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長篠城址紹介の続きです。新城市立の『長篠城址・史跡保存館』に入場して撮影した展示品の紹介等です。

2010春、桜満開の長篠城祉(4/5):長篠城址、史跡保存館、鬼瓦、帯郭址、鳥居強右衛門像

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2010/04/03 - 2010/04/03

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旅行記グループ 2010春、桜満開の長篠城

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

長篠城址紹介の続きです。新城市立の『長篠城址・史跡保存館』に入場して撮影した展示品の紹介等です。

交通手段
JRローカル 私鉄

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  • 『新城市・長篠城址・史跡保存館』の表札があった展示館です。締め括りに入場して見学しました。史跡保存館は、次の九つの分類で展示されています。<br />①武田信玄の雄図<br />②長篠のろう城<br />③鳥居強右衛門の勇気<br />④決戦の前夜<br />⑤設楽原の決戦<br />⑥長篠の戦いと鉄砲<br />⑦戦いとその後<br />⑧戦跡全体模型<br />⑨参考品(鎧)<br />

    『新城市・長篠城址・史跡保存館』の表札があった展示館です。締め括りに入場して見学しました。史跡保存館は、次の九つの分類で展示されています。
    ①武田信玄の雄図
    ②長篠のろう城
    ③鳥居強右衛門の勇気
    ④決戦の前夜
    ⑤設楽原の決戦
    ⑥長篠の戦いと鉄砲
    ⑦戦いとその後
    ⑧戦跡全体模型
    ⑨参考品(鎧)

  • 鬼瓦の展示品です。雲かあるいは波を表現しているようです。渦巻き模様もありますから、波の方でしょうか。

    鬼瓦の展示品です。雲かあるいは波を表現しているようです。渦巻き模様もありますから、波の方でしょうか。

  • この土地の豪商・久保屋が栄えた明治・大正時代の鬼瓦です。吉田(現在の豊橋市)通いの舟運の発着地として栄えたとされます。

    この土地の豪商・久保屋が栄えた明治・大正時代の鬼瓦です。吉田(現在の豊橋市)通いの舟運の発着地として栄えたとされます。

  • 武田家の家臣の、望月家で用いられていた鬼瓦です。長篠の戦いの後に、長篠に移り住んだ人とされます。

    イチオシ

    武田家の家臣の、望月家で用いられていた鬼瓦です。長篠の戦いの後に、長篠に移り住んだ人とされます。

  • 鬼瓦の展示です。瓦の中央には、文字が記されているようですが、『土居』当たりの文字でしょうか。木型の上に設置してありました。

    鬼瓦の展示です。瓦の中央には、文字が記されているようですが、『土居』当たりの文字でしょうか。木型の上に設置してありました。

  • 磔になった鳥居強右衛門の様子を表した焼物です。シルバー人材センター鳳寿窯会員の方が製作したものです。

    磔になった鳥居強右衛門の様子を表した焼物です。シルバー人材センター鳳寿窯会員の方が製作したものです。

  • 長篠の戦いや長篠城等が解説された看板です。長篠の戦いの主な武将の家紋が四つ表示されていました。右側から武田氏、奥平氏、織田氏と徳川氏です。この中の奥平氏は、徳川家の武将で、長篠城を5百の兵で援軍が来るまで守り通した武昌公です。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用されました。

    長篠の戦いや長篠城等が解説された看板です。長篠の戦いの主な武将の家紋が四つ表示されていました。右側から武田氏、奥平氏、織田氏と徳川氏です。この中の奥平氏は、徳川家の武将で、長篠城を5百の兵で援軍が来るまで守り通した武昌公です。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用されました。

  • 『日本百名城』のNo.46、『長篠城』の文字が記された保存館の手摺部分の光景です。家康は信長と相談し、加増や長女・亀姫を奥平貞昌に嫁がせることなどで、天正元年(1573年)8月に武田家から徳川家への帰参に成功しました。このことで、武田勝頼は奥平氏に激怒し、差し出されていた人質3人を処刑しました。武田軍が長篠城を攻めたのも、一連の出来事です。

