2014/10/13 - 2014/10/15
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ANZdrifterさん
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別旅行記“福島県国見町・・・・”の奥州合戦(1189年8月)の直前のことです。
平安朝の貴族社会に対する武士の自立であった鎌倉幕府の中で、義経は王朝側に鐘愛されたため1189年4月に非業の死をとげた。それが悲劇の英雄とされ「義経不死伝説・義経北行伝説」が生まれ、岩手県の北東海岸部から青森県にかけて広く伝説地がある。
この伝説を大雑把に見ると、岩手県では南朝の遺臣や、味方する修験者・山伏に、追手が絡む伝説で、青森県では追手が姿を消し、青森市までの各所で身辺に女性が出現するが、蝦夷地に渡る前の日本海側津軽の福島城へは侍だけで訪れている、と言えるかもしれない。
2012年には八戸の伝説を紹介しましたが、今回は伝説がすくない北上山地横断コースは省略し宮古から八戸までの伝説を訪ねました。表紙写真は修験者がいる普代村の鵜鳥(うのとり)神社です。
この義経北行伝説は、水戸光圀が北海道に探検隊を派遣するなど、大いに関心を呼んだお話ですが、このような英雄不死伝説は事実関係に不審点があるから生まれます。
義経の場合は次のとおり。
1)1187年に義経の後ろ盾であった藤原秀衡が没し、1年半後に藤原泰衡に襲われるまで、義経が何も準備していない筈はない。伝説では板橋某に脱出先の探索をさせ、秀衡の死後半年後の 1188年に影武者の杉目太郎行信を平泉に残して、義経主従は北に向かったという。
杉目太郎の首のない遺体は藤原の武将・沼倉小次郎高次が宮城県金成町の信楽寺に葬り「義経身替りの碑」が建っている。
2)1189年4月、泰衡は 500人で10数名の義経主従を襲って火をかけ、焼けた首級を通常2週間の距離を6週間かけて鎌倉へ運んだ。首実検した梶原は義経の首ではないとし、頼朝は見ずに海に捨てさせた。このように、義経の死は確認されていない。
奥州藤原氏の政権を征伐する口実がほしかった頼朝は、二度にわたる停戦の院宣を無視して戦闘を続け、ついに縄文時代から続いた東北の独立国を初めて日本に組み込んだ。
なお、奥州藤原氏が滅んだ半年後に義経蜂起の噂で鎌倉が騒然とした記録があり、鎌倉では義経の死を信じていなかったことが窺われる。
岩手県広域振興局の「義経北行伝説ドライブガイド」「ケイブンシャブックス・義経伝説の謎」などを参考に、北行伝説がのこる各地を結んで逃避行のルートを次のように推定したが、年代については伝説ごとに齟齬がある。
1188年に義経主従は、平泉から東の山中の観福寺に入り、北上して江刺の玉崎神社から東方の北上山地を横断して葉山を登り、上郷で風呂に入り、八幡家(中村判官堂)に泊まり、海岸の大槌町に出た。大槌町から義経の愛馬伝説の小黒を通り、山を越えて川井、茂市と回り道をして、宮古の長澤判官堂をへて修験者の地・黒森神社に滞在した。
義経は黒森(九郎森)神社には3年3か月滞在し、大般若経600巻を写経して納めたという。所蔵の「判官稲荷神社縁起」では藤原秀衡の錦嚢にあった書に蝦夷地への経路が示されていたという。
なお、この黒森山は垂仁天皇の皇子が埋葬されたとも、南北朝時代の長慶天皇の陵とも言われるほか、修験の霊場で社家衆(山伏)もおり、鞍馬山で修業した義経には居心地が良かったと思われる。
また、大槌から海岸沿いを直進せずに回り道をしたのは、茂市家の祖が義経と静御前の遺児とされることから、茂市との特別なつながりが推察される。山田町に残る伝説は宮古滞在中に訪問したと説明できる。
宮古周辺の義経に関する事跡は、義経の遺徳をしのんだ「判官堂・判官神社」のほか、古文書もこの地区に多い。今回の見聞では、義経伝説の分布範囲は山伏が主導する「黒森神楽」の巡行エリアと重複していると見える。
