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知恩院界隈散策<br /> 浄土宗の総本山である知恩院、天台宗の寺院である青蓮院、 延暦寺の別院として創建された長楽寺、親鸞聖人の墓所である大谷御廟、明治時代の煙草王「村井吉兵衛」が、約5年の歳月を経て建設した別荘長楽館等を散策しました。

知恩院界隈散策

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2011/05/25 - 2011/05/25

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kubochan

kubochanさん

知恩院界隈散策
 浄土宗の総本山である知恩院、天台宗の寺院である青蓮院、 延暦寺の別院として創建された長楽寺、親鸞聖人の墓所である大谷御廟、明治時代の煙草王「村井吉兵衛」が、約5年の歳月を経て建設した別荘長楽館等を散策しました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄

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  • 知恩院<br /> 京都市東山区林下(りんか)町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺<br />

    知恩院
     京都市東山区林下(りんか)町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺

  • 伽 藍<br /> 知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つ。このうち、上段が開創当初の寺域、中段と下段の大伽藍は江戸時代に徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたもの。<br />

    伽 藍
     知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つ。このうち、上段が開創当初の寺域、中段と下段の大伽藍は江戸時代に徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたもの。

  • 三門(国宝)<br /> 元和7年(1621)、徳川二代将軍秀忠により建立。構造は入母屋造本瓦吹で、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の二重門で、外に掲げられている「華頂山」の額は大きさは畳二畳以上、霊元上皇(1654-1732)の宸筆(天子の直筆(じきひつ)のこと)。

    三門(国宝)
     元和7年(1621)、徳川二代将軍秀忠により建立。構造は入母屋造本瓦吹で、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の二重門で、外に掲げられている「華頂山」の額は大きさは畳二畳以上、霊元上皇(1654-1732)の宸筆(天子の直筆(じきひつ)のこと)。

  •  一般には寺院の門を称して「山門」というのに対し、知恩院の門は「三門」で、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)の意味。<br />  上層部(楼上)内部は、仏堂で、中央に釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽や天女、飛龍が極彩色で描かれていて、荘厳な雰囲気を備えている。 また、七不思議の一つ「白木の棺」がある。トム・クルーズや渡辺謙の映画『ラストサムライ』で、この門と石段が使われた<br />

     一般には寺院の門を称して「山門」というのに対し、知恩院の門は「三門」で、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)の意味。
    上層部(楼上)内部は、仏堂で、中央に釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽や天女、飛龍が極彩色で描かれていて、荘厳な雰囲気を備えている。 また、七不思議の一つ「白木の棺」がある。トム・クルーズや渡辺謙の映画『ラストサムライ』で、この門と石段が使われた

  • 本堂(国宝)<br /> 寛永16年(1639)徳川3代将軍徳川家光が建立。宗祖法然の像を安置することから、御影堂ともいう。入母屋造本瓦葺き、間口44.8m、奥行34.5mの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。建築様式は、外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。 柱間は正面11間、奥行9間で、手前3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の正面5間・奥行5間を内陣とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年に三門とともに国宝に指定される

    本堂(国宝)
     寛永16年(1639)徳川3代将軍徳川家光が建立。宗祖法然の像を安置することから、御影堂ともいう。入母屋造本瓦葺き、間口44.8m、奥行34.5mの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。建築様式は、外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。 柱間は正面11間、奥行9間で、手前3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の正面5間・奥行5間を内陣とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年に三門とともに国宝に指定される

  •  屋根の上の中央部に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。

     屋根の上の中央部に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。

  • 大鐘楼<br /> 延宝6年(1678)建立。ここにある梵鐘(重文)は日本有数の大鐘で、寛永13年(1636)の鋳造、日本三大名鐘の一つ。高さ3.3m、口径2.8m、厚さ30cm、重さ70t。大晦日に僧侶17名により鐘が突かれる風景は、TVでもよく紹介される。<br />

    大鐘楼
     延宝6年(1678)建立。ここにある梵鐘(重文)は日本有数の大鐘で、寛永13年(1636)の鋳造、日本三大名鐘の一つ。高さ3.3m、口径2.8m、厚さ30cm、重さ70t。大晦日に僧侶17名により鐘が突かれる風景は、TVでもよく紹介される。

  • 本地堂<br /> 付近には法然の住房のあった地。入母屋造本瓦葺き。寺内の建物では最も古く、室町時代享禄3年(1530)建築。建立当初は本堂(御影堂)。内陣厨子内に安置の本尊勢至菩薩坐像(2003年:重文)は鎌倉時代の作。勢至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものとか。山亭は勢至堂の客殿として建てられたもの。

