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 新宿御苑の秋の花といえば、日本庭園を彩る皇室ゆかりの菊花壇展。 毎年11月1日から15日まで、日本庭園にて開催するとのこと。 年に一度の晴れ舞台。菊花の艶やかな競演がおりなす、伝統美の世界です。新宿御苑で風情あふれる菊のお花見を楽しみました。<br />	<br />新宿御苑のことは・・http://www.env.go.jp/garden/shinjukugyoen/<br /><br />観菊会の歴史 (公式ホームページより引用)<br /> 菊が皇室の紋章と定められたのは、明治元年(1868)でした。このときから日本国民にとっては、皇室と菊花が直接的な関係を持つようになります。<br /> 宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞する為に、明治11年(1878)に赤坂の仮皇居で初めての「菊花拝観」を開催しました。明治13年(1880)からは「観菊会」と名称が変更になりましたが、以後昭和11年(1936)年まで、戦争、震災、大喪、御大典などの年を除き、毎年開催されました。<br /> 「観菊会」は、明治22年(1889)まで赤坂仮皇居、以後昭和3年(1928)までは赤坂離宮で開催されましたが、赤坂離宮の展示場所が大宮御所の造営敷地となったため、翌昭和4年からは新宿御苑で開催するようになりました。<br /> 昭和12年(1937)から昭和23年(1948)までは、日中戦争と第二次世界大戦の影響で観菊会は中止となりました。	<br /><br /> 昭和24年(1949)5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に公開されるに及び、11月1日から15日まで、13年ぶりに菊花壇を日本庭園内に設け、宮内省時代から受け継いだ伝統の新宿御苑菊花を初めて一般に公開しました。<br /> 昭和26年(1951)からは一般公開中に特別招待日を設け、内閣総理大臣主催の「観菊会」を開催。昭和28年(1953)からは総理大臣主催の「観菊会」は取りやめ、所管の厚生大臣主催の「菊を観る会」へと変更になりました。そして昭和46年(1971)7月1日、環境庁発足とともに、厚生省から環境庁へと所管が変わり、環境庁長官主催の「菊を観る会」へと変わりました。昭和47年からは、特別招待日を設けての「菊を観る会」は催さず、期間中は環境庁長官招待による任意の「菊を観る会」となり、平成13年からは環境大臣招待として現在に至っています。<br /><br /><br />新宿御苑の菊の栽培の歴史<br /> 皇室の観菊会は始めは赤坂の仮皇居で催されましたが、その菊は赤坂仮皇居内の丸山仕立場(現在の大宮御所の一郭)で栽培されたものでした。	<br /> その後、新宿御苑が庭園として大改造の行われつつあった明治37年(1904)からは、御苑でも菊の栽培が始められ、大正13年(1924)まで丸山仕立場の補助仕立場として、観菊会用の菊栽培、及び品種改良に重要な役割を果たしてきました。	<br /> 大正10年(1921)頃から栽培用の各施設は逐次丸山仕立場から新宿御苑に移設され、大正14年(1925)には赤坂に秩父宮御殿を造営するために、赤坂丸山の菊栽培場をすべて新宿御苑に移設しました。<br /> 以来今日まで、丸山仕立場時代からの長い変わらざる伝統を継承しつつ、新宿御苑の菊栽培が続けられてきました。<br /> 大正から昭和にかけては、観菊会の展示の規模、技術、デザインなどがもっとも充実した時期で、新宿御苑がパレスガーデンとして広く海外に知られるようになりました。<br /><br /><br /> 特色あふれる菊の花々 <br /> 新宿御苑の菊花壇は、回遊式の日本庭園内に上家(うわや)といわれる建物を設け、特色あふれる花々を独自の様式を基調に飾り付けた花壇です。<br /> それぞれの花壇は、順路に沿ってご覧いただくと、もっとも美しく鑑賞できるようにデザインされています。

新宿御苑の菊花壇-2 伊勢・嵯峨・江戸系など ☆各地で発展した多様な技!

