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朝起きると、Nさんからメールが届いていた。 「今朝早くからAir Asiaがキャンペーンをしてますよ!」 <br />3ヶ月後、今度はその航空会社からメールが来た「クアラルンプールから格安で飛び立ちませんか?」 <br />こうして、羽田からヤンゴンまで僅か3万円の航空券を私は手に入れた。 <br />それから、ようやく 考えた <br /><br />はじめてのミャンマー 何しよう?  <br /><br />遠い記憶に埋もれた名前が甦った。「ミズシマ」 それは、小学3年生の時に学校で見た映画『ビルマの竪琴』の主人公の名前だ。 竹山道雄の原作は国語の教科書にも載り、昭和31年、公開の映画は、つい10年前まであった、戦争の惨禍と、懊悩する青年の魂を描き、市川昆の出世作になった。モノクロのスクリーンに、  戦友達の屍を埋葬する為にビルマの地に残る事を選んだ水島の悲しい背中があった。 <br /><br />竹山道雄はビルマに行った事はなかった。それ故、この映画では 英国と日本から蹂躙されたビルマの視点が欠落していると後年、批判された。しかし、それは大分、後の話、小学生の心を魅了したのは天を突き刺すような寺院の雄姿であり、水島の背に乗る極彩色のオウムだった。海外旅行が夢のまた夢だった時代 私は映画を通して世界を知り、  そして、その土地に旅することを夢見た。 <br /><br />あの映画を見てから50年も経っていた。<br />「微笑みの国」と呼ばれた国は、1962年の軍事クーデター以来、軍部の恐怖政治がもう半世紀以上も続いていた。 独裁者達は民主化の星、アウンサン・スーチーさんを1989年に軟禁し、新政府の国名を独断でミャンマーと変えた。民衆からの不満を防ぐため行政首都を中部のネビドーに移し、市民や外国人やメディアまでも入境禁止にして、独裁政権の壁を強固にしていた。<br /><br />2007年9月 民主化デモが起こり、取材中のジャーナリスト・長井健司さんが治安部隊により射殺された「カメラを持っている者は全て銃撃せよ」という命令が下されていた。長井さんは私よりも5歳も若い。戦争報道以外にエイズ孤児達の支援にも無償でカメラを向けて伝えた人だった。  その人を組織的に殺戮した国になど、行くまいと思っていた。  しかし、昨年、出会った一人のミャンマー人の言葉が私を変えた。<br /><br />ぜひ、私の国に来て下さい。そしてビルマの人と友達になってください。スーチーさんも、その  出会いが必ず、民主化へも役立つと云っています <br /><br />そうだ、ミャンマーという国に行くのでなく  そこに住む人々と風景に会いに行くのだと考えた <br />こうして、私はインドシナ半島の西端に、閉ざされた国 ビルマへと旅立った。<br /><br />2011年8月15日(月) 晴れ  <br /><br />クアラルンプール 〜 ヤンゴン<br />前夜、夜、遅くに羽田を発ち早朝、クアラルンプールのLowCostCarrieTerminalに到着した。 <br />D72653 HND 23:45 - 06:30 KUL  (LCCT) <br /><br />冷房の効き過ぎるバスで市内に行き、中華街の漢記で朝粥を食べた。ヤンゴンへの出発は夕方なので、それまでの暇潰しオランウータンに会いに行った。中央市場まで歩き、16番の市営バスに乗って、国立動物園に向った。オンボロバスが来た。乗客はマレー、華人、インド人と、この国の人種見本だった。開けっぱなしのドアから熱風が容赦なく入ってくる。じっとりと汗をかきながら、これでなくちゃアジアじゃない、、と旅に来た嬉しさが涌いて来る。80年前に来た金子光晴の旅心に少しだけ近づけた。<br /><br />市の中心部を20分も過ぎれば周りは椰子の林が延々と続いた。1時間も乗って Nagala Zooに着いた。広大な敷地で、トラやヒョウ、チーターなどの猛獣が思う存分走り回っている。お目当てのオランウータンを見に行くと、お昼寝の最中だった。動物よりも人間の方が全然少ないので、飼育の人もほったらかしでサービス気が全然無い。その内、何かやるだろう、、と淡い期待をして30分も待ったが結局、彼?彼女?が お尻をかく時にチョットだけ顔を上げたのを見られただけ、それで破れた看板を撮って見た気にした。月曜日の動物園だけは来るものでは、  無いと愚痴って出口に向かった。<br /><br />AK850 KLM 18:10 &#8211; 19:25 RGN<br /><br />ヤンゴンに着いた。日本との時差は90分で、東京は夜の9時位だ。空港の前にあるHotel Seasons of Yangon に入ると、現地の旅行会社LPGの人が待っていた。今度の旅では「眺めのいい部屋」に泊まりたかったので、彼等に手配させていた。  宿3軒と航空券のバウチャー、それにUS$150を両替したビルマ紙幣を受け取る。1US$ = 700ks  夕食を取ってから、シャワーを浴び21:30 就寝<br /><br />8月16日(火) 晴れ <br /> <br />ヤンゴン 〜 バガン<br />5:00am に起きて、朝食を貰い、5分歩いて  国内線ターミナルに行きチェックインした。 <br />W9 ( Air Bagan) RGN 7:00 &#8211; 7:40 Bagan <br /><br /> バガン到着後、先ず空港で入境料を払わされた。外に出るとガイドのチズさんが迎えに来ていた。4 Travelのミャンマー旅行記で好評だったのでメールで予約をしていた。たどたどしい日本語だが、まあ何とか理解出来る。彼は、その日本語を旅行者が置いていった1冊の会話本だけで習得したのだから、大変な努力家だ。 眼がロンパリなのでサングラスで隠していて、あまり人相は良い方ではない。しかし、家族写真に映っていたのは   子煩悩の父親だ。<br />Taxi 空港〜Aungmingalar Hotel @ 5000ks チズさんガイド料 @ 18,000 ks<br /><br />予約していたAungmingalar は、ニャンウーの町の西側にあり、注文通り、部屋から遠く<br />白亜のシュエズィゴォン・パヤーが見渡せた。  <br />Aungmingalar Hotel @ 35 US$<br /><br /> 宿に荷物を降ろし、早速、観光に繰り出した。点在する寺院への道はオフロードも多いので、<br />ここでは馬車をチャーターした。            馬車+騎者 / 1day= 15,000ks<br /> <br />ニャンウーの町からオールド・バガンに入って行く。道端に池があり子供達が真っ裸で泳いでいた。牧歌的な風景に見えるが、農村部の一家の平均月収は月6000円、子供達は取った川魚を市場に売りに行っているとチズさんが話した。   <br /><br />馬車が進む内に、あちこちに大小様々な寺院が見えてくる。その数、2000を優に越え、11~13世紀までの間に建立された。全て日干し煉瓦で出来ていて、インドシナ半島の仏教遺跡と同じだ。<br /> <br />たくさんの寺院を馬車で巡るが、チズさんの 日本語では由来を理解するのは難しく、4つ目の寺を見終える頃には飽きてしまった。日本、朝鮮、中国の寺、少しずつ様式は違うが、皆「木と漆喰」で出来ていてほっとする、、と思うのは日本人だけで、ビルマの人々には、青い空を突き刺すスツーパの先に仏の大乗世界を感じるのだろう<br /><br /> それから昼食を取った。これには驚いた。   先ず、新鮮な様々な野菜が4種類ものディエップを添えて出された。それから小皿料理が10皿程出てきて、足りなくなると、直ぐに補充される。カレーも優しい味付けで、それが無ければ、まるで韓定食だ。 タイともヴィエトナムとも違い、辛さだけでなく五味五珍があり洗練されている。食材の多さと、その繊細な調理に感心した。デザートは漆のお櫃に入れて生菓子が3種類供された。<br />これで3000ks ! 京都の「草喰なかひがし」で 供される野菜の滋味と調理の匠が、ビルマに来れば1/40の値段で味わえる。 ビルマの奥深い食の感性に感心して、この国の文化の高さを知った。<br /> <br />午後も4カ所の寺院を見てから5時にシュエサンドー・パヤーに着いた。急な勾配を上り最上階に佇むと、見渡す限りの地平に無数のパゴダが 夕陽を浴びて林立していた。ここに来て良かったなあ、、幸福になった。ビルマ観光のハイライトなので門前には土産物屋が集まり、ここでビルマの王様達を模したチェス駒を買った。堅いチタンの木材を彫った32個の駒達は、どれも兵馬俑の兵隊のように表情が異なっていて、 円空が彫ったような素朴な味わいに満ちていた。<br />夕方、町に出て、寺で出会ったIさんを夕食に訪ねた。彼はルピナスという宿に泊まっていて、居合わせた日本人の青年達と、宿の主人のお薦めの店に行った。夕食を囲みながら、みんな自分達が歩いて来た地球のあちこちを話しあい多いに盛り上がった。彼等は平均年齢20代後半で、父親が私よりも年下という世代だったので、私は随分と浮いていたかも知れないのだが、心優しい青年達は、私の遍歴を興味深く、最後まで聴いてくれた。夜更けの町、真暗な道を自転車で宿に戻った。<br /> <br /><br />2011年8月17日(水) 曇り <br /> <br />バガン 〜 ポッパ山<br /> 朝食を済ませると、車が入ってきてKさんが笑顔で現れた。 彼女は昨夜の夕食で出会った旅人で、ポッパ山行きのTaxiをシェアする事になった。旅先では日本人宿には泊まらない主義だが、こういう出会いは嬉しい。 彼女はインド言語学というのを研究している若き先生だ。  <br />「宇宙に近づきたくてバイコヌール宇宙基地に行ったんです」と飄々と語る姿がカッコイイ。<br /><br />そんな魅力的な女性と8:00 に出発!  車はバガンの南東50kmにあるポッパ山を目指す。途中、運転手が道端の小屋に停った。 ヤシ酒の自家工場だ。椰子を取ってから、蒸留するまでが6畳分位の空間で製造されていて試飲をさせてくれる。運転手に報いたいと思ったのだが、余りに原始的な行程なので、何も買わずに車に戻る。<br /> <br />9:45 ポッパ山に到着。ポッパとはサンスクリット語で、「花の溢れた」という意味で、その名の如く、春には緑鮮やかな山が花で覆われ、聖地と崇められている。