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戦国時代の激戦の地、武田軍と織田・徳川連合軍が戦った長篠城址の紹介の続きです。結果は、織田・徳川連合軍の大勝でした。

2010春、桜満開の長篠城祉(2/5):長篠城址、本丸、土塁、稲荷社址の赤鳥居、堅木植樹碑

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2010/04/03 - 2010/04/03

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旅行記グループ 2010春、桜満開の長篠城

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

戦国時代の激戦の地、武田軍と織田・徳川連合軍が戦った長篠城址の紹介の続きです。結果は、織田・徳川連合軍の大勝でした。

交通手段
JRローカル 私鉄

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  • 見学用に綺麗に整地され、芝生が植えられた長篠城址の本丸跡の光景です。天正元年(1573年)、武田信玄の病が悪化したことにより、西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退しました。その隙を狙って家康は武田側の菅沼攻正貞城主の長篠城を攻めました。その結果、天正元年(1573年)8月に開城され、家康は武田軍の再侵攻に備え、長篠城は拡張・強化されました。現在本丸に残る大規模な土塁と空堀は、その時に拡張・強化された施設のようです。

    見学用に綺麗に整地され、芝生が植えられた長篠城址の本丸跡の光景です。天正元年(1573年)、武田信玄の病が悪化したことにより、西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退しました。その隙を狙って家康は武田側の菅沼攻正貞城主の長篠城を攻めました。その結果、天正元年(1573年)8月に開城され、家康は武田軍の再侵攻に備え、長篠城は拡張・強化されました。現在本丸に残る大規模な土塁と空堀は、その時に拡張・強化された施設のようです。

  • カエデ(楓)らしい樹の新緑の葉を透かして眺めた、染井吉野の光景です。本丸を取り囲む土塁の上からの撮影です。

    カエデ(楓)らしい樹の新緑の葉を透かして眺めた、染井吉野の光景です。本丸を取り囲む土塁の上からの撮影です。

  • 『長篠城址』の石碑です。2〜3段の石垣を積んだ上に建てられていました。石垣だけが新しく、繋ぎにセメントが使われているようですから、この部分だけが修復されたのかもしれません。

    『長篠城址』の石碑です。2〜3段の石垣を積んだ上に建てられていました。石垣だけが新しく、繋ぎにセメントが使われているようですから、この部分だけが修復されたのかもしれません。

  • 『長篠城跡』の石碑のズームアップ光景です。いくつかある『長篠城址』の標識の中では、古い方のようでした。

    イチオシ

    『長篠城跡』の石碑のズームアップ光景です。いくつかある『長篠城址』の標識の中では、古い方のようでした。

  • 本丸跡の土塁の上から見下ろした、『長篠城址史跡保存館』の建物光景です。かつての二の丸跡に築かれた展示館です。古い縄張り図を参照しますと、本丸と二の丸の間には、土塁と堀の守りの設備が築かれていました。現在の堀は空堀ですが、土塁はその姿を今日まで残しています。

    本丸跡の土塁の上から見下ろした、『長篠城址史跡保存館』の建物光景です。かつての二の丸跡に築かれた展示館です。古い縄張り図を参照しますと、本丸と二の丸の間には、土塁と堀の守りの設備が築かれていました。現在の堀は空堀ですが、土塁はその姿を今日まで残しています。

  • カエデ(楓)らしい樹の新緑と、ピンクの花を咲かせた、ミツバツツジ(三葉躑躅)らしい花です。ミツバツツジ(三葉躑躅)は、ツツジ科ツツジ属の落葉低木です。枝先に3枚の葉を出したら、ミツバツツジに間違いがないようです。

    カエデ(楓)らしい樹の新緑と、ピンクの花を咲かせた、ミツバツツジ(三葉躑躅)らしい花です。ミツバツツジ(三葉躑躅)は、ツツジ科ツツジ属の落葉低木です。枝先に3枚の葉を出したら、ミツバツツジに間違いがないようです。

  • 久邇宮邦彦王殿下(1873〜1929年)、同俔子妃と良子女王の連名で名前が刻まれた、お手植え松の石碑です。良子女王は、後の昭和天皇(1901〜1989年)の妃の香淳皇后(1903〜2000年)です。

    久邇宮邦彦王殿下(1873〜1929年)、同俔子妃と良子女王の連名で名前が刻まれた、お手植え松の石碑です。良子女王は、後の昭和天皇(1901〜1989年)の妃の香淳皇后(1903〜2000年)です。

