2011/11/03 - 2011/11/03
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しんちゃんさん
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会津地方の西部の山並みの中に、今は廃鉱となった“銀”鉱山跡があります。名前は“軽井沢銀山”発見は佐渡ヶ島の金山より早く、戦国時代後期から明治時代中期にかけて、採掘されていた日本屈指の銀山でした。高玉金山にて情報を得て遥々見学に来ました。こんな場所に銀山が?明治以前は藩の財政となり、明治以降は文明開化、富国強兵に貢献しました。現在鉱山の跡はレンガの煙突と鉱山記念碑、ズリ山と言われる鉱石のくず、三軒の家しか残っていません。
- 交通手段
- 自家用車
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福島県河沼郡柳津町「福満虚空蔵尊《圓蔵寺》」のある町から東方向へ向かいます。軽井沢銀山の“軽井沢”とは【軽井沢という地名は、長野県以外にも秋田県大館市、千葉県鎌ケ谷市、神奈川県横浜市西区など各地に存在する。語源については、古語・方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」ということから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、枯井沢(水の枯れた沢)という説がある。】Wikipediaより
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柳津町中心から車の走行距離約7Km、塩野という村落にて「銀山跡は何処にありますか?」畑仕事のおばあちゃんに声を掛けました。「あそこにあるだ〜」100mくらい先に標識がありました。またやってしまった。“尋ねると近くにその場所があるものです
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「県道53号会津高田柳津線」本道より標識のとおり、軽井沢銀山へ向かう。砂利道です。
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こんな場所に銀山があるの?疑ってしまいます。約1Km位走ると…
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砂利道から舗装になった!と思うと突然、人家と山肌にレンガの煙突が見えました。
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舗装道の突き当たりが駐車場になっており、レンガ煙突があります。以上4枚の写真はガタガタ・ゴトゴト車から撮影のため、ブレています。失礼しました!
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駐車場の管理施設?
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民家3軒の方向に戻りました。
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軽井沢銀山跡に最後まで、おばあちゃんが一人暮らしをしていた家があります。古生さんという家です。江戸時代からの家で明治時代に鉱山事務所として使用していました。11月19日再び訪問したとき、息子さんがいわき市から訪れ家に上がらせていただき色々なお話を聞くことができました。ひと部屋20畳の部屋を見せていただきました。
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一番東側の民家、空き家です。
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軒先に鉱山の遺物「トロッコの車輪」がありました。
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ツリバナ?マユミかも知れません。似たような実が尾瀬にもありました。
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郵便局跡
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民家から山方向へ歩いて行くと…
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右側に「鉱山記念碑」があります。
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右側の門柱
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軽井沢銀山は明治12年、古河市兵衛と大島高任が共同で経営しました。銀山は何度か開山、閉山を繰り返し四度目でした。
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一部のブログで鉱山は囚人を使用し「囚人達が多かったようで劣悪な環境で作業を!」と載っていますが、古河市兵衛は人間的扱いを持って接したようです。鉱山には「友子」と言う、今の労働基準法、健康保険法、職業安定法、労働組合的な組織がありました。友子組織は大親分、世話人、月当番があり、親兄弟以上に深いつながりがあったようです。組織の運営は積立金でまかない、お互いの救済金で使用されました。
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友子組織は親分が死んだら墓を立て、その家族の面倒を見る。悪い事をすると全国へ流布され鉱山界から追放されました。囚人の出獄後を心配した古河市兵衛は坑内の過酷な水替えから選鉱場へ配置替えを実施。身の保全と共に毎月10日毎に差し入れと賞与を支払った。囚人には親は元気か、兄弟はどうしていると声を掛け、皆から慕われ日本一の銀鉱山を確立したそうです。
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鉄の門扉は戦争のために供出されたのでしょうか?
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細々と鉱山運営をしていた江戸時代1844年、古生左源治氏が村工夫の賃金の安さから下山する者が多い為、金山役所に金子15両の借用を願い出ています。
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「大島高任」は明治11年に営業権を獲得し各種設備を建設しました。
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明治20年代の写真ではこの煙突から煙が出ています。明治26年には銀の年産額は4トンを産出していました。
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精錬所は休止中は熱がないため、レンガが水分を吸収し、冬は凍結レンガがもろく崩れて行きます。
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先端部分
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あと何年持つでしょうか?
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大煙突からズリ山へ登って見ました。
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地元の方々がボランティアで草の刈り取りをしてくれるそうです。
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刈り取りしてなければ、藪で歩けないでしょう。
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歩く事、数分でズリ山へ到着
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ズリ山からの鉱山跡を眺める。旧民家も見える。住所は小字名が「御屋敷」とあり江戸時代は古生さん宅を含めて御屋敷だったらしい。
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ズリの中に銀は無いか砕いてみました。
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ピカリと光るのは銀か?
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北側の山並み。銀山峠への旧道があります。
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東側、会津若松市方向、雲が見る々たなびいてきました。20分後には回りがガスに覆われてしまいました。
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精錬所の建物が一杯建っていた場所です。通洞坑、梵天坑もこのあたりにあいていたようです。
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古生さんに寄れば、昭和3・40年代には線路もあり坑道もあり、遊び場だったようです。
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西側の山奥にもズリ山が見えました。
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銀山峠へ行く新しい道路が建設されていました。道路のために山の崖が削られていました。
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雲が迫ってきました。
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紅葉
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名残惜しいですが、お別れです。
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地上部分が崩壊の運命の煙突
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なんとかして残して欲しいものです。
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煙突の脇から御屋敷を眺める
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11月19日再び訪問したときの「軽井沢」集落。2度目の訪問でした。軽井沢銀山はこの村の松本左文治が永禄元年(1558年)発見しました。「軽井沢銀山」参考文献等
【http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/efc0998335010492ddbd103f3fc5c60d】ブログ「建築をめぐる話…つくることの原点を考える 下山眞司」より
【古川市兵衛と会津の軽井沢銀山】「佐藤一男著」
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この旅行記へのコメント (2)
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- 吉備津彦さん 2012/09/14 23:16:04
- 別荘地の軽井沢かと想いました。
- 福島にも銀山があったのですね。初めて知りました。
- しんちゃんさん からの返信 2012/09/23 10:33:43
- RE: 別荘地の軽井沢かと想いました。
- 返答遅れました。PCが非常に遅く、フリーズして言う事を聞いてくれません。再インストールしましたが、イマイチです。そろそろ新しいPCの買え時かも知れません。でももう少し・・・
一ヶ月前の旅行記がやっと本日終了予定です。
会津の地には金山、銀山等数多くありました。それゆえ幕府から蝦夷地、内海(東京湾)の要塞構築を頼まれました。悲劇ですね。長州・薩摩藩の様に、外国船との戦いで銃・大砲に早く目覚めていれば、戦勝は変わっていたかもしれません。歴史は難しいです。吉備津彦さんも色々探索しているようですね。参考にさせていただきます。今後とも宜しくお願いします。
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