2007/08/12 - 2007/08/14
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■■近畿地方ひとり旅?■■
【太子町叡福寺】
叡福寺は、太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元年(724年)に建てられました。
★ひとり旅前夜祭★
前日、仲間と遅くまでアルコール漬けになっていましたので、やはり出かけるのが遅れました。
おまけに前日までの仕事疲れもあり、その上20年ぶり?のカラオケで騒ぎまくったので、次の日の朝は肉体&大脳が「疲労の塊」のようになっていました。
しかしながら、前夜は高校の仲良し同級生の集まりなもんですから気持ちよく過ごさせて頂き、カラオケも「30年以上前の歌だけをリクエストする」と言う条件で唄いまくりました。やはり70年代フォークが多くなりますね。
早稲田のフォークグループであったザ・リガニーズの「海は恋してる」なんて胸にジーンと来ましたよ。私たちにも青春があったと言うことです。
・・・と言うことで、さあ!睡眠不足「疲労の塊」でも前夜祭で仲間の励ましを受けたので?気持ち良く「ひとり旅」にLET'S GO−−!出発です。
【手記】
久し振りの長距離遠征旅行、最近は近場ばかりでしたので今回は体力減退にも係わらず気力満開!!
広島市出発→大阪府→奈良県→三重県→滋賀県→京都府→大阪府(&おまけ岡山県)と主に近畿地方を平成3年式の愛車で巡航してきました。
猛暑の中、高速を走る!林道を走る!炎天下の中、寺院を歩く!博物館をあるく!階段を上る!境内を登る!景色を撮る!想い出の場所を写す!炎天下だらだら汗!(^0^;)目にしみる汗!50代半ば、時の中を潜り抜け想い出を探して・・・がんばりました。
●近畿地方1200Kmの車旅ルート●
広島市出発、山陽道・近畿道・南阪奈道
・大阪府太子町叡福寺←←●当旅行記(●^0^●)/
・千早赤坂村棚田・楠木正成郷土資料館
・奈良県橿原考古学博物館
・橿原神宮・欽明天皇陵猿石
・橿原オークホテル泊
・明日香村遺跡巡り(亀石・石舞台古墳・板葺宮跡・亀形遺跡
・橘寺・飛鳥資料館・飛鳥寺・万葉文化館など)
・三重県青蓮寺湖・伊賀上野城天守
・鈴鹿考古博物館&伊勢國国分寺跡・鈴鹿サーキット
・紫香楽宮跡・信楽焼きたぬき・滋賀大学・石山寺
・野洲シティーホテル泊
・琵琶湖大橋・滋賀西教寺・日吉大社・最乗院・三井寺
・比叡山ドライブウェー・京都府直指庵・大阪久安寺
・山陽道
・岡山備中高松城跡
が今回のひとり旅1200kmルートでした。
★まずはひとり旅「太子町叡福寺」の旅行記をUPします。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 自家用車
PR
-
<近畿1200Kmの車旅【1】>
旅の道中、滋賀県大津市「三井寺」駐車場にて
【手記】★今回の旅の相棒★
よく頑張っている平成3年式の愛車。新車から乗って丸16年が経ちます。
いまだに好調ですが、なにぶん古い、ブレーキも甘い、しかしながら妻との想い出がぎっしり詰まっています。
いつまでも元気であってほしいものです。 -
「ひとり旅前夜祭」
前日、仲間と遅くまでアルコール漬けになっていましたので、やはり出かけるのが遅れました。
おまけに前日までの仕事疲れもあり、その上20年ぶり?のカラオケで騒ぎまくったので、次の日の朝は肉体&大脳が「疲労の塊」のようになっていました。
しかしながら、前夜は高校の仲良し同級生の集まりなもんですから気持ちよく過ごさせて頂き、カラオケも「30年以上前の歌をリクエストする」と言う条件で唄いまくりました。やはり70年代フォークが多くなりますね。
早稲田のフォークグループであったザ・リガニーズの「海は恋してる」なんて胸にジーンと来ましたよ。私たちにも青春があったと言うことです。
・・・と言うことで、さあ!睡眠不足でも「疲労の塊」でも前夜祭で仲間の励ましを受けたので?気持ち良く「ひとり旅」にLET'S GO−−!出発です。 -
<近畿1200Kmの車旅>
いよいよ広島自宅から出発進行!
