ミストラ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 エアバスA380はドバイを離陸し、ペルシャ湾をかすめた後、広大なアラビア半島を北北西に 進んでいた。個人TVのオンデマンド・カメラを  真下に切り替えると、真っ白な大地が延々と映っている。まるで映画「イングリッシュ・ペーシェント」で主人公が瀕死の恋人と共に、砂漠を飛び抜ける シーンのようだ。<br /> <br /><br /> その画面が劇的に青色の海原へと変化したのはシナイ半島を過ぎてからだ。TVを航行地図に切り替えると、眼下に地中海、その左側に、   カイロ、アレクサンドリア 右側にキプロス アンタリヤの都市が並んでいた。  <br /> イカロスのように地中海を眺めながら、私はかつて,この広大な地域を支配し、そして失われた国を思った。その名をビザンティン帝国という。  帝国は、西のローマがゲルマン人に滅された後も、キリスト教の正統と栄華を千年の長きに渡って守り続けた。当時、オリエントやアジアとの交易で、世界の富の半分を保有していた皇帝達は、教会や修道院に, 金色に輝くモザイク画やフレスコを  寄進して、神と皇帝の栄光を後世に伝えた。<br /> 私は、その絢爛たる美しさに魅了され、この地図から消えた国を, 一つ一つ巡る旅に出た。<br /><br />エジプト(シナイ山)トルコ(コンスタンティノポリス、トラブゾン)バルカン諸国(マケドニア、ブルガリア、クロアチア、スロヴェニア)、イタリア(ラヴェンナ、ヴェネチア、シチリア)スペイン(オビエド)ギリシア北部(テッサロニキ)さらに、ビザンンティン帝国の自治領として現存する、聖地アトスへの巡礼も果たして来た。  そして今、失われた帝国の最後のモザイクを埋める為、30年ぶりにアテネの空港に下降しようとしていた。<br />       <br /><br /><br />陽光のギリシアへ  <br />   29 Apr 2011 快晴 アテネ〜スパルタ <br /><br /> Athenの空港に14:00 到着後、X93番のバスに飛び乗り、キフィスウバスターミナル:BT-Aまで向かう。この路線は、もう一つのBT-B:リオンシオンにも向かう主要路線なのに、バスは空港周辺をノロノロ周遊してから、90分かかってBT-Aに到着 そこからペレポネソス半島の南部方面のバスに乗る。<br /><br />Kifissou BT-A 17:15?20:15 SPARTI 勇猛で知られたスパルタに到着  後ろに座っていた英国人夫婦とキリル文字の標識を判読しながら宿を探した。ギリシアではBTは町の郊外に有るので、宿に辿り着くまでが、また難儀だ。20分歩いてロンプラに載っていたHotel Ceccileに投宿、夕食はケバブにロゼ 4/28 18:40に成田を発ってから、32時間が経過していた。  <br /><br /><br />ミストラ遺跡  WCH<br />   30 Apr  快晴 スパルタ〜ミストラ〜メテオラ <br /> <br /> Sparti 8:45 - 9:10 Mistra <br />バスを降りると、そこには標高651mの山が聳え、ビザンティン帝国の都市が眠っていた。ここに 始めにやって来たのは5世紀のローマ軍だった。 彼等が山頂までの道路を整備し、その後にフランク族の十字軍の基地として要塞化され、最後にビザンティン帝国モレアス公領として引き継がれた。帝国の辺境だったにも拘らず、優れた文人王の政策で多くの哲学者が集められ、新プラトン学派を育みギリシア・ルネッサンスの発信地となった。 <br /><br /> その文化力は、あのコシモ・ディ・メジチをも  啓蒙し、フィレンツェにプラトン・アカデミーを創設させ、初期イタリア・ルネッサンスの誕生にも寄与した。この二つの都が、カトリックとギリシア正教を統合化するフィレンツェ公会議の両軸として、当時のキリスト教世界の楕円を構成していた事は,あまり知られていない。  その影響力は15世紀にコンスタンティノポリスが陥落された後も、100年に渡って続いたが、次第に衰退していき16世紀にアルバニア軍によって滅亡され、 現在、見るような死の都市として残っていた。<br /><br /> 山腹にはポピーやミモザの花々が咲き乱れていた。野辺の花々が絨毯となり、山頂までの足取りも軽くなった。山の精気が野花の香りを運んできて、ここに都市を築いたローマ人の意図に感心した。例えれば、アッシジの修道院から、ウンブリアの平原を眺めたような清々しさだ。廃墟の聖堂に座り、鳥の声に耳を澄ました。あーここに来て良かった!と心底思った。帰路、1時間に1本のバスが来ない。乗継ぎに間に合わなくなるので、 ヒッチハイクをしてスパルタまで戻った。 <br /><br />     <br /><br />カランバカへ  <br /><br />Sparti 13:15?6:15 BT-A / BT-B 17:00?21:30 Trikala<br />Trikala 21:50?22:30 Kalambaka <br />     <br />     実はスパルタを朝の9:15発のバスに乗らなければ、この夜、メテオラまでは到着出来ない行程だった。しかし、前日、BTで予約すると既に満席! バスのキャパシティの少なさを愚痴ったところだった。 午後のバスで、また3時間かけてアテネに戻り、BT-AからBT-Bにtaxiで移動し、メテオラへの乗換のトリカラまでのキップを購入すると、窓口の係員がトリカラで1泊する必要があるよ!と云われ、面倒な長旅を覚悟していた。 <br /><br />    それが、バスに荷物を入れる時、その係官から、ひょっとしたらメテオラにまで行けるかも知れないよ、と親切に耳打ちされた。あまり期待しないまま、満席のバスに乗り込んだ。前列の少女2人組は、2時間に渡って携帯電話をしている。ギリシア人は誰でも、着信音を最大にするみたいで、頻繁に鳴り響くロックの大音量に、隣席の  老婆が顔をしかめていた。 後ろの席では30代位の女性が吾、関せずと、PCにWiMaxを差してメールをチェックしていた。皺くちゃの老女は、昔はクリスティン・トーマスのような凄い美人だったろう。そんな人間観察をしながら4時間半の長旅の退屈を紛らわした。真っ暗になってからトリカラのBTに到着すると、運転手が4番ホームを差して、待つよう言われた。ベンチに行くと、先程、PCでメール・チェックをしていた女性が居た。 <br />     それが、オリンピアとの出会いだった。<br /><br /><br />メーデーの朝  <br />  1 May  曇り Meteora 〜 Itea<br /><br /> 空調の効いた部屋で目覚めた。 昨夜の長旅で最後に出会ったのは、女神だった。 <br /><br />「メテオラで、どこか、夜中まで開いているホテルを知りませんか?」と訊いたのが、後ろの座席に座っていたオリンピアだった。 なんと彼女はフリーのツアー・ガイドをしており、明日から  バス・ツアーの添乗をする予定と云った。そこで私は、明日、メテオラを観光した後、バスを2度乗り継いでデルフィまで行きたい事。そこから オシオス・ルーカスの修道院を訪れたい事。さらにアトスに巡礼した事を説明した。すると彼女は、カランバカにメテオラよりも重要な古寺がある事そしてメテオラの周り方、最後に、上手くいけば デルフィまで、私達のバスに乗れば良い、という驚きの提案までしてくれたのだ ギリシア内でのバスの乗継ぎは【バス停が現地の人しか判らない路角にあったり定時運行がアバウト】等の事情から、Meteora?Delphiのアクセスは大変に困難だったので、まさに地獄で仏、、いや女神だっだ。 <br /> <br /> 彼女は、それからホテルに私を連れて行き、マネージャーにまで紹介してくれたが、別れる時、こう言葉を残した、、<br />「今日、私は貴方を3回助けた。1回目は座席に忘れ物をした時。2回目は宿の手配  3回目は、カランバカで見なければいけない寺を教えたこと、、」  <br />     うーん、なかなか手強い女性だ。<br />ミトロポリ聖堂<br /> <br /> メーデーの朝 アテネではバスも地下鉄も動いていないが、カランバカは、小雨降る静かな安息日を迎えていた。朝食を済ませてから、オリンピアが薦めた、ミトロポリ聖堂に向かった。町の高台まで息を切らせて辿り着き、重い聖堂のドアを開けると、日曜日のミサの最中で、撮影禁止はもとより、信者の妨げになるべくならないようにして、参列した。