2015/05/15 - 2015/05/18
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品行方正さん
父の七回忌で久しぶりの帰省
その少し前に
【津軽藩三代藩主は関ヶ原で敗れた石田三成の孫。
外様大名の取りつぶしの嵐が吹き荒れる中彼を養育し、きちんと次期藩主に収めたのが徳川家から二代信牧の正室として送られた姫。
何と彼女は混乱を避けるため実の息子(取りつぶされた福島家の血を引く)を死に追いやった】
という話を聞き、これはついでに旅行記にしてみようと思った次第です。
桜の時期にはあんなに注目されるのに、本州最北の弱小ローカル藩ゆえその成り立ちは誰にも興味を持たれずここまで来たが、結構ドラマチック。
まず桜とのコラボで有名な天守閣と言われる建物は本来は「御三階櫓」と呼ばれるもの。
創建時には五層五階の大きな天守閣を備えていた。
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実は弘前城は巨大な城郭です。
弱小大名には不相応な大きさ(藩の兵力では広い城全体の守備すらできない)でその理由には様々な説がある。
津軽藩は南部藩を裏切った形で登場し、しかも当時の代表的な名門である北畠家を滅亡に追いやったことで地元勢力からも非難の目で見られていた。
そこで自分の正当性を主張するための過程でかなり都合よく事実を書き換えている部分があり、藩の公式記録はいわば物語のようなもの・・。
しかし現実の歴史は検証できる形でちゃんと残されているような気がする。 -
追手門も大きい・・。
一体何に備えてこれ程までに?という疑問が湧くが、それこそが答えのような気がする。
そこで独断と偏見をもって今回自分が一番納得した説を・・。
それは江戸幕府の総合プロデューサーであった天海僧正のプロジェクトの一部という説。
つまりこの城は他の奥州諸大名や蝦夷地に何かあった時のための幕府軍の駐屯基地であり、津軽藩は城を預かって管理するのがお役目。
とても自前の財力だけで築城したとは思えない巨大城郭、外様大名の築城には特に厳しかった幕府が弱小大名の城に五層五階の大天守など認めるはずがない。
しかも当時は外様大名の城には珍しく城内に東照宮まで建設されている。
伊達政宗は天守閣の建設自体を諦めている。 -
この城は二代信牧の時に完成したが、そこで信牧と天海僧正の関係を・・
長男の信建は豊臣家の元に送られていたが家康の台頭に備え次男(すぐ上の兄は早逝)信牧は徳川家の元に送られた。
そこで秀忠の小姓に取り立てられ天海僧正に見込まれる事になる。
自分の弟子として寛海という名前まで授けている。
伊達家と共に重要視した福島家に一旦嫁いだ家康の養女(早くに生き別れした母の再婚先には殊の外目をかけ、姪にあたる姫は家康の手元で実の子同様に扱われた)を信牧の正室にしたのは、城内の東照宮も含めて弘前城は幕府の出城として機能させるつもりが有ったと思えば納得がいく。 -
何より弱小外様大名が望んで徳川家から正室を迎えられるわけも無く「満天姫」と呼ばれた彼女も、石田三成の娘が生んだ子を世継ぎとして大切に養育し後に津軽家の災いに成りかねない存在になってしまった実の息子への対応(一説には毒殺)をみても天海プロジェクトの中での自分の役割を認識していたのだと思う。
満天姫はこの話の見返りに家康が家宝として残すつもりだった「関ヶ原合戦屏風」二双のうち一双を要求して認めさせ津軽の地まで持って来た。
自分と家康の絆、そしてこのプロジェクトの重要性の両方の確認のためには充分参考になったと思われる。 -
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当時津軽家が三成の子の兄妹を保護した事も、保護した信建ではなく何と自分の弟子である信牧が三成の娘である「辰子」と実質夫婦として生活していた事を天海僧正が知らなかったはずは無い。
兄妹の保護を特に幕府から責められた様子も無いし辰子の存在を知った上で満天姫が津軽家の正室となったわけだが、都合の良い事に偶然?津軽家には遠く離れた飛び地の領地があった。
その地は今の群馬県の大館。
その後辰子はここの屋敷で暮らすことになり信牧は江戸への行き帰りには必ず立ち寄り、目出度く世継ぎの男子が誕生することになった。
辰子は若くして亡くなってしまい、満天姫にはついに男子の誕生がなかったため辰子の生んだ子は大館を離れて満天姫に引き取られることになる。 -
何といっても始まりはこの人、津軽為信から。