さあ!睡眠不足であろうが、疲労の塊であろうが、前夜祭で仲間の励まし?を受けたので、気持ち良く「ひとり旅」に LET’S GO−−!出発です。
が・・・・・・!
インタに乗るまで一般道が渋滞!渋滞!なぜに…。
前夜祭の祟りもあり、さすがに疲れがどっと噴出してきます。・・・・・事故渋滞でした。 -
「山陽道志和インタON」
やっと高速に乗ることができると、帰省ラッシュの下り車線を尻目に、上り車線はさすがにスイスイ巡航できます。 -
「山陽道 吉備SA」
前夜祭が祟って、さすがに疲れたあ。
少し休憩をば・・・。 -
「山陽道 吉備SA」
小休憩、疲れが幾分取れました。
このSAには、東方面へ出かけるときは、いつも休憩がてら寄っています。 -
「大阪モノレール」
「少路駅」通過 -
「近畿道 奈良方面へ」
-
「中国道 大阪方面へ」
C= C= C= C=┌( ・_・)┘→→→ -
「南阪奈道へ」
C= C= C= C= C= ┌( ̄ー ̄)┘ -
「太子町叡福寺」
◎大阪府南河内郡太子町
9年半前に妻と訪れたのですが、どうしても光景を思い出せない場所でした。
現地に来てやっと思い出しました。 -
「太子町叡福寺」
太子町案内板です。 -
「太子町叡福寺」
聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、墓所を造営したといわれています。 -
「太子町叡福寺」
<南大門>
バス停の直ぐ北側が駐車場になっており、駐車場の片隅にある石段の上に山門(南大門)が建っています。 -
「太子町叡福寺」
<南大門から>
南大門は天正2年(1574年)の兵火で焼失したようですが、慶長年間に再建され、更に、昭和33年(1958年)に再建築されました。 -
「太子町叡福寺」
<南大門 仁王像>
太子は二十七歳の時、この叡福寺の地を御廟の候補地とし、周囲を寺院地とされ、四十七歳の時、廟をお造りになられました。 -
「太子町叡福寺」
<南大門 仁王像>
太子没後、聖武天皇の勅願により太子のお墓をお守りご追福を祈るため、神亀元年(724年)七堂伽藍が完成しました。
このゆえに叡福寺は、太子寺、御廟寺、聖霊院などと呼ばれています。 -
「太子町叡福寺」
<南大門> 扁額 -
「太子町叡福寺」
南大門から真っ直ぐ奥に「聖徳太子廟」があり、山門と聖徳太子廟前にある「二天門」との間を遮っている建物は何もありません。 -
「太子町叡福寺」
-
「太子町叡福寺」
南大門をくぐると真正面に見えるのが聖徳太子廟前にある「二天門」です。 -
「太子町叡福寺」
南大門を入って、直ぐ左側に多宝塔があります。 -
「太子町叡福寺」
<多宝塔>(重要文化財)
現存の「多宝塔」は1652年(承応元年)建立。
内部には釈迦尊像や大日如来像等を安置、柱には四天王像が描かれています。拝観は出来ません。 -
「太子町叡福寺」
<金堂>
金堂には本尊の如意輪観世音菩薩が祀られています。 -
「太子町叡福寺」
<金堂>
金堂は「山門」と「聖徳太子廟」を結ぶ線の西側で、「多宝塔」の北側に当たる場所に建てられています。 -
「太子町叡福寺」
<金堂>
現存の「金堂」は享保17年(1732年)に再建されたものといわれています。 -
「太子町叡福寺」
<金堂の横> -
「太子町叡福寺」
<聖霊殿(太子堂)>
聖霊殿は後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が慶長8年(1603年)に再建したものであるとされています。 -
「太子町叡福寺」
<聖霊殿>(重要文化財)
現存の建物は後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が1603年(慶長8年)に再建。
本尊は聖徳太子十六歳の等身像。 -
「太子町叡福寺」
-
「太子町叡福寺」
<案内所>
叡福寺は聖徳太子(574-622)の御廟を守るために建てられた寺である。 -
「太子町叡福寺」
<案内所>
推古天皇30(622)年太子の母、穴穂部間人大后の眠る御廟に太子と妃の膳部大郎女が合葬された折、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟守護のために僧坊十烟(墓守の家10軒)を置いたのが始まりといわれている。 -