    本地堂
     付近には法然の住房のあった地。入母屋造本瓦葺き。寺内の建物では最も古く、室町時代享禄3年(1530)建築。建立当初は本堂(御影堂)。内陣厨子内に安置の本尊勢至菩薩坐像(2003年:重文)は鎌倉時代の作。勢至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものとか。山亭は勢至堂の客殿として建てられたもの。

  • 勢至堂の後ろ(北側)に広がる墓地に千姫の墓がある。

    勢至堂の後ろ(北側)に広がる墓地に千姫の墓がある。

  • 青蓮院(しょうれんいん)<br /> 天台宗の寺院。「青蓮院門跡」ともいう。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい 除災招福の仏)。現在の門主(住職)は、旧東伏見宮家の東伏見慈晃。<br />

    青蓮院(しょうれんいん)
     天台宗の寺院。「青蓮院門跡」ともいう。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい 除災招福の仏)。現在の門主(住職)は、旧東伏見宮家の東伏見慈晃。

  •  青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院。皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院で、多くの法親王(天皇の皇子などの皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。そのために、明治までは庶民は参拝禁止だった。

     青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院。皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院で、多くの法親王(天皇の皇子などの皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。そのために、明治までは庶民は参拝禁止だった。

  •  三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房(小寺院)がその起源。山下(当初は三条白川付近、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に現在地へ移る。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」という。)に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時。久安6年(1150)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。

     三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房(小寺院)がその起源。山下(当初は三条白川付近、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に現在地へ移る。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」という。)に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時。久安6年(1150)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。

  • 青蓮院庭園

    青蓮院庭園

  • 青蓮院庭園

    青蓮院庭園

  • 青蓮院庭園

    青蓮院庭園

  • 青蓮院庭園

    青蓮院庭園

  • 蓮如上人御誕生の地

    蓮如上人御誕生の地

  • 丸山公園

    丸山公園

  • 長楽館 (京都市指定有形文化財)<br />「両切り紙巻きたばこ」で大きな成功を収めた、明治時代の煙草王「村井吉兵衛」が、約5年の歳月を経て建設した別荘。  <br />名前の由来は、伊藤博文が木戸孝允の墓参(墓所:多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社)の際、完成したばかりの長楽館へ滞在し、窓からの眺望に感銘し、遍額に「長楽館」と記した。ここには、著名な訪問客(英皇太子ウェールズ殿下、米副大統領フェアーバンクス、米財閥のロックフェラー、それに山県有明、大隈重信等)が来場した。<br />ルネッサンス風の瀟洒な建物の中にひと足踏み入れると、ルイ15・16世時代の調度品が優雅に空間を彩り、村井吉兵衛自身が使用していた机や長椅子も残っている。  なかでも、ロココ様式(18世紀、ルイ15世時代のフランスを中心に欧州で流行した美術様式。室内装飾から建築・絵画・工芸・彫刻に及ぶ。S字状曲線や異国趣味による優美さ・軽快さ・繊細さが特徴。)が基調の1階客間は、天井にあしらった植物文様のレリーフや美しいフォルムの家具などがもっとも豪華。 現在は、レストランやホテルとして使用され、今も変わらぬ華やかな雰囲気に包まれていて、女性に人気がある<br />

    長楽館 (京都市指定有形文化財)
    「両切り紙巻きたばこ」で大きな成功を収めた、明治時代の煙草王「村井吉兵衛」が、約5年の歳月を経て建設した別荘。
    名前の由来は、伊藤博文が木戸孝允の墓参(墓所:多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社)の際、完成したばかりの長楽館へ滞在し、窓からの眺望に感銘し、遍額に「長楽館」と記した。ここには、著名な訪問客(英皇太子ウェールズ殿下、米副大統領フェアーバンクス、米財閥のロックフェラー、それに山県有明、大隈重信等)が来場した。
    ルネッサンス風の瀟洒な建物の中にひと足踏み入れると、ルイ15・16世時代の調度品が優雅に空間を彩り、村井吉兵衛自身が使用していた机や長椅子も残っている。 なかでも、ロココ様式(18世紀、ルイ15世時代のフランスを中心に欧州で流行した美術様式。室内装飾から建築・絵画・工芸・彫刻に及ぶ。S字状曲線や異国趣味による優美さ・軽快さ・繊細さが特徴。)が基調の1階客間は、天井にあしらった植物文様のレリーフや美しいフォルムの家具などがもっとも豪華。 現在は、レストランやホテルとして使用され、今も変わらぬ華やかな雰囲気に包まれていて、女性に人気がある

  • 長楽寺	 <br /> 寺伝によれば、805年(延暦24)桓武天皇の勅命により最澄が延暦寺の別院として創建したのに始まるという。かつての境内地は円山公園の大部分や大谷祖廟(東大谷)の境内地を含む広大なものであった。  鎌倉時代初期に淨土宗に、室町時代の1385年(至徳2)には時宗の僧国阿がこの寺に入り、時宗の寺に改宗。1908年(明治41)には、時宗の道場が置かれ七条道場と称された金光寺がこの寺に統合されている。長楽寺が所蔵する時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたもの。<br />

