2010/01/01 - 2010/01/06
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akkiy363672さん
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「万里の長城」の次は「紫禁城」、明・清二代の王朝が政務をとった場所であり、1421年、明朝の第3代皇帝「永楽帝」の南京からの遷都以来、中国の政治の中心でありました。
元を北へ追い、北京遷都を果たした永楽帝から200年続いた明朝の後をついで、順治帝が北京入場を果たし、清朝の治世が始まります。康熙帝・乾隆帝などの名君を輩出しながら、近代を迎えた清は西欧列強によって侵食され、また国内的には西太后の圧制により屋台骨が揺らぎます。
西太后による光緒帝の監禁幽閉、その妃珍妃の井戸投げ入れ、そしてラストエンペラー溥儀の皇位剥奪と脱出劇…。
紫禁城見物は、中国近代史の舞台として、尽きることのない興味を抱かせてくれます。
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- JAL
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気温は下がるけれど雨は少ないから、積もるほどの雪はめったに降らない北京に、この日は40年ぶりという大雪が降りました。
ホテルの玄関前に出ると、周りはすっかり雪化粧でした。 -
北京の人は、降り続く雪の中でも、ほとんど傘をさしません。
気温が低いので、雪は溶けないのです。粉状で手ですくうとサラサラと指の間から毀れていきます。
頭や衣服の上に積もった雪も、溶けることなく、ポンポンと払うと落ちていきます。 -
紫禁城の南の正門「天安門」の近くで車を降り、城の塀伝いに雪の歩道を歩きました。
近く…で降りたはずなのですが、この塀、結構長いのです(苦笑)。
今回の旅で、中国の遺跡はひとつひとつがとても大きい(とにかく歩かなければならない)…ことを実感しました。 -
途中にあったこの門から入るのかなと思ったのですが、そのまま素通り…。
紫禁城の「通用門」といったところでしょうか。 -
歩道を、雪かき車がやってきました。
往復して除雪してくれるのですが、雪が薄くなったところは氷結してしまって、かえって滑るのですよね。 -
雪の向こうに、天安門が見えてきました。
天安門は、紫禁城の正門。楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行い、中華人民共和国の国章にもその姿が描かれるなど、中華人民共和国の象徴のひとつです。 -
道路を挟む向い側には、泣く子も黙る「全人代」が開催される、人民大会堂のシルエットです。
人民大会堂は、中華人民共和国の建国10周年を記念した建設事業である十大建築の一つで、ボランティアの手によって、1958年から1959年にかけてわずか10ヶ月で建造されました。
毎年3月、全国人民代表大会(全人代)と中国人民政治協商会議が、2週間から3週間の期間で行われます。
内部は、全人代や特別の行事がない限り見学することができます。 -
「天安門」です。ここでもさまざまな事件がありました。
1976年、天安門広場に捧げられた周恩来の死去を悼む献花の撤去に怒った民衆と軍や警察とが衝突した「四五天安門事件(第一次天安門事件(1976年4月5日)」 。
そして、1989年、民主化を求めるデモ隊と軍や警察との衝突で多数の死傷者を出した「六四天安門事件(第二次天安門事件(1989年6月4日)」は、近代中国が背負う十字架ですね。
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天安門入り口を警備する兵士。
写真を撮る章くんに、「ナンタラカンタラ〜(中国語)」と叫んでいました。
「男前に撮ってね」と言ってたのでしょうかね。 -
天安門をくぐると中山公園の広場が広がり、正面にまたまた赤レンガの城壁がそびえています。
この塀の中が、明・清朝の政務が執られていた「外朝・内朝」で、中央の入り口「午門」をくぐって入ります。
現在は、この午門が故宮博物院の受付となっています。
午門の3つの入り口のうち、中央は皇帝しか出入りできませんでした。右側が皇后の出入り口…、ただ皇后は一生に一度だけ中央の入り口が入ることができました。結婚式の当日です。
家臣や一般人は、左の出入り口から出入りしたそうです。 -
章くん、中央の入り口を通って午門をくぐると、外朝の入り口「大和門」が見えます。
明代には、ここで「御門聴政(ぎょもんちょうせい)」が行われました。
← 大和門を背に、この日の僕のいでたちです。
傘を差しているのは、僕ぐらいのものですね。 -
大和門の手前に、石造りの橋が架かっています。
