2002/05/19 - 2002/05/20
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ぶうちゃんさん
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この旅行は然る組織が主催するもので決して遊びの旅行では無いと一応記しておく。
写真は自然と観光ばかりが目に付くが研修中にカメラを回すことが出来ない事を強調する。
と、言い訳ばかりしても始まらない。しかし通常の旅行とは違い研修ならではのところに足を踏み入れる事ができ一寸毛色の変わった旅行じゃ無くて仕事をする事ができた。
台湾、シンガポール、タイの3カ国を一度に周りそれぞれの国を比較する事ができて有意義なものだった。公費での海外渡航はもう無いと思う。毛色変わった旅行に出発!
まずは最初の目的地台湾台北旅行記を記します。
日本の隣国と言うか正式に国家として認定されていない中華民国、台湾。
ご存知の通り日中戦争終了後国民党と共産党の戦闘が勃発。蒋介石率いる国民党は台湾に逃げ込む。アメリカの介入で中国共産党が海峡を渡ることは無かった。いまもその状態が続いている。つまり戦争継続中なのである。
訪問したのは台北だけだったが至るところに中国共産党に対する対抗意識、国意高揚を狙った様々なイベントやシンボル。
平和な雰囲気と共に共存する影の部分が印象に残った。
また広さは九州ほど西海岸と東海岸の差が物凄く大きい。北と南では首都台北のある北のほうが治安が良いとか。
台北市内は日本の文化があふれていて日本との違和感は無く妙な親近感が湧く。しかし朝夕の通勤ラッシュで見かけた原付の多さは閉口した。原付数十台の塊がひっきりなしに通過して行く。
士林の夜市に行ったがここも人々の活気あるパワーに圧倒されてしまった。
台湾公式ページ
http://www.roc-taiwan.or.jp/
国立故宮博物館
http://www.npm.gov.tw/japan/index_j.htm
私のHP
http://www.eonet.ne.jp/~maple2001/
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- シンガポール航空
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研修旅行に出発!
雨の中1週間に亘る東南アジア研修旅行に出発した。
前日、関空そばのホテルに集合。朝からの出発。あいにくの雨だった。 -
龍山寺
台湾で最初に立ち寄った観光地。そんなに広い境内でなく、お参りの人々でごった返し。お参りの人たちは菜箸のように長い線香を額まで何度か上下してお祈りをしていた。日本とは違って何かせっかちな印象を受けた。 -
大統領府
この日は大統領は不在との事でした。入り口の衛兵が「休め」の姿勢のときは不在で。「気を付け」のときは在席と教えられました。 -
中正記念堂
中正記念堂「蒋介石」を奉ってある。
大理石でできた物凄く立派で迫力のある建物。この記念堂周りは大統領官邸、国会議事堂など政府の立法、行政、軍事機関がある。日本で言えば皇居前と霞ヶ関の関係。ちなみに中国本土広州にも中正記念堂はある。中国本土にあるものは台湾にもある。それも中国本土より立派なものがある。大陸に対する対抗意識をこういう所で主張し国民に「我こそ真の中国なり」を浸透させている。 -
蒋介石が使用していた車。
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記念堂の天井。国民党のシンボルマークが描かれている。
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記念堂内部の蒋介石の像。この場所は神聖にして侵すことのできない台湾の聖地。写真には写っていないが像の両サイドには衛兵が警備についている。像には柵があり柵の中には入れない。私たちが見学しているとき、小さい女の子が柵を潜って像に駆け寄った瞬間「ドーン」と物凄い音がこだました。じっとしていた衛兵が銃床で床を叩いて警告を発した。みんなびっくりした。女の子は真っ青になって泣く事もできずその場にへたり込んでしまった。私服を着た軍人さんが女の子を抱きかかえて場外へ。今の日本には無い国家崇拝の規律の厳しさを思い知った気分だった。
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蒋介石(Jiang Jie shi)
1887.10.30〜1975.4.5。浙江省出身。
幼名瑞元。父親は塩商人。
1907年 来日。保定士官学校に入学、再度留学生として来日。高田の砲兵第19連隊に勤務した。また東京で革命同盟会に参加。
1911年 亥革命が起こると帰国し、杭州で清国軍と戦った。(1911年が台湾暦の元年)
1918年 蒋中正と名乗る。
1921年 大本営参謀総長。
1923年 夏ソビエトへ派遣される。帰国して黄埔士官学校を設立し、初代校長に就任。孫文が死去すると国民革命軍総司令官。