その麓にタウン・カラッという門前町があり、参道の階段を15分程登ると、寺が建立されていた。参道には、供え物のバナナを盗もうと猿達が待ちかまえており、彼等が無礼にも落とす糞で階段が汚れる→それを清める為に、階段のあちこちに掃除人がいて、彼等のお陰で清く登れる→その御礼にTipを寄進する、、という猿と人間のループ作業を辿りながら、登って行く。頂上にはテラスがあり、緑鮮やかな地平が遠くまで眺められた。寺には感心しなかったが、この風景を見る為に、足を延ばすのも悪くはない。   帰路の途中、道路工事を何度も通り過ぎた。働いているのは、男だけでなく大勢の女達だ。機械でなく、人々がスコップで土を掘っている。ODAが充分に民衆には還元されていない実態を目の当たりにしてネビドーにいる独裁者達を呪った。<br /> <br /><br /><br /> ニャンウーに戻り、運転手の推薦の食堂で昼食を取った。その後、市場で操り人形と、漆の小箱、それに短剣を買った。漆の朱色は日本に比べると、くすんだ色相だが、面白い形の器もあったので、明日は、これをもっと捜そうと思った。 <br /><br /> <br />  夕方、またルピナスに行った。今夜は、この町のお祭りの日で、広場に移動遊園地が来ていて、映画もやるよ! と主人から教えられた。<br />Iさん、Kさん達とお祭りに繰り出した。街灯の無い真っ暗な道を、賑やかな音に頼りに近づいていくと、大きな広場に出た。千人位は居ただろうか? 蛍光色のネオンが屋台の菓子や果物を妖しく照らし、キッチュな玩具に子供達は目が釘付けで、日本でも戦前にはあった光景だろう。白布が張られ、トラックに置かれた映写機からビルマのコメディが上映されていた。フェリーニのアマルコルドが思い出されて、私のアドレナリンが沸騰している。暗闇の中で精彩を放っているのは観覧車で、直径20mはあろう偉容なのだが、 なんと動力源は人間! 若者が回転輪を器用に上りながら反動をつけて回転させる仕掛けだ。我々も5円程の小銭を払い、大の大人が4人、席にぎゅうぎゅう詰めに座ってスタートを待つと、突然、闇夜の高みに引き揚げられ、ビュンビュンと回転した。ベルトもなく、落下の危険性30%はあるようなキワモノだが、初めて出会った若者達も、無邪気な笑顔満開で、なんかぐっと遊び仲間になってしまった。 バガンの最後の夜に、こんな祝祭に出会えて旅の女神に感謝した。<br /><br />2011年8月18日(木) 晴れ〜雨  <br /><br />バガン 〜 ヤンゴン<br /> 快晴 気温が朝からぐんぐん上がっている。<br />雨期でもバガンは内陸にあるので、この3日間 大雨には一度も会ってない。 今日は自転車で、ミャンガー村まで行き、道中の骨董屋を巡る。  街道沿いの小さな店に入り、店を隈なく見て、  埃の積もった中から、お宝を捜すのだ。その内の1軒で竹皮の周りに籐を敷きつめてから漆をかけた丸箱を見つけた。19世紀に貴族宅で使われた菓子箱だと云う。200$の言い値を190$で手に入れた。帰り、バガンで最高級のホテル:Sanctuary Resortに寄り、ブティクを覗いた。 流石に洗練された工芸品があったが、骨董はなかった。途中、NetCafeで朝日新聞を読み、Skypeで家族に無事を伝えた。 14:30 宿に戻り、骨董を包むダンボールを受付に頼むと、これ買わないか? 銅製の仏頭を出してきた。 値段を訊くと20$というので、8$ならと返すと、10$で良いといい私の下に転がり込んだ。15:00にチヅさんが来た。今日は頼まれてないが、見送ると言い、彼の友人の車で空港まで行った。復路は少し負けてくれたので、御礼に彼が欲しがっていた Columbiaの温度計キーホルダーをあげた。<br /> <br />  <br />W9-109 Nyaung U 17:25 - 18:45 Yangon<br /><br /> 夕方の便で暮れなずむヤンゴンに到着<br /> 到着ロビーから構内を出て、出発ロビーに来たTaxiと交渉して、ユザナホテルに向かう。<br />渋滞だったが中心部の前にあるので、30分で到着した。 通された部屋に入り、目の前に浮かぶ<br />眺望に唸った。 真っ暗な空にまばゆいばかりに<br />シュエダゴォン・パヤーが浮かんでいた。<br /> <br />ボーイも自慢して、ここからの眺めが一番いいと云ったが、チップは払わなかった。「私は写真家で、パゴダの写真を撮る為に貴国を訪問するので、眺めのいい部屋を用意して欲しい」と代理店に伝えていた。そんな注文には慣れてるだろうが、その期待を裏切らなかったLPGに感謝だ。 <br />夕食に少し遠くだが、人気の店 AungThu Khaに行った。宿からは車で10分程だった。店に入ると、清潔な店内、きびきびした店員 (それも女性ばかし)で、期待できそうだった。鰻のカレー、筍と豚のシチュー、香草スープ、それに野菜数種とディエプがすぐに並んだ。トルコのロカンタのように、惣菜が見渡せ、注文がイメージ出来るのが良い。鰻のカレーは甘みと辛さが上手く補完してる。筍と豚のシチューは優しい味、そして香草スープで、さっぱり感を足す。