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9月25日、午後3時過ぎに自宅より5キロのところにある多福寺、多聞院等の地区へ自転車により訪問した。 多福寺より多聞院へ行く途中にある木ノ宮地蔵堂に立ち寄った。 数年前に実施された屋根等の改築により建物としては素晴らしくみえる。<br />銀杏の黄葉の季節になれば素晴らしい光景が見られるところである。<br /><br /><br />○木宮地蔵堂について・・・説明文より<br />古くから信仰を集めてきた上富にある木ノ宮地蔵堂。その縁起は、坂上田村麻呂と結びつけて伝えられていますが、真相については明らかではありません。江戸時代まで何度かの荒廃や焼失などの記録があり、現在の堂は、安永6年(1777)に再建されたものです。その本堂内には木造の地蔵菩薩が安置され、天井には107枚の植物画が描かれています。<br /><br />また、本堂の裏にまわると石の地蔵尊が祀られた奥之院があります。この石地蔵は、寛永19年(1642)に木野目郷(現川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものです。文献によると寛永19年に地蔵堂が焼失したと伝えられており、この石地蔵は、地蔵堂焼失直後に奉納されたもので、入間東部地区に残る石地蔵の中では最古のものです。<br /><br /><br />*写真は木宮地蔵堂

久しぶりに初秋の木ノ宮地蔵堂を訪問する

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2016/09/25 - 2016/09/25

518位(同エリア885件中)

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tsuneta

tsunetaさん

9月25日、午後3時過ぎに自宅より5キロのところにある多福寺、多聞院等の地区へ自転車により訪問した。 多福寺より多聞院へ行く途中にある木ノ宮地蔵堂に立ち寄った。 数年前に実施された屋根等の改築により建物としては素晴らしくみえる。
銀杏の黄葉の季節になれば素晴らしい光景が見られるところである。


○木宮地蔵堂について・・・説明文より
古くから信仰を集めてきた上富にある木ノ宮地蔵堂。その縁起は、坂上田村麻呂と結びつけて伝えられていますが、真相については明らかではありません。江戸時代まで何度かの荒廃や焼失などの記録があり、現在の堂は、安永6年(1777)に再建されたものです。その本堂内には木造の地蔵菩薩が安置され、天井には107枚の植物画が描かれています。

また、本堂の裏にまわると石の地蔵尊が祀られた奥之院があります。この石地蔵は、寛永19年(1642)に木野目郷(現川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものです。文献によると寛永19年に地蔵堂が焼失したと伝えられており、この石地蔵は、地蔵堂焼失直後に奉納されたもので、入間東部地区に残る石地蔵の中では最古のものです。


*写真は木宮地蔵堂

旅行の満足度
4.5

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  • 木宮地蔵堂<br /><br />間口 6間、奥行 7間の方丈造り  1777年建てられたもの

    木宮地蔵堂

    間口 6間、奥行 7間の方丈造り  1777年建てられたもの

  • 三芳町指定文化財 木ノ宮地蔵堂

    三芳町指定文化財 木ノ宮地蔵堂

  • 埼玉県指定 旧跡 三富開拓地割遺跡

    埼玉県指定 旧跡 三富開拓地割遺跡

  • 木ノ宮地蔵堂

    木ノ宮地蔵堂

  • 木ノ宮地蔵堂

    木ノ宮地蔵堂

  • 木ノ宮地蔵堂

    木ノ宮地蔵堂

  • 木宮地蔵堂の近くには甘藷の碑があった。

    木宮地蔵堂の近くには甘藷の碑があった。

  • 甘藷の碑<br /><br />甘藷の碑の説明・・・サツマイモの試作や導入、普及に努めた青木昆陽、吉田弥右衛門の功績をたたえて三芳町の上富村の人が中心になって石碑が作られた<br /><br />当地は武蔵野台地のまん中にあります。土が乾ききっているところで、夏の干ばつによる農作物の被害が特にひどいところでした。<br />  南永井村(現在の所沢市南永井)の名主、吉田弥右衛門(よしだやえもん)はそんなところでもよくできるというサツマイモの話を聞き、その導入と普及に努めました。<br />  関東でのサツマイモの試作に最初に成功したのは、江戸の学者、青木昆陽(甘藷先生)で、享保20年(1735)のことでした。弥右衛門の試作はそれから16年後の寛延4年(1751)のことです。そのサツマイモは最初は飢饉に備えて作られましたが、すぐ農家の自家用の食料として積極的に作られるようになりました。それだけではありません。のちには江戸にたくさん現れた焼き芋屋用のいもとして、いいかえれば商品作物としても作られるようになり、貴重な現金収入源になりました。

    甘藷の碑

    甘藷の碑の説明・・・サツマイモの試作や導入、普及に努めた青木昆陽、吉田弥右衛門の功績をたたえて三芳町の上富村の人が中心になって石碑が作られた

    当地は武蔵野台地のまん中にあります。土が乾ききっているところで、夏の干ばつによる農作物の被害が特にひどいところでした。
     南永井村(現在の所沢市南永井)の名主、吉田弥右衛門(よしだやえもん)はそんなところでもよくできるというサツマイモの話を聞き、その導入と普及に努めました。
     関東でのサツマイモの試作に最初に成功したのは、江戸の学者、青木昆陽(甘藷先生)で、享保20年(1735)のことでした。弥右衛門の試作はそれから16年後の寛延4年(1751)のことです。そのサツマイモは最初は飢饉に備えて作られましたが、すぐ農家の自家用の食料として積極的に作られるようになりました。それだけではありません。のちには江戸にたくさん現れた焼き芋屋用のいもとして、いいかえれば商品作物としても作られるようになり、貴重な現金収入源になりました。

  • 甘藷の碑の説明

    甘藷の碑の説明

  • 奥の院<br /><br />また、本堂の裏にまわると石の地蔵尊が祀られた奥之院があります。この石地蔵は、寛永19年(1642)に木野目郷(現川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものです。文献によると寛永19年に地蔵堂が焼失したと伝えられており、この石地蔵は、地蔵堂焼失直後に奉納されたもので、入間東部地区に残る石地蔵の中では最古のものです。<br /><br />

    奥の院

    また、本堂の裏にまわると石の地蔵尊が祀られた奥之院があります。この石地蔵は、寛永19年(1642)に木野目郷(現川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものです。文献によると寛永19年に地蔵堂が焼失したと伝えられており、この石地蔵は、地蔵堂焼失直後に奉納されたもので、入間東部地区に残る石地蔵の中では最古のものです。

  • 木ノ宮地蔵奥の院の石地蔵  三芳町指定文化財

    木ノ宮地蔵奥の院の石地蔵  三芳町指定文化財

  • 直ぐ近くには彼岸花が咲いていた

    直ぐ近くには彼岸花が咲いていた

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