デビューの仕方が過激だったため自らの正当性の主張や周りの支持の獲得には相当苦労している。
世が乱れていると見るやいち早く切り取り自由の世界に飛び込んでやりたい放題。中央政権が出来そうだと見るやいち早く政権からの認知を獲得して既成事実化を図る・・。
本人は三回もの秀吉詣でを画策したが天候や周りの勢力に阻まれて失敗。
やっと四回目に代理を派遣して実現するが、何とこれが大成功。
派遣した人物が適任だったのか、この時に秀吉の注目を引き特に石田三成とは特別な関係を築くことに成功する。
直接会えるようになってからはさらに輪をかけた事は言うまでもない。 -
≪かつて城郭の一部として整備された禅林三十三ケ寺地区≫
せっかく京に上ったついでにと大胆な工作をする。
地元に伝わるご落胤伝説を申し立て、多額の金品を送って何と近衛家に連なる家だと認めてもらい家紋の使用も許可される。
さらに金品を送って養子になってしまう。
この結果、関白になるため近衛家の養子になっていた秀吉とは義理の兄弟という事になる。
南部藩がれっきとした甲斐源氏であるため、対抗して少しでも箔をつけたかったらしい。 -
積極的に豊臣政権との密接な関係を築き、身の安全を図りたい為信は秀吉の元に長男信建を送り、これが秀頼の小姓に取り立てられる。
自らは政権の実力者と見込んだ三成との関係を一層深いものとし、あとから結果を見れば人間関係としても特別なものになったと思われる。
一方縁は異なもので信建と同じ秀頼の小姓仲間に三成の二男がいて、この2人も友人として特別な存在となる。
そしてこのことが津軽家に三成の血が入る元の元となる。 -
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≪一番奥に津軽家の菩提寺である長勝寺がひかえる≫
関ヶ原敗戦の報を聞いてまず頭に浮かぶのは一族の粛清。
自分も最近まで何の根拠もなく漠然と三成の一族は皆殺されたと思っていた。
子供のころ教科書の石田三成の肖像画が弘前にあると書いてあり、不思議な感じがした記憶があるがそのままスルーしてしまった。
先生も特に説明してくれなかったし・・。 -
敗戦の報を知った信建は親友である三成の二男を津軽に匿おうと説得する。
説得された彼は当時「ねね」のもとで暮らしていた妹の辰子を連れて津軽へと落ち延びる。
父の為信もこの行為を責めることも無く、二男は無難に身分を捨てて農民となり妹は城内で生活するようになる。
そしてこれが後に信牧と辰子がめぐり合うきっかけとなる。 -
裏から見ても結構立派な三門。
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拝観料を払えばガイド付きで内部などを案内してもらえる。
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長勝寺の奥は突然崖になっていて遠くに岩木山がみえる・・城郭の一部を構成し第二の城と位置付けられた所以である。
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≪三成の子孫の墓がある宗徳寺≫
二男は身分を捨て杉山姓を名乗り農民となるが、彼の子孫は藩に取り立てられて武士として復活する。 -
そのためきちんとした寺にきちんとした墓がある。
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驚くことに墓碑の姓は「豊臣」を名乗っている。
石田家が豊臣姓を授かった記録自体は無いが、ここまでする以上記録が残っていないだけで、秀吉の実家である木下家と同様に授かっていたのかも知れない?
それにしても時代を考えれば大胆な行為。
書かなければ書かなくても良いような気がするが・・。
三成の子供たちの保護、娘の辰子と藩主の関係、三成の孫の三代目藩主を認め、さらには子孫の杉山家が豊臣姓を名乗ってもお咎めなし。
徳川幕府は一連の事に対して何故にかくも寛容なのでしょうか。 -
幕府と天海僧正の全面バックアップのもとで信牧は城下の整備や権威づけのための様々な事業を手掛けている。
その内の一つが岩木山神社の改修工事。
日光の東照宮は真上に北極星を望むことで有名だが、この神社の真上には岩木山の山頂を望むように作られている。 -
その当時ですでに数百年の歴史があった神社なので、相当大がかりな工事だったと思われる。
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両脇で目を光らせる門番?