見事なアンサンブルで、しめて3700ks( 370円)で大満足で店を出た。<br /><br />2011年8月19日(金) 雨  <br /><br />ヤンゴン〜クアラルンプール〜マラッカ<br />朝、起きて窓を開けると雨がしとしと降っている。シュエダゴォン・パヤーが曇空を突き刺すようなので、その奥から青空が顔出さないか、と願う。それで観光を後回しにして骨董捜しに出かけた。その骨董街Dhammazedi Roadは4Travelでシンガポール在住の茶柱タツ子さんの旅行記で発見した。そこにはshopの名刺から店主の攻略法まで、丁重に紹介されていて、私はそのコピーを握りしめてTaxiに乗り込んだ。<br /><br />バケツをひっくり返したような豪雨になり、そのTaxi ( 日本から中古で輸入した80年代のカローラ) の天井からは雨がポタポタと振ってくる。20分もあちこちを彷徨ってから着いた所は掘っ建て小屋が点在する道路。見ると店先に古道具が見えるので、どうもここらへんらしい。(番地など表記してないので、Taxiでないと来れない)4畳半にも満たない店内に足を踏み入れると、所狭しと中国、ビルマの小さな骨董が埃をかむり並んでいた。私は骨董店よりも、こういう古道具屋に眠る、小さなお宝を発見するのが愉しい。しかし、こんな辺鄙な一角にある店を発見された茶柱さんの嗅覚と眼力に感嘆した。<br /><br /><br />初めの5分で店内をスーッと無表情にシーリングしてから、気に入った物があれば、4番手位の順序で値を訊いて行くのが私の流儀だが、この店では気にかかる物が何も無い。店主はお茶を出そうと準備をし始めたので、礼を云ってから隣の店に飛び込んだ。このようにして、5軒の店をハシゴして、最後の店でチャーミングな木製人形に出会った。昔、貴族が小舟の舳先の周囲に付けた装飾だそうで「王様と私」に出てくる皇太子のような衣装だ。対になる兄の方は髭を生やして武将風の衣装、2つで80$と云うのを弟だけで7$でどうか?とスタートして結果10$で手に入れた。ここには良い漆の箪笥もあり、いつか再訪しよう。<br /> <br />Taxiを呼んでもらい、中央市場:アウンサン・マーケットに行った。 場内の食堂でモヒンガーを食べた。バガンで食べた方が旨く値段も半分だった。旅行は首都から遠くなるほど質実だ。骨董屋も端から端まで覗いたが、気に入ったものは無かった。市場を出てアウンサンロードを東に歩いた。<br />ヤンゴンには喫茶店が多く、通りの1軒に入りお茶を頼み、店頭で売っていた肉饅を夜食用に買った。 相席した大学生が日本語で話しかけてきた。イントネーションも良かったが、学校で2年学んだだけだという。日系企業に就職したいのだが、中々難しいらしい。チヅさんといい、外国との接点に活路を捜す人々は必死で語学を勉強し 上達している。みんな必死で生きている。 <br /> <br />また東に進み、トレーダースホテルの近くまで来た。地図を求めて店を探すと、学生で混雑した店を見つけたので本屋かと思ったら、コンピューターソフトの店で、海賊版ばかりだ。 Windows7 @5000ks  Adobe CS2 @4000ks Micrsoft Office 2007 @ 3000ks Germin EU data @500ks !!<br />東京で云えば銀座のアップルストアのような一等地で、こんな商売が堂々と営業しているのに驚いた。帰国してから調べると、バンコクの海賊ソフトの仕入れ元がビルマだそうで、タイ側の税関の押収品ベスト3と聴いた。店の中で2人のオタクな青年がソフトのプロテクト解除作業の最中で、後ろで見ているとあれよあれよとコマンドを打って改ざんしている。これも必死な生き方ではあるかも知れない。私も、どれか買おうかと思ったが、 Windows8というソフトが@8000で売られていたので苦笑して店を出た。<br /><br />雨はますます激しくなったが、  あれを近くで見なければ帰れない、、とTaxiでシュエダゴォン・パヤーに行った。  茶店の青年達は「あそこを訪れるのは夜、ライトアップされてからが一番いいです」と云ってた、<br />寺の入口に着き、その大きさに驚いた。参道の階段を200mも登らなくてはいけない。圧倒的なファサードに導かれて最上階に辿り着くと、白い大理石の地面に金色の寺院が聳えている。<br />ビルマの竪琴で見た静謐な寺院は、信者の寄進で仏の偉容を示さんために極限まで黄金化されていた。曇空を跳ね返すように仏塔が黄金の光を天に向けて放っている姿は、まるで黄金で創られたサグラダファミアリアだ。 雨にも拘らずたくさんの信徒たちが各所で僧侶から説法を聞いている。<br /><br />この信仰の広がりでも、どうして軍部の独裁政治を抑止する事が出来なかったのだろうか?<br />出発の時間が来たので、もやもやした思いを引きずりながら寺を出た。Taxiを拾いホテルで荷物を取ってから、空港に向かった。雨が車の窓を叩きつけている。市場で見た新聞では、今日、スーチーさんが初めて軟禁を解かれ、アウンサン家の出身地パゴーに行き、民衆の前に立ったと報じていた。この雨は、それを見守った天が、流した希望への涙なのか?それとも悲しみの涙か? そんな事を考えながら、私はビルマを離れた。

