2006/09/08 - 2006/09/08
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ぼすとんばっぐさん
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フランス歴代の国王が居住したアンボワーズ城。
フランス・ルネッサンスはこの城より花開いたと言われています。
そして、このお城を一層有名にしているのが敷地内にあるレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓。
現在、可愛らしい城下町が広がるこの観光地には、様々な歴史が詰まっていました。
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- 中国東方航空
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パリ・オステルリッツ駅から国鉄で約2時間(列車によっては2時間20分程かかることも)、相当古〜い‘CORAIL’に乗り、アンボワーズ駅に到着。駅はとても小さく、周辺は静かな一般住宅街でした。駅前にタクシー乗り場がありますが、台数は非常に少ないようです(アンボワーズ城付近にもタクシー乗り場有)。駅インフォメーションでお城の場所を尋ねると親切に地図(写真)をくれました。この地図を頼りに、閑静な住宅街をてくてく歩いていくとロワール川が出現。
★アンボワーズ国鉄駅からお城までは徒歩で20分弱(約1km)。駅を左に出てすぐ右に曲がり、rue Jules FERRYを真っ直ぐ進むとロワール川対岸にお城が見えてくる。道はとても簡単。
※別の旅行記《アクセス編》に交通のところだけまとめています。(ダラダラ長くなってますが)宜しければご覧下さい。 -
昨日日本を出発してから一睡もしておらず、このロワール川の景色を見てしばらくリフレッシュ。反対側にはアンボワーズ城全景が。
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お城へ行く前にちょっとアンボワーズ城の歴史をご紹介。
アンボワーズは、はるか昔ケルト人トゥロネス族の主要都市として栄えていました。この頃に築かれた要塞が後にアンボワーズ城となります。
1431年に領主ルイ・ダンボワーズがシャルル7世の寵臣に陰謀を企てた疑いをかけられ、死刑をまぬがれる代わりにアンボワーズ城を没収されます。以後、この城は王室のものに。最初は自由射手隊の居住施設として使われていました。
ルイ11世が産まれてくる息子シャルル8世の為にこの城を選び、王妃と共に移り住み、1470年にここでシャルル8世が誕生。成長して即位したシャルル8世は、ナポリの王位継承権を要求する為、イタリア遠征を開始。そしてその遠征の際に触れたルネッサンス芸術に刺激を受け、帰国後、自分の住居であるアンボワーズ城をイタリア様式に改築していきます。その後、ルイ12世、フランソワ1世、アンリ2世といった歴代の王達も、同様にイタリア遠征を繰り返し、ルネッサンスに触発され、各々城をイタリア様式に改増築。
アンリ3世以降、君主がアンボワーズに滞在することは稀になり、アンリ4世の時代には宮廷自体がイル=ド=フランス地方へと移る為、この城はブルボン王朝国王の宿泊施設としてのみ使用されることに。その為長期間放置されることもあり、また城の解体も計画的に数回に渡って行われ、取り壊しを免れたのは全体の5分の1。1821年にルイ・フィリップ王が母親からこの城を受け継ぐと、周辺の家屋を大量に壊して城壁だけ再び広げました。 -
〜アンボワーズのもう1つの歴史〜
アンボワーズはルネッサンスの発祥地という華やかな歴史を持つ一方で宗教対立による争いの勃発地とも云われています。旧教徒と新教徒の根深い対立の火蓋はここで切られ、The affair of the placardsを発端として新教徒弾圧事件、宗教戦争へと悪化していきました。
事の起こりは1534年。当時の国王フランソワ1世は新教徒の改革派に対して他国との政治的絡みから寛容な態度を取っていました。しかし、1534年10月17日の夜から翌日18日にかけて、パリ、オルレアン、ブロア、トゥール、ルーアン、アンボワーズの町に、新教徒により沢山のビラが貼られます。ビラの内容は「カトリック教皇の権威の濫用について」で痛烈にカトリックを批判したもの。このビラはアンボワーズ城のフランソワ1世の寝室の扉にも貼られていたと言われ、これらの行動に対して怒ったフランソワ1世は200〜300名の新教徒を捕らえ、異端として有罪を申し渡された多くの人が処刑されます。この事件から新旧教徒間の対立は決定的に深まる事に。
そしてフランソワ2世時代、アンボワーズ城で起きた1560年の新教徒弾圧事件。アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長男、フランソワ2世は、16歳という若さで新国王になりました。しかし、実権は、フランソワ2世の妻スコットランド女王メアリー・スチュアートの伯父、ギーズ家が握っていて、ギーズ家は新教徒の弾圧を支持していたので、新教徒たちはアンボワーズ城からフランソワ2世を奪取し、ギーズ家の影響を排除しようと企てます。しかし、この計画は失敗し、陰謀に加担した者たちは捕らえられて裁判にかけられ、広場で大量に処刑されます。リーダー格は「みせしめ」として城のバルコニーで絞首刑に。‘アンボワーズの陰謀’とも言われる大きな事件です。