  • ミツバツツジ(三葉躑躅)らしいピンクの花と、染井吉野の白っぽい花の共演です。黒っぽい幹が程よいアクセントになっていました。

    ミツバツツジ(三葉躑躅)らしいピンクの花と、染井吉野の白っぽい花の共演です。黒っぽい幹が程よいアクセントになっていました。

  • 今度はカメラアングルを横にして、白い花とピンクの花のコラボレーションです。中々雰囲気がある色の取り合わせでした。

    イチオシ

    今度はカメラアングルを横にして、白い花とピンクの花のコラボレーションです。中々雰囲気がある色の取り合わせでした。

  • 本丸と二の丸の間にある土塁の上から眺めた、堀の光景です。土塁は小山のような高さですが、それに見合う規模の堀です。

    本丸と二の丸の間にある土塁の上から眺めた、堀の光景です。土塁は小山のような高さですが、それに見合う規模の堀です。

  • 先ほどは土塁の外側の光景でしたが、今度は内側の光景です。堀がない分、険しさは緩和されていますが、赤い鳥居が小さく見える高さです。

    先ほどは土塁の外側の光景でしたが、今度は内側の光景です。堀がない分、険しさは緩和されていますが、赤い鳥居が小さく見える高さです。

  • 赤い鳥居の真上付近からの光景です。土塁の上に稲荷神社がありましたが、現在は達磨山・大通寺の境内に移され、『城藪稲荷』として祀られています。

    赤い鳥居の真上付近からの光景です。土塁の上に稲荷神社がありましたが、現在は達磨山・大通寺の境内に移され、『城藪稲荷』として祀られています。

  • 赤い鳥居は、土塁の上にも残されていました。稲荷神を祀る稲荷神社は、赤い鳥居と、神使の白い狐がシンボルです。大通寺の境内に移された『城藪稲荷』には、白い狐の像がありました。

    赤い鳥居は、土塁の上にも残されていました。稲荷神を祀る稲荷神社は、赤い鳥居と、神使の白い狐がシンボルです。大通寺の境内に移された『城藪稲荷』には、白い狐の像がありました。

  • 一輪だけ咲いていたツバキ(椿)の光景です。ヤブツバキ(藪椿)当たりでしょうか。手前に本丸跡で育った巨木がありました。

    一輪だけ咲いていたツバキ(椿)の光景です。ヤブツバキ(藪椿)当たりでしょうか。手前に本丸跡で育った巨木がありました。

  • ヤブツバキ(藪椿)らしい花のアップ光景です。半分近く葉に隠れてしまいました。日本に自生している野生種は、ヤブツバキと、その変種とされるユキツバキとヤクシマツバキの三種だけとされます。

    ヤブツバキ(藪椿)らしい花のアップ光景です。半分近く葉に隠れてしまいました。日本に自生している野生種は、ヤブツバキと、その変種とされるユキツバキとヤクシマツバキの三種だけとされます。

  • 本丸と二の丸の間にある土塁の上から眺めた本丸方向の光景です。石垣などは使われていない土塁ですが、500年ほど経っても、姿を残していました。

    本丸と二の丸の間にある土塁の上から眺めた本丸方向の光景です。石垣などは使われていない土塁ですが、500年ほど経っても、姿を残していました。

  • 本丸跡を取り囲む土塁の上の光景です。かなりの高さと傾斜がありますから、見学用の安全対策らしい柵が設けてありました。廃城になった1576年から440年ほど経ちましたから、木々が大樹に育ったようです。

    イチオシ

    本丸跡を取り囲む土塁の上の光景です。かなりの高さと傾斜がありますから、見学用の安全対策らしい柵が設けてありました。廃城になった1576年から440年ほど経ちましたから、木々が大樹に育ったようです。

  • 本丸を分断する場所を走っている飯田線の線路光景です。長篠城駅を開設したのは、現在のJR飯田線中南部に当たる、大海・三河川合間を運営していた私鉄の鳳来寺鉄道です。昭和18年(1943年)8月、鳳来寺鉄道は買収・国有化され、現在はJR東海が運営しています。

    本丸を分断する場所を走っている飯田線の線路光景です。長篠城駅を開設したのは、現在のJR飯田線中南部に当たる、大海・三河川合間を運営していた私鉄の鳳来寺鉄道です。昭和18年(1943年)8月、鳳来寺鉄道は買収・国有化され、現在はJR東海が運営しています。

