2012/10/30 - 2012/11/01
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hide-bachさん
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芭蕉が歩いた「奥の細道」を辿ります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
(西教寺本堂)
玉藻稲荷神社より引き返し、突き当った道路を左折し、
交差する道を右へ右へと行き、最初の信号を右折すると右側に西教寺がある。
那須の篠原の道は分かに分かれていて、非常に判りづらい。
何度も、交差点で引き返し、引き返ししながら、西教寺に到着した。
奥の細道で、(那須野は目印の無い道で、道なれたこの馬に乗っていき、
馬が止った所で返してくださいと、野良の農夫が馬を貸してくれた。)
と芭蕉が書いている様に、回りが水田の道路は、
地図がなければ動きが取れない。
地図はあっても、折れ曲がる道が判りづらく、
人に尋ねようにも人がいなくて、進むのに苦労する。 -
この西教寺には、曾良の句碑がある。
・かさねとは 八重撫子の 名成るべし 曾良
である。
奥の細道にある、
馬を借りたあとを小さな子が追いかけてくる。
名前を聞くと「かさね」という。そこで曾良が詠んだ句である。 -
(翠桃の墓)
西教寺の手前を左に入り、水田の中を道なりに進むと、
左手に十数基並んだ墓地があり、翠桃の墓がある。
翠桃については、奥の細道で、
(那須の黒羽という所に知人(しりびと)あれば、
是より野越にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
―中略―
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとづる)。)
と書いている。 -
館代とは城代のことで、黒羽の城代 浄法寺桃雪の家と、
弟の翠桃の家を交互に泊まり、奥の細道で最大の十四日間逗留している。
その翠桃のお墓である。
墓碑が並んでいる写真の一番左の墓碑が翠桃のもので、
碑面の「不説軒一忠・・・」までの法名は読むことができる。
(左端が「不説軒」の法名がある翠桃本人のお墓) -
また兄の桃雪の住まいについては、「旧浄法寺邸」として、
芭蕉公園の入り口に復元されている。
旧住居の玄関に、ご近所の女性が数人休んでいらっしゃった。
顔を出して挨拶すると、
「美人が揃っているので驚かれたでしょう。」と声をかけられた。
昔鳴らした美女たちが、玄関先にずらりと並んで休憩中であった。
ボクもそれ相応な年齢であるから、驚きもせず、
「芭蕉はどの部屋に泊まられたのか、どちらの美人の方がご存知ですか?」
とお訪ねすると、中でも少し若作りの人が、
「一番奥の部屋です。」指差して答えた。
「有難うございます」と答えて三間続きの座敷を、外側から見に行く。
城代のお邸にしては少し狭いと思われたが、
今でも田舎、と思える城代の家としては、充分であったに違いない。
(昔の美人が並んでいた旧浄法寺邸) -
(浄法寺邸の一番左の座敷に芭蕉は泊まったと言う)
-
話が脱線してしまった。
翠桃のお墓で、地面が食い込むのではないかと心配しながら、
車をUターンさせ、修験光明寺跡へ向う。
案内に沿って、左折すると三叉路に出て、
どれを行けば良いか車を止めて思案していると、
運良く車が通りかかったので、地図を見せながらお訪ねする。
「一番右側の道を行くと案内があります」男性は親切に教えてくれた。
人っ子一人見ない田舎では、会話をできる人がいて、
お役に立てることが余程嬉しいらしく、
満面の笑みをたたえて教えてくださった。
「修験光明寺跡」は案内看板が、
山すその道路わきの草地に建っているだけで、
修験光明寺行者堂跡らしきものは見えない。