場内を流れる小さな水路「金水河」にかかる「内金水橋」です。
細工の美しい小さな橋なのですが、この日の雪で石橋が凍ってしまい、わずかなふくらみが滑ります。
みんな、欄干につかまり、ソロリソロリと越えていました。 -
大和門の額と装飾。
柱や梁は極彩色に色塗られ、屋根は皇帝にしか許されなかった、黄金色の瑠璃瓦で葺かれています。
紫禁城は、昨年の北京オリンピックに合わせて、近年、修復されました。
城内のほとんどの建物は色新しくなり、黄金の屋根瓦が輝く様は見事です。(今日は、雪のためかわらの輝きは堪能できませんでしたが…。)
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大和門をくぐります。正面に、紫禁城の正殿「大和殿」が見えています。
紫禁城の名前について…。
紫禁城の「紫」は、北天の星座である三垣(太微垣、紫微垣、天市垣)の中央に位置する紫微垣」(しびえん)に由来します。
紫微垣とは、北極星とそれをとり巻く大熊、小熊、龍、カシオペィヤ、ケフエウスなど百七十余の星からなる星群の名で、位置が移動しないことから、天の中心で天帝の住む所とされていまた。
明の太祖は、皇帝が天帝の子であるとし、南京に築いた居城を天帝の居城になぞらえて、「紫禁城」「紫宮」と称したのです。禁城とは禁じられた城、すなわち一般の人の出入りが禁止された聖域という意味です。 -
大和殿。朝廷の公式行事や重要な政務が行われたところです。
映画ラストエンペラーが撮影された場所ですね。 -
紫禁城の敷地は、東西約750m、南北約960mに及びます。高さ約10mの城壁と幅約50mの濠に囲まれ、この中には多くの宮殿があります(部屋数は合計9千以上あるとか)。
この大和殿は、その紫禁城の中心です。 -
珍しい、踊り場のある石段です。
雪が凍って、今日はツルツル滑ります。 -
イギリスの中国学者で、清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンストンの著書『紫禁城の黄昏』を読むと、日本が溥儀に乞われて保護し、満洲建国を支援したいきさつがよく解ります。
当時の清国や中華民国内、皇帝周辺の情勢を記した第一級史料であり、満州は日本の侵略ではないことが実証するために、東京裁判では弁護側資料として提出されたものの、ウィリアム・F・ウエップ(オーストラリア連邦派遣)裁判長はこれを却下し、裁判資料とはされませんでした。 -
大和殿、正面です。
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紫禁城を警護する兵士。
中国の兵隊さんはさすが…。服の上に雪が積もっても、微動だにしません。
振り払ったり、手に息を吹きかけたりしている、日本の警察官とは、入っている筋金が違いますね(笑)! -
紫禁城の中心…、すなわち中華世界の中心です。
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日本とは、足利義満の対明貿易(勘合符貿易)の頃から、600余年に渡ってお付き合いのある大和殿ですね。
明への使節も、この舎殿の中に踏み入って、明の皇帝に拝謁したのでしょう。
章くんたちのツアーは、建物の中には全然入らずに通り過ぎてきました。時間がなかったのかもしれませんが、「玉座は見れないの?」と聞いた章くんに、ガイドの陳さんは「無理なんです」といいます。
もう見ることはできなくなったのかと思って、それ以上は言いませんでしたが、後日にガイドブックなどを見ると、内部を見ることは十分に可能だったようです。
『HIS』、質の高いツアーを心がけましょう! -
先年、修復工事が施され、外装・内装ともに新しく、色鮮やかです。
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紫禁城の殿舎は、数度にわたって消失していて、現在あるものは1695年(清の康熙帝34年)に再建されたものです。
城内のあちこちには、このような水がめが置かれていたということですが、中国最大の木造建築物を火事から守るには、いかにも小さすぎますかね。 -
大和殿の後ろにある「中和殿」。
大和殿の行事などに出る皇帝の、一服所だったようです。 -
内朝(皇帝の私生活スペース)へと向かう途中、東側の建物。 皇極殿かな…?
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内朝は、ただ東側の塀に沿って通り過ぎるだけの見学でした。
外朝も、大和殿の中へは入らずに、玉座などを間近で見ることができなかったのは残念…! -
途中にあった門から、内朝の中に入っていって、写真だけ撮ってきました。
乾清宮(皇帝の寝室や執務室として使用)でしょうか、坤寧宮(明の時代に皇后の寝室として使用されていたもの)でしょうか?