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日光と比べたらナンですが・・
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目いっぱい頑張った事は間違いない。
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東北最古の五重塔がある最勝院。
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敵、味方に関わらず戦死者の霊を弔うために建造された。
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これが自慢の塔・・平和な時代になって三成の曾孫である四代藩主の時代につくられた。
江戸時代を徳川べったりで快調に歩みだした津軽藩だが、秀吉時代に存続を左右する一大危機に追い込まれる。
ここが一番知られていない部分であり、ここを知れば様々な矛盾も理解できそうな気がする。
最大有力者の秀吉から正式な政権の代表者としての秀吉になったがゆえのピンチであった。
小田原攻めの後、奥州仕置きの最終的な正式決定がなされることになっていた。
動きの軽さが何よりもの武器である為信はわずか8人で沼津あたりまで駆けつけ、小田原に向かう秀吉を出迎えて石田三成を通じて最大有力者たる秀吉からいち早く内諾を得て安堵していた。 -
これまで常に出し抜かれていた南部はあくまでも正攻法であった。
為信には遅れをとったものの大軍勢を引き連れ、前田利家を通じてこちらは正式な政権の代表者たる秀吉の政府機関に津軽の「惣無事令」違反を訴え出た。
伊達政宗をも苦しめた例の法律である。
結果、政宗とは違い実際に処分対象になってしまう。
これで一巻の終わりである。
これから先の津軽家の歴史は無いはずであった。 -
この決定を覆したのが石田三成であった。
策略なのか剛腕なのか秀吉自身の決定にしてしまったか、とにかく一旦決定してしまったものをひっくり返してくれたのである。
南部にしてみればどこまでも卑怯な行為に見えるし、ますます津軽への憎しみを増長させる事となり、江戸の時代になってから津軽に対する事件を引き起こすがこれもその一因かもしれない。
反対に為信にとっては恩人の中の大恩人。
何にも代えがたい恩として感謝したはずである。 -
その為信も家康の力にすり寄る動きを見せる。
二男信牧を江戸に送り、関ヶ原は東軍の立場で行動する。信牧は徳川の信頼が厚くそれゆえ江戸時代になってから幕府との蜜月関係を築く事ができた。
一方、そうなってからも長男の信建は大阪中心の生活で豊臣家に近い立場であった。
為信の次を継ぐ存在として幕府に認知してもらってからも何故かそうであったらしい。
結局信建は若くして京都で亡くなってしまうが、為信はわざわざ京都まで看病に出向き息子の死を見届けるや本人も間もなく京都でそのまま最後をむかえてしまう。
長男をそこまでして上方に置いていた意図はいったい何だったのだろうか・・。
これで晴れて信牧が津軽藩二代目当主となるが、天海僧正にとってはまさに千載一遇のチャンス。
思い通りに今後の津軽藩としての振る舞い方をレクチャーしたに違いない。 -
≪津軽家の霊廟≫
幕府からの預かりもののような城を持ち城とし正室も徳川家から迎え城内には東照宮まで存在する徳川3点セット完備の弘前城内に、為信の遺命により絶対開けてはならないという祠があった。
明治になって禁も解けたという事で調査する事になった。
為信自身のミイラ説もあった中で出てきた物は意外にも秀吉の木像であった。
この城のご本尊は豊臣秀吉だと言っているようなものである。
あの時代、バレた時の事を考えれば大胆にも程がある。
しかしこれこそがすべてを語っているような気がする。
津軽家が今存在できている理由はただ一つ。それはあの時の豊臣政権と石田三成の恩以外には考えられない。
あれが無ければ自分たちはここに存在していない・・。
戦国の世に生きて今ここで自分が死ぬわけにいかなければ敵味方の立場に立たざるを得ない時もあるが、その結果残された者がいれば手を差し伸べるのは当然である。
三成の子供たちの保護などはして当たり前と思っていたはずである。
祠には子孫代々あの恩は決して忘れるなとの思いが込められているに違いない。
以上、独断と偏見、そして無責任な想像を交えたお話でした。 -
ここからは今回の帰省の周辺情報です。
新幹線で一路青森へ・・。 -
駅周辺をブラついてみる・・
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青森のレインボウブリッジ?
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青森の代表的な物産はすべてここにある。
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内部の様子。
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ねぶたを展示している観光施設。
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青森滞在中の三日間の朝食。
有名になったのっけ丼。 -
魚貝は勿論・・・
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おしんこ各種もお好み次第で・・・
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こんな風にゴハンの上に乗っけてもらう・・・
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それからこの様なスペースで味噌汁やお茶と共にいただきます。
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もう一ヶ所は大通りに面したこちら・・
地下に市場があります。 -
ここがメインの入口。
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中の様子・・
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ここでも朝食を食べてみた。
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この様なメニューの中から・・
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今回はこちらをチョイス。
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3日目の朝は駅中の食堂風なレストラン。
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メニューはいっぱいあるが、何と言っても個人的にはシジミラーメンがおススメ。
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旅行記のネタ集めは弘前で・・
駅前の様子。 -
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やはりコレが青森県の象徴です。
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弘前では岩木山を望み・・
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青森からは八甲田山を望む。
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これにて全日程が無事終了。
最近は山が見えない日もあるので今回はラッキー。
旅行としても・・まあいい旅行でした。
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