それから2年後の1562年には、宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発。8回に渡り新旧教徒の争いが繰り返され、1572年8月24日サン=バルテルミーの虐殺で頂点を迎えます。単に宗教の対立のみではなく、政治権力要素も複雑に絡んでいた為、大きく膨れ上がりすぎてしまい、あまりにも酷い事件となりました。
《歴史についてはお城のパンフレットとHPから要約》
アンボワーズ城HP
http://www.chateau-amboise.com/anglais/index.htm -
えーと、歴史の前置き話が長々となってしまった。ロワール川を越えるとそこはもう城下町。写真左の坂道(木で隠れていますが)を登ってお城の入口へ。
★入場料:8ユーロ。日本語パンフレット有。 -
現在残っているお城の外観。当時の5分の1の大きさになるそうです。城は小さいが敷地は広い。
写真左がフランボワイヤン・ゴシック様式を取り入れた『シャルル8世翼』。
写真右がルネッサンス様式を取り入れ、後に増築された、『ルイ12世―フランソワ1世翼』。
『シャルル8世翼』(左)
シャルル8世よりイタリア遠征が始まります。贅を尽くしイタリア様式に改築されたこの城は、ロワール渓谷において初めてのイタリア様式建築となり、また、ルネッサンスの影響を受けて最初に建てられた城となります。建築様式は、後期ゴシック様式ですが、ここから代々君主の増改築によりルネッサンス様式へと移行していきます。シャルル8世は毎日ここで過ごしていました。この城に一番長く住んでいた人物です。
『ルイ12世―フランソワ1世翼』(右)
次の国王ルイ12世は『シャルル8世』翼に対して垂直にイタリア様式の建物を増築、この『ルイ12世』翼をフランソワ1世が改築をしてルネッサンス様式を取り入れていきました。(ルイ12世はブロア城をに住み、まだ幼い王位継承者フランソワ1世の為にアンボワーズ城を用意する。)ルネッサンス様式はフランソワ1世の時代に大々的に取り入れられ、まずロワール川地域に広がり(シャンボール城など)、そして、その波紋は更にフランス全土へ。 -
また、アンボワーズはフランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチが深い友情を結んだところ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチが没したところでもあります。フランソワ1世に招かれてレオナルドはこのアンボワーズ城に足を幾度となく運んでいます。お城の前にある茶色の物体は彼が発案した戦車の模型。ではお城の中へ。
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‘シャルル8世翼’にある『会議の間』。国王が会議を開いた部屋で、城内で最重要視され、ここで行われた会議は、現代の内閣の概念を先取りしたものと言われているそうです。この部屋には暖炉が2つあり、1つはゴシック様式、もう1つは完全なルネッサンス様式になります。また中央に並ぶ柱にはフランス王家の‘ユリの花の紋章’とブルターニュ家の‘白テンの紋章’が柱ごとに交互に彫刻されていました。
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柱のアップ。フランス王国の‘ユリの花の紋章’が彫刻されています。(柱本体に模様のように彫られている彫刻。)
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この『会議の間』の天井梁の下に飾られている彫刻。全て違うポーズで彫刻されていました。右側は‘ユリの花の紋章’が入ったステンドグラス。この窓からロワール川が見えます。
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『アンリ2世の寝室』。ベッドも素敵(複製)。椅子の彫刻には、ルネッサンス期に導入された‘トロンプ・ルイユ’と呼ばれる古典的な遠近法が見られます。
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『ルイ・フィリップの居室』。ルイ・フィリップはシャルル10世が退位させられた後(『栄光の3日間』)、民衆の人気によりフランス国民の王として王座につきます。『7月王政』で有名ですね。
この居室は当時の流行に合わせて装飾をされているそうですが、真っ赤っ赤...。落ち着けるのだろうか。写真右の肖像画はルイ・フィリップの母で、ルイ14世の曾孫に当たります。この母がアンボワーズ城の相続人となり、息子へと受け継がれました。写真右端のお姉さんはここの係りの人。シャッター瞬間に横入り。ありゃ...と思っていると「室内は写真撮影禁止です」。え〜、すんません〜!!ということで室内写真はここまで。建物が小規模なので見学出来る部屋数は少なかったです。 -
シャルル8世翼の天窓。フランボワイヤン・ゴシック様式。‘ピナクル’と呼ばれるすらりとした小尖塔がこの様式の特徴です。ルイ12世&フランソワ1世翼の天窓は全盛期のルネッサンス様式で丸みを帯びた‘ピラスター’と呼ばれる付柱が窓に飾られています。