    『日本百名城』のNo.46、『長篠城』の文字が記された保存館の手摺部分の光景です。家康は信長と相談し、加増や長女・亀姫を奥平貞昌に嫁がせることなどで、天正元年(1573年)8月に武田家から徳川家への帰参に成功しました。このことで、武田勝頼は奥平氏に激怒し、差し出されていた人質3人を処刑しました。武田軍が長篠城を攻めたのも、一連の出来事です。

  • 『長篠城址・史跡保存館』の出入口付近の光景です。奥平氏は、元々は今川氏に属していましたが、桶狭間の戦い以降、徳川氏の傘下になりました。その後、武田信玄の三河進出により、武田側に組み入れられました。徳川家への帰参は、秘匿されていた信玄公の死亡を確実な情報として掴んでいたためです。徳川家への帰参に際し、家康公にその情報を伝えています。

    『長篠城址・史跡保存館』の出入口付近の光景です。奥平氏は、元々は今川氏に属していましたが、桶狭間の戦い以降、徳川氏の傘下になりました。その後、武田信玄の三河進出により、武田側に組み入れられました。徳川家への帰参は、秘匿されていた信玄公の死亡を確実な情報として掴んでいたためです。徳川家への帰参に際し、家康公にその情報を伝えています。

  • 『長篠戦図』のタイトルがあった絵図の看板です。陸軍参謀本部編『日本戦史長篠役』を基本にして、長篠城攻防から設楽原決戦までの天正3年(1575年)5月の武田軍と織田・徳川軍の配陣を記したものです。武田軍は1万名以上の軍勢と、信玄公以来の重臣を数多く失い、武田家滅亡の直接の原因となる戦いとなりました。

    『長篠戦図』のタイトルがあった絵図の看板です。陸軍参謀本部編『日本戦史長篠役』を基本にして、長篠城攻防から設楽原決戦までの天正3年(1575年)5月の武田軍と織田・徳川軍の配陣を記したものです。武田軍は1万名以上の軍勢と、信玄公以来の重臣を数多く失い、武田家滅亡の直接の原因となる戦いとなりました。

  • 『長篠戦図』のタイトルがあった絵図の看板と、その周りの満開のソメイヨシノ(染井吉野)の光景です。設楽原決戦に敗れた武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退、上杉謙信と和睦し、海津城代の春日虎綱(高坂昌信)と合流の上、甲斐に帰国したとされます。

    『長篠戦図』のタイトルがあった絵図の看板と、その周りの満開のソメイヨシノ(染井吉野)の光景です。設楽原決戦に敗れた武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退、上杉謙信と和睦し、海津城代の春日虎綱(高坂昌信)と合流の上、甲斐に帰国したとされます。

  • 『要害の長篠城』のタイトルがあった説明看板です。『要衝』、『要害』と『土居と堀』の三項目に分けた説明です。正面に見えるのが、本丸の土居と堀で、天正3年(1575年)の姿をしていると説明されていました。『土居』は、『土塁』と同じ意味で良さそうです。

    『要害の長篠城』のタイトルがあった説明看板です。『要衝』、『要害』と『土居と堀』の三項目に分けた説明です。正面に見えるのが、本丸の土居と堀で、天正3年(1575年)の姿をしていると説明されていました。『土居』は、『土塁』と同じ意味で良さそうです。

  • 12番の番号と『帯郭(おびくるわ)址』の文字があった標識です。『長篠城址・史跡保存館』は、二の丸の縄張りの『帯郭(おびくるわ)址』に位置しています。

    12番の番号と『帯郭(おびくるわ)址』の文字があった標識です。『長篠城址・史跡保存館』は、二の丸の縄張りの『帯郭(おびくるわ)址』に位置しています。

  • 『帯郭(おびくるわ)址』付近からの光景です。本丸と『二の丸』の境にある土居と堀の光景です。土居の構築は、堀から掬い上げた土が使われました。

    イチオシ

    『帯郭(おびくるわ)址』付近からの光景です。本丸と『二の丸』の境にある土居と堀の光景です。土居の構築は、堀から掬い上げた土が使われました。

  • もう一度、『長篠戦図』アップします。長篠の戦いの決戦地となったのは設楽が原、長篠城からは西側に位置します。東側に配置した武田軍は1万2千人、西側に配置した織田・徳川連合軍は3万8千人とされます。この戦いで武田側一万人、連合軍側が6千人の死者を出したとされます。連合軍が築いた馬防柵の長さは2キロに及びました。