この教会は初期キリスト教時代(5-6c)に礎が築かれ、代々、改修がされ11世紀に現在の形になった。 小さな内陣には大理石で作られた説教台、天蓋を含め、貴重な5世紀の材料が使われており、初期キリスト教時代の信仰の 姿を伝えるタイムカプセルのような教会だった。この寺院で聖日のミサに参列出来たのは、忘れる事の出来ない濃密な祈りの時間だった<br /><br /> <br />メテオラ 天に隠遁する砦 WCH  <br /><br />メテオラとは「空中につり上げられた」という  意味だ。前夜、バスで町に入ってきた時、ライトアップされた巨岩達が、「未知との遭遇」の山のように、おどろおどろしかったが、昼間に見ると桂林の奇岩の上に、マッチ箱の修道院がチョコンと乗っている印象だ。Taxiを1.5時間、雇って、ニコラオス、ルサーヌ、ヴァルラーム、メテオンと回った。運転手が山に一緒に、登って記念写真を撮ってくれた。どの修道院も信仰の静謐さを求めて、人を寄せ付けない断崖の上に建てられた。 <br />   <br />トルコのスメラ寺院やカッパドキアの洞窟、エチオピア・ティグレの寺院など、その起原は全てアトスに始まる隠遁者の歴史だ。あんなサバイバルな環境にも関わらず 、どうやって、あの精緻なフレスコ画を描けたのだろう?千年前に、ここにいた名も知れぬ僧侶達の直向きな姿を想像した。<br /><br /><br /><br />危機一髪の待合せ  <br /><br /> 前夜、オリンピアと約束したのはメテオン修道院で正午に! そのメテオンに15分前にTaxiで降り立つと、なんと修道院は谷の向側! 土産屋のおじさんに荷物を預かってもらい、谷を超え、山を登って、大修道院の中に入った。ここは一番大きく、回廊も多いので、彼女が見つけられない! 彼女の携帯を思い出して、売店のお兄さんにかけて貰うが、圏外らしく繋がらない。 意を決して、入口に戻り、土産屋に着いたのが12:15<br /><br /> 荷物の返礼にメテオラのスノーボールを買い、それに癒されながら、希望を持って12:45まで 待つ。今度は英語の判る土産屋にお願いして、  再度、携帯に電話して貰う、相変わらず圏外、、その間、何台もの大型バスが器用に、この門前で方向を変えて過ぎ去って行った。 <br /> <br /> 13:20 諦めて、Taxiを呼ぼうとした時、土産屋が携帯を持って走ってきた。 彼女からだ! 「 問題が起きて、そちらには行けないの、今、ヴァーラムには来てるんだけど、こっちに来れる?」 で、また圏外!<br />ヴァーラム 何処? って訊くと、土産屋が、  この坂を5分下がった、あそこだよ!って眼下の修道院を指している。 私は慌てて、おじさんに御礼を云うのも忘れ、キャリーを引きずり、ダッシュして坂を駆け下りた。7分かかって、修道院の入口に着くと、今日は黒と赤のコントラストにサングラスをかけたオリンピアが笑顔で現れた。<br /> 彼女は再度、謝った後(決してそうは見えなかったが、)私を上から下まで見て「これならガイドと見られてもおかしくないは、、」と呟いた。<br /><br /><br /> それから彼女は2人の運転手の元に行き、同乗の許可を求め、続いてツアーの代表者の元にも行って、同じ願いを申し出た。私がどう紹介されたか?知る由もないのだが、まあ、そんな試験が、この旨い話には残っていたのだ。 そして私は<br />無事に合格となり、運転手の隣の、通路の階段という、分相応の指定席を与えられた。 <br /><br /><br />ポーランド発 団体バスツアー  <br /><br /> 乗ってから、ツアーの代表をしていた小柄な40代の女性・ゴーシャさんから、このツアーはポーランド北部でグダニスクの隣のCzluchowという町から来ている事を教えて貰った。 (彼らが今迄、このバスツアーで訪れたイタリアやスペインの旅行DVDが車内で上映されたので、気心の通う仲間達である事が判った)<br /> <br /> 私は、元気良く「 I love Chopin I love Poland !」と全員に挨拶してから、席に座った。いかにしたら、このバスで招からざる客から浮揚できるか?記憶の中のポーランド関係の知識を総動員した。ショパンの心臓のある教会に行った事、ヨハネ・パウロ2世のミサにコモ湖で、参列した事、広告でBasiaと仕事した事、、でも、それらを知的にプレゼンテーションする語学力は、私には無い。 <br /> <br /> そんな杞憂をしてたら、車内はカラオケ大会になった。歌以外に詩の朗読をする人も出てきて、このグループの知的レベルを知ったので、私の下手な歌を聞かす訳にもいかず、一計を案じて音楽プレーヤーを取出し、内蔵スピーカーをマイクに充てて、昨日まで聴いていた夏川りみの「童神」を流した。子守唄なら、たぶん異国の感性にも何か伝わるだろうと思ったからだ。 初めて聴いた地球の反対側の、それも沖縄の海歌に、正直、  彼等が喜んでくれたかは判らない。しかし、後で、オリンピアから、「あの外国人はなかなか上手く適応してる、、」とゴーシャが云っていたのを  聞いて、やれやれと思った。<br /><br /><br />オリンピアと心優しき仲間たち<br /><br /> オリンピアはギリシア、英語、ポーランド、ドイツ語、ロシア語を駆使してツアー客を仕切っていた。今朝から添乗したばかりなのに、もう全員の信頼を得ている切れ者だ。そしてビザンティン文化への誇りが有るから、見知らぬ旅人の好奇心にも好意を寄せて貰えたのだろう。何故、ポーランド語が出来るの?と訊くと、母がポーランド人と言い、19世紀に起こったギリシアとポーランドの悲しい歴史を教えてくれた。それはテオ・アンゲロプロスの映画「エレニの旅」と重なる歴史だった。オリンピアは途中で立ち寄った土産屋から、添乗員に送られた景品を、お客さんに還元する、くじびき大会をし、そのくじ引き役を私に命じた。私の手で、当選者が決まる度に持ち上げてくれるので、(たとえ、それが絵葉書でも)景品が当たる度に、多くの叔母さんから感謝のキスを見舞われた。映画「トスカーナの休日」で、ダイアン・レインがツアー・バスに乗り合せて、飲めや、歌え、というシーンがあったが、私の場合は「釣りバカ」のハマチャンを想像して貰えるのが正しい。裸踊りこそしなかったが、ウオッカや密造酒、それにお手製の菓子を振舞われて歌い、踊り、笑った。しまいには、最後列の隙間に席を与えられ、両側の60代のおば様に挟まれながら、デルフィに向けてポーランド団体旅行の一員となった。20:00 Delphiの海側の街Iteaに到着 Hotel Trocadelo beachという素敵なリゾートホテルに投宿した 彼女は団体価格で宿+夕食も用意してくれたが、夕食は、律儀にも、皆のテーブルから離れ、添乗員+運転手+私で食事したのは、流石だ。<br /><br /><br />    <br />デルフィ遺跡  WCH<br />   2 May 快晴 Delphi〜OsiosLukas〜Athen<br /><br /> 朝、起きてテラスで静かな入江を眺めた。デルフィの奥座敷に、こんな海辺の街があるなんて、ツアーに参加しなければ一生知らなかっただろう。その内に、パパッと出発! 日本人よりも統率力のあるポーランド人達に感心した。お陰で、   朝9:00 にデルフィ遺跡に到着!静謐な朝 デルフィの精気が漲っている。流石、オリンピア!  彼女なら日本で添乗しても、伊勢神宮には朝一でバスを回すだろう。デルフィでツアーの皆に自由時間を与えている間に、私を伴い、道路に降りた。  <br /> <br /> そこからが彼女の真骨頂で、1時間に1本しかこないLivadia行きのKTELのバスを止めて、運転手に何か言ってから、ツアーバスが駐車してる1km先まで乗って行き、そこで私の荷物をバスから降ろし、「さあ。早く、これに飛び乗って、Destomoの分岐点で降ろして貰って!」とケツを叩かれて、私達はあっけなく別れてしまったのだ。 この間KTELの公衆バスに乗っていたお客さんからは、 何の苦情もないまま事態は進行したのだった。<br /> デルフィの円形劇場の前で、僅かな謝礼を渡そうとしたら、これはゴーシャに渡すからね!て それ以外は受け取らなかった。<br /><br /> 高潔なギリシア人に出会い、デルフィという地は21世紀の私にも、忘れられない聖域となった。<br /><br />        <br /> <br />Destomoの居酒屋で <br /> <br /> ギリシアのビザンティン巡りをする者にとって最大の難所が、オシオス・ルカス修道院にアクセスする事だ。 