    長楽寺  
     寺伝によれば、805年(延暦24)桓武天皇の勅命により最澄が延暦寺の別院として創建したのに始まるという。かつての境内地は円山公園の大部分や大谷祖廟(東大谷)の境内地を含む広大なものであった。  鎌倉時代初期に淨土宗に、室町時代の1385年(至徳2)には時宗の僧国阿がこの寺に入り、時宗の寺に改宗。1908年(明治41)には、時宗の道場が置かれ七条道場と称された金光寺がこの寺に統合されている。長楽寺が所蔵する時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたもの。

  •  『平家物語』「灌頂巻」によると、1185年(文治元)には高倉天皇中宮で安徳天皇生母の建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家し、のちに大原の寂光院に隠棲した。寺宝に安徳天皇御衣幡(安徳天皇入水時の御衣で作った仏幡)や建礼門院の御影を所蔵する<br />2008年(平成20)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼したが、一遍木像(重文)を始めとする全ての文化財は住職らによって火災直後に運び出された。<br />

     『平家物語』「灌頂巻」によると、1185年(文治元)には高倉天皇中宮で安徳天皇生母の建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家し、のちに大原の寂光院に隠棲した。寺宝に安徳天皇御衣幡(安徳天皇入水時の御衣で作った仏幡)や建礼門院の御影を所蔵する
    2008年(平成20)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼したが、一遍木像(重文)を始めとする全ての文化財は住職らによって火災直後に運び出された。

  •  庭園は相阿弥が足利義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられる。享保20年(1735)の「築山庭造伝」にも「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」と評された。 頼山陽をはじめ儒学者の墓が多い。

     庭園は相阿弥が足利義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられる。享保20年(1735)の「築山庭造伝」にも「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」と評された。 頼山陽をはじめ儒学者の墓が多い。

  •  平安の滝

     平安の滝

  • 庭園

    庭園

  • 大谷御廟(おおたにそびょう)<br /> 浄土真宗の宗祖親鸞聖人の墓所で、真宗大谷派(東本願寺)の飛地境内地。通称は、「東大谷」。江戸時代は「大谷御坊」。<br />慶長7年(1602)の本願寺の東西分立に際して、第12代教如は東本願寺境内に親鸞および本願寺歴代の仮墓を建立、寛文10年(1670)に第14代琢如は東本願寺境内の親鸞および本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に徳川家康から寄進を受けた現在地に移し、現名称「大谷祖廟」は昭和56年(1981)に改称。<br /> 本堂は元禄14年(1701)建立。御廟には親鸞聖人の遺骨や全国各地の門徒のご遺骨が納められ、お盆の「万灯会」では約1万個の提灯に火が灯る。<br />浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所は「大谷本廟」、通称は「西大谷」または「祖廟」という。元は文永9年(1272)、知恩院山門北の大谷にあったが、江戸幕府が西本願寺第12代准如時代の慶長8年(1603)に、知恩院の拡張造営に際して、大谷本願寺跡地の代替地として、宗祖親鸞が荼毘に付された「鳥辺野(とりべの)の南の辺、延仁寺」と伝わる「御荼毘所」に隣接する現在地を与えた。<br />

    大谷御廟(おおたにそびょう)
     浄土真宗の宗祖親鸞聖人の墓所で、真宗大谷派(東本願寺)の飛地境内地。通称は、「東大谷」。江戸時代は「大谷御坊」。
    慶長7年(1602)の本願寺の東西分立に際して、第12代教如は東本願寺境内に親鸞および本願寺歴代の仮墓を建立、寛文10年(1670)に第14代琢如は東本願寺境内の親鸞および本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に徳川家康から寄進を受けた現在地に移し、現名称「大谷祖廟」は昭和56年(1981)に改称。
     本堂は元禄14年(1701)建立。御廟には親鸞聖人の遺骨や全国各地の門徒のご遺骨が納められ、お盆の「万灯会」では約1万個の提灯に火が灯る。
    浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所は「大谷本廟」、通称は「西大谷」または「祖廟」という。元は文永9年(1272)、知恩院山門北の大谷にあったが、江戸幕府が西本願寺第12代准如時代の慶長8年(1603)に、知恩院の拡張造営に際して、大谷本願寺跡地の代替地として、宗祖親鸞が荼毘に付された「鳥辺野(とりべの)の南の辺、延仁寺」と伝わる「御荼毘所」に隣接する現在地を与えた。

  • 八坂神社

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    イチオシ

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  • 目疾地蔵

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