    もう一度、『長篠戦図』アップします。長篠の戦いの決戦地となったのは設楽が原、長篠城からは西側に位置します。東側に配置した武田軍は1万2千人、西側に配置した織田・徳川連合軍は3万8千人とされます。この戦いで武田側一万人、連合軍側が6千人の死者を出したとされます。連合軍が築いた馬防柵の長さは2キロに及びました。

  • 長篠城址の付近の染井吉野の光景です。先ほどの武田軍の配置は1万2千ですが、残りの3千は長篠城の500の兵の動きを封じるため、5箇所の砦に残されました。鳥居強右衛門の勇気で、ギリギリのところで落城しなかった効果です。動きを封じないと、武田軍は背後を突かれる恐れがありますし、退路を断たれる恐れもあったようです。

    長篠城址の付近の染井吉野の光景です。先ほどの武田軍の配置は1万2千ですが、残りの3千は長篠城の500の兵の動きを封じるため、5箇所の砦に残されました。鳥居強右衛門の勇気で、ギリギリのところで落城しなかった効果です。動きを封じないと、武田軍は背後を突かれる恐れがありますし、退路を断たれる恐れもあったようです。

  • 本丸城址の周りの土塁の光景です。楓の古木が根を張っていました。5月14日に1万5千の武田軍の攻撃を受け、本丸と二の丸だけが辛うじて持ちこたえていました。食料庫にも火矢が命中し、兵糧も尽きかけていたようです。鳥居強右衛門が援軍を頼みに城を抜け出たのは、このような厳しい状況下でした。

    本丸城址の周りの土塁の光景です。楓の古木が根を張っていました。5月14日に1万5千の武田軍の攻撃を受け、本丸と二の丸だけが辛うじて持ちこたえていました。食料庫にも火矢が命中し、兵糧も尽きかけていたようです。鳥居強右衛門が援軍を頼みに城を抜け出たのは、このような厳しい状況下でした。

  • 同じく、本丸跡の周りの土塁の光景です。長篠の戦が起きたのが天正3年(1675年)、徳川家康が総攻撃をかけて、今川側から長篠城を奪ったのは天正元年(1573年)のことでしたから、わずか2年ほど前のことです。長篠城は天正4年(1576年)に廃城となりましたから、目まぐるしい戦国時代の出来事でした。廃城となったのは、前年の長篠城の攻防で大きく損傷したことと、家康に伊奈道中の押さえの要地に城を築くよう命じられたためです。翌年に築城したのが新城城です。現在は『新城小学校』となっていますが、運動場の東側に城址碑と立派な空堀が、運動場の西側には土塁と櫓台が残っているようです。すぐ南を豊川が流れ、天然の要害だったようです。

    同じく、本丸跡の周りの土塁の光景です。長篠の戦が起きたのが天正3年(1675年)、徳川家康が総攻撃をかけて、今川側から長篠城を奪ったのは天正元年(1573年)のことでしたから、わずか2年ほど前のことです。長篠城は天正4年(1576年)に廃城となりましたから、目まぐるしい戦国時代の出来事でした。廃城となったのは、前年の長篠城の攻防で大きく損傷したことと、家康に伊奈道中の押さえの要地に城を築くよう命じられたためです。翌年に築城したのが新城城です。現在は『新城小学校』となっていますが、運動場の東側に城址碑と立派な空堀が、運動場の西側には土塁と櫓台が残っているようです。すぐ南を豊川が流れ、天然の要害だったようです。