宮古以後は源氏一統の久昌寺に挨拶し、諏訪神社に遺児を葬り、畠山重忠に追われるなどがあり、田老、田野畑と海岸筋の村々を通り、普代村で少時滞在して鵜鳥(うねとり)神社に詣でてから久慈まで進んでいる。
途中の野田村には「蝦夷に落ちる」と書いた中野文書がある。 このように宮古以後は追手の影が付きまとっている。
青森県の種差海岸には船で到着しているが、伝説の分布や陸地の地形から判断すれば、久慈から船で北上して青森県に入ったとみるのが妥当であろう。
以上の伝説の原型は、室町期の「御伽草紙」の「御曹子島渡」説話だといわれているが、どのようにして岩手県の各地にそれぞれふさわしい遺品が置かれ、矛盾のない説話が語り継がれるようになったのか、修験者・山伏が語り継いだとしても、考えれば考えるほど楽しいことです。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
JR山田線の茂市(もいち)駅です。
駅の近くは「日陰地区」で義経一行が参拝した神社は「日向地区」にある。
駅から左手に向かい、国道の橋をくぐり、旧道の橋を渡って徒歩10分程度で「日向地区」です。 -
駅から「昔の役場」を尋ねながら歩いてきて曲がりました。
右が宮古市役所の新里支所(旧新里村役場)。左が消防署です。
突き当りに鳥居が見えます。 -
義経伝説北行コース の 案内板があります。
主旨は「判官びいき」の伝説・・・・という立場から説明しています。
社名は「日向日月神社」ですがここでは「日向神鏡宮」でした。 -
入り口の鳥居。
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義経主従が参詣したそうですが、意外に小さいお宮です。
保元2年(1157年)、つまり義経が生まれる2年前の棟札があるそうです。
義経の遺児・佐々木四郎太郎義高を祖とする茂市家の氏神とされている。 -
日陰地区に戻って、突き当りに見える茂市小学校の右をぐるっと回って判官神社、通称「はんがんさま」を訪ねます。
地区では唯一の横断歩道の「ゼブラマーク」が小学校入り口です。
この小学校を迂回します。
このほか、茂市よりも西、盛岡寄りの箱石にも判官神社があります。 -
小学校の山側を通るバイパス国道に近ずくと鳥居と案内板があります。
地元では「はんがんさま」と呼ばれている判官神社です。
ほかに長澤にも判官堂があり、そこには義経の石像があるそうです。 -
案内板の説明は主旨が同じで、判官びいきの伝説であることを述べて、記載のごく一部がその場所の説明です。
海沿いの道をたどったと書いてあります。 -
石積みの参道がありますが、川原石で丸いのでグラグラ動くのもあります。
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国道のすぐ下に鎮座しています。後ろの壁は国道です。
諸国行脚の老僧が建立したと言われるが、義経主従が参詣して経を納めたとも、
老僧が義経の写経を納めたともされる。
いずれにせよ、義経亡き後にその遺徳をしのんだ祠です。 -
宮古市内の黒森神社に向かいます。
社殿はこの一の鳥居から1500メートル くらいの山の中です。
黒森山(九郎森山)は垂仁天皇の皇子を」葬ったとも、南北朝期の長慶天皇の陵とも言われる。鬱蒼とした森林の山です。
長慶天皇は14世紀後半の天皇で、後亀山天皇に譲位したあと、南朝勢を集めて各地を潜幸したとの伝説があり、全国に御陵地の伝説地がある。 -
旧本殿の位置を示す石柱。
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石段の上に指定文化財の本殿がある。棟札に1190年、宝物の鉄鉢に1337年などの年号があるほか、南部家の造営記録が1711年まで9回記録されている。
