2026/10/17 - 2026/10/17
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にゃんこさん
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一度訪れてみたかった関ケ原古戦場跡を巡ってきました。
実際に武将達が陣を敷いた場所を歩いて巡ることで、陣同士の距離や、それぞれの場所からの見え方などを体感できました。
また偶然にも、アサギマダラが飛来しており、初めてその姿を見ることができました。
この日は、「関ケ原合戦祭り」も開催されており、多くの方で賑わっていて、外国人観光客もたくさんいて驚きました。
歴史についての記述は、私の記憶や理解があやふやな部分もありますので、間違いがありましたらご容赦くださいませ。
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関ケ原古戦場記念館にやってきました。
岐阜関ケ原古戦場記念館 美術館・博物館
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まずは、館内を見学します。
1階のエントランスホールです。 -
5階建ての建物で、まず1階の「グラウンド・ビジョン」で、床に映し出される映像を見ながら合戦について学びます。
続いて、シアターに行きます。このシアターがすごかった!
椅子に座って映像を見ますが、風と振動、音と光により、まるで自分が戦の中にいるような感覚になります。ストーリーも感動的でした。大谷吉継に思い入れがある私だけかもしれませんが、、、、、
ここは絶対におすすめスポットです。 -
5階の展望室にやってきました。
この記念館のある場所は家康が最後に陣を置いた場所に建っています。
ここから、各武将が陣を置いた場所を見渡すことができます。
写真真ん中にある旗の場所が黒田長政と竹中重門陣跡 -
島左近の陣跡のすぐ上には、笹尾山にある石田三成陣跡が見えます。
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多分、松尾山の小早川秀秋陣跡と思われます。
高みの見物で、家康が前進したことなどにより東軍に寝返ったとも言われています。
(諸説あります)
あの高い位置からだと、戦の全体像がよく見えますね。 -
展望室の床に全体像が描かれています。
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この日は「関ケ原合戦祭り」も開催されていて、色々なイベントがありました。
茶席もありました。
お抹茶とうぐいす餅です。なんと500円!
ありがたいお値段で、とてもおいしかったです。ごちそうさまでした。 -
戦国武将やお城がある市町村から様々なブースが出ていました。
こちらは甲冑体験ができるコーナー
敦賀市からは「大谷吉継公を大河ドラマの主人公に!」という署名活動もありました。
ぜひ見たいです。ラストシーンは涙なしでは見られなくなると思います。 -
では、古戦場跡を巡ります。
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田中吉政陣跡
伊吹山に逃亡中の石田三成を捕縛する大功をあげました。
田中吉政は三成と同じ近江出身だったため丁重に扱い、三成はそのお礼として、脇差「切刃貞宗」を授けたと伝わるそうです。
敵であったにもかかわらず、相手を尊重する気持ちは素晴らしいと思います。
現代に生きる私たちも見習うところがあると思うと、興味深いです。田中吉政陣跡 名所・史跡
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徳川家康最後の陣跡
今日は、イベントをやっているので、テントがあります。徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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床几場(しょうぎば)
合戦後、討ち取った相手方の首実検をした場所。 -
関ケ原にはこのような石碑が9つあるそうです。
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島津義弘の陣跡には、神明神社があります。
神明神社 寺・神社・教会
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島津義弘の陣跡
戦が始まっても動かなかった島津隊。三成の使者として訪れた家臣「八十島助左衛門」が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返す。その後三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候」と呼応しなかったとのこと。
関ケ原の戦は、大谷吉継、小早川秀秋、島津義弘だけではないけれど、昔も今も人の心は変わらないんだな、と人間模様が見えてきます。
島津義弘にいたっては、もし最初から三成が来ていたら、どうなっていたのかと思います。島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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こちらは島津義弘陣跡の石碑です。
薩摩から送ってもらったとか。 -
「敵中突破」が語り継がれていますが、逃げるためには、地形的に東軍を突破するルートを選ばざるをえなかったとも言われています。
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開戦地です。
関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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ここから三成の陣も見えています。
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小西行長陣跡
島津の陣も見えています。北天満山 小西行長陣跡 名所・史跡
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歩いているとコスモスがとてもきれいに咲いていました。
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秋の七草の一つ、フジバカマの蜜を求めてアサギマダラが飛来していました。
しかも沢山います!
生物系には、全く興味の無い私ですが、それでも「アサギマダラ」の名前だけは知っています。初めての出会いにちょっと感動。長距離を移動する蝶なので、出会えてラッキー。 -
アサギマダラが写真に収まっていないのが残念です。
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再びコスモス
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アサギマダラが見えるのは、「開戦地」と「島津義弘陣跡」の間ぐらいです。
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島左近の陣跡
島左近陣跡 名所・史跡
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島左近の陣跡から上ると、石田三成の陣跡があります。
石田三成陣跡 名所・史跡
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下に降りて再び、島左近と石田三成の陣跡をパチリ
島左近は、黒田長政・竹中重門の部隊から山側より鉄砲で奇襲攻撃を受け、負傷したといわれています。この出来事が「横槍」の語源になったという説もあるそうです。
『ブラタモリ』でも、この奇襲攻撃が紹介されていました。私の記憶では黒田長政が中心に取り上げられていたように思いますが、実は竹中重門も重要な役割を果たしていたようです。
竹中重門はこの地方の出身で、奇襲に利用した道にも詳しかったといわれています。西軍が先に陣を敷き、そのあと、黒田・竹中隊が陣を敷いているので、当初から山側から奇襲攻撃することを想定しての陣取りだったんでしょうね。すごいです。
では、なぜ黒田長政と竹中重門が協力関係にあったかというと、その背景には、父親の代からの縁がありました。
かつて黒田長政の父・黒田官兵衛が、荒木村重の謀反に際して信長から疑いをかけられた際、息子の松寿丸(のちの黒田長政)にも危険が及びました。
そのとき、竹中半兵衛(竹中重門の父)が松寿丸を密かにかくまい、信長には処刑したと報告したといわれています。
こうした逸話が伝わっていることから、黒田長政と竹中重門の間にも、何らかの縁や信頼関係があったのかもしれません。 -
決戦地です。
三成の首を狙い、激戦を繰り広げた地です。関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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この辺りの電柱には「武将物語」として豆知識が書かれています。
これを読みながら歩くのも楽しいです。
ところで石田三成の旗に描かれているものは実は家紋ではないようです。
「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」は旗印として使用されたそうです。意味は、「一(ひとり)が万(万民)のために、万がひとりのために尽くせば、天下の人々はみな吉(幸せ)になる」とのことです。
この意味を知ると、三成のイメージが少し変わってきます。 -
最後に東首塚です。
この地で多くの人達が戦い、家康率いる東軍が勝ち、その後長らく戦のない江戸時代が続いたことはよかったのですが、それでもこの関ケ原で多くの方が命を落としたことは悲しいことです。
今回はここまでです。
実際に歩いてまわることにより、それぞれの陣からどのように別の陣が見えたか知ることもできました。地図で見ると、もっと離れているのかと想像していましたが、想像以上に近くて驚きました。
今回の旅でさらに、行けなかった黒田長政、大谷吉継、小早川秀秋の陣も見たくなりました。
また訪れたいと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。東首塚 名所・史跡
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