わたしもビルマで考えた

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2011/08/14 - 2011/08/21

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bloom3476

bloom3476さん

朝起きると、Nさんからメールが届いていた。 「今朝早くからAir Asiaがキャンペーンをしてますよ!」 
3ヶ月後、今度はその航空会社からメールが来た「クアラルンプールから格安で飛び立ちませんか?」 
こうして、羽田からヤンゴンまで僅か3万円の航空券を私は手に入れた。 
それから、ようやく 考えた 

はじめてのミャンマー 何しよう?  

遠い記憶に埋もれた名前が甦った。「ミズシマ」 それは、小学3年生の時に学校で見た映画『ビルマの竪琴』の主人公の名前だ。 竹山道雄の原作は国語の教科書にも載り、昭和31年、公開の映画は、つい10年前まであった、戦争の惨禍と、懊悩する青年の魂を描き、市川昆の出世作になった。モノクロのスクリーンに、  戦友達の屍を埋葬する為にビルマの地に残る事を選んだ水島の悲しい背中があった。 

竹山道雄はビルマに行った事はなかった。それ故、この映画では 英国と日本から蹂躙されたビルマの視点が欠落していると後年、批判された。しかし、それは大分、後の話、小学生の心を魅了したのは天を突き刺すような寺院の雄姿であり、水島の背に乗る極彩色のオウムだった。海外旅行が夢のまた夢だった時代 私は映画を通して世界を知り、  そして、その土地に旅することを夢見た。 

あの映画を見てから50年も経っていた。
「微笑みの国」と呼ばれた国は、1962年の軍事クーデター以来、軍部の恐怖政治がもう半世紀以上も続いていた。 独裁者達は民主化の星、アウンサン・スーチーさんを1989年に軟禁し、新政府の国名を独断でミャンマーと変えた。民衆からの不満を防ぐため行政首都を中部のネビドーに移し、市民や外国人やメディアまでも入境禁止にして、独裁政権の壁を強固にしていた。

2007年9月 民主化デモが起こり、取材中のジャーナリスト・長井健司さんが治安部隊により射殺された「カメラを持っている者は全て銃撃せよ」という命令が下されていた。長井さんは私よりも5歳も若い。戦争報道以外にエイズ孤児達の支援にも無償でカメラを向けて伝えた人だった。  その人を組織的に殺戮した国になど、行くまいと思っていた。  しかし、昨年、出会った一人のミャンマー人の言葉が私を変えた。

ぜひ、私の国に来て下さい。そしてビルマの人と友達になってください。スーチーさんも、その 出会いが必ず、民主化へも役立つと云っています 

そうだ、ミャンマーという国に行くのでなく  そこに住む人々と風景に会いに行くのだと考えた 
こうして、私はインドシナ半島の西端に、閉ざされた国 ビルマへと旅立った。

2011年8月15日(月) 晴れ  

クアラルンプール 〜 ヤンゴン
前夜、夜、遅くに羽田を発ち早朝、クアラルンプールのLowCostCarrieTerminalに到着した。 
D72653 HND 23:45 - 06:30 KUL (LCCT) 

冷房の効き過ぎるバスで市内に行き、中華街の漢記で朝粥を食べた。ヤンゴンへの出発は夕方なので、それまでの暇潰しオランウータンに会いに行った。中央市場まで歩き、16番の市営バスに乗って、国立動物園に向った。オンボロバスが来た。乗客はマレー、華人、インド人と、この国の人種見本だった。開けっぱなしのドアから熱風が容赦なく入ってくる。じっとりと汗をかきながら、これでなくちゃアジアじゃない、、と旅に来た嬉しさが涌いて来る。80年前に来た金子光晴の旅心に少しだけ近づけた。

市の中心部を20分も過ぎれば周りは椰子の林が延々と続いた。1時間も乗って Nagala Zooに着いた。広大な敷地で、トラやヒョウ、チーターなどの猛獣が思う存分走り回っている。お目当てのオランウータンを見に行くと、お昼寝の最中だった。動物よりも人間の方が全然少ないので、飼育の人もほったらかしでサービス気が全然無い。その内、何かやるだろう、、と淡い期待をして30分も待ったが結局、彼?彼女?が お尻をかく時にチョットだけ顔を上げたのを見られただけ、それで破れた看板を撮って見た気にした。月曜日の動物園だけは来るものでは、  無いと愚痴って出口に向かった。

AK850 KLM 18:10 – 19:25 RGN

ヤンゴンに着いた。日本との時差は90分で、東京は夜の9時位だ。空港の前にあるHotel Seasons of Yangon に入ると、現地の旅行会社LPGの人が待っていた。今度の旅では「眺めのいい部屋」に泊まりたかったので、彼等に手配させていた。  宿3軒と航空券のバウチャー、それにUS$150を両替したビルマ紙幣を受け取る。1US$ = 700ks 夕食を取ってから、シャワーを浴び21:30 就寝

8月16日(火) 晴れ 
 
ヤンゴン 〜 バガン
5:00am に起きて、朝食を貰い、5分歩いて  国内線ターミナルに行きチェックインした。 
W9 ( Air Bagan) RGN 7:00 – 7:40 Bagan