1926年 北伐を開始する。
1927年 上海で4・12クーデターを起こし、中国共産党を弾圧。武漢国民政府に対して南京国民政府を樹立する。宗美麗と結婚。
1928年 武漢・南京両政府の統合で総司令官に復帰。北伐を再開して軍閥を攻撃し、北京を占領する。
1931年 満洲事変勃発で、一旦停戦し対日妥協策を採って、共産党弾圧に乗り出す。
1936年 西安事件が起こると、抗日政策に変更を余儀なくされる。
1938年 国民党総裁。
1942年 連合軍中国戦区最高司令官として日本軍に対抗。共産党を攻撃した。
国際連合設立の一躍をになうも、戦争が終わると、共産党との本格的内戦に突入。総統として指揮を執るが敗北。
台湾に逃れ、在地の知識人を弾圧して台湾支配を強化する一方、米国の支援の元「大陸反攻」を企図する。
1971年 米中関係が改善。中華人民共和国が国連に加盟すると、国連を除名。
1975年 台北で死去。 -
中山記念堂から見渡したところ。
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忠烈士
辛亥革命以来の国民党軍殉職者を奉った施設。日本で言えば靖国神社に近い存在。 -
ここ忠烈士にも儀丈兵がいる。儀丈兵は立番中は絶対に動いてはいけない。暑かろうが寒かろうが不動の姿勢を貫く。表情も無表情。中山記念堂の所で記したが彼らが動く事が許されるのは立ち入り禁止区域に人が入ったときの威嚇をする時。聞いた話では実弾が装填されているとガイドさんは言っていたけど。この儀丈兵は誰でもなれるわけでは無く身長等の体格の基準や日ごろの成績が優秀な人しかなれないいわば選ばれた人たち。正確な時間は忘れたけど小1時間程の間隔で儀丈兵の交代を見ることが出来る。
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故宮博物館
故宮博物館の外観。中は撮影禁止。蒋介石が中国から台湾に逃れてきた際に北京の故宮(紫禁城)の物を持ち出した。だから中国本土の紫禁城よりこちらの故宮博物館の方にお宝品がある。ただ私のような凡人にはその値打ちの凄さは良くわからなかった。確かに凄いものが沢山あった。写真の像は「蒋介石」。下は故宮博物館の入場券。 -
故宮博物館の入場券。
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士林の清掃工場の煙突。煙突は展望台になっていてゆっくりとまわっている。台北の街並みを見ながら食事も出来る。
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台北の日本語看板。
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台北の日本語看板。
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台北の日本語看板。
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台北の日本語看板。
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台北では毎晩夜市が並ぶ。写真は士林の夜市。物凄い活気で撮影でころではない。故にこんなまの抜けた写真しか撮影できなかった。道路向こう側の商店の明かりの輝きで想像できるかな?
物凄さを表現すれば年末の「アメ横」、休日の「竹下通り」といったところ。その人の波に客引きの声が罵声のように飛び交っている。この後のバンコクの市場もそうだった。
この夜市では不法出店を取り締まっているらしく警察が来たという情報が口伝いに入るとそれまで蛇男のように路上で寝転んで歩けないふりをしていた物乞いが急に立ち上がってどこかに消えていった。他の露天商も1分ぐらいで荷物をまとめてどこかに消えていった。
日本では100円ショップが流行っているけどこちらでは1ドルショップが軒を連ねていた。 -
ベビースターラーメンの袋。ベビースターが模範生とはねえ〜。
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台湾のセブンイレブンのレシート。宝くじがついている。
わざわざ宝くじを買うわけではなくコンビニエンスストアーで買い物をするとレシートに自動的についてくる。観光客の場合、空港にレシートの回収箱があるのでそこにレシートを入れて出国するのがマナー。もしもあたりがその箱から出たら福祉団体に寄付をする事に。このレシートはハズレという事でお許しを。 -
台北市内には地下鉄が走っている。新しいだけあって綺麗で快適。台北、シンガポール、バンコクの地下鉄の乗車券は使いまわしのできるカード式。日本の鉄道になれた我々には一寸変わった感じの乗車券。カードのデザインは数種類ある。
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