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2008/11/15 - 2008/11/15

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マキタン2

マキタン2さん

 新宿御苑の秋の花といえば、日本庭園を彩る皇室ゆかりの菊花壇展。 毎年11月1日から15日まで、日本庭園にて開催するとのこと。 年に一度の晴れ舞台。菊花の艶やかな競演がおりなす、伝統美の世界です。新宿御苑で風情あふれる菊のお花見を楽しみました。

新宿御苑のことは・・http://www.env.go.jp/garden/shinjukugyoen/

観菊会の歴史 (公式ホームページより引用)
 菊が皇室の紋章と定められたのは、明治元年(1868)でした。このときから日本国民にとっては、皇室と菊花が直接的な関係を持つようになります。
 宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞する為に、明治11年(1878)に赤坂の仮皇居で初めての「菊花拝観」を開催しました。明治13年(1880)からは「観菊会」と名称が変更になりましたが、以後昭和11年(1936)年まで、戦争、震災、大喪、御大典などの年を除き、毎年開催されました。
 「観菊会」は、明治22年(1889)まで赤坂仮皇居、以後昭和3年(1928)までは赤坂離宮で開催されましたが、赤坂離宮の展示場所が大宮御所の造営敷地となったため、翌昭和4年からは新宿御苑で開催するようになりました。
 昭和12年(1937)から昭和23年(1948)までは、日中戦争と第二次世界大戦の影響で観菊会は中止となりました。

 昭和24年(1949)5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に公開されるに及び、11月1日から15日まで、13年ぶりに菊花壇を日本庭園内に設け、宮内省時代から受け継いだ伝統の新宿御苑菊花を初めて一般に公開しました。
 昭和26年(1951)からは一般公開中に特別招待日を設け、内閣総理大臣主催の「観菊会」を開催。昭和28年(1953)からは総理大臣主催の「観菊会」は取りやめ、所管の厚生大臣主催の「菊を観る会」へと変更になりました。そして昭和46年(1971)7月1日、環境庁発足とともに、厚生省から環境庁へと所管が変わり、環境庁長官主催の「菊を観る会」へと変わりました。昭和47年からは、特別招待日を設けての「菊を観る会」は催さず、期間中は環境庁長官招待による任意の「菊を観る会」となり、平成13年からは環境大臣招待として現在に至っています。


新宿御苑の菊の栽培の歴史
 皇室の観菊会は始めは赤坂の仮皇居で催されましたが、その菊は赤坂仮皇居内の丸山仕立場(現在の大宮御所の一郭)で栽培されたものでした。
 その後、新宿御苑が庭園として大改造の行われつつあった明治37年(1904)からは、御苑でも菊の栽培が始められ、大正13年(1924)まで丸山仕立場の補助仕立場として、観菊会用の菊栽培、及び品種改良に重要な役割を果たしてきました。
 大正10年(1921)頃から栽培用の各施設は逐次丸山仕立場から新宿御苑に移設され、大正14年(1925)には赤坂に秩父宮御殿を造営するために、赤坂丸山の菊栽培場をすべて新宿御苑に移設しました。
 以来今日まで、丸山仕立場時代からの長い変わらざる伝統を継承しつつ、新宿御苑の菊栽培が続けられてきました。
 大正から昭和にかけては、観菊会の展示の規模、技術、デザインなどがもっとも充実した時期で、新宿御苑がパレスガーデンとして広く海外に知られるようになりました。


 特色あふれる菊の花々 
 新宿御苑の菊花壇は、回遊式の日本庭園内に上家(うわや)といわれる建物を設け、特色あふれる花々を独自の様式を基調に飾り付けた花壇です。
 それぞれの花壇は、順路に沿ってご覧いただくと、もっとも美しく鑑賞できるようにデザインされています。

