2009/04/11 - 2009/04/11
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Johnnieさん
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先週の花見(江戸城・鉢形城)に続き、今週も桜を探して箕輪城へやってきました。
箕輪城と言えば、かの武田信玄を数度に渡って苦しめた上野の黄斑・長野業政、そして業政亡き後についに落城の憂き目を見た嫡子業盛。
業盛は御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み、一族郎党と供に自害したと言います。
享年19歳だったそうです。
春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里
辞世の句に詠われた箕輪の桜を眺めてみたいと思い、今週はいざ上州までやって来ました。
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【旧下田邸】
箕輪城へ行く前に、箕輪城のパンフレットを入手するために高崎市役所箕郷支所に立ち寄りました。
こちらは支所の敷地内にある、旧下田邸です。 -
【旧下田邸】
旧下田邸は、箕輪城主長野業政の重臣、下田大膳正勝の子孫が落城後にこの地に土着し、居を構えた屋敷跡だそうです。
長野氏ゆかりの屋敷跡ということもあり、登城前に散策することにしました。 -
【搦手口】
今日は長野業政を思いながら散策をしたいわけなのですが、支所でもらったパンフレットによると、現在の遺構はほとんど井伊直政時代の姿に近く、長野氏時代の縄張りは良く分からないんだそうです。
今歩いている場所は搦手口ですが、長野氏時代はこちらが大手口だったと考えられているので、今回の散策はこの搦手から始めたいと思います。 -
【見上げる二の丸】
箕輪城は小高い丘に築かれた平山城です。
桜が綺麗ですね。
今回は花見も兼ねており、御前曲輪の桜を目指して登って行きます。 -
【二の丸下大堀切】
この大堀切も、長野氏時代にあったのかどうかは分かりません。
でも、今日は長野業政とその軍勢がここで戦っていたと想像しながら歩くことにします。
想像は自由ですからね。 -
【木俣】
さて、長野業政のことですが。
戦国武将としては、どちらかと言うとマイナーな方でしょうか。
長野氏は西上野の豪族で、業政の時が最も勢力が大きかったと言われています。
1546年の河越夜戦で北条氏康に敗れて大打撃を受けた、関東管領・上杉憲政を支えながら、北条・武田の上州侵攻を何とか食い止めていました。 -
【郭馬出下大堀切】
ここの堀切は本当に深いです。
武田信玄でも手を焼いたのが良く分かります。
あ、もちろん長野氏時代の縄張りとは違う可能性がありますけどね・・・。 -
【二の丸】
やがて関東管領・上杉憲政は北条氏康の侵攻に耐えかねて、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後へ逃れて行きます。
業政は上州に残り、謙信と結びながら北条・武田に対抗していくことになりますが、この後、西上野は実質的に業政の支配下に入ります。
そして箕輪城はより一層、上州支配の拠点としての存在感を高めて行くのです。 -
【郭馬出】
西上野の支配者となった長野業政ですが、武田信玄や上杉謙信、北条氏康といった戦国大名とは性格を異にしていて、上州諸豪族の取りまとめ役のような立場だったと言われています。
その気になれば上州一国を切り取ることも可能な器量の持ち主だったのではないかと思うのですが、あくまで諸豪族を取りまとめて関東管領を補佐するという立場を崩さなかったようです。 -
【二の丸・三の丸間の堀】
よって武力で上州を切り従えたというよりも、政略結婚を中心とした外交により、勢力を伸ばしていったのでしょう。
12人の娘を諸豪族に嫁がせたという話も残っています。 -
【三の丸】
やがて北条氏康だけでなく、北条・今川と三国同盟を結んだ武田信玄も上野を覗うようになります。
上州はまさに、上杉(越後)・武田(甲信)・北条(相模・武蔵)の三大勢力に挟まれた形となり、彼らの勢力争いに巻き込まれて行ったのでした。 -
【三の丸・石垣】
関東の城としては珍しく石垣のある、三の丸へやって来ました。 -
【三の丸・石垣】
三の丸には、結構大きな石垣が残っていました。
これはさすがに井伊直政時代のものでしょうね。 -
【三の丸・石垣】
人の背よりも高い石垣が、結構な長さで続いています。 -
【三の丸・石垣】
普段でしたら石垣を見ると嬉しくて仕方のない私達夫婦なのですが、今日は長野業政のイメージで歩いているからでしょうか、正直そこまでの感動はありませんでした。
もちろん、立派な石垣だとは思うんですけどね。 -
【三の丸下大堀切】
それよりも、この急な大堀切の険しさ!
