2007/07/16 - 2007/07/16
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もろずみさん
かつてこの地に「ユネスコ村」という世界の建物テーマパークがありました。
昭和26年(1951年)に開園したので戦後生まれの関東人は子供の頃に一度は行った覚えがあると思います。
その名の通り、ユネスコへの加盟を記念して世界の民俗を建物で紹介するというコンセプトで造られました。
大きなオランダ風車が人気でした。おとぎ電車も・・・。
建物の老朽化と入場者の減少により平成2年(1990年)に惜しまれつつ(?)も閉園となりました。もう遠い昔のことです。
あ、「惜しまれつつ」と書きましたが私は最近まで閉園を知らなかったです。(^^;
その後のユネスコ村はどうなったのか?
「大恐竜探検館」として営業してましたが、それも平成18年(2006年)に閉館となり、今残っているのは季節営業のゆり園のみです。
もはや想い出の彼方に往ってしまったユネスコ村は、驚いたことにその一部が狭山不動尊になっていました。
さらに調べてみると数奇な事実が垣間見えてきました。そんなミステリアスなレポートです。
- 交通手段
- 私鉄
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まず最初に境内のお堂の配置図をご覧いただきましょう。
お堂がたくさんあって、なかなか立派なお寺のようです。 -
通称は狭山不動尊ですが、正式名称は狭山山不動寺。
天台宗別格本山とあります。
開山は昭和50年(1975年)です。風格からは想像できない新しいお寺です。 -
何に驚くかと言えば、入り口であるこの勅額門です。何とも立派!
実はこの門は国の重文です。 -
額には「台徳殿」とあります。
台徳院とは二代将軍徳川秀忠公の法名。
なんと!この門は秀忠公の御廟の門ということになります。
寛永9年(1632年)に三代将軍徳川家光公が建立し、額の書は後水尾天皇の御手によるという由緒あるものです。
あ!それで勅額門か。 -
勅額門をくぐって振り返れば、そこには西武ドームが輝いていました。
一体、このお寺は何なの?何故ここに将軍家の廟所?
俄然、歴史的好奇心が刺激されてきました。 -
勅額門に続く石段を見上げれば、さらに立派な門が・・・
先の境内案内図に寄れば御成門のようです。 -
早速上ってみれば紛れもなく重文の御門。葵の御紋も見えます。
これも勅額門同様に寛永9年(1632年)に家光公によって建立されたとあります。 -
煌びやかな飛天の彫刻が側面にありました。
別名を天人門とも呼ばれていたそうです。
何故ここに?と、疑問はさらに増してきました。 -
不動寺そのものは小高い丘の上という地形になっています。
緩やかな参道を進んでいきます。 -
かなり威圧的な総門が見えてきました。
額は普通に山号の「狭山山」とあります。
実はこの門は長州藩毛利家江戸屋敷にあったものです。
道理で武家門らしいはず。総檜造りで柱も無骨なまでに太いです。 -
そしてこれが不動寺本堂。
間口は広いですが普通ですね。
待てよ。以前はこんな本堂ではなかったはずだが・・・? -
そうか。平成13年(2001年)に不審火によって本堂は全焼したのでした。
前の本堂は京都・東本願寺から移築された七間堂だったそうです。
すぐに再建したのがこの本堂。コンクリート剥き出しで何だかなぁ・・・。
ご本尊はもちろん不動明王。 -
本堂裏手に夥しい数の石灯籠。
刻んである文字をよく見なかったけど、どうやら芝増上寺にあったものらしい・・・。
そういえば、秀忠公の廟所も増上寺にあったはずです。 -
本堂の東にある塔が第一多宝塔。
大阪の高槻市梶原にあった畠山神社の塔を移築したもののようです。
建立は弘治元年(1555年)と先の門より一層古い桃山期のものです。
神社に仏塔って変ですよね。畠山神社の元は梶原寺で神仏分離で神社になったとか。
文化財級の仏塔が不要になったので手放したわけでしょうか。
うーん、何と言ったらよいか・・・「太っ腹」かな? -
その下のゆり園に近い方にも門があります。
これも重文の丁子門で崇源院の廟所の門ということ。
建立は慶長9年(1632年)やはり三代将軍家光公によります。