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  • 伊勢菊・丁子菊・嵯峨菊花壇 (いせぎく・ちょうじぎく・さがぎくかだん)<br />	作り始め:昭和30年(1955)<br /><br /> 木の素材をいかしたよしず張りの上家に、伊勢菊32株、丁子菊32株、嵯峨菊25株を配色よく植え込んだ花壇です。<br /> 伊勢菊は伊勢地方(現在の三重県松山市・津市)で発達した菊です。花びらが平たく、咲き始めは縮れていますが、開花するにしたがって伸び、垂れ下がって満開となります。花びらが長く垂れ下がるほど良い花とされています。<br /> 丁子菊は、昔、おもに関西地方で作られた菊です。花の中心の筒状の花びらが香料の丁子の花に似ていることから、この名前がつきました。外国では「アネモネ咲き」とよばれ人気があります。花びらは平たいものや匙のような形のものがあります。<br /> 嵯峨菊は、嵯峨天皇の御愛の菊として、京都の大覚寺に植えられたものが始まりといわれる、もっとも古い歴史をもつ古典菊です。花びらが平たく、咲き始めは乱れ咲きに開き、次第に花びらがよじれて立ち上がり、全部立ちきって満開となります。雅趣に富んだ菊です。

    伊勢菊・丁子菊・嵯峨菊花壇 (いせぎく・ちょうじぎく・さがぎくかだん)
    作り始め:昭和30年(1955)

     木の素材をいかしたよしず張りの上家に、伊勢菊32株、丁子菊32株、嵯峨菊25株を配色よく植え込んだ花壇です。
     伊勢菊は伊勢地方(現在の三重県松山市・津市)で発達した菊です。花びらが平たく、咲き始めは縮れていますが、開花するにしたがって伸び、垂れ下がって満開となります。花びらが長く垂れ下がるほど良い花とされています。
     丁子菊は、昔、おもに関西地方で作られた菊です。花の中心の筒状の花びらが香料の丁子の花に似ていることから、この名前がつきました。外国では「アネモネ咲き」とよばれ人気があります。花びらは平たいものや匙のような形のものがあります。
     嵯峨菊は、嵯峨天皇の御愛の菊として、京都の大覚寺に植えられたものが始まりといわれる、もっとも古い歴史をもつ古典菊です。花びらが平たく、咲き始めは乱れ咲きに開き、次第に花びらがよじれて立ち上がり、全部立ちきって満開となります。雅趣に富んだ菊です。

  • 江戸菊花壇 (えどぎくかだん)<br />	作り始め:明治11年(1878)<br /><br /> 木の素材をいかした障子屋根の上家に、1株27輪仕立ての中菊29株を3列の互の目に奥行きをつけて植え込み、篠立て作りにした花壇です。<br /> 中菊は関西の大菊に対し、江戸において流行したので、江戸菊ともよばれています。また、花びらが様々に変化することから、狂菊ともよばれています。その狂い方によって、「追抱(おいがかえ)」、「褄折抱(つまおれがかえ)」、「丸抱」、「乱れ抱」、「自然抱」、「露心抱(ろしんがかえ)」「管抱(くだがかえ)」の7通りの名前がつけられています。<br /> 花びらは平たいもの、管のようになったもの、匙のようになったものの3種類あります。<br /> この菊は花びらが様々に変化する狂いの芸が特徴で、御苑独自の仕立てと、全体の色彩の変化と配列の美しい花壇です。新宿御苑の菊花壇の中でももっとも古い歴史のある植え込み様式です。

    江戸菊花壇 (えどぎくかだん)
    作り始め:明治11年(1878)

     木の素材をいかした障子屋根の上家に、1株27輪仕立ての中菊29株を3列の互の目に奥行きをつけて植え込み、篠立て作りにした花壇です。
     中菊は関西の大菊に対し、江戸において流行したので、江戸菊ともよばれています。また、花びらが様々に変化することから、狂菊ともよばれています。その狂い方によって、「追抱(おいがかえ)」、「褄折抱(つまおれがかえ)」、「丸抱」、「乱れ抱」、「自然抱」、「露心抱(ろしんがかえ)」「管抱(くだがかえ)」の7通りの名前がつけられています。
     花びらは平たいもの、管のようになったもの、匙のようになったものの3種類あります。
     この菊は花びらが様々に変化する狂いの芸が特徴で、御苑独自の仕立てと、全体の色彩の変化と配列の美しい花壇です。新宿御苑の菊花壇の中でももっとも古い歴史のある植え込み様式です。

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