私が感じたかったのは、戦国最強の武田軍団を幾度となく退けた、この要害の険しさなのです。 -
【鍛冶曲輪・石垣】
三の丸の下に降りると鍛冶曲輪があり、ここにも石垣が残っています。
井伊直政が箕輪城を近世城郭にするために、積み上げたと思われます。
井伊直政は関東に入った徳川家臣団の中で最高禄の12万石をもらってましたから、その居城としてはそれなりに格好の良い城でなければならなかったでしょう。 -
【大堀切】
虎韜門から外に出て、藪の中を入っていくと、先ほど三の丸から見た大堀切に出会いました。
こちらは全く整備がされていないようでしたが、足元には石垣のようなものが結構あったりして、まだまだ発掘整備する価値がありそうだな、と感じました。
それにしてもこの大堀切は険しいですね。
ためしに登ってみようと思ったのですが、さすがに諦めました。 -
【虎韜門】
虎韜門から再び城内へ入ります。 -
【三の丸】
再び長野業政の話に戻りましょう。
長野業政は新たに関東管領を襲名した上杉謙信と手を結び、北条・武田に対抗します。 -
【蔵屋敷】
北条・武田が上州に侵攻して来ると越後から謙信が追い払いに来てくれるのですが、雪が降る前に謙信は越後に帰ってしまいます。
すると、北条・武田はまたやって来る。
この繰り返しで、この時期の上州の人々は、心の休まる暇とて無かったのではないかと思います。 -
【蔵屋敷下堀】
越後はやはり遠いですよね。
いっそ武田・北条に組みした方が有利だったのではないか、とも思うのですが、業政はあくまでも関東管領の補佐役に徹します。
その義理堅さが、現代でも彼のファンが多い大きな理由ではないでしょうか。
また、業政にはこんな逸話も。
海ノ口城の戦いで武田軍に敗れ、所領の小県を追われた真田幸隆(幸村の祖父)は、一時、長野業政に身を寄せていました。
業政が年をとって長野氏が衰えてくると、幸隆は信玄の下へ入ろう考え、密かに脱走を試みました。
脱走は成功したのですが、ある峠で業政から手紙をもらい、驚いたことに、そこには幸隆の身を心配した内容が書かれていたのです。
幸隆の妻や家臣達も殺されること無く、幸隆は業正の器の大きさを感じたと言います。
創作だとは思いますが、このような心温まる逸話が残っているのは、業政の徳がそれだけ高かったと言うことでしょう。 -
【本丸西堀】
業政存命時は箕輪城は一度も落ちることなく、上州諸豪族をまとめあげながら、何とか持ちこたえていました。
かの武田信玄も6回攻めて6回とも退却した、と伝えられています。
信玄にとっては、謙信に次ぐやっかいな武将だったに違いありません。 -
【本丸西堀】
そんな業政も、1561年、ついに病死してしまいます。
享年71歳でした(63歳の説もあり)。 -
【見上げる本丸】
関八州古戦録によれば、業政が死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」
と遺言したと言います。
あくまでも敵に屈さない、不屈の精神を感じますね。 -
【本丸堀の橋台】
上州内の動揺を避けるために業政の死はしばらく隠されていました。
後に信玄が西上中に病死した時と似ていますね。
ところがこの時、信玄はその強大な間諜網により察知していて、「これで上野を手に入れたも同然」と大喜びしたと言われています。 -
【御前曲輪西堀・石垣】
こちらにも石垣が残っています。
主な石垣の遺構はここで最後ですね。
じっくりと見たかったのですが、かなり大きな蛇が出て来てしまい、妻がビビって先に行ってしまいました。
仕方ないので私も、この上にある御前曲輪へ向かいます。
いよいよ本日の目的地です。 -
【御前曲輪】
さあ、着きました。
満開です!