清朝というとアヘン戦争や日清戦争などでの敗戦国というイメージが強いですが、康熙帝、雍正帝、乾隆帝が統治した1654〜1796年(日本では江戸時代)ごろの清は、中国史上最大の版図を誇り、世界最大の国民総生産を挙げる、世界最高の文明国だったのです。 -
紫禁城最北部の御花園におかれている「太湖石」。
さすがは皇帝の居城紫禁城…、今まで見たどこの太湖石よりも、大きく立派なものでした。 -
右手が、紫禁城の北門「神武門」。
ガイドの陳さんが言うように、中国の名所はとても大きいですね。この紫禁城も、いろいろな建物や部屋の様子を見ようと思ったら、1日をかけても難しい。
それを、わずか2時間ほどで見ようというのですから、細部までは無理だというのも解りますね。
是非また、フリーで出かけてくることにしましょう。 -
神武門をくぐると、紫禁城の北に広がる景山公園の景山にそびえる「万春亭」が見えました。
景山は人工の築山。その頂上にある万春亭から見下ろす紫禁城は、大小の殿舎の屋根瓦が金色に輝き、その向こうに広がる北京市内を見下ろすことができるとのことです。
この日は大雪で、僕たちは山に登りませんでした。 -
北京は遠く、春秋戦国時代には、燕(えん 紀元前1100年ごろ - 紀元前222年)の首都で、薊(けい)と称されていました。
北方民族の来襲を受ける位置でしたから、古代は中華民族は都をより南に定めていました。
1115年 - 1234年、中国北半分を支配した女真族の王朝「金」は、ここ北京を都としました(当時は「燕京」と呼びました)。当時から、この景山はあったとされていて、次の{元・明・清」と整備されてきたようです。
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お昼に「刀削麺」を食べに、レストランへ寄りました。
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刀削麺、小麦粉を水で練った生地の塊を持って(あるいは頭の上に乗せ)湯の沸いた鍋の前に立ち、くの字型に曲がった包丁を用いて生地を麺状に削り落として直接鍋の中に入れ、茹でて作ります。
曲がった包丁で削るため麺に薄いところと厚いところができ、それが独特の食感を生み出すのです。
ラーメンと同じようにスープに入れたり、あんや黒酢に絡めて食べますが、日本国内で日本人向けにアレンジされた刀削麺はラーメンのようなスープを用いることが多いようです。
現地では釜茹で麺に酸味の利いたトマトソースをかけたり、豚肉の脂身とニンニクの芽が入った肉あんをかけて食べることが多く、今日のもこれでした。
← 生地を同じ長さ、太さに削り、鍋に入れるのを素早く行うには高い技術が必要とされます。
僕の目の前で削ってくれたのですが、今日はちょっと調子が悪かったみたい(笑)。 -
食事のあと、「天檀公園」へ向いました。
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「天檀公園」は、明・清両王朝にわたって皇帝が五穀豊穣を天の神に祈った場所。今は公園として市民に開放されています。
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← 回廊です。
建物一式は、紫禁城を造営した明三代の皇帝永楽帝が築き、清の乾隆帝が現在の姿に改築しました。
1998年に文化遺産として登録されています。 -
点団公演の中心的な建物「祈年殿」。ここで皇帝は、五穀豊穣を天の神に祈りました。
北京には、故宮を中心として東西南北に、日檀・月檀・天檀・地檀と、それぞれの神に祈る聖地があります。
この天檀は「天帝」を祭るだけに最も規模が大きく、故宮の四倍もの広さの森林公園として整備されています。 -
この日はもうひとつ、先農壇の「中国古代建築博物館」なるところへ寄りました。
北京で最も精緻で華麗な藻井と言われたのは隆福寺の「藻井(ザオジン)」(宮殿の玉座の天井や、寺院の仏像の上を綺麗で精緻な飾り天井で装飾するもの)の原寸大復刻を展示しています。
館内には、他にも明・清代からの遺物という、彫刻品や焼き物などを多数展示していて、学芸員だと言うご婦人が説明してくれました。
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← 隆福寺の「藻井(ザオジン)」の原寸大復刻
ここで、今考えるにちょっと不可解なことが…。
奥まった一室、紫檀のガラスケースが4つほど並べられていて、それぞれに水晶やルビーの彫り物、大きな景徳鎮の焼き物、紫檀・黒檀の彫刻品など5〜6点がが納められているコーナーがありました。
係のご婦人は、一品一品、その由来や貴重さ、製造の難しさなどを説明し、最後に「博物館を再興するために、これらの貴重なモノを、ひとケース128万円でお売りしています」と言うのです。「もちろん、一品ずつ鑑定書をお付けしますし、ご自宅に品物が届いてから、お金はお支払いください」とも。
すでに買っていった日本人観光客も居ると聞いたし、一品平均20万円は安いんじゃないか、紫檀のガラスケースだけでも日本で作ったら50万円はするよなぁ…と章くんは直ぐに思う。でも、年末ジャンボ宝くじが当っていたらにしよう…と思いとどまった。
日本に帰ってから見たあるサイトに、「中国は、博物館までがウソをつく」という記事を見つけました。
あれは、それほどの価値はないものなのか…。ホントは、どうなんでしょうね? -
帰り道、道端に立つ、大きな城楼がありました。
そういえば、北京の近代化整備のために、町を取り囲んでいた明代の城壁を取り壊して除去したと聞きました。
近代化のためにはいたし方のないことなのかもしれませんが、残念なことです。
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