崇源院とは秀忠公の継室で家光公の生母であるお江与の方です。
父は浅井長政、母はお市の方。つまり淀君の妹にあたります。 -
ここで持てる知識を総動員して考えてみましょう。
徳川家初代家康公は神となり東照権現として東照宮に、三代家光公は大猷院として輪王寺に墓所があります。お二人はともに日光に眠っています。
二代秀忠公は台徳院として増上寺に廟所がありました。
徳川将軍家の菩提寺は増上寺と寛永寺の二つありますが、増上寺は空襲で焼けてしまいました。
その時に焼け残ったのがこの不動寺にある3つの御門ということのようです。 -
坂の途中に書院・清明閣があります。
これは開山後の昭和52年(1977年)に建てられたものです。
それでも30年経てば本堂とは違って落ち着きが出てきています。 -
次々と現れる文化財級の建造物の数々。
この鐘楼は京都の高田寺のもの。
元は奈良の興福寺より移築されたものだそうです。 -
羅漢堂山門。銅葺き屋根の由緒ありそうな門です。
「天下の糸平」と呼ばれた生糸商人・田中平八郎邸の門だそうです。 -
しっかりと葵の御紋が輝いています。
虎ノ門の豪商のお屋敷の門に葵の御紋はないでしょう。 -
羅漢堂は明治の元勲・井上馨が、明治28年(1895年)に東大寺の二月堂を模して造らせたもの。
井上家の屋敷内にあったものが寄贈されてこの地に移築されたそうです。
近づけないので唐金燈籠が邪魔してます。 -
その唐金燈籠は羅漢堂の周囲を囲んでいます。
これらも増上寺の台徳院廟にあったもので、300諸藩の藩主たちが競って献納したものです。
やはり徳川家廟所で焼け残ったものをごっそり持ってきたようです。 -
このお堂は大黒堂。
柿本人麻呂縁りの奈良極楽寺に建立されていた歌塚堂だそうです。
ご本尊は寛永寺山内の見明院に奉安されていた大黒天。
何だかありがたいものばかり集められていますね。 -
東西に多宝塔があってこちらが第二多宝塔。
元は兵庫の東條町天神にある椅鹿寺にあったもので、永享7年(1435年)に播磨国守護職・赤松満男教康が建立したものだそうです。
室町中期の作風と言われてみれば見えなくもないです。 -
その隣りにここでは割と新しい部類に入る建物があります。
実はこれはユネスコ村時代には孔子廟でした。
西武グループの創設者の堤康次郎が孔子・孟子・子思子3聖像を安置したとあります。
寺の境内に孔子廟もおかしいので、今は堤康次郎の法名に因んで康信寺と名付けられています。 -
これで大体境内を一巡してみました。
多量の石灯籠が門への道の両側にずらりと並んでいます。
これらも芝の増上寺からのものでしょう。
このように全国から文化財を大量に掻き集めたお寺は例を見ません。西武グループの財力あってのことでしょうが・・・。 -
あら、早々とコスモスが一輪だけ咲いていますね。
花を見ながら反芻してみましょう。
そうか!ここはお寺の形式をとったユネスコ村なのだ!
世界中の民俗建築を建てたユネスコ村のコンセプトで、全国の本物の文化財を集めたわけ。
西武グループが増上寺の将軍家御廟の跡地にプリンスホテルを建てる時に、大量に残された燈籠や奇跡的に焼け残った霊廟御門の移築先としてユネスコ村を選んだ、ということがきっかけでしょうか。 -
最後は桜井門。奈良の十津川の桜井寺からの移築です。
桜井寺は幕末の志士・吉村寅太郎等が十津川で起こした天誅組の本陣に使われていました。
いきなり歴史は幕末に飛びましたね。
いやいや、これほど狭山不動尊に見所があるとは思いませんでした。まさか所沢の地で、江戸のみならず京都や奈良の文化財を発見するとは思ってもみませんでした。
思いがけない歴史ウォークになりました。 -
一度芝の増上寺もじっくり見に行かなくてはいけませんね。確か台徳院廟所の惣門が残っていたはずです。他にも遺構が何かあるはず。
徳川家霊廟はどこかで見たなぁと思って探してみたら、小金井の江戸東京たてもの園にありました。
自証院つまり三代将軍家光公の側室お振の方の廟所。慶安5年(1652年)に尾張藩主に嫁いだ娘・千代姫が母の菩提を弔うために市ヶ谷の自証寺の建立しました。
こんなに美しい建物だったのですねぇ。
※2006年5月3日の写真
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