ソメイヨシノが10本に満たないくらいなのですが、誰も人がいない御前曲輪でこの桜を二人占めでした。 -
【御前曲輪】
若干葉が見えますが、まだまだ見頃だと思います。 -
【御前曲輪】
ベンチに腰掛け、美しい桜を眺めながら、ゆっくりと贅沢な時間を過ごします。 -
【御前曲輪】
400年以上も前にこの地で起きた凄惨な出来事が信じられないくらい、本当にきれいで見事な桜でした。
そう、この御前曲輪は、嫡子業盛が自害をした場所なのです。 -
【御前曲輪】
突然強風が吹き、目の前に桜吹雪が舞い散りました。 -
【本丸】
それでは最後に業政の死後を綴ることで、今日の長い与太話を終えたいと思います。 -
【本丸東堀】
業政の死後、嫡子の業盛が跡を継ぎ、一度は武田信玄を撃退したそうです。 -
【本丸】
ですが、上野の黄斑と呼ばれた業政の死はあまりにも痛かった。
1566年に2万の軍勢を率いた武田信玄は、国峰城、松井田城、安中城、倉賀野城などの支城を全て落とし、孤立した箕輪城に攻め寄せて来ました。 -
【本丸】
上野国一本槍の称号を持つ上泉信綱や業盛自身の奮闘もありましたが、ついに落城します。
業盛は御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み、一族郎党と供に自害しました。
享年19歳だったそうです。 -
【本丸南堀】
春風に 梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る 箕輪の山里 -
【本丸】
当時、城内にも桜や梅の木が植えられていたのでしょうか?
それとも、箕輪の里一体に、桜や梅の木がたくさん植えられていたのでしょうか?
美しい山里で無念の最期を遂げねばならなかった業盛の心中は、如何ばかりのものだったのでしょう・・・。 -
【御前曲輪】
御前曲輪に戻って来ました。
唯一の遺構(?)である井戸。 -
【御前曲輪】
深くて底が見えません。
昭和2年に発見されたこの井戸からは、多数の五輪塔などの墓石が発見されたそうです。
長野氏時代のものでしょうか? -
【御前曲輪北堀】
この後は城の東側を歩きながら、搦手口へ戻ります。 -
【通仲曲輪・霊木山】
業盛の子である亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれて落ち延びて、城の南1里半にある寺に匿われたと言います。 -
【新曲輪】
その後、長野氏の子孫は徳川四天王のひとりで箕輪を領した井伊直政の家臣となり、後に井伊家とともに彦根に行き、井伊氏の次席家老を務めたとも言われています。
幕末の大老として有名な井伊直弼の師とされる長野主膳は業盛の子孫と言われますが、それは定かではありません。 -
【本丸東堀】
上野の黄斑・長野業政。
利害関係が最優先される戦国の世で、筋を通し続けた関東武士の末裔。
(在原業平の末裔とも言われていますが・・・)
業政への思いを、今日の登城でより一層強くしました。 -
【水の手曲輪】
車に乗って少し南側に移動すると、そこには水の手曲輪がありました。 -
【水の手曲輪/法峯寺】
池波正太郎氏の「剣の天地」で戦の舞台としても出てきた水の手曲輪と法峯寺。
ここ法峯寺は、今では高崎でのちょっとした桜の名所にもなっているそうです。
たしかに枝垂れ桜が綺麗ですね。
美しい桜を眺めながら、長野業政を思う散策を終えたいと思います。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ANZdrifterさん 2010/02/24 14:02:27
- Re:一年おくれて拝見しました
- Johnnie さん はじめまして
箕輪城、名前だけは知っておりましたが 詳しい説明と きれいな写真で初めて歴史・逸話などを知りました。
小生の母方は 武田家から武田菱の家紋を賜って 利根川あたりに配置されていた武士でした。そんなこともあって 写真の説明一つ一つが 身に沁みるようで とてもよく分かりました。
群馬県は 史跡を保存する努力が十分でないように思えますが 堀や石垣など なんとか整備して 残してもらいたいものですね。
見事な 旅行記に敬意を表し 一票投じて失礼します。
ANZdrifter
- Johnnieさん からの返信 2010/02/25 12:21:53
- RE: Re:一年おくれて拝見しました
- はじめまして。
ご来訪ありがとうございます。
私共はお城が大好きで、昨春はたくさんのお城に桜を見に行きました。
あと一月もすれば桜の季節ですね。
今年もお花見に行きたいとは思うのですが、現在アメリカ在住のため、城と一緒に見ることが出来ません。
箕輪城は訪ずれる人も少なく、派手さは無いもののゆっくりと桜を楽しむことが出来ました。
Johnnie
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