VirtualToulistでも、Destomoの分岐点で降ろしてもらい、そこからヒッチハイクせよ!  とハードボイルドな指示をしている。<br /> <br /> バスはデルフィを出て25分で、その何も無い道で停車した。 慌てて降りる、と後ろから、70歳位の喪服のおばあさん(※未亡人の制服)がトボトボと降りたのを、私は見過ごさなかった。<br /> 案の定、道の先には小さな車が彼女を迎えに来ていた。 最近の小澤征爾のように骨と皮だけになった60男がニコニコしている。 お婆さんの後ろに付いて行きながら、「Destomo ? 」とニコニコすると、それだけで、手招きして相乗りさせてくれた。 人間なんでも経験と修練である。<br /><br /> 車は10分も走ってから、Destomoの町の小さな広場に到着した。そこでTavernaに入り、ここで昼食をするので、荷物を預かって欲しい旨を頼む。英語を話す娘さんが料理は無いという。<br /> 見れば、周りの親父達の前にはイワシの唐揚げのようなものしか置いてない。 見かねていると、厨房に招き、チキンの煮込みを示し、これで良いか?と訊くのでOKと答えた。 手早く食べてお金を払おうとすると、賄いの料理なので、これは私の気持ちだ、、と云う。涙が出てくるような親切を、朝から連打されて、私はTaxiに飛び乗った。<br /> <br />オシオス・ルカス修道院  WCH<br /> <br /> デストモの町から車で25分位走ると、丘陵に出る。冬は雪で道が閉ざされるような地に、オシオス・ルカス修道院はある。ここもデルフィのように気を感じさせる地で、アッシジのように聖人が祀られ、そこに10-11Cにかけて現在ある2つの聖堂が造営された。益田朋幸先生の著作で、その素晴らしさを知ってはいたものの、主聖堂の天井を仰ぎみた瞬間、かくも完璧にモザイクが残されているのに驚いた。学術目的で来る人しかいないのか、聖具を売る店はひっそりとしていた。 ここで、聖母子のイコンを購入した。<br /><br />アテネへ<br /> <br /> デストモの町に戻り、Taverna に顔を出すが、あの娘さんはいない。英語を話せないお母さんに「指差しギリシア会話」で礼を伝えた。娘さんには、帰国してから手紙を出そう。バス停らしき所で1.5時間も立ち尽くしてからLibadia BTまで行き、接続のKTELのバスでアテネLiosion T-Bに18:00着 地下鉄でMonteraki駅まで行き、徒歩10分でHotel Tempiに投宿した。宿から臨むとライトアップされたアクロポリスが神々しく浮かんでいた。ロンプラ推薦の店を捜すが2軒とも閉店 それで中央市場を歩きOINOMAFEIPEIOという老舗で夕食を取った。旨い。安い、早いの★3つだった。 <br /><br /><br />ケサリアニ修道院  <br />  3 May 雨〜晴    アテネ<br /><br />  朝 アカデミー街まで歩き224番のバスで 終点のケサリアニまで行く。バス停のオジサンに修道院までの道を訊くと「ここからワンサウザントkm 向うの方」だと指を指す。パウロの長征並! と苦笑するが、kmでなくmだろうと、修正して、道なき道を歩く。ここは自動車で来る地なのだろう。20分歩き、ケサリアニ自然公園のゲートに 辿り着き、修道院への標識を見て安堵する。しかし、そこから40分迷ってから、ようやく凹地に隠れた聖堂を発見 聖堂は11世紀だが、内陣にモザイクは無く、18世紀のフレスコ画があった。<br /> ここでの収穫は、係員から閉鎖中のダフニ修道院が実は、ひっそりと公開してるという情報を知った事だった。慌てて、来た道を戻り、本命へと邁進した。<br /><br /><br /><br />ダフニ修道院  WCH<br /> <br /> アカデミーまで戻り、市場の食堂で昼食を取ってから、エレフテリアス広場に行き、A16のバスでダフニに向った。今度はバス停から歩いて5分難なく辿り着いたが、改修中のため、ゲートが  閉まっている。この聖堂は1999年の地震で内陣が崩落し、以来、EUの支援で改修工事をしていたのだが、金融危機で、その資金さえ、途絶え、工事が停止して、そのまま非公開となっていたのだ。思案してると、ホームレスの叔父さんが、指をフェンスの内側に入れて、開けてくれた。入って捕まらないだろうか? とヒヤヒヤしたが、奥に進むと、工事中の外観が現れた。しかし、聖堂の入口は鍵がかかり、入れない。 周囲を回るも、どこからも入れない。折角、ここまで来たのに、と諦めきれないでいたら、入口からは見えない所にバラックが見えた。近づいて、ハローと呼びかけると、中から小柄な女性が現れ英語で話しが出来た。撮影をしない条件で、見学出来る事になった。何という幸運か! VirtualTouristで云っていたのは、この事だった。<br /> <br /> 彼女が聖堂の鍵を開けると、内側は工事現場の如く、鉄骨の骨組と階段が内陣一杯に張り巡らされていた。階段を登って、モザイク画の壁にまで接近できる。彼女がライトアップしてくれたので、モザイクの黄金が、僅か2メートル先で鮮やかに光り輝いている。私は踊り場の床に這いつくばり、上半身をモザイク画の壁面にせり出した。モザイクの一片は射しこむ外光を計算して精緻に埋めこまれ,凹凸面に乱反射した光は、聖人の表情にふくよかな生命感を与えていた。11世紀の職工達が精魂を込めた技を眼前にして、私は至福の時を過した。工事中のマイナスが転じて、思わぬ眼福を頂いた。旅とは不思議な出会いの連続だ。<br /><br /> <br />スニオン岬へ<br /><br /> 町に戻り、Victoria広場のバス停からKTELのバスに2時間揺られて、日没前のスニオン岬に 着いた。太陽がエーゲ海の西に落ちる迄、ぼーっと海を見つめた。帰路、車窓に流れるバカンス前の海辺の光景を見ながら、コーラで冷めたピザを食べた。こういう、なんてことない景色が、後から一番、愛おしくなる事を、私は、もうたくさん知っていた。<br /><br />  <br /><br />アクロポリス  WCH<br />   4 May 晴   アテネ 〜 キプロス<br /><br /> 早起きして、宿からアクロポリスの頂きに向かった。駅の左側の坂道を登ると古代アゴラの横の抜け道になり、誰もいない道を通って、アクロポリスの入口に来れる。開門と同時にパルテノンまで登った。ギリシアは僅か180年前迄はオスマン・トルコの支配下にあった。1687年オスマン・トルコとヴェネチア軍の戦いで、それまで建築時の姿をほぼ保っていた神殿は大破し、破風を飾っていた彫像やレリーフは、英国に持ち去られ現在は大英博物館にある。今、ここにあるのは豪華な衣装を略奪され、全裸にされた女神の姿だった。<br /> だから、この神殿は遠くから仰ぎ見るのが、  最も美しく、また礼儀に叶っている、、と思った。 <br /> <br /><br />ビザンティン美術館<br /><br /> 再訪したこの美術館は、進化していて、大変に見やすい展示になっていた。しかし人員縮小らしく、閉鎖している展示棟がいくつもあったので、イコンが乏しい。首都の美術館なのに残念だった。<br /><br /><br />キプロス航空<br />  CY337 Athen 18:30 ? 20:25 Larnaca @76Euro<br /><br /> 地下鉄を2度乗り継いで、空港に行き、<br />キプロス航空でラルナカへ飛んだ。キプロスは 四国の3/4程の広さで、首都はレフコシアで英語名ではニコシアという。このように、ギリシア名と英国統治時代の名前が混在していて紛らわしい。<br /> 空の玄関口のラルナカ空港に着き、バス停に行くと、Kings Englishの一団がゾロゾロと集まってくる。彼らはロンドンやマンチェスターから 普段着のままで降り立ち、そのまま現地添乗員に促されて大型バスに乗り、B級ホテルに直行する、まるでハワイに向かう日本人ツアーと同じだ。<br />(※ ロイヤルウエディングで英国が湧いた、この週 実は英国民の34%は無関心で、その喧騒を嫌った層を当て込み、キプロスまでの飛行機+宿泊6日分のパックで350 Euroという超格安ツアーが売られていた)<br /> そして、この島はキリル文字が公用文字なので、モスクワからも大勢の観光客が来て、こちらは  C級ホテルに単独で行くというパターンだ。 <br /><br />当然の事ながら、私は後者だ。