「太子町叡福寺」
<案内所>
太子は敏達天皇の元年、飛鳥の地に誕生。
20歳のとき、日本最初の女帝で叔母に当たる推古天皇の摂政に就任、31歳で日本最古の成文憲法『十七条憲法』を起草した。 -
「太子町叡福寺」
<寶蔵>
寶蔵拝観、大人200円、小学生100円
今日でもなお新鮮さを失わないこの憲法には、第一条に「和をもって貴しとし、忤うことなきを宗とせよ」という有名な言葉が書かれ、第十条には「われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず」とある。 -
「太子町叡福寺」
<寶蔵>
人間は誰でもすぐれたところも、愚かなところも持った平凡な存在なのだから、重要なことについては和をもって互いに議論し合って決めようではないかという主旨の、現代の民主主義の先鞭ともいえる言葉である。WEBサイトより -
「太子町叡福寺」
<燈籠>
後ろに見えるのが二天門です。 -
「太子町叡福寺」
<二天門> -
「聖徳太子廟」
二天門をくぐると目前に「聖徳太子廟」があります。
廟の背後は磯長山が迫っており、廟は山の丘陵を利用して造られているようです。 -
「叡福寺」
<二天門>
廟は宮内庁の管轄になっており、垣の中に入ることはできませんが、明治12年(1879年)の廟修理の際、羨道を閉じてしまったとかで、以来、内部を見ることは不可能になったようです。
→拡大画面でご覧下さい。(^0^)! -
「叡福寺」
<二天門>
口元を見ると、これも阿吽の呼吸なんですね。
→拡大画面でご覧下さい。(^0^)! -
「太子町叡福寺」
<聖徳太子廟>
廟の正面、扉の上には阿弥陀三尊のご来迎をあらわした木彫りの額がかかっています。 -
「太子町叡福寺」
<聖徳太子廟>
その額は叡福寺の玄雅が延享3年(1746年)に寄進したものとされ、三骨一廟の意味を表していると言われています。 -
「叡福寺」
<聖徳太子御廟>
ここだった!
旅行場所不明の1枚の写真が紐解けました。
奈良の寺社ばかり探していまして、どうしても分からずにいた唯一残っている写真がありました。 -
「太子町叡福寺」
<聖徳太子廟>
9年半前に妻と訪れたのは、大阪!の叡福寺「聖徳太子廟」だったんです。
この位置で妻の写真を撮っています。
時の流れを潜り抜けて、想い出の地を巡っています。 -
「太子町叡福寺」近畿1500Kmの車旅
<聖徳太子廟>
これが、ここが何処なのか、どうしても分からずにいた唯一残っていた写真です。
9年半前に妻と訪れた時(1998.3月)の記念PHOTOです。 -
「太子町叡福寺」
<上の御堂>
聖徳太子廟の左横の建物です。 -
「太子町叡福寺」
<浄土堂> -
「太子町叡福寺」
当初の寺の規模は広大で、法隆寺と同じように東院(東福院)、西院(叡福寺)からなっていたといわれています。 -
「太子町叡福寺」
<経蔵>
戦国時代末期には織田信長の焼き討ちにより全焼、その後再建され、ほぼ現在の寺の規模になったようです。 -
「太子町叡福寺」
<経蔵> -
「叡福寺」
<見真大師堂>
聖徳太子廟の東側には「浄土堂」、更にその東側に「見真大師堂」(写真)が、「見真大師堂」の南側には「弘法大師堂」が建てられています。 -
「叡福寺」
<見真大師堂>
見真大師堂は他の堂宇と同じ慶長8年(1603年)に再建されたといわれていますが、現存の建物は明治45年(大正元年:1912年)に再建築されたものです。
自身が刻んだといわれる親鸞聖人の坐像が祀られています。惜しい!ピントが格子に合っています。 -
「太子町叡福寺」
<弘法大師堂>
親鸞聖人を祀っている「見真大師堂」と弘法大師(空海)を祀っている「弘法大師堂」とが同一の寺域、しかも極めて近い位置に建てられているのが興味深いです。 -
「太子町叡福寺」
-
「太子町叡福寺」
-
「太子町叡福寺」
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「太子町叡福寺」
遠景 -
「太子町叡福寺」
叡福寺散策のあと、あの大忠臣「楠木正成公」の千早赤阪村へ車を走らせました。
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