  • 長篠城の古い絵図です。永正5年(1508年)今川氏系の菅沼元成が築城しましたが、天守閣は造られなかったようです。

    長篠城の古い絵図です。永正5年(1508年)今川氏系の菅沼元成が築城しましたが、天守閣は造られなかったようです。

  • 満開の染井吉野の花のアップ光景です。長篠城址を見学するのが一番の目的でしたが、合わせて三河の花見名所を見学することができました。

    満開の染井吉野の花のアップ光景です。長篠城址を見学するのが一番の目的でしたが、合わせて三河の花見名所を見学することができました。

  • 本丸跡付近からの眺めです満開の桜の木と、その背後に見える長篠城址史跡保存館の光景です。まだ新芽を出していない大木は、ケヤキ(欅)当たりのようです。

    本丸跡付近からの眺めです満開の桜の木と、その背後に見える長篠城址史跡保存館の光景です。まだ新芽を出していない大木は、ケヤキ(欅)当たりのようです。

  • 鳥居はありましたが、社の姿は見当たりませんでした。最後に紹介する達磨山・大通寺の『城藪稲荷』さんは、長篠城址の土塁の上から移されたと紹介されていましたから、この場所だったようです。

    鳥居はありましたが、社の姿は見当たりませんでした。最後に紹介する達磨山・大通寺の『城藪稲荷』さんは、長篠城址の土塁の上から移されたと紹介されていましたから、この場所だったようです。

  • 『堅木植樹の碑』のタイトルがあった立看板です。テキサス独立戦争中の1836年2月23日〜3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派との間で行われたアラモの戦いと、長篠城で行われた戦いを結び付けた、日米友好の植樹のことでした。ジェームス・ボーナムは、テキサス騎兵隊の中尉として任命され、アラモの砦の守備と、支援のための伝令を務め、最後はアラモの砦で戦死しました。

    『堅木植樹の碑』のタイトルがあった立看板です。テキサス独立戦争中の1836年2月23日〜3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派との間で行われたアラモの戦いと、長篠城で行われた戦いを結び付けた、日米友好の植樹のことでした。ジェームス・ボーナムは、テキサス騎兵隊の中尉として任命され、アラモの砦の守備と、支援のための伝令を務め、最後はアラモの砦で戦死しました。

  • 立看板で説明してあった、『堅木植樹の碑』です。カシ(樫)は日米修好の証しとして、アラモ側から贈られたものです。

    立看板で説明してあった、『堅木植樹の碑』です。カシ(樫)は日米修好の証しとして、アラモ側から贈られたものです。

  • 逆光になってしまいましたが、野牛郭がある本丸東側から南側にかけての光景です。現在はJR飯田線が通っています。大野川(現在の宇連川)と断崖が自然の要害となっている方角です。

    逆光になってしまいましたが、野牛郭がある本丸東側から南側にかけての光景です。現在はJR飯田線が通っています。大野川(現在の宇連川)と断崖が自然の要害となっている方角です。

  • こちらは本丸跡の西側方面だったようです。本丸跡の周りでは、四方に染井吉野が咲いていました。本丸の西側は、寒狭川(現在の豊川)で護られています。

    こちらは本丸跡の西側方面だったようです。本丸跡の周りでは、四方に染井吉野が咲いていました。本丸の西側は、寒狭川(現在の豊川)で護られています。

  • 本丸跡で咲いていた染井吉野の花のアップ光景です。バックは青空と常緑樹です。

    本丸跡で咲いていた染井吉野の花のアップ光景です。バックは青空と常緑樹です。

  • 同じく、本丸跡で咲いていた染井吉野の花のズームアップ光景です。私の勝手な思い込みですが、お城には桜が良く似合い、神社には梅が良く似合います。

    同じく、本丸跡で咲いていた染井吉野の花のズームアップ光景です。私の勝手な思い込みですが、お城には桜が良く似合い、神社には梅が良く似合います。

  • 手前から新緑の楓らしい木、その背後が満開の染井吉野、一番後ろが常緑樹の光景です。その間に、まだ冬木立のままの木々もありました。

    手前から新緑の楓らしい木、その背後が満開の染井吉野、一番後ろが常緑樹の光景です。その間に、まだ冬木立のままの木々もありました。

  • 土塁の麓に、『堅木植樹の碑』があった付近の光景です。土塁の内側になりますが、低い石垣が築いてありました。

    土塁の麓に、『堅木植樹の碑』があった付近の光景です。土塁の内側になりますが、低い石垣が築いてありました。

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