バガン到着後、先ず空港で入境料を払わされた。外に出るとガイドのチズさんが迎えに来ていた。4 Travelのミャンマー旅行記で好評だったのでメールで予約をしていた。たどたどしい日本語だが、まあ何とか理解出来る。彼は、その日本語を旅行者が置いていった1冊の会話本だけで習得したのだから、大変な努力家だ。 眼がロンパリなのでサングラスで隠していて、あまり人相は良い方ではない。しかし、家族写真に映っていたのは   子煩悩の父親だ。
Taxi 空港〜Aungmingalar Hotel @ 5000ks チズさんガイド料 @ 18,000 ks

予約していたAungmingalar は、ニャンウーの町の西側にあり、注文通り、部屋から遠く
白亜のシュエズィゴォン・パヤーが見渡せた。  
Aungmingalar Hotel @ 35 US$

宿に荷物を降ろし、早速、観光に繰り出した。点在する寺院への道はオフロードも多いので、
ここでは馬車をチャーターした。  馬車+騎者 / 1day= 15,000ks

ニャンウーの町からオールド・バガンに入って行く。道端に池があり子供達が真っ裸で泳いでいた。牧歌的な風景に見えるが、農村部の一家の平均月収は月6000円、子供達は取った川魚を市場に売りに行っているとチズさんが話した。   

馬車が進む内に、あちこちに大小様々な寺院が見えてくる。その数、2000を優に越え、11~13世紀までの間に建立された。全て日干し煉瓦で出来ていて、インドシナ半島の仏教遺跡と同じだ。

たくさんの寺院を馬車で巡るが、チズさんの 日本語では由来を理解するのは難しく、4つ目の寺を見終える頃には飽きてしまった。日本、朝鮮、中国の寺、少しずつ様式は違うが、皆「木と漆喰」で出来ていてほっとする、、と思うのは日本人だけで、ビルマの人々には、青い空を突き刺すスツーパの先に仏の大乗世界を感じるのだろう

 それから昼食を取った。これには驚いた。   先ず、新鮮な様々な野菜が4種類ものディエップを添えて出された。それから小皿料理が10皿程出てきて、足りなくなると、直ぐに補充される。カレーも優しい味付けで、それが無ければ、まるで韓定食だ。 タイともヴィエトナムとも違い、辛さだけでなく五味五珍があり洗練されている。食材の多さと、その繊細な調理に感心した。デザートは漆のお櫃に入れて生菓子が3種類供された。
これで3000ks ! 京都の「草喰なかひがし」で 供される野菜の滋味と調理の匠が、ビルマに来れば1/40の値段で味わえる。 ビルマの奥深い食の感性に感心して、この国の文化の高さを知った。

午後も4カ所の寺院を見てから5時にシュエサンドー・パヤーに着いた。急な勾配を上り最上階に佇むと、見渡す限りの地平に無数のパゴダが 夕陽を浴びて林立していた。ここに来て良かったなあ、、幸福になった。ビルマ観光のハイライトなので門前には土産物屋が集まり、ここでビルマの王様達を模したチェス駒を買った。堅いチタンの木材を彫った32個の駒達は、どれも兵馬俑の兵隊のように表情が異なっていて、 円空が彫ったような素朴な味わいに満ちていた。
夕方、町に出て、寺で出会ったIさんを夕食に訪ねた。彼はルピナスという宿に泊まっていて、居合わせた日本人の青年達と、宿の主人のお薦めの店に行った。夕食を囲みながら、みんな自分達が歩いて来た地球のあちこちを話しあい多いに盛り上がった。彼等は平均年齢20代後半で、父親が私よりも年下という世代だったので、私は随分と浮いていたかも知れないのだが、心優しい青年達は、私の遍歴を興味深く、最後まで聴いてくれた。夜更けの町、真暗な道を自転車で宿に戻った。


2011年8月17日(水) 曇り 
 
バガン 〜 ポッパ山
 朝食を済ませると、車が入ってきてKさんが笑顔で現れた。 彼女は昨夜の夕食で出会った旅人で、ポッパ山行きのTaxiをシェアする事になった。旅先では日本人宿には泊まらない主義だが、こういう出会いは嬉しい。 彼女はインド言語学というのを研究している若き先生だ。  
「宇宙に近づきたくてバイコヌール宇宙基地に行ったんです」と飄々と語る姿がカッコイイ。

そんな魅力的な女性と8:00 に出発!  車はバガンの南東50kmにあるポッパ山を目指す。途中、運転手が道端の小屋に停った。 ヤシ酒の自家工場だ。椰子を取ってから、蒸留するまでが6畳分位の空間で製造されていて試飲をさせてくれる。運転手に報いたいと思ったのだが、余りに原始的な行程なので、何も買わずに車に戻る。

9:45 ポッパ山に到着。ポッパとはサンスクリット語で、「花の溢れた」という意味で、その名の如く、春には緑鮮やかな山が花で覆われ、聖地と崇められている。その麓にタウン・カラッという門前町があり、参道の階段を15分程登ると、寺が建立されていた。参道には、供え物のバナナを盗もうと猿達が待ちかまえており、彼等が無礼にも落とす糞で階段が汚れる→それを清める為に、階段のあちこちに掃除人がいて、彼等のお陰で清く登れる→その御礼にTipを寄進する、、という猿と人間のループ作業を辿りながら、登って行く。頂上にはテラスがあり、緑鮮やかな地平が遠くまで眺められた。寺には感心しなかったが、この風景を見る為に、足を延ばすのも悪くはない。   帰路の途中、道路工事を何度も通り過ぎた。働いているのは、男だけでなく大勢の女達だ。機械でなく、人々がスコップで土を掘っている。ODAが充分に民衆には還元されていない実態を目の当たりにしてネビドーにいる独裁者達を呪った。