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アンボワーズ城よりロワール川を見下ろす。要塞だったことを思わせる風貌。お城から円形にせり出ているのは、シャルル8世時代に建築が始まったミニームの塔。塔のてっぺんはロワール川から約40mの高さになるのだそう。
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ミニームの塔のアップ。この塔の中には螺旋傾斜スロープがあり、城の下から騎馬隊が馬に乗ったまま、このスロープを使って高台の城テラスまで上がることが出来たそうです。現在、塔の中は残念ながら公開されていません。
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お城や修道院など、あちこちの建築物についている‘ガーゴイル’。魔除けの役目を果たし(日本で言うと鬼瓦?)、また大雨の日は雨樋の役割を果たすそうです。怪獣の口から水がシャーっと流れて建物を守るそう。
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『サン・テュベール礼拝堂』
ルイ11世が建てた礼拝堂を、シャルル8世がフランボワイヤン・ゴシック様式へと改築。サン・テュベールとは猟師の守護聖人。君主が私的にお祈りする為に建てられました。
そして、現在ここには...、 -
・・レオナルド・ダ・ヴィンチの遺骨が眠っています。
礼拝堂の中にはレリーフが取り付けられたレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓があります。(なんと私は帰ってから知りました。一応中も覗きましたが大した事はないと思い、写真はありません。え〜ん。)もともと、レオナルドの遺骨は、彼の遺言により敷地内の別の教会サン・フロランタン参事教会に埋葬されていたのですが、19世紀にこの教会が取り壊された為、遺骨は掘り出されてこの礼拝堂に埋葬されたと、公式パンフレット&HPには記載されています。サン・フロランタン参事教会の跡には現在、レオナルドの胸像が建てられているそうです。(これも見てないのよね〜。) -
入口の上の彫刻はシャルル8世と妃アンヌ・ド・ブルターニュの祈りの場面。この二人の政略結婚により、敵対していたフランス王国とブルターニュが初めて結びつきます(ブルターニュ併合は1532年)。シャルル8世の死後(28歳で扉に頭をぶつけて死亡。なんと、本当なのか)、妃は旦那の従兄弟にあたる新国王ルイ12世とまたしても政略結婚で再婚することに。凄い時代だ。
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アンボワーズ城から町並みを見学。絵本に出てきそうで可愛いな〜☆明るい郊外の町という感じでとても気に入りました。1泊したかった―。
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来る途中ブロアの町も同様に白とグレーの可愛らしい町並みがありました。ロワール川周辺にはこういう町が多いのかな。
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写真右にある円形の塔はウールトー塔。
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ウールトー塔の下にある門。
数回に渡り解体され縮小したお城の敷地を広げるため、ルイ・フィリップ(1830〜1848治世)は、当時城の周囲にあった46の家屋を手に入れ、それを取り壊して現在に至る城壁をよみがえらせたらしい。46といったら相当な数!無茶しはる...。 -
お城の見学を終え、城下町へ。ロワール川沿いに少し歩くとインフォメーションがあり、ここで路線バスの時刻表や観光資料が手に入ります。道路を挟んで反対側にはタクシー乗り場があります。
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この後行くシュノンソーからアンボワーズへタクシーで戻る最中にドライバーから聞いたお話。
「昨日、ミック・ジャガーを自転車と一緒に乗せたんだよ」「え―っっ!!本当ですか?アンボワーズに遊びに来ているの?」「ほれ、(といってミック・ジャガーの航空券のコピー裏のサインを見せる)サインもらったよ。今日はアンボワーズから少し離れたところを自転車で周ると言ってたよ。彼はアンボワーズに何度も来るそうだよ。」ドライバーの話によると頭にタオルを巻いてチャリチャリ自転車をこいで観光しているらしい。そうか、ここではサティスファクションなんだ、とベタな発想をしながらミーハー魂が踊りまくりました〜♪ -
アンボワーズは全体の景観に気を配り、程良く町が作り上げられている感じが楽しい。この後に行くシュノンソーと比べると、シュノンソーはのんびりした田舎町、アンボワーズは観光地らしい活気のある町という感じ。活気あるといっても、のんびりさを伴う、程良くさわやかな活気。この‘程良さ’が何とも言えない心地よさを招いてくれました。もっと町並みを見学したかったけれど時間がないので断念。
次はレオナルド・ダ・ヴィンチ最後の家、「クロ・リュセ」へ。
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