  • 『さかさ桑』のタイトルがあった説明看板です。長篠の戦いに敗れ、落ち武者になった武田勝頼の逸話でした。

    『さかさ桑』のタイトルがあった説明看板です。長篠の戦いに敗れ、落ち武者になった武田勝頼の逸話でした。

  • 達筆とは言えない揮毫のようですが、中々味のある『心』の文字が記された石碑です。『大厳寺61世順誉』らしい落款がありました。ネット検索しましたが、詳しいことは分かりませんでした。

    達筆とは言えない揮毫のようですが、中々味のある『心』の文字が記された石碑です。『大厳寺61世順誉』らしい落款がありました。ネット検索しましたが、詳しいことは分かりませんでした。

  • 満開の染井吉野の光景に戻ります。次の見学予定地、達磨山・大通寺に向かう途中の光景ですが、ここはまだ長篠城址近くです。

    満開の染井吉野の光景に戻ります。次の見学予定地、達磨山・大通寺に向かう途中の光景ですが、ここはまだ長篠城址近くです。

  • 同じく、長篠城址近くで咲いていた満開の染井吉野です。絶好の見学日和、花見日和となりました。

    同じく、長篠城址近くで咲いていた満開の染井吉野です。絶好の見学日和、花見日和となりました。

  • 長篠城址の本丸付近を振り返っての撮影です。満開の染井吉野の木の先に土塁が見えていました。

    長篠城址の本丸付近を振り返っての撮影です。満開の染井吉野の木の先に土塁が見えていました。

  • 石碑は『林藤太夫高英屋敷跡』、その前の黒い案内標識は、『大手門址・蟻塚』の方面です。

    石碑は『林藤太夫高英屋敷跡』、その前の黒い案内標識は、『大手門址・蟻塚』の方面です。

  • ヤマボウシ(山法師)に似た白い花を咲かせた樹木でしたが、別種でした。

    ヤマボウシ(山法師)に似た白い花を咲かせた樹木でしたが、別種でした。

  • ヤマボウシ(山法師)に似た白い花を咲かせた樹木のアップ光景です。山法師ですと、総包片が4枚ですが、5枚あるようでした。ハナミズキ(花水木)とも違うようです。

    ヤマボウシ(山法師)に似た白い花を咲かせた樹木のアップ光景です。山法師ですと、総包片が4枚ですが、5枚あるようでした。ハナミズキ(花水木)とも違うようです。

  • 長篠のキリスト像のような、鳥居強右衛門(1540?1575年)の磔像です。主家・奥平家では、強右衛門の子孫は家中で厚遇され、その家系は現在も存続しています。この像は、強右衛門の忠義心に感動した、武田家の家臣・落合左平次道久が描いたものが原画と伝わります。『長篠城址史跡保存館』の案内看板でした。

    イチオシ

    長篠のキリスト像のような、鳥居強右衛門(1540?1575年)の磔像です。主家・奥平家では、強右衛門の子孫は家中で厚遇され、その家系は現在も存続しています。この像は、強右衛門の忠義心に感動した、武田家の家臣・落合左平次道久が描いたものが原画と伝わります。『長篠城址史跡保存館』の案内看板でした。

  • これから見学予定の達磨山・大通寺方面の光景です。坂道を登った先が大通寺です。参道の染井吉野が満開で、背後には杉林が見えました。

    これから見学予定の達磨山・大通寺方面の光景です。坂道を登った先が大通寺です。参道の染井吉野が満開で、背後には杉林が見えました。

  • 満開の染井吉野の花の間から見えた、達磨山・大通寺の本堂の建物光景です。まだ新しい造りに見えました。

    満開の染井吉野の花の間から見えた、達磨山・大通寺の本堂の建物光景です。まだ新しい造りに見えました。

  • 早春の花の一つ、シモクレン(紫木蓮)です。満開を過ぎて、僅かばかりの花が残り、若葉が顔を出し始めていました。

    早春の花の一つ、シモクレン(紫木蓮)です。満開を過ぎて、僅かばかりの花が残り、若葉が顔を出し始めていました。

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