2010/10/23 - 2010/10/23
1869位(同エリア11998件中)
熱帯魚さん
北外灘散歩から戻ってきて地図を見ていたら、その日の
散歩場所の先に提籃橋監獄とユダヤ人難民記念館という
歴史建築があることがわかりました。
調べてみたところ、その一帯は以前ユダヤ人居住区だった場所。
ちょうどハルビンでユダヤ人居住区の歴史建築散歩をしたばかり
だったので、上海のユダヤ人居住区も見に行ってみよう!と
提籃橋に散歩に出かけました。
実は日本とかなり深いつながりのあったユダヤ人居住区。
そもそも日本が「無国籍難民限定居住区」を共同租界に設置し、
ドイツやオーストリアからユダヤ難民を受け入れた、
ということを知りました。
★★ 旧ユダヤ人居住区散歩記 10月23日 ★★
旧ユダヤ人居住区1★多くの難民を救った日本人の存在を知った「ユダヤ人難民記念館」
http://4travel.jp/traveler/blue_tropical_fish/album/10544456/
旧ユダヤ人居住区2★上海のウィーンともたとえられた町並みを歩く
http://4travel.jp/traveler/blue_tropical_fish/album/10544984/
★★ 上海の旧ユダヤ人居住区 ★★
1933年から1941年にかけて、上海は3万人近くのユダヤ難民を受け入れました。虹口区の提籃橋地区の「無国籍難民限定居住区」には、かつて2万人近いユダヤ難民が暮らしていたといいます。ユダヤ難民はこの地で、現地の中国人らとうまくかかわりながら、暮らしていました。ユダヤ人は、理髪店、靴帽子屋、衣料品店、パン屋のほか、バー、ルーフトップガーデンなどの娯楽施設を開設しました。舟山路には、小型商店や小物を売る屋台などがずらりと並び、上海の新聞が「ミニウイーン」と呼ぶほどに異国情緒漂う町並みだったそうです。戦後ユダヤ難民は次々と上海を去りましたが、提籃橋(舟山路、霍山路およびその周辺)には今も、ユダヤ人居住区だった建物が当時に近い形で保存されています。
(以上、中国語の資料より編集・翻訳しました。建物の説明についても、中国語の資料を参考にしていますので、日本語がおかしい場所があるかもしれません)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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地下鉄4号線「大連路」駅から町歩きスタート。
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大連路駅を出て、長陽路の方向へ進みます。
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味のある民家。
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長陽路を歩き始め、保定路の交差点まで来ました。
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早速その交差点で歴史建築を発見。
○ 匯山電話交換所(現:中国電信北外灘局)
所在地:長陽路244号
米国商上海電話公司が1911年8月から1912年3月26日にかけて開設した電話交換所のひとつ。 -
以前も電話局として使われていましたが、現在も電話局(中国電信)として使われています。
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そしてその向かいにあったのは、こちら。
○ 巡捕医院(現:虹口区公共衛生大楼)
所在地:長陽路197号
上海公共租界では警察は「巡捕」と呼ばれていました。そのうち多数を占めていたのが、インド人と中国人の巡捕で、それぞれ印捕、華捕と呼ばれていました。彼らの治療、健康診断などを専門にしていたのが、巡捕医院です。歴史をたどると1924年からすでに上海公共租界工部局は巡捕らのための病院(印捕医院、華捕医院)を建設していました。土地の租借問題から、工部局は2病院を統合し、1929年より提籃橋監獄の隣にある、華徳路(現:長陽路)197号に上新しく巡捕医院を建設し始めました。
巡捕医院は1932年に竣工、1933年11月より使用が開始されました。初代院長は英国人でしたが、その後は米国人、イタリア人、ドイツ人、日本人が院長を務めました。印捕、華捕の病気やけが治療、健康診断を行っていたほか、公共租界各巡捕局と提籃橋監獄収容者の一部にも治療を行っていたそうです。
太平洋戦争が勃発すると、巡捕医院は日本人に移管され、上海特別市第一警察局隷属の警察医院と名前を変えました。戦後は国民政府に移管され、1945年9月には上海市警察局警察医院と名前を変えました。1949年の上海解放後は、上海市軍管会に明け渡され、上海市公安局警察医院となりました。2005年からは上海市虹口区衛生局及び虹口区疾病予防控制中心など関係団体の管理下におかれています。 -
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さらに歩いていくと…
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重々しい門がありました。こちら現在も監獄として使われている歴史建築です。
○ 工部局警務処監獄(現:提籃橋監獄)
所在地:長陽路147号
1903年から1935年にかけて、上海公共租界工部局によって建てられた建築。華徳路(長陽路の旧名)監獄とも呼ばれました。長期間、英国の管理下におかれたため、「外国監獄」や「西牢」とも呼ばれていました。1903年5月18日、第一棟監楼が竣工し使用が開始され、それから立て続けに増築され、1935年までに敷地面積60ムール、10棟余りの規模となりました。周囲は5mの高さの壁に囲まれています。
