2008/08/01 - 2008/08/03
912位(同エリア1830件中)
ハンクさん
ノヴォデヴィッチ修道院は1524年にスモレンスクがモスクワ大公国に併合されたのを記念して、ヴァシーリー3世の命で建てられた女子修道院、2004年にユネスコ世界遺産に指定された。クレムリンの出城としての役割も担っていたため、城壁に囲まれているのが特徴で、貴重な古い建築物が残っている。その中で、スモレンスキー聖堂は1524年に建てられており最も古い。
修道院内には、修道院の模型が展示してある。ロシア各地の大修道院やクレムリンにはこのような模型を置いているところが多い。建設された当時の様子が目に浮かぶようで好ましい。ウスペンスカヤ教会も典型的な修道院建築である。 教会内のイコン画も伝統的なロシア正教のスタイルである。鐘楼は白壁と赤レンガの対比が美しい。
ノヴォデヴィッチ修道院の城壁の外に、湖(池)がある 。この湖の周囲を散策しながら、チャイコフスキーがバレエ音楽 「白鳥の湖」の構想を練った、と言われている。しかし、ウクライナのキエフにも同じように白鳥の湖のインスピレーションを得た、と説明を受けたところがあり、彼が訪問した至るところで伝説が生まれるようだ。実際この湖から オデット姫が登場する姿を想像するのはなかなか難しい。
ノヴォデヴィッチ修道院の見所はノヴォデヴィッチ墓地。モスクワの中央墓地で、著名人の多くが埋葬されており、参拝者が絶えることがない。この墓地ができたのは1898年、モスクワの都市改造により多くの墓がつぶされることになり、それに伴い著名人の墓が ノヴォデヴィッチに移されてきた。その後も有名人の埋葬は続き、1980年代にはパリからシャリアーピンの墓が移されたりしている。著名人のいくつかを紹介しよう。
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ(1927−2007)の墓:
名チェリストでカラヤンや小沢征爾とドヴォルザークの協奏曲などの名録音を残しており、日本でも熱烈なファンがいるロストロポーヴィッチもここで眠っている。
スラーヴァの愛称で日本びいきで知られ、彼のサンクトペテルブルグの自宅は丹下健三に依頼し、日本風に設計された。この設計を担当した丹下健三の最後の弟子、私の親友である建築家の岩切氏である。ロストロポーヴィッチの生前の豪快な生活ぶりを伺うことができた。時には酒に酔っ払って、ご機嫌でチェロを弾いて聴かせてくれたそうだ。何と贅沢なことか。
ショスタコーヴィッチ(1906‐1975)の墓 :
ショスタコーヴィチについてはすでにサンクトペテルブルク旅行記で紹介したので省略するが、彼の墓はここモスクワにある。この墓に刻んである音符がレ、ミ♭、ド、シ(ドイツ名でD、EsC、H)である。これは交響曲第10番の第4楽章の第一主題であり、実は彼自身の頭文字(Domitry SchostakovichのDS(Es)CH)を音にしたものである。
シャリアーピン(1873-1938)の墓 :
ロシアの誇る伝説の名バス歌手、パリで死亡したが、家族の強い希望でモスクワに移された。
プロコフィエフ(1891‐1953)の墓 :
「ピーターとおおかみ」、バレエ音楽「ロメオとジュリエット」、7つの交響曲などで名高い プロコフィエフは一時期西側に亡命していたが、ロシアに帰国してからも名曲の数々を生み出した。
チェーホフ(1860-1904)の墓 :
「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」で知られるロシアを代表する劇作家。
トルストイ(1828-1910)の墓 :
「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」「復活」で知られるドストエフスキーと並ぶロシアを代表する大作家。
ボリス・エリツィン元大統領(1931−2007)の墓:
ロシア人には最も不人気であるエリツィン元大統領もここに埋葬されている。ロシア国旗をかたどったユニークな墓石である。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 飛行機
- 航空会社
- フィンランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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