この島は未だ英国の経済支配下なので、Thomas Cookで調べると、島内のリゾートの中心であるリマソールに、なんと1泊23euroというビーチホテルが見つかった。オフ・シーズンとはいえ、目を疑うような価格で、それを2泊予約した。ラルナカ空港からリマソールまでは40分かかり、そこからTaxiで最寄りの宿まで行く。私の宿はバス停から5kmも離れているので、「バスの運転手に到着時にTaxiが来て 貰うように頼んでおいて!」と空港の観光局で教えて貰ったが、相乗り出来ないか?と車内の客に呼びかけると向かいのホテルに泊まるフランス人がいたので、運転手に車は1台でOKと云った。彼の宿は島内でも指折りの超高級ホテル、私のは老朽化したホテルで、ロシアの中産階級の家族で大賑わいだった。 でもねえ、、海は見えるし、ツインベッドだし、バスタブはあるし、おまけに朝食はバイキング 身分相応どころか、Thomas Cookには足を向けて寝られない!<br /><br /><br />パフォスのモザイク  WCH<br />   5 May 快晴   <br />  <br /> 島の西端にある古都パフォスに出かける。お目当ては、世界遺産のモザイク遺跡である。<br /> パフォスのBTに着き、判りにくい道を歩いて 別の停車場からカト・パフォスという南端の地域に行った。BTが統一されてないので、乗継ひとつにも悪戦苦闘する。カト・パフォスは明るい港町で釣りやダイビングの出発地だ。その港のそばに、遺跡の入口がある。紀元前2-4世紀に、この地を統治したローマの地方総督の館 その遺跡がポンペイのように点在している。今残されているのは床のモザイクだけだが。それでも、こんな凄いモザイクを体育館のような広さに敷き詰めていたなんて!! 改めてローマ帝国の偉大さを実感した。<br /> <br /> 帰路、バス停近くの寺で、この島に来たパウロが、布教の咎で鞭打ちにされた時に縛られたという柱を見た。パウロはその後、刑を執行させたローマ総督をキリスト教に改宗させたと云う。後にここに島内最大のビザンティン様式の大聖堂が 建てられたが、その聖堂も7世紀にはアラブの 海賊の襲撃で全てが破壊されたという。ホテルに戻り、向かいの超高級ホテルAmathus に夕陽を 見に行った。たまたま海側に広がる芝生では大掛かりなウエディング・パーティが開かれていた。宴は終盤らしく、セキュリティの人も  シャンパンで酔っ払ってたのか、カメラマンベストにデジ一眼をぶら下げた私を咎めもせずに通してくれた。庭園内には生バンド、TV取材、数カ所の屋台、そして着飾ったセレブ達が新郎・新婦に挨拶をする行列が80mも並ぶのを見れば、相当、VIPな両家なのが判る。私も折角なのでミモザを飲みながらメゼのカナッペを頂いて、人間観察すると何やら緊張の走る方角に複数のSPを発見、、その先には新郎の親子に最敬礼された小柄な老人が居た。(翌日の新聞で、彼がディミトリス・フリストフィアス大統領である事を知った)<br /><br />レフコシア<br />  6 May 晴 リマソール〜レフコシア<br /> <br /> 朝食の時、向側のタタール系のロシア人夫婦と目が会う。我殺なロシア家族達の中で、慎み深い表情で遠いルーツを共にする親近感を感じて自然と笑顔を交わした。一人旅をしていて枯渇するのは、ビタミンCと朝食時の笑顔だろう。急に家族の声が聞きたくなり、無線LANが安定しているAmathus に行きスマートフォンのSkypeを起動して家族と話して旅の無事を知らせた。 バスでキプロスの首都レフコシアに向かう。当初は、そのままカコペトリア村に移動する積りだったが、 重い荷物を持って移動するプランを変更し、ここで泊まり、明日、日帰りで訪れる事にした。BT近くのDelphi Hotelに投宿 近くで賑わうケバブの店で昼食を取る。周辺はライト・イトキアと呼ばれる旧市街で石畳の路地にレバノン・カフェがあった。冷たいギリシア珈琲を飲みながら 、水パイプを喫った。煙草の覚醒で、疲れが随分と和らぎ、まったりとした中東気分を味わった。 <br /><br /><br />ビザンティン美術館<br /><br /> 英気が戻ったので、熱い光の差す路地を巡って、ビザンティン美術館に行った。澁澤幸子さんの キプロス旅行記でも、キプロス島内中のイコンが 集められていると知り、期待していた。撮影禁止だったので、紹介出来ないのが残念だが、なかなか素晴らしい美術館だ。特に、高さ2mを超す  巨大なイコンが多かった。かつて皇帝達は、凱旋の折に、聖母子のイコンだけを馬車に載せて、  それが神からの恩寵の勝利である事を民衆に知ら示めたそうだが、ここにあるイコンも、そんなプロパガンダの為に作られたとしか思えない。  旧市街に戻る途中、聖具店を見つけ、この旅で3枚目となる聖母子のイコンを購入した。<br /><br />       <br /><br />北キプロス<br /><br /> トルコ側で夕食を取る事にした。宿から北に10分歩くと、グリーンラインという国境があり、昔のベルリンのようなチェックポイントがある。 パスポートを提示して、南キプロスを出国し、  北キプロス側では別紙に入国スタンプを押して貰い、あっけなく北キプロスに入国した。国境付近は店も少ないので、10分程、北上して中央市場まで歩き、定食屋・ロカンタに入った。ギリシア側に比べ、料理の種類が断然、豊富、特に、スープ、煮込みが選べるので、旅人の胃には嬉しい。   私はイスタンブールで舌鼓を打った蓑のスープ、それにオックステールと野菜の煮込みを取った。 どれも旨く、この旅行で忘れていた食欲が目覚めた。 明日の朝食用のサンドイッチも作って貰い店を出た。暗い街で道に迷ったので通りかかった車に呼びかけると、チェックポイントまで親切に送ってくれた。こういうホスピタリティはトルコ系の方が圧倒的に優れていた。<br /><br />トロードスの教会群  WCH<br />  7 May 晴 カコペトリア村〜ラルナカ〜ドバイ〜<br /><br /> キプロス島は有史以来、絶え間なく、アラブの<br />海賊により、蹂躙されてきた。 それで、人々は、侵略が及ばない山奥に移り住んで、生活を安定させた。 それらの村々では、慎ましい生活と信仰が守られてきて、中でも、11-12世紀のビザンティン時代に建てられた10箇所の教会が、世界遺産として登録されていた。 ただ、ここも交通インフラが乏しく、中心地のカコペトリア村へはレフコシアからバスが僅かに運行しているだけで、その先はTaxiを半日、雇うか、標識もない山道を3日間、徒歩で回るしかなかった。情報が少ないのでVirtual TouristのTrodos Forumに投稿したらスレ主で,キプロス在住のPopiさんから、ロンプラにも載ってない詳しいアドバイスを頂いた。 お陰で見知らぬ村でも迷う事なく、路地を抜け 山道を6km歩いて、聖ニコラオス教会に行った。<br />    <br /> <br /> この一帯は積雪が多いので、11世紀に建てられた聖堂には、後に、石造りの屋根がかけられ、外観は大きな蔵のようだった。中に入ると、米国から来た歴史学者の一団が見学をしていた。 <br /> <br />   <br /> <br /> 彼等はフレスコを仰ぎながらダヴィンチコードのラングドン教授のように、声高で討議していた。 静寂を求めて彼等が退出する迄、外で待った。  それから、管理人の他に誰もいない聖堂で、ゆっくりとクーポラに描かれた聖人達と対峙した。 決して 豪華なフレスコ画ではないが、一千年以上も、この村の人々によって大切に守られてきた信仰の年輪が、その聖画達を温かく包んでいた。<br /><br /> <br /> 村に戻り、隣町のガラタ村にある教会へTaxiで向かった。運転手が隣町のカフェで村の人に確かめると、教会の鍵を預かっている人が、夜まで外出していて、今日は無理だと云った。ニコラオス聖堂を見られただけでも良しとした。それから2時間バスを待ってからレフコシアに戻った。 <br /> <br /><br />11日間で、ギリシアやキプロスの各地を巡る旅は終わった。思いもかけぬ出会いや幸運にも恵まれた旅だった。その感謝を忘れまいと思った。 <br /><br />この旅で、多くの人から、あなたの国は大丈夫か?と訊かれた。 そして、それに答えられなかった自分がいた。 帰国してから、どのようにそれを大丈夫に出来るか? 日本への32時間の機上で考えながら、旅人から日常に戻って行った。    2011/05/23    <br /><br />    The World Heritage Walker 247 / 878 <br /><br />