修験山伏の霊場で、永らく女人禁制であった。
付近の地名には中坊、柿坊、大黒坊など社家衆にかかわる地名が残っている。
当社に伝わる黒森神楽は、中世の芸能・史料が残っているとして国指定の重要無形民俗文化財になっている。権現様と呼ばれる20余りの獅子頭は南北朝以来の年代順に保存されているという。
神楽は山伏によって保存され、冬季に釜石から久慈までの各地を、南北隔年に廻るというが、その範囲は義経にかかわる伝説地や、古文書の分布範囲とほとんど重なっており、伝説について修験者が果たした役割を示唆しているように見える。 -
台風19号の直前の山中で、巨木が多く暗かったので写真が良くない。
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本殿の後ろには 境内社がずらりと並んでいた。
雨に追われて それぞれについて詳しく拝見せぬまま帰りました。 -
宮古の町中にある判官稲荷神社です。義経は黒森山で写経・納経したあと、この地に鎧を埋めて社殿を設けてから北に向かった、という。
祭神は豊受姫と書いてあるが、地元では祭神は義経だという。
石段を登るのを避けて、この左手の牛乳屋の先にある亀甲模様コンクリートの小路を登りました。乗用車でも登れる葬儀屋さんの道路で上には広い駐車場があります。 -
駐車場のすぐさきの鳥居、その左奥に 判官稲荷神社の社殿らしからぬ社殿があります。
眺望がすばらしいところです。 -
これが 判官稲荷神社。この左には小さな稲荷社がいくつも並んでいる。
白い張り紙には由緒書きをほしい方は 横山八幡宮社務所へとありました。 -
これは宮古駅近くの横山八幡宮の二の鳥居。
横山八幡宮は奥の石段を登ったところにあります。
まっすぐ登るのが男坂で、途中に左に入る女坂があります。
この鳥居の左手前にある社務所で、黒森神社、判官稲荷神社と横山八幡宮の由緒書きをいただきました、
権禰宜、禰宜、宮司と3人の神職がいらっしゃるようです。 -
横山八幡宮の社伝では白鳳9年(680年)の創建で、和同年間には猿丸大夫が勅勘を蒙ってここの宮守になったと謂う。
1199年源義経一行 16名が参篭し、大般若経100巻を奉納したというが、これが正しければ、平泉から宮古まで、10年かけて北上山地を横断していることになり、宮古以後の伝説と年代のすり合わせができていない。
家臣の鈴木三郎重家は老齢のためこの地「近内・ちかない」に残り、鈴木家の祖となり、当社の宮守となったという。現在でも慣例により例大祭の供奉はこの地区が担当しているという。
江戸期、南部家の崇敬篤く、ここの大祭を見届けてから盛岡の祭りを行った。 -
境内の隅に 立派な石塔がありました。灯篭かもしれない。
相輪が切れてしまいましたが、写真に残しました。
この左の石段をおりると、宝物殿らしき建物があります。
女坂におりるコースです。 -
JRの山田線は、震災の影響で宮古ー釜石間は不通ですが、バスが通っています。
津軽石という休業中のJRの駅の近く、津軽石新町でバスを降りて判官神社を訪ねました。
宮古市の観光文化交流協会の担当者はとても親切で、出発前に問い合わせたら現地踏査して状況を知らせてくれました。「神社は丘の上にあり、道は草が茂っていて判然とせず、登りに10分かかった、高齢者は無理せぬように」とのことでした。
帰宅してからネット上で参考資料をさがしたら「必死に探したが神社が見当たらなかった」とか、地元民はこの神社のことを知らない、という情報でした(義経伝説の謎)。 -
近寄ってみると、例の案内板が建っていましたが、地元の老婆に聞いたら「鳥居の先の大きな石が判官様だ」ということで、地元の老婆も丘の上にある神社や、そこに登る道は知りませんでした。