 ニャンウーに戻り、運転手の推薦の食堂で昼食を取った。その後、市場で操り人形と、漆の小箱、それに短剣を買った。漆の朱色は日本に比べると、くすんだ色相だが、面白い形の器もあったので、明日は、これをもっと捜そうと思った。 


  夕方、またルピナスに行った。今夜は、この町のお祭りの日で、広場に移動遊園地が来ていて、映画もやるよ! と主人から教えられた。
Iさん、Kさん達とお祭りに繰り出した。街灯の無い真っ暗な道を、賑やかな音に頼りに近づいていくと、大きな広場に出た。千人位は居ただろうか? 蛍光色のネオンが屋台の菓子や果物を妖しく照らし、キッチュな玩具に子供達は目が釘付けで、日本でも戦前にはあった光景だろう。白布が張られ、トラックに置かれた映写機からビルマのコメディが上映されていた。フェリーニのアマルコルドが思い出されて、私のアドレナリンが沸騰している。暗闇の中で精彩を放っているのは観覧車で、直径20mはあろう偉容なのだが、 なんと動力源は人間! 若者が回転輪を器用に上りながら反動をつけて回転させる仕掛けだ。我々も5円程の小銭を払い、大の大人が4人、席にぎゅうぎゅう詰めに座ってスタートを待つと、突然、闇夜の高みに引き揚げられ、ビュンビュンと回転した。ベルトもなく、落下の危険性30%はあるようなキワモノだが、初めて出会った若者達も、無邪気な笑顔満開で、なんかぐっと遊び仲間になってしまった。 バガンの最後の夜に、こんな祝祭に出会えて旅の女神に感謝した。

2011年8月18日(木) 晴れ〜雨  

バガン 〜 ヤンゴン
 快晴 気温が朝からぐんぐん上がっている。
雨期でもバガンは内陸にあるので、この3日間 大雨には一度も会ってない。 今日は自転車で、ミャンガー村まで行き、道中の骨董屋を巡る。  街道沿いの小さな店に入り、店を隈なく見て、  埃の積もった中から、お宝を捜すのだ。その内の1軒で竹皮の周りに籐を敷きつめてから漆をかけた丸箱を見つけた。19世紀に貴族宅で使われた菓子箱だと云う。200$の言い値を190$で手に入れた。帰り、バガンで最高級のホテル:Sanctuary Resortに寄り、ブティクを覗いた。 流石に洗練された工芸品があったが、骨董はなかった。途中、NetCafeで朝日新聞を読み、Skypeで家族に無事を伝えた。 14:30 宿に戻り、骨董を包むダンボールを受付に頼むと、これ買わないか? 銅製の仏頭を出してきた。 値段を訊くと20$というので、8$ならと返すと、10$で良いといい私の下に転がり込んだ。15:00にチヅさんが来た。今日は頼まれてないが、見送ると言い、彼の友人の車で空港まで行った。復路は少し負けてくれたので、御礼に彼が欲しがっていた Columbiaの温度計キーホルダーをあげた。

  
W9-109 Nyaung U 17:25 - 18:45 Yangon

 夕方の便で暮れなずむヤンゴンに到着
 到着ロビーから構内を出て、出発ロビーに来たTaxiと交渉して、ユザナホテルに向かう。
渋滞だったが中心部の前にあるので、30分で到着した。 通された部屋に入り、目の前に浮かぶ
眺望に唸った。 真っ暗な空にまばゆいばかりに
シュエダゴォン・パヤーが浮かんでいた。

ボーイも自慢して、ここからの眺めが一番いいと云ったが、チップは払わなかった。「私は写真家で、パゴダの写真を撮る為に貴国を訪問するので、眺めのいい部屋を用意して欲しい」と代理店に伝えていた。そんな注文には慣れてるだろうが、その期待を裏切らなかったLPGに感謝だ。 
夕食に少し遠くだが、人気の店 AungThu Khaに行った。宿からは車で10分程だった。店に入ると、清潔な店内、きびきびした店員 (それも女性ばかし)で、期待できそうだった。鰻のカレー、筍と豚のシチュー、香草スープ、それに野菜数種とディエプがすぐに並んだ。トルコのロカンタのように、惣菜が見渡せ、注文がイメージ出来るのが良い。鰻のカレーは甘みと辛さが上手く補完してる。筍と豚のシチューは優しい味、そして香草スープで、さっぱり感を足す。見事なアンサンブルで、しめて3700ks( 370円)で大満足で店を出た。

2011年8月19日(金) 雨  

ヤンゴン〜クアラルンプール〜マラッカ
朝、起きて窓を開けると雨がしとしと降っている。シュエダゴォン・パヤーが曇空を突き刺すようなので、その奥から青空が顔出さないか、と願う。それで観光を後回しにして骨董捜しに出かけた。その骨董街Dhammazedi Roadは4Travelでシンガポール在住の茶柱タツ子さんの旅行記で発見した。そこにはshopの名刺から店主の攻略法まで、丁重に紹介されていて、私はそのコピーを握りしめてTaxiに乗り込んだ。