失われた帝国への旅 -- ギリシア・キプロス古寺巡礼 --

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2011/04/28 - 2011/05/08

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bloom3476

bloom3476さん

エアバスA380はドバイを離陸し、ペルシャ湾をかすめた後、広大なアラビア半島を北北西に 進んでいた。個人TVのオンデマンド・カメラを  真下に切り替えると、真っ白な大地が延々と映っている。まるで映画「イングリッシュ・ペーシェント」で主人公が瀕死の恋人と共に、砂漠を飛び抜ける シーンのようだ。
 

その画面が劇的に青色の海原へと変化したのはシナイ半島を過ぎてからだ。TVを航行地図に切り替えると、眼下に地中海、その左側に、   カイロ、アレクサンドリア 右側にキプロス アンタリヤの都市が並んでいた。  
 イカロスのように地中海を眺めながら、私はかつて,この広大な地域を支配し、そして失われた国を思った。その名をビザンティン帝国という。  帝国は、西のローマがゲルマン人に滅された後も、キリスト教の正統と栄華を千年の長きに渡って守り続けた。当時、オリエントやアジアとの交易で、世界の富の半分を保有していた皇帝達は、教会や修道院に, 金色に輝くモザイク画やフレスコを 寄進して、神と皇帝の栄光を後世に伝えた。
 私は、その絢爛たる美しさに魅了され、この地図から消えた国を, 一つ一つ巡る旅に出た。

エジプト(シナイ山)トルコ(コンスタンティノポリス、トラブゾン)バルカン諸国(マケドニア、ブルガリア、クロアチア、スロヴェニア)、イタリア(ラヴェンナ、ヴェネチア、シチリア)スペイン(オビエド)ギリシア北部(テッサロニキ)さらに、ビザンンティン帝国の自治領として現存する、聖地アトスへの巡礼も果たして来た。 そして今、失われた帝国の最後のモザイクを埋める為、30年ぶりにアテネの空港に下降しようとしていた。
       


陽光のギリシアへ 
   29 Apr 2011 快晴 アテネ〜スパルタ

 Athenの空港に14:00 到着後、X93番のバスに飛び乗り、キフィスウバスターミナル:BT-Aまで向かう。この路線は、もう一つのBT-B:リオンシオンにも向かう主要路線なのに、バスは空港周辺をノロノロ周遊してから、90分かかってBT-Aに到着 そこからペレポネソス半島の南部方面のバスに乗る。

Kifissou BT-A 17:15?20:15 SPARTI 勇猛で知られたスパルタに到着  後ろに座っていた英国人夫婦とキリル文字の標識を判読しながら宿を探した。ギリシアではBTは町の郊外に有るので、宿に辿り着くまでが、また難儀だ。20分歩いてロンプラに載っていたHotel Ceccileに投宿、夕食はケバブにロゼ 4/28 18:40に成田を発ってから、32時間が経過していた。  


ミストラ遺跡  WCH
   30 Apr 快晴 スパルタ〜ミストラ〜メテオラ
 
 Sparti 8:45 - 9:10 Mistra
バスを降りると、そこには標高651mの山が聳え、ビザンティン帝国の都市が眠っていた。ここに 始めにやって来たのは5世紀のローマ軍だった。 彼等が山頂までの道路を整備し、その後にフランク族の十字軍の基地として要塞化され、最後にビザンティン帝国モレアス公領として引き継がれた。帝国の辺境だったにも拘らず、優れた文人王の政策で多くの哲学者が集められ、新プラトン学派を育みギリシア・ルネッサンスの発信地となった。 

その文化力は、あのコシモ・ディ・メジチをも  啓蒙し、フィレンツェにプラトン・アカデミーを創設させ、初期イタリア・ルネッサンスの誕生にも寄与した。この二つの都が、カトリックとギリシア正教を統合化するフィレンツェ公会議の両軸として、当時のキリスト教世界の楕円を構成していた事は,あまり知られていない。 その影響力は15世紀にコンスタンティノポリスが陥落された後も、100年に渡って続いたが、次第に衰退していき16世紀にアルバニア軍によって滅亡され、 現在、見るような死の都市として残っていた。

 山腹にはポピーやミモザの花々が咲き乱れていた。野辺の花々が絨毯となり、山頂までの足取りも軽くなった。山の精気が野花の香りを運んできて、ここに都市を築いたローマ人の意図に感心した。例えれば、アッシジの修道院から、ウンブリアの平原を眺めたような清々しさだ。廃墟の聖堂に座り、鳥の声に耳を澄ました。あーここに来て良かった!と心底思った。帰路、1時間に1本のバスが来ない。乗継ぎに間に合わなくなるので、 ヒッチハイクをしてスパルタまで戻った。 

     

カランバカへ 

Sparti 13:15?6:15 BT-A / BT-B 17:00?21:30 Trikala
Trikala 21:50?22:30 Kalambaka

実はスパルタを朝の9:15発のバスに乗らなければ、この夜、メテオラまでは到着出来ない行程だった。しかし、前日、BTで予約すると既に満席! バスのキャパシティの少なさを愚痴ったところだった。 午後のバスで、また3時間かけてアテネに戻り、BT-AからBT-Bにtaxiで移動し、メテオラへの乗換のトリカラまでのキップを購入すると、窓口の係員がトリカラで1泊する必要があるよ!と云われ、面倒な長旅を覚悟していた。 

それが、バスに荷物を入れる時、その係官から、ひょっとしたらメテオラにまで行けるかも知れないよ、と親切に耳打ちされた。あまり期待しないまま、満席のバスに乗り込んだ。前列の少女2人組は、2時間に渡って携帯電話をしている。ギリシア人は誰でも、着信音を最大にするみたいで、頻繁に鳴り響くロックの大音量に、隣席の  老婆が顔をしかめていた。 後ろの席では30代位の女性が吾、関せずと、PCにWiMaxを差してメールをチェックしていた。皺くちゃの老女は、昔はクリスティン・トーマスのような凄い美人だったろう。そんな人間観察をしながら4時間半の長旅の退屈を紛らわした。真っ暗になってからトリカラのBTに到着すると、運転手が4番ホームを差して、待つよう言われた。ベンチに行くと、先程、PCでメール・チェックをしていた女性が居た。 
それが、オリンピアとの出会いだった。


メーデーの朝 
  1 May 曇り Meteora 〜 Itea

 空調の効いた部屋で目覚めた。 昨夜の長旅で最後に出会ったのは、女神だった。 

「メテオラで、どこか、夜中まで開いているホテルを知りませんか?」と訊いたのが、後ろの座席に座っていたオリンピアだった。 なんと彼女はフリーのツアー・ガイドをしており、明日から バス・ツアーの添乗をする予定と云った。そこで私は、明日、メテオラを観光した後、バスを2度乗り継いでデルフィまで行きたい事。そこから オシオス・ルーカスの修道院を訪れたい事。さらにアトスに巡礼した事を説明した。すると彼女は、カランバカにメテオラよりも重要な古寺がある事そしてメテオラの周り方、最後に、上手くいけば デルフィまで、私達のバスに乗れば良い、という驚きの提案までしてくれたのだ ギリシア内でのバスの乗継ぎは【バス停が現地の人しか判らない路角にあったり定時運行がアバウト】等の事情から、Meteora?Delphiのアクセスは大変に困難だったので、まさに地獄で仏、、いや女神だっだ。 
 
彼女は、それからホテルに私を連れて行き、マネージャーにまで紹介してくれたが、別れる時、こう言葉を残した、、
「今日、私は貴方を3回助けた。1回目は座席に忘れ物をした時。2回目は宿の手配  3回目は、カランバカで見なければいけない寺を教えたこと、、」  
     うーん、なかなか手強い女性だ。
ミトロポリ聖堂
 