文字が判然としない案内板によれば、義経一行がこの地に仮の館を営んだあと北に向かったが、去った後に「判官社」として建てられた。堂内には白斑の馬に乗る衣冠束帯の神像が安置されており、源義経の像であるという。
人が近寄れないようなところに神像を放置しておいて大丈夫かなと、心配になりました。 -
宮古周辺を終えて、三陸鉄道の北リアス線で移動です。
これがサンテツの宮古駅で、この左隣にJRの宮古駅があります。
両方に売店がありますが宮古市のパンフレットにある土産物はそろっていません。
JR駅には立ち食いソバがあります。 -
宮古から約1時間で普代駅に到着です。
宮古の黒森神社とおなじように、「神楽」があります。
一日三便くらいの村営バスしかないのでタクシーを予約しておきました -
タクシーで、鵜鳥神社(うのとりじんじゃ)を訪れました。卯子酉(うねとり)とも書いてありました。 表紙写真にあげましたが、鳥居の形が見事でした。
残念ながら宮司が不在で、お話を伺うことができませんでしたが、宮古の黒森神社とかかわりがあるそうで、ここにも神楽があります。修験者・山伏・義経伝説の分布などに関係があるかもしれないと感じました。 -
例の案内板です。
金色の鵜を見た義経が、7日7夜、道中の守護を祈って、神のお告げを聞き、山頂に鵜鳥大明神を祀った、とのこと。
なお、ここにも黒森神社と同じく、古くからの神楽がある。 -
これは拝殿。本殿は山頂にある。
登る途中には義経が紙縒りで道中を占ったという池があるとのことで、登り口を覗いてみた。 -
このような杉林の中の暗い道で、クマに注意という札が立っていました。
-
鵜鳥神社を辞して、すぐ下の鳥居という集落です。
集落の後ろ、手前の畑と杉林の間に鳥居があります。 -
100メートルほどですが、林の中の小路を登ったところに、小さい祠が二つ立っています。
これは清河羽黒権現で、清河・羽黒・権現の三名の山伏が義経を守って亡くなったという説話があり、その三名を祀っています。
この話は、義経と修験者との密接な関係を伺わせます。なお、ここが山伏が伝説にでてくる最北の地です。
なお、石碑には清川と刻んであるが、最上川沿いの清河の山伏と書いた書物もあり、義経一行が羽黒修験の者であると自称して落ち延びてきたという伝説と符合します。
(話題がそれますが清河は、幕末の尊攘派志士・清河八郎の出身地です) -
案内してくれた地元の方が「ごめんください」と言って扉を開けてくれました。
瞥見したところ、ご神体らしきものは見えなかったが、板で作った素朴な合掌像が見えた。 -
その隣にある 藤九郎様。
追手の比企藤九郎盛長が、義経と対峙するも、人徳にうたれて家来になった、という伝説である。
追手の伝説は 次の久慈が北限である。 -
奥の赤く塗られた社が清河羽黒権現で、手前が藤九郎様です。
うしろの壊れかけた小祠は? -
サンテツ・三陸鉄道北リアス線で終点の久慈です。
ここにも義経伝説が残っています。 -
諏訪神社です。
追手の畠山重忠が 落ち延びてゆく義経に同情し、その才を惜しんでわざと矢を外したところとされています。これが、追手が迫る最後の地です。
そして、義経はここから船で北上して、青森県の種差海岸に上陸します。
何も証拠がいらない物語的な伝説ですが、何世紀にもわたって語り継がれてきたことが、人々の英雄不死の希望を示していると4思います。 -
本殿と拝殿が久慈市の指定文化財になっています。
-
これが 岩手県広域振興局の「義経北行伝説ドライブガイド」とても便利でした。
左が2012年に入手したもので、右は2014年に入手した新版。
内容はほとんど同じだった。
伝説の歴史学的検討は、中公新書「義経伝説」高橋富雄が最適で、これしかない。
ほかにケイブンシャブックスの「成吉思汗は源義経か・義経伝説の謎」佐々木・大町・横田 共著が、伝説を信じる立場で面白い読み物。
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