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興国寺城に隣接する興国山・本法寺(ほんぽうじ、静岡県沼津市根古屋)は興国寺城主・河毛重次(かわげ・しげつぐ、生誕不詳~1603)の菩提寺で、興国寺城の城域内であった事から寺の周囲には空堀や土塁などの遺構が確認できます。<br /><br />天正18年(1590)、小田原北条氏滅亡に伴い徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣秀吉の武将・中村一氏(なかむら・かずうじ、生誕不詳~1600)の支配下に置かれ、一氏家臣である河毛重次が興国寺城主となります。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは一氏は徳川家康方に属しその戦功により翌年伯耆国(現鳥取県)に転封となり重次もこれに従い興国寺城を離れます。(その裏には豊臣系大名につき江戸近隣を嫌い遠隔地に移されたと言えます。)<br /><br />本法寺は重次が興国寺城在城中に菩提寺として建立されたとも伝えられており、境内には重次の墓があり、また重次の遺品も残っているようです。<br /><br /><br /><br />2022年8月31日追記<br /><br />河毛重次墓所の傍に設置の説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br />『 興国山本法寺<br />          沼津市根古屋字大上畑579番地<br /><br />本法寺は興国寺城主河毛宗左衛門尉重次が在城中に菩提寺として建立したと伝えられている。法華宗大本山光長寺の末寺で開山は建長寺第十世日養である。山号はもと愛鷹山であったが、興国寺城北東の守護神第六天を当寺に建立以降、興国山に改められた。<br /><br />天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡によって徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣秀吉の武将、中村式部少輔一氏の領地となり、一氏はするが城主となった。一氏の弟、中村彦左衛門氏次(一栄)は3万石の所領を与えられて三枚橋城主となり、一氏の家臣であった河毛重次が興国寺城主となった。天正18年12月に阿野荘大泉寺(井出)に宛た重次の寺領安堵手形には「則ち拙者興国寺城代として立つるの事かくの如し」と記されている。<br /><br />重次は慶長6年(1601年)関ヶ原の役の功により中村氏が伯耆国(鳥取県)に移封されるとこれに従い、かわって天野三郎兵衛康景が領主となった。<br /><br />寺には重次のものとして伝わる遺品や供養塔がある。重次の法号(戒名)は妙冷院殿宗感日徳居士である。<br /><br />興国寺城の古城図には本法寺周辺が「侍屋敷」であったと示されているものがあり、境内には空堀や土塁などの痕跡も残されている。<br /><br />  令和3年1月<br />            沼津市教育委員会 』        <br />

駿河沼津 小田原北条氏滅亡後関東転封した徳川家康旧領の駿河入府した秀吉子飼い中村一氏家臣で興国寺城主となった河毛重次が創建した『本法寺』散歩

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2012/12/29 - 2012/12/29

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滝山氏照

滝山氏照さん

興国寺城に隣接する興国山・本法寺(ほんぽうじ、静岡県沼津市根古屋)は興国寺城主・河毛重次(かわげ・しげつぐ、生誕不詳~1603)の菩提寺で、興国寺城の城域内であった事から寺の周囲には空堀や土塁などの遺構が確認できます。

天正18年(1590)、小田原北条氏滅亡に伴い徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣秀吉の武将・中村一氏(なかむら・かずうじ、生誕不詳~1600)の支配下に置かれ、一氏家臣である河毛重次が興国寺城主となります。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは一氏は徳川家康方に属しその戦功により翌年伯耆国(現鳥取県)に転封となり重次もこれに従い興国寺城を離れます。(その裏には豊臣系大名につき江戸近隣を嫌い遠隔地に移されたと言えます。)

本法寺は重次が興国寺城在城中に菩提寺として建立されたとも伝えられており、境内には重次の墓があり、また重次の遺品も残っているようです。



2022年8月31日追記

河毛重次墓所の傍に設置の説明板には下記の通り紹介されています。

『 興国山本法寺
          沼津市根古屋字大上畑579番地

本法寺は興国寺城主河毛宗左衛門尉重次が在城中に菩提寺として建立したと伝えられている。法華宗大本山光長寺の末寺で開山は建長寺第十世日養である。山号はもと愛鷹山であったが、興国寺城北東の守護神第六天を当寺に建立以降、興国山に改められた。

天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡によって徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣秀吉の武将、中村式部少輔一氏の領地となり、一氏はするが城主となった。一氏の弟、中村彦左衛門氏次(一栄)は3万石の所領を与えられて三枚橋城主となり、一氏の家臣であった河毛重次が興国寺城主となった。天正18年12月に阿野荘大泉寺(井出)に宛た重次の寺領安堵手形には「則ち拙者興国寺城代として立つるの事かくの如し」と記されている。

重次は慶長6年(1601年)関ヶ原の役の功により中村氏が伯耆国(鳥取県)に移封されるとこれに従い、かわって天野三郎兵衛康景が領主となった。

寺には重次のものとして伝わる遺品や供養塔がある。重次の法号(戒名)は妙冷院殿宗感日徳居士である。

興国寺城の古城図には本法寺周辺が「侍屋敷」であったと示されているものがあり、境内には空堀や土塁などの痕跡も残されている。

  令和3年1月
            沼津市教育委員会 』        

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 本法寺本堂<br /><br />山号は「愛鷹山」でありましたが改められ「興国山」となっています。

    本法寺本堂

    山号は「愛鷹山」でありましたが改められ「興国山」となっています。

  • 扁額

    扁額

  • 河毛重次墓所・全景

    河毛重次墓所・全景

  • 河毛重次墓所・近景<br /><br />「妙冷院殿宗感日徳居士」の法名が刻まれています。

    河毛重次墓所・近景

    「妙冷院殿宗感日徳居士」の法名が刻まれています。

  • 本法寺由緒説明板

    本法寺由緒説明板

  • 境内風景

    境内風景

  • 石垣<br /><br />当該寺は興国寺城の城域にあったため空堀や土塁などの遺構があります。

    石垣

    当該寺は興国寺城の城域にあったため空堀や土塁などの遺構があります。

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    土塁

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