 メーデーの朝 アテネではバスも地下鉄も動いていないが、カランバカは、小雨降る静かな安息日を迎えていた。朝食を済ませてから、オリンピアが薦めた、ミトロポリ聖堂に向かった。町の高台まで息を切らせて辿り着き、重い聖堂のドアを開けると、日曜日のミサの最中で、撮影禁止はもとより、信者の妨げになるべくならないようにして、参列した。この教会は初期キリスト教時代(5-6c)に礎が築かれ、代々、改修がされ11世紀に現在の形になった。 小さな内陣には大理石で作られた説教台、天蓋を含め、貴重な5世紀の材料が使われており、初期キリスト教時代の信仰の 姿を伝えるタイムカプセルのような教会だった。この寺院で聖日のミサに参列出来たのは、忘れる事の出来ない濃密な祈りの時間だった

 
メテオラ 天に隠遁する砦 WCH 

メテオラとは「空中につり上げられた」という  意味だ。前夜、バスで町に入ってきた時、ライトアップされた巨岩達が、「未知との遭遇」の山のように、おどろおどろしかったが、昼間に見ると桂林の奇岩の上に、マッチ箱の修道院がチョコンと乗っている印象だ。Taxiを1.5時間、雇って、ニコラオス、ルサーヌ、ヴァルラーム、メテオンと回った。運転手が山に一緒に、登って記念写真を撮ってくれた。どの修道院も信仰の静謐さを求めて、人を寄せ付けない断崖の上に建てられた。 
   
トルコのスメラ寺院やカッパドキアの洞窟、エチオピア・ティグレの寺院など、その起原は全てアトスに始まる隠遁者の歴史だ。あんなサバイバルな環境にも関わらず 、どうやって、あの精緻なフレスコ画を描けたのだろう?千年前に、ここにいた名も知れぬ僧侶達の直向きな姿を想像した。



危機一髪の待合せ 

 前夜、オリンピアと約束したのはメテオン修道院で正午に! そのメテオンに15分前にTaxiで降り立つと、なんと修道院は谷の向側! 土産屋のおじさんに荷物を預かってもらい、谷を超え、山を登って、大修道院の中に入った。ここは一番大きく、回廊も多いので、彼女が見つけられない! 彼女の携帯を思い出して、売店のお兄さんにかけて貰うが、圏外らしく繋がらない。 意を決して、入口に戻り、土産屋に着いたのが12:15

 荷物の返礼にメテオラのスノーボールを買い、それに癒されながら、希望を持って12:45まで 待つ。今度は英語の判る土産屋にお願いして、  再度、携帯に電話して貰う、相変わらず圏外、、その間、何台もの大型バスが器用に、この門前で方向を変えて過ぎ去って行った。 
 
13:20 諦めて、Taxiを呼ぼうとした時、土産屋が携帯を持って走ってきた。 彼女からだ! 「 問題が起きて、そちらには行けないの、今、ヴァーラムには来てるんだけど、こっちに来れる?」 で、また圏外!
ヴァーラム 何処? って訊くと、土産屋が、  この坂を5分下がった、あそこだよ!って眼下の修道院を指している。 私は慌てて、おじさんに御礼を云うのも忘れ、キャリーを引きずり、ダッシュして坂を駆け下りた。7分かかって、修道院の入口に着くと、今日は黒と赤のコントラストにサングラスをかけたオリンピアが笑顔で現れた。
 彼女は再度、謝った後(決してそうは見えなかったが、)私を上から下まで見て「これならガイドと見られてもおかしくないは、、」と呟いた。


 それから彼女は2人の運転手の元に行き、同乗の許可を求め、続いてツアーの代表者の元にも行って、同じ願いを申し出た。私がどう紹介されたか?知る由もないのだが、まあ、そんな試験が、この旨い話には残っていたのだ。 そして私は
無事に合格となり、運転手の隣の、通路の階段という、分相応の指定席を与えられた。 


ポーランド発 団体バスツアー 

 乗ってから、ツアーの代表をしていた小柄な40代の女性・ゴーシャさんから、このツアーはポーランド北部でグダニスクの隣のCzluchowという町から来ている事を教えて貰った。 (彼らが今迄、このバスツアーで訪れたイタリアやスペインの旅行DVDが車内で上映されたので、気心の通う仲間達である事が判った)
 
私は、元気良く「 I love Chopin I love Poland !」と全員に挨拶してから、席に座った。いかにしたら、このバスで招からざる客から浮揚できるか?記憶の中のポーランド関係の知識を総動員した。ショパンの心臓のある教会に行った事、ヨハネ・パウロ2世のミサにコモ湖で、参列した事、広告でBasiaと仕事した事、、でも、それらを知的にプレゼンテーションする語学力は、私には無い。 
 
 そんな杞憂をしてたら、車内はカラオケ大会になった。歌以外に詩の朗読をする人も出てきて、このグループの知的レベルを知ったので、私の下手な歌を聞かす訳にもいかず、一計を案じて音楽プレーヤーを取出し、内蔵スピーカーをマイクに充てて、昨日まで聴いていた夏川りみの「童神」を流した。子守唄なら、たぶん異国の感性にも何か伝わるだろうと思ったからだ。 初めて聴いた地球の反対側の、それも沖縄の海歌に、正直、  彼等が喜んでくれたかは判らない。しかし、後で、オリンピアから、「あの外国人はなかなか上手く適応してる、、」とゴーシャが云っていたのを  聞いて、やれやれと思った。


オリンピアと心優しき仲間たち

 オリンピアはギリシア、英語、ポーランド、ドイツ語、ロシア語を駆使してツアー客を仕切っていた。今朝から添乗したばかりなのに、もう全員の信頼を得ている切れ者だ。そしてビザンティン文化への誇りが有るから、見知らぬ旅人の好奇心にも好意を寄せて貰えたのだろう。何故、ポーランド語が出来るの?と訊くと、母がポーランド人と言い、19世紀に起こったギリシアとポーランドの悲しい歴史を教えてくれた。それはテオ・アンゲロプロスの映画「エレニの旅」と重なる歴史だった。オリンピアは途中で立ち寄った土産屋から、添乗員に送られた景品を、お客さんに還元する、くじびき大会をし、そのくじ引き役を私に命じた。私の手で、当選者が決まる度に持ち上げてくれるので、(たとえ、それが絵葉書でも)景品が当たる度に、多くの叔母さんから感謝のキスを見舞われた。映画「トスカーナの休日」で、ダイアン・レインがツアー・バスに乗り合せて、飲めや、歌え、というシーンがあったが、私の場合は「釣りバカ」のハマチャンを想像して貰えるのが正しい。裸踊りこそしなかったが、ウオッカや密造酒、それにお手製の菓子を振舞われて歌い、踊り、笑った。しまいには、最後列の隙間に席を与えられ、両側の60代のおば様に挟まれながら、デルフィに向けてポーランド団体旅行の一員となった。20:00 Delphiの海側の街Iteaに到着 Hotel Trocadelo beachという素敵なリゾートホテルに投宿した 彼女は団体価格で宿+夕食も用意してくれたが、夕食は、律儀にも、皆のテーブルから離れ、添乗員+運転手+私で食事したのは、流石だ。


    
デルフィ遺跡  WCH
   2 May 快晴 Delphi〜OsiosLukas〜Athen

 朝、起きてテラスで静かな入江を眺めた。デルフィの奥座敷に、こんな海辺の街があるなんて、ツアーに参加しなければ一生知らなかっただろう。その内に、パパッと出発! 日本人よりも統率力のあるポーランド人達に感心した。お陰で、   朝9:00 にデルフィ遺跡に到着!静謐な朝 デルフィの精気が漲っている。流石、オリンピア!  彼女なら日本で添乗しても、伊勢神宮には朝一でバスを回すだろう。デルフィでツアーの皆に自由時間を与えている間に、私を伴い、道路に降りた。  
 
 そこからが彼女の真骨頂で、1時間に1本しかこないLivadia行きのKTELのバスを止めて、運転手に何か言ってから、ツアーバスが駐車してる1km先まで乗って行き、そこで私の荷物をバスから降ろし、「さあ。早く、これに飛び乗って、Destomoの分岐点で降ろして貰って!」とケツを叩かれて、私達はあっけなく別れてしまったのだ。 この間KTELの公衆バスに乗っていたお客さんからは、 何の苦情もないまま事態は進行したのだった。
 デルフィの円形劇場の前で、僅かな謝礼を渡そうとしたら、これはゴーシャに渡すからね!て それ以外は受け取らなかった。