それもその筈、光明寺行者堂跡は左の山の中へ入らなければならない。
(修験光明寺跡の案内) -
(枝が覆いかぶさった山道の階段)
-
左手の木が追いかぶさる山に入ると階段が見える。
これからどんな深い山に登るのかと、恐る恐る昇ると、
階段は意外に少なく、すぐ頂上らしき所についてしまった。
左手を見ると、句碑が建っている。
・夏山に 足駄をおがむ かどでかな はせを
芭蕉の句碑である。
(修験光明寺行者堂跡の句碑) -
修験光明寺行者堂跡と伝えられているが、
今はこの句碑しかない。
この句碑は、阿部能成(あべよししげ)氏の揮毫であるという。
阿部能成氏は、ボクが結婚するころまで、学習院大学の学長で、
もと文部大臣であったので良く覚えている。
今の平成天皇が学ばれたころの学長の筆になるという。
修験光明寺跡をでて、大雄寺へ向う。
(大雄寺)大雄寺 寺・神社・教会
-
修験光明寺跡をでて凡そ四キロ、那珂橋西の信号を右折して、
那珂川を渡る。落ち鮎の簗漁(やなりょう)が盛んな所で、
生きの良い鮎の塩焼きが食べられるのだが、
時間も迫っているし、場所も知らない。
橋を渡って最初の信号を左折すると、黒羽観光交流センターへ出るはずである。
信号を左折すると黒羽観光交流センターはすぐ見つかった。
大田原市役所の黒羽庁舎の中にあるからで、
庁舎は大きな駐車場を備えた立派な建物である。
黒羽観光交流センターを右に見て、最初の交差点を右折すると、
道路は上り坂になり道なりに行くと左手に石柱が見える。
大雄寺で、手前左側に駐車場もある。
その先三〜四十メートル左に芭蕉公園入り口があるはず。
先ずは大雄寺に入る。
参道入り口の両側に石柱があり、
右側に黒羽山、左側に大雄寺の文字が見える。
少し行くと長い階段が見え、
数段上に右手に「不許葷酒入山門」の石柱が建っている。
(「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、
葷酒はねぎ・にらなど臭気のある野菜と酒のことで、
臭気と酒気のある者は山門内に入る事を許可しない、という意味。
永平寺など禅宗のお寺の門前に建てられている事が多い。)
(不許葷酒入山門の石碑) -
石の階段を上がっていくと、左右に仁王の石造が置かれている。
右側が阿形の仁王で左が吽形の石造で、
その間の階段を登ると、山門がある。
山門を抜けると、左手に観音菩薩立像があり、
「黒羽藩主大関氏累代の墓」の案内が左を指している。
(右側の吽像) -
(左側の阿像)
-
(黒羽藩大関氏累代の墓の案内が見える)
-
さらに先にある階段を登ると「大雄寺参禅道場」の墨痕鮮やかな看板が見える。
ここは禅道場への渡り廊下になっている。
渡り廊下を跨ぎ通ると、横に長い見事な総茅葺の本堂、
参禅道場、庫裏が見える。
先客はあるものの、鳥のさえずる声が聞こえるだけで、
水を打ったように静かである。
静かに手を合わせ、頭をたれて本堂から下がる。
(大雄寺参禅道場) -
(渡り廊下)
-
(茅葺の本堂)
-
大雄寺を出て、少し進むと右側に駐車場があり、
芭蕉公園駐車場と書かれている。
左側には、大きな「芭蕉公園」の看板がある。
山道を入ると、すぐ左に階段があり、その上の方に旧浄法寺桃邸跡がある。
芭蕉は「おくのほそ道」に次のように書いている。
「黒羽の館代浄法寺何がしの方の音信(おとづ)る。思ひがけぬ主の悦び、
日夜語りつづけて、其の弟桃翠など云うが、・・・」とある。
芭蕉は黒羽藩大関氏の城代である浄法寺桃雪の家を訪ねた。
大層歓迎されてよほど居心地が良かったのであろう、
其の弟桃翠の家にも泊まったりしながら、
14日間も滞在している。
(芭蕉公園の入り口看板) -
ここに芭蕉句碑、
・山も庭も 動き入るるや 夏座敷 芭蕉
がある。
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