2013/03/16 - 2013/03/16
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杏仁豆腐さん
今年の干支は蛇。そう、巳年です。というわけで、谷中のへび道に行きたくなりました。
その名の通りクネクネと曲がっている路地がへび道です。
へび道は、現在生活路地ですが、かつては藍染川でした。
藍染川は、今でもこの地下に流れていて、上野不忍池の方へ流れ続けているそうです。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄
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千駄木の駅を出ました。
藍染川と枇杷橋(合染橋)跡
文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。
『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原へ、さらに、駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入口のところ)で忍川となり、三味線堀から隅田川に注ぐ。
川の名は、上流から境川・谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。
前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち琵琶橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町にも同名の藍染橋があった。
川は、水はけが悪くよく氾濫したので、大正10年(1921)から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境の道路となっている。 -
へび道です。
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曲がりくねっていて、先は見えません。
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家並みを楽しみながら、歩きます。
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おしゃれなお店が連なっています。
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その中の一軒が、旅ベーグル。
http://www.tabibagel.net/ -
ちょっと、しゃれた名前ですね。旅ベーグル。
店の中は、狭く、ベーグルだけが並んでいます。 -
4種類のベーグルがありました。
全種類購入しました。
モチモチのおいしいベーグルです。 -
へび道は続きます。
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藍染の名前は残っています。
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ひょうたんが生っています。
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旧根津須賀町
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根津神社に来ました。
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根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座したそうです。 -
神楽殿
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楼門(国指定重文)
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拝殿(国指定重文)
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宝永二年、五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。(宝永三年完成)
この社殿は拝殿の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造建築で江戸の神社建築としては最大の規模を誇ります。 -
梅の花が咲いています。
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乙女稲荷神社
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塞の大神碑(さえ「い」)のおおかみ
この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分け(向丘1ノ
1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中
山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で
追分といわれた。
この追分けは、日本橋から1里(約4粁)で江戸時代
1里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く
老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに1里塚があり、
ヒノキが植えられていたが、明和三年(1766)に焼け、その跡に庚申塔が、これも文政七年(1824)の
火災で欠損した。
その跡地に、この塞の大神碑が、明治六年(1873)に建てられた。同四十三年、道路の拡幅のため、碑
は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の
事情が刻まれている。
塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難
から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。 -
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庚申塔
ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以降、道路拡幅な
どのため、根津神社に納められたものである。
正面から左回りに刻まれた像、銘文をみると
1,青面金剛・猿・鶏・寛文八戊申(1668)・駒込村・施主十五名
2,観音像・庚申供養・施主十二名
3,日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1693)施主二十六名
4,日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主一名
5,梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1633)都鳥庚馬米村・施主七名
6,日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名
宝永六己丑(1709)
この中で、5の庚申塔は、寛永九年(1632)の建立で、区内の現在のものでは最
も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の
建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申
の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
庚申信仰は中国の道教から生まれ、六十日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二
支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三尸(さんし)の虫がその人の体からぬけて天
に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが
国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。
江戸時代に、徳に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集まり、般若
心経を唱え、和やかな話し合いで一夜を過ごした。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=
道祖神であるとの設もある。 -
庚申塔
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庚申塔
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奉納された鳥居が立ち並びます。
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胞衣塚
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徳川家宣抱衣塚(とくがわいえのぶえなづか)
六代将軍家宣の抱衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が
雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子
)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)
四月五日ここで生まれた。
抱衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれ
の祖先が、抱衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や
入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみた埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、抱衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県
の岡崎には、徳川家康の抱衣塚がある。
この抱衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の抱衣塚ながら庶民の民俗の理解の上
で貴重なものである。
本殿横には、明治十四年に建てられた「抱衣塚碑」がある。また、
家宣の産湯の井戸と伝えられるものが社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産
土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。 -
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金太郎飴
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旧谷中真島町
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旧根津片町
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昼食は、釜竹(かまちく)でうどんをいただきます。
http://www.kamachiku.com/
レンガの石蔵が立派です。この石蔵は、明治43年にこの地に建てられた石蔵を移築・改装したものです。 -
薬味などが登場です。
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太打ちざるうどん。
釜竹うどんの食べ方
最初はだしとうどん、順番に薬味を入れてください。
ねぎ→揚げ玉→七味→生姜
ということです。 -
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野菜の天婦羅。
じゃがいもの天婦羅がありました。 -
美味しいうどんをいただいて、根津散策再開です。
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道路にホームベースが。
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串揚のはん亭
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重要文化財
大正6年築の木造三階建て -
「弥生式土器ゆかりの地」碑
明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。
これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられた。
しかし、「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、推定地として3か所が指摘されていた。
昭和49年(1974)、東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。
都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、昭和51年(1976)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。 -
弥生美術館に到着。
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/ -
弥生美術館と竹久夢二美術館が隣同士です。
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旧向ケ岡弥生町
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鹿野氏邸の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれています。
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華宵は、晩年鹿野氏の邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなりました。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼びました。
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東京大学医学部戦没同窓生の碑
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出しました。 -
暗闇坂
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。
江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。
この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。 -
人通りも少ない暗闇坂
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弁慶鏡ヶ井戸
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境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469〜1486)に室町幕府
第九代将軍足利義尚が再建したという。「鏡稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(
本郷台地)の境であることに由来し、かっての芽町(現・池之端1・2丁目の一部)の鎮守として信仰を
あつめている。
社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと
伝え、「江戸志」など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和十五年にに再
び掘り出し、とくに昭和二十年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘
り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。 -
井戸脇に石碑があります。
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境稲荷神社
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うさぎやまで来ました。
もちろん、どら焼きが目当てです。 -
店内は、どら焼きを買い求める人でいっぱいです。
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桜餅も購入しました。
上品な味わい。 -
ふんわりとした肌触り。
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とろけるような餡。うさぎやのどら焼きは最高です。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2013/03/28 04:22:23
- ふ、ふ、桜もなかなか
- 杏仁豆腐さんへ
ふ、ふ、つつじも、さくらも、なかなかですね。
ふ、ふ、へび道ですか、いいですね。風情が。
明治、大正の名残のような道や坂。
谷中、根津、本郷の下町風情は、歩いていると
気持ちが落ち着きます。
ありがとうございました。
失礼しま〜す♪
お神輿に投票ありがとうございました。
美空ひばりさんの歌が忘れられませんでした。
なぜかしらね。
- 杏仁豆腐さん からの返信 2013/03/28 17:48:57
- RE: ふ、ふ、桜もなかなか
- 一歩人さん、いつもありがとうございます。
へび道、いいですよね。
生活の香りもして、タイムスリップの気分も味わい、現代の風景も感じて。
路地で迷いながら、さまよう喜び。
このうえないです。
また、よろしくお願いします。
杏仁豆腐
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