 高潔なギリシア人に出会い、デルフィという地は21世紀の私にも、忘れられない聖域となった。

        
 
Destomoの居酒屋で 
 
 ギリシアのビザンティン巡りをする者にとって最大の難所が、オシオス・ルカス修道院にアクセスする事だ。 VirtualToulistでも、Destomoの分岐点で降ろしてもらい、そこからヒッチハイクせよ!  とハードボイルドな指示をしている。
 
バスはデルフィを出て25分で、その何も無い道で停車した。 慌てて降りる、と後ろから、70歳位の喪服のおばあさん(※未亡人の制服)がトボトボと降りたのを、私は見過ごさなかった。
 案の定、道の先には小さな車が彼女を迎えに来ていた。 最近の小澤征爾のように骨と皮だけになった60男がニコニコしている。 お婆さんの後ろに付いて行きながら、「Destomo ? 」とニコニコすると、それだけで、手招きして相乗りさせてくれた。 人間なんでも経験と修練である。

 車は10分も走ってから、Destomoの町の小さな広場に到着した。そこでTavernaに入り、ここで昼食をするので、荷物を預かって欲しい旨を頼む。英語を話す娘さんが料理は無いという。
 見れば、周りの親父達の前にはイワシの唐揚げのようなものしか置いてない。 見かねていると、厨房に招き、チキンの煮込みを示し、これで良いか?と訊くのでOKと答えた。 手早く食べてお金を払おうとすると、賄いの料理なので、これは私の気持ちだ、、と云う。涙が出てくるような親切を、朝から連打されて、私はTaxiに飛び乗った。
 
オシオス・ルカス修道院  WCH
 
 デストモの町から車で25分位走ると、丘陵に出る。冬は雪で道が閉ざされるような地に、オシオス・ルカス修道院はある。ここもデルフィのように気を感じさせる地で、アッシジのように聖人が祀られ、そこに10-11Cにかけて現在ある2つの聖堂が造営された。益田朋幸先生の著作で、その素晴らしさを知ってはいたものの、主聖堂の天井を仰ぎみた瞬間、かくも完璧にモザイクが残されているのに驚いた。学術目的で来る人しかいないのか、聖具を売る店はひっそりとしていた。 ここで、聖母子のイコンを購入した。

アテネへ
 
 デストモの町に戻り、Taverna に顔を出すが、あの娘さんはいない。英語を話せないお母さんに「指差しギリシア会話」で礼を伝えた。娘さんには、帰国してから手紙を出そう。バス停らしき所で1.5時間も立ち尽くしてからLibadia BTまで行き、接続のKTELのバスでアテネLiosion T-Bに18:00着 地下鉄でMonteraki駅まで行き、徒歩10分でHotel Tempiに投宿した。宿から臨むとライトアップされたアクロポリスが神々しく浮かんでいた。ロンプラ推薦の店を捜すが2軒とも閉店 それで中央市場を歩きOINOMAFEIPEIOという老舗で夕食を取った。旨い。安い、早いの★3つだった。 


ケサリアニ修道院 
  3 May 雨〜晴    アテネ

  朝 アカデミー街まで歩き224番のバスで 終点のケサリアニまで行く。バス停のオジサンに修道院までの道を訊くと「ここからワンサウザントkm 向うの方」だと指を指す。パウロの長征並! と苦笑するが、kmでなくmだろうと、修正して、道なき道を歩く。ここは自動車で来る地なのだろう。20分歩き、ケサリアニ自然公園のゲートに 辿り着き、修道院への標識を見て安堵する。しかし、そこから40分迷ってから、ようやく凹地に隠れた聖堂を発見 聖堂は11世紀だが、内陣にモザイクは無く、18世紀のフレスコ画があった。
 ここでの収穫は、係員から閉鎖中のダフニ修道院が実は、ひっそりと公開してるという情報を知った事だった。慌てて、来た道を戻り、本命へと邁進した。



ダフニ修道院  WCH
 
 アカデミーまで戻り、市場の食堂で昼食を取ってから、エレフテリアス広場に行き、A16のバスでダフニに向った。今度はバス停から歩いて5分難なく辿り着いたが、改修中のため、ゲートが  閉まっている。この聖堂は1999年の地震で内陣が崩落し、以来、EUの支援で改修工事をしていたのだが、金融危機で、その資金さえ、途絶え、工事が停止して、そのまま非公開となっていたのだ。思案してると、ホームレスの叔父さんが、指をフェンスの内側に入れて、開けてくれた。入って捕まらないだろうか? とヒヤヒヤしたが、奥に進むと、工事中の外観が現れた。しかし、聖堂の入口は鍵がかかり、入れない。 周囲を回るも、どこからも入れない。折角、ここまで来たのに、と諦めきれないでいたら、入口からは見えない所にバラックが見えた。近づいて、ハローと呼びかけると、中から小柄な女性が現れ英語で話しが出来た。撮影をしない条件で、見学出来る事になった。何という幸運か! VirtualTouristで云っていたのは、この事だった。
 
彼女が聖堂の鍵を開けると、内側は工事現場の如く、鉄骨の骨組と階段が内陣一杯に張り巡らされていた。階段を登って、モザイク画の壁にまで接近できる。彼女がライトアップしてくれたので、モザイクの黄金が、僅か2メートル先で鮮やかに光り輝いている。私は踊り場の床に這いつくばり、上半身をモザイク画の壁面にせり出した。モザイクの一片は射しこむ外光を計算して精緻に埋めこまれ,凹凸面に乱反射した光は、聖人の表情にふくよかな生命感を与えていた。11世紀の職工達が精魂を込めた技を眼前にして、私は至福の時を過した。工事中のマイナスが転じて、思わぬ眼福を頂いた。旅とは不思議な出会いの連続だ。

 
スニオン岬へ

 町に戻り、Victoria広場のバス停からKTELのバスに2時間揺られて、日没前のスニオン岬に 着いた。太陽がエーゲ海の西に落ちる迄、ぼーっと海を見つめた。帰路、車窓に流れるバカンス前の海辺の光景を見ながら、コーラで冷めたピザを食べた。こういう、なんてことない景色が、後から一番、愛おしくなる事を、私は、もうたくさん知っていた。

  

アクロポリス  WCH
   4 May 晴   アテネ 〜 キプロス

 早起きして、宿からアクロポリスの頂きに向かった。駅の左側の坂道を登ると古代アゴラの横の抜け道になり、誰もいない道を通って、アクロポリスの入口に来れる。開門と同時にパルテノンまで登った。ギリシアは僅か180年前迄はオスマン・トルコの支配下にあった。1687年オスマン・トルコとヴェネチア軍の戦いで、それまで建築時の姿をほぼ保っていた神殿は大破し、破風を飾っていた彫像やレリーフは、英国に持ち去られ現在は大英博物館にある。今、ここにあるのは豪華な衣装を略奪され、全裸にされた女神の姿だった。
 だから、この神殿は遠くから仰ぎ見るのが、  最も美しく、また礼儀に叶っている、、と思った。 
 

ビザンティン美術館

 再訪したこの美術館は、進化していて、大変に見やすい展示になっていた。しかし人員縮小らしく、閉鎖している展示棟がいくつもあったので、イコンが乏しい。首都の美術館なのに残念だった。


キプロス航空
  CY337 Athen 18:30 ? 20:25 Larnaca @76Euro

 地下鉄を2度乗り継いで、空港に行き、
キプロス航空でラルナカへ飛んだ。キプロスは 四国の3/4程の広さで、首都はレフコシアで英語名ではニコシアという。このように、ギリシア名と英国統治時代の名前が混在していて紛らわしい。
 空の玄関口のラルナカ空港に着き、バス停に行くと、Kings Englishの一団がゾロゾロと集まってくる。彼らはロンドンやマンチェスターから 普段着のままで降り立ち、そのまま現地添乗員に促されて大型バスに乗り、B級ホテルに直行する、まるでハワイに向かう日本人ツアーと同じだ。
(※ ロイヤルウエディングで英国が湧いた、この週 実は英国民の34%は無関心で、その喧騒を嫌った層を当て込み、キプロスまでの飛行機+宿泊6日分のパックで350 Euroという超格安ツアーが売られていた)
 そして、この島はキリル文字が公用文字なので、モスクワからも大勢の観光客が来て、こちらは  C級ホテルに単独で行くというパターンだ。 

当然の事ながら、私は後者だ。この島は未だ英国の経済支配下なので、Thomas Cookで調べると、島内のリゾートの中心であるリマソールに、なんと1泊23euroというビーチホテルが見つかった。オフ・シーズンとはいえ、目を疑うような価格で、それを2泊予約した。ラルナカ空港からリマソールまでは40分かかり、そこからTaxiで最寄りの宿まで行く。私の宿はバス停から5kmも離れているので、「バスの運転手に到着時にTaxiが来て 貰うように頼んでおいて!」と空港の観光局で教えて貰ったが、相乗り出来ないか?と車内の客に呼びかけると向かいのホテルに泊まるフランス人がいたので、運転手に車は1台でOKと云った。彼の宿は島内でも指折りの超高級ホテル、私のは老朽化したホテルで、ロシアの中産階級の家族で大賑わいだった。 でもねえ、、海は見えるし、ツインベッドだし、バスタブはあるし、おまけに朝食はバイキング 身分相応どころか、Thomas Cookには足を向けて寝られない!