バケツをひっくり返したような豪雨になり、そのTaxi ( 日本から中古で輸入した80年代のカローラ) の天井からは雨がポタポタと振ってくる。20分もあちこちを彷徨ってから着いた所は掘っ建て小屋が点在する道路。見ると店先に古道具が見えるので、どうもここらへんらしい。(番地など表記してないので、Taxiでないと来れない)4畳半にも満たない店内に足を踏み入れると、所狭しと中国、ビルマの小さな骨董が埃をかむり並んでいた。私は骨董店よりも、こういう古道具屋に眠る、小さなお宝を発見するのが愉しい。しかし、こんな辺鄙な一角にある店を発見された茶柱さんの嗅覚と眼力に感嘆した。


初めの5分で店内をスーッと無表情にシーリングしてから、気に入った物があれば、4番手位の順序で値を訊いて行くのが私の流儀だが、この店では気にかかる物が何も無い。店主はお茶を出そうと準備をし始めたので、礼を云ってから隣の店に飛び込んだ。このようにして、5軒の店をハシゴして、最後の店でチャーミングな木製人形に出会った。昔、貴族が小舟の舳先の周囲に付けた装飾だそうで「王様と私」に出てくる皇太子のような衣装だ。対になる兄の方は髭を生やして武将風の衣装、2つで80$と云うのを弟だけで7$でどうか?とスタートして結果10$で手に入れた。ここには良い漆の箪笥もあり、いつか再訪しよう。

Taxiを呼んでもらい、中央市場:アウンサン・マーケットに行った。 場内の食堂でモヒンガーを食べた。バガンで食べた方が旨く値段も半分だった。旅行は首都から遠くなるほど質実だ。骨董屋も端から端まで覗いたが、気に入ったものは無かった。市場を出てアウンサンロードを東に歩いた。
ヤンゴンには喫茶店が多く、通りの1軒に入りお茶を頼み、店頭で売っていた肉饅を夜食用に買った。 相席した大学生が日本語で話しかけてきた。イントネーションも良かったが、学校で2年学んだだけだという。日系企業に就職したいのだが、中々難しいらしい。チヅさんといい、外国との接点に活路を捜す人々は必死で語学を勉強し 上達している。みんな必死で生きている。 
 
また東に進み、トレーダースホテルの近くまで来た。地図を求めて店を探すと、学生で混雑した店を見つけたので本屋かと思ったら、コンピューターソフトの店で、海賊版ばかりだ。 Windows7 @5000ks Adobe CS2 @4000ks Micrsoft Office 2007 @ 3000ks Germin EU data @500ks !!
東京で云えば銀座のアップルストアのような一等地で、こんな商売が堂々と営業しているのに驚いた。帰国してから調べると、バンコクの海賊ソフトの仕入れ元がビルマだそうで、タイ側の税関の押収品ベスト3と聴いた。店の中で2人のオタクな青年がソフトのプロテクト解除作業の最中で、後ろで見ているとあれよあれよとコマンドを打って改ざんしている。これも必死な生き方ではあるかも知れない。私も、どれか買おうかと思ったが、 Windows8というソフトが@8000で売られていたので苦笑して店を出た。

雨はますます激しくなったが、  あれを近くで見なければ帰れない、、とTaxiでシュエダゴォン・パヤーに行った。  茶店の青年達は「あそこを訪れるのは夜、ライトアップされてからが一番いいです」と云ってた、
寺の入口に着き、その大きさに驚いた。参道の階段を200mも登らなくてはいけない。圧倒的なファサードに導かれて最上階に辿り着くと、白い大理石の地面に金色の寺院が聳えている。
ビルマの竪琴で見た静謐な寺院は、信者の寄進で仏の偉容を示さんために極限まで黄金化されていた。曇空を跳ね返すように仏塔が黄金の光を天に向けて放っている姿は、まるで黄金で創られたサグラダファミアリアだ。 雨にも拘らずたくさんの信徒たちが各所で僧侶から説法を聞いている。

この信仰の広がりでも、どうして軍部の独裁政治を抑止する事が出来なかったのだろうか?
出発の時間が来たので、もやもやした思いを引きずりながら寺を出た。Taxiを拾いホテルで荷物を取ってから、空港に向かった。雨が車の窓を叩きつけている。市場で見た新聞では、今日、スーチーさんが初めて軟禁を解かれ、アウンサン家の出身地パゴーに行き、民衆の前に立ったと報じていた。この雨は、それを見守った天が、流した希望への涙なのか?それとも悲しみの涙か? そんな事を考えながら、私はビルマを離れた。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.0
ショッピング
4.5
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
自転車 タクシー 飛行機
航空会社
エアアジアX
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (1)

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  • pedaruさん 2014/06/11 05:29:58
    旅行記
    bloom3476さん お早うございます。

    こういう旅行記があってもいいのだ、と自分に言い聞かせながら他の写真だけの旅行記の何倍かの時間で読みました。

    頭のなかには、写真で見るよりも鮮やかに光景が湧いてきました。想像力を刺激する本来の旅行記でした。私もこんな田舎の骨董屋でお宝を物色したいものです。

    pedaru

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