の役割を果たしてきました。その後、伊達郡各種団体事務所、更に県の出先機関としての地方事務所が設置されてきましたが、昭和四十四年三月県行政の改革により廃止となり、昭和四十九年五月七日県重要文化財に指定され、同年七月二日桑折町に移管されました。
昭和五十二年国重要文化財指定と同時に、文化庁並びに県の指導と援助により、半解体保存修理工事に着手し、十九ヶ月を経て昭和五十四年六月三十日滞りなく完成しました。
往時を忍ぶ威厳ある風格は、町のシンボルとして、この貴重な国民的文化遺産を永く後世に伝えるものであります。
昭和五十六年三月 桑折町教育委員会 -
街道右側に旧伊達郡郡役所が残されている。この建物は、明治16年に県令三島通庸(みちつね)によって、前任地の西田川郡役所に似せて建てられた。物見塔のある総2階左右対称の洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。
河岸段丘の上にあり、阿武隈川を眼下にした目立つ建物であった。ここは、江戸時代は桑折陣屋のあったところである。 -
「大安寺」
創建は明応年間(1492?1500)に開山されたと言われていて、現在の福島県を中心に大きな影響力を与えた無能上人(無能寺住職)は大 安寺で得度を受けたとされる。明和5年(1768)に大火によって堂宇が焼失し多くの寺宝や記録などを失ったが、桑折藩3代藩主松平忠恒が寄進した梵鐘や涅槃大掛図(桑折町指定有形文化財)などが残っている。正面の鐘楼を兼ねた山門は竜宮門と呼ばれる楼門の形式の1つである。 -
「大安寺」
立派な木造の旧家(左のフォト)の横に、大安寺の参道がある。
正面は大安寺の竜宮門で、この梵鐘は文政元年(1818年)に再鋳されたものだ。
桑折町指定文化財に指定されている。
説明板によると境内には、
この大安寺を開基した桑折本陣初代・佐藤新右衛門家忠の墓(寛永14年、1638年歿)や、4代目佐藤家当主で蕉門俳人の佐藤馬耳(寛延4年、1752年歿)、
国学者、万葉歌人の安藤野雁(慶應3年、1868年歿)、
桑折代官竹内平右衛門(文化10年、1814歿)、
弘前藩家老高倉相模守盛隆(文政9年、1827年歿)等の墓があるとのこと。 -
【無能寺】
門前に大きな【明治天皇桑折御小休所】碑がある。
この名称も気になるが、これは無能上人からきている。
御蔭廼松 明治14年明治天皇行幸の折、無能寺が御休み処となり本堂前の老松をめでて、お付きが詠んだ。「おおきみの みかげの松の 深みどり 夏の涼しき 色に見えつつ」
縁起によると、慶長元年(1596年)に良然上人が創建し、当初は正徳寺と称していた。その後無能上人(1683~1719年)が当山を中心に教えを広め、多くの信徒を集めた。入寂後に弟子が無能上人の徳を崇め、寺名を「無能寺」と改称したとのこと。
無能寺は、律院(りついん)として多くの僧の修行の場であった。
寺門が屋根つきの冠木門と珍しい形であった。 -
東北本線桑折駅舎。JR桑折駅は伊達郡では一番最初の明治20年に開業している。
東京から285.9kmの距離だ。 -
桑折駅前の広場ー
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【桑折町の追分け】(右奥州街道 左羽州街道)
奥州街道と羽 州街道の追分である。 羽州街道は桑折宿から分岐して青森県の油川を結ぶ街道で出羽地方の交通の要衝であり、江戸期には、ここを通る参勤交代の大名は十数藩 にも及んだとのこと。
【奥州街道・羽州街道 追分】
ここは東北地方の二大街道、奥州街道と羽州街道の分岐点、所謂「追分」です。
五街道としての奥州街道は江戸日本橋から白河までですが、延長線上のそれ以北の福島、仙台、盛岡を経て青森から津軽半島の三厩へ至る街道も、奥州街道と呼ばれていました。全体で百十四次に及ぶ日本最長の街道といえ、現在は国道4号が代替となっています。
羽州街道は、ここ桑折宿で奥州街道と分岐し、七ヶ宿、上山、山形、秋田、弘前を通り、油川宿(青森県)で奥州街道と合流する五十八次の街道でした。参勤交代で多い時には13家の大名が往来し、また福島県内や関東地方から出羽三山への参詣路となった信仰の道でもあり、また物資や文化を運ぶ主要街道でした。現在は国道113号、13号、7号が代替となっています。
追分にある、道標には「右 奥州仙台道」「左 羽州最上道」と刻まれています。
宝永五年(1708)の建立とされています。
安永8年(1779)に詠まれた句碑「夕暮れに心の通う柳かな」は、江戸や陸奥、出羽の交流の要衝となった桑折宿の文化を窺うことができます。
これらの追分の姿は、平成18年12月江戸時代の絵に基づいて復元されたもので、往時をしのぶことができるようになりました。 -
安永8年(1779年)に詠まれた柳の句碑「夕暮れに心の通う柳かな」と、庚申塔もある。
柳の句碑は、約230年前に俳句の師匠であったト而翁の急逝を悼み、その徳を慕って桑折社中の友がここ追分に建てたものである。
ト而翁の句は、安永8年(1780年)夏五月
「夕暮な 恋の通婦 柳哉」と読めた。
当時の桑折宿は、参勤交代や芭蕉の奥の細道行脚以降文人の往来が多く、文芸の情報が得られやすく、俳諧等への関心も高かった。
特に、佐藤馬耳の仙台藩主吉村公との歌会や、芭蕉追善句会の歌仙を巻くなどの活躍で俳諧が盛んとなった。 -
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