パフォスのモザイク  WCH
   5 May 快晴   
  
 島の西端にある古都パフォスに出かける。お目当ては、世界遺産のモザイク遺跡である。
 パフォスのBTに着き、判りにくい道を歩いて 別の停車場からカト・パフォスという南端の地域に行った。BTが統一されてないので、乗継ひとつにも悪戦苦闘する。カト・パフォスは明るい港町で釣りやダイビングの出発地だ。その港のそばに、遺跡の入口がある。紀元前2-4世紀に、この地を統治したローマの地方総督の館 その遺跡がポンペイのように点在している。今残されているのは床のモザイクだけだが。それでも、こんな凄いモザイクを体育館のような広さに敷き詰めていたなんて!! 改めてローマ帝国の偉大さを実感した。
 
 帰路、バス停近くの寺で、この島に来たパウロが、布教の咎で鞭打ちにされた時に縛られたという柱を見た。パウロはその後、刑を執行させたローマ総督をキリスト教に改宗させたと云う。後にここに島内最大のビザンティン様式の大聖堂が 建てられたが、その聖堂も7世紀にはアラブの 海賊の襲撃で全てが破壊されたという。ホテルに戻り、向かいの超高級ホテルAmathus に夕陽を 見に行った。たまたま海側に広がる芝生では大掛かりなウエディング・パーティが開かれていた。宴は終盤らしく、セキュリティの人も シャンパンで酔っ払ってたのか、カメラマンベストにデジ一眼をぶら下げた私を咎めもせずに通してくれた。庭園内には生バンド、TV取材、数カ所の屋台、そして着飾ったセレブ達が新郎・新婦に挨拶をする行列が80mも並ぶのを見れば、相当、VIPな両家なのが判る。私も折角なのでミモザを飲みながらメゼのカナッペを頂いて、人間観察すると何やら緊張の走る方角に複数のSPを発見、、その先には新郎の親子に最敬礼された小柄な老人が居た。(翌日の新聞で、彼がディミトリス・フリストフィアス大統領である事を知った)

レフコシア
  6 May 晴 リマソール〜レフコシア
 
 朝食の時、向側のタタール系のロシア人夫婦と目が会う。我殺なロシア家族達の中で、慎み深い表情で遠いルーツを共にする親近感を感じて自然と笑顔を交わした。一人旅をしていて枯渇するのは、ビタミンCと朝食時の笑顔だろう。急に家族の声が聞きたくなり、無線LANが安定しているAmathus に行きスマートフォンのSkypeを起動して家族と話して旅の無事を知らせた。 バスでキプロスの首都レフコシアに向かう。当初は、そのままカコペトリア村に移動する積りだったが、 重い荷物を持って移動するプランを変更し、ここで泊まり、明日、日帰りで訪れる事にした。BT近くのDelphi Hotelに投宿 近くで賑わうケバブの店で昼食を取る。周辺はライト・イトキアと呼ばれる旧市街で石畳の路地にレバノン・カフェがあった。冷たいギリシア珈琲を飲みながら 、水パイプを喫った。煙草の覚醒で、疲れが随分と和らぎ、まったりとした中東気分を味わった。 


ビザンティン美術館

 英気が戻ったので、熱い光の差す路地を巡って、ビザンティン美術館に行った。澁澤幸子さんの キプロス旅行記でも、キプロス島内中のイコンが 集められていると知り、期待していた。撮影禁止だったので、紹介出来ないのが残念だが、なかなか素晴らしい美術館だ。特に、高さ2mを超す  巨大なイコンが多かった。かつて皇帝達は、凱旋の折に、聖母子のイコンだけを馬車に載せて、  それが神からの恩寵の勝利である事を民衆に知ら示めたそうだが、ここにあるイコンも、そんなプロパガンダの為に作られたとしか思えない。  旧市街に戻る途中、聖具店を見つけ、この旅で3枚目となる聖母子のイコンを購入した。

       

北キプロス

 トルコ側で夕食を取る事にした。宿から北に10分歩くと、グリーンラインという国境があり、昔のベルリンのようなチェックポイントがある。 パスポートを提示して、南キプロスを出国し、  北キプロス側では別紙に入国スタンプを押して貰い、あっけなく北キプロスに入国した。国境付近は店も少ないので、10分程、北上して中央市場まで歩き、定食屋・ロカンタに入った。ギリシア側に比べ、料理の種類が断然、豊富、特に、スープ、煮込みが選べるので、旅人の胃には嬉しい。   私はイスタンブールで舌鼓を打った蓑のスープ、それにオックステールと野菜の煮込みを取った。 どれも旨く、この旅行で忘れていた食欲が目覚めた。 明日の朝食用のサンドイッチも作って貰い店を出た。暗い街で道に迷ったので通りかかった車に呼びかけると、チェックポイントまで親切に送ってくれた。こういうホスピタリティはトルコ系の方が圧倒的に優れていた。

トロードスの教会群  WCH
  7 May 晴 カコペトリア村〜ラルナカ〜ドバイ〜

 キプロス島は有史以来、絶え間なく、アラブの
海賊により、蹂躙されてきた。 それで、人々は、侵略が及ばない山奥に移り住んで、生活を安定させた。 それらの村々では、慎ましい生活と信仰が守られてきて、中でも、11-12世紀のビザンティン時代に建てられた10箇所の教会が、世界遺産として登録されていた。 ただ、ここも交通インフラが乏しく、中心地のカコペトリア村へはレフコシアからバスが僅かに運行しているだけで、その先はTaxiを半日、雇うか、標識もない山道を3日間、徒歩で回るしかなかった。情報が少ないのでVirtual TouristのTrodos Forumに投稿したらスレ主で,キプロス在住のPopiさんから、ロンプラにも載ってない詳しいアドバイスを頂いた。 お陰で見知らぬ村でも迷う事なく、路地を抜け 山道を6km歩いて、聖ニコラオス教会に行った。
    
 
 この一帯は積雪が多いので、11世紀に建てられた聖堂には、後に、石造りの屋根がかけられ、外観は大きな蔵のようだった。中に入ると、米国から来た歴史学者の一団が見学をしていた。 
 
   
 
 彼等はフレスコを仰ぎながらダヴィンチコードのラングドン教授のように、声高で討議していた。 静寂を求めて彼等が退出する迄、外で待った。  それから、管理人の他に誰もいない聖堂で、ゆっくりとクーポラに描かれた聖人達と対峙した。 決して 豪華なフレスコ画ではないが、一千年以上も、この村の人々によって大切に守られてきた信仰の年輪が、その聖画達を温かく包んでいた。

 
 村に戻り、隣町のガラタ村にある教会へTaxiで向かった。運転手が隣町のカフェで村の人に確かめると、教会の鍵を預かっている人が、夜まで外出していて、今日は無理だと云った。ニコラオス聖堂を見られただけでも良しとした。それから2時間バスを待ってからレフコシアに戻った。 
 

11日間で、ギリシアやキプロスの各地を巡る旅は終わった。思いもかけぬ出会いや幸運にも恵まれた旅だった。その感謝を忘れまいと思った。 

この旅で、多くの人から、あなたの国は大丈夫か?と訊かれた。 そして、それに答えられなかった自分がいた。 帰国してから、どのようにそれを大丈夫に出来るか? 日本への32時間の機上で考えながら、旅人から日常に戻って行った。 2011/05/23   

The World Heritage Walker 247 / 878

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
ホテル
2.0
グルメ
1.5
ショッピング
2.0
交通
1.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
航空会社
エミレーツ航空
旅行の手配内容
個別手配

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