提籃橋監獄はさまざまな時代背景により、多くの著名人を収容してきました。1945年から1948年にかけて、この場所は日本人戦犯を拘留、審判、処刑する場所でした。かつて100名余りの日本人戦犯が収容され、少なくとも13名が処刑されたそうです。 -
空気が重くて、大雨も降り始めてきました。
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長陽路と舟山路の交差点にある旧ユダヤ難民住居。
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○ 摩西会堂(現:上海ユダヤ難民記念館)
所在地:長陽路62号
1927年にユダヤ系ロシア人が共同出資して建てたユダヤ教会(シナゴーグ)。もともとは華徳路会堂と呼ばれていましたが、のちに摩西会堂と改名されました。第二次世界大戦中は、上海のユダヤ難民の宗教活動として使われ、上海最大のユダヤ人社団「上海ユダヤ宗教公会」が堂内に開設されました(1941年に別の場所に移設)。一時期ユダヤ青年組織が館内に創設されたこともありました。
戦後は虹口区神経病防治所として使われ、その後虹口人防部の管理下に置かれました。1階は教会が当時のまま再現され、もともとはユダヤ人学校として使われていた2階は虹口区民防工程管理所が使用しています。3階は中国人とユダヤ人の友好をテーマにした芸術作品の展示が行われており、別館の陳列館には当時のユダヤ難民の生活がパネル展示されています。 -
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雨脚が強くなってきました。
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ユダヤ難民にビザを発給し、多くの命を救った中国人外交官、何鳳山。彼に対する感謝状。
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1階はユダヤ教会(シナゴーグ)が当時に忠実に再現されています。
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ここはきっとユダヤ難民の心のよりどころだったのでしょう。
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2階へ登る階段。
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2階から1階のシナゴーグを見下ろしました。
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コンピューターもあり、当時のユダヤ難民について知ることが出来ます。
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窓から見える上海伝統建築の町並み。
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さらに3階へ。
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3階はユダヤ人と中国人の友好を示す、芸術作品の展示がありました。
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和平 PEACE by Jack Joel
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外衣 COAT by Lisa Rotenberg
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今度は陳列館へ。
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扉を開けると
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イチオシ
ろうそくと、1997年イスラエルのラビン首相がこの地を訪れた際に残したメッセージが書かれたボードがあらわれました。
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ユダヤ難民が上海にやってくるまでの経緯がパネル展示されています。
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左は中国在オーストリア総領事だった何鳳山。右が日本在リトアニアカウナス領事だった杉原千畝。
どちらも、迫害にあうユダヤ難民が亡命できるよう、ビザを発給した人物。 -
ユダヤ難民は虹口区外に出る際には、特別通行証が必要でした。その通行証の発給を行っていたのが、日本人長官合屋でした。パネル展示ではあまり良い表現がされていませんでしたが…
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猫発見。
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陳列室を出て、再び本館の方へ歩き、
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建物の横から外へ。
さらにユダヤ人居住区歴史散歩を続けます。
次の旅行記へ!
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