2025/10/13 - 2025/10/13
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montsaintmichelさん
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後編はメインイベントの「十二単の着付けと王朝舞」と「神服殿 特別拝観」を中心にレポいたします。
摂社 三井神社の拝殿にある舞台で催された十二単の着付は、着付け作法そのものも高い芸術性を持つものであることを実感できました。また、豪華絢爛な十二単には、その衣服の1枚ごとに特別な意味が込められていることも学べました。
次に、王朝舞では、雅楽(管絃)が奏でるゆったりとした「越殿楽」の音の間に漂いながら、五感を擽る平安絵巻の世界にタイムスリップし、NHK大河ドラマ『光る君へ』で主人公 まひろが舞った「五節舞」に思いを馳せてみました。
神服殿の特別拝観では、「開けずの間」とそこに設えられた高貴な玉座に目を瞠り、何故、神服殿が天皇の避難所になったのか、その真相を紐解いてみました。
全体的に下鴨神社のA宮司さんの説明に肉付けした形でレポをまとめ、例によって「てんこ盛り」にしてみました。
下鴨神社のHPです。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
-
下鴨神社境内マップ
-
下鴨神社 西唐門(重文)
この唐門を潜った先にある摂社 三井神社の拝殿で十二単の着付けと王朝舞を堪能します。
この唐門は、欄間に葡萄棚の紋様が彫られていることから、別名「ぶどう門」とも呼ばれます。葡萄の意匠は、『記紀神話』において伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰る途中、投げ付けた髪飾りが野生のブドウ(エビカズラ)に変わって追手を退けたという神話に由来します。そのためこの門は、潜る人々をお祓い(魔除け)するという意味合いがあります。それ故、頭を垂れて門を潜ります。 -
下鴨神社 摂社 三井神社(重文)
西唐門を潜った右手奥(北側)に3棟並んで佇むのが三井神社 本殿です。
下鴨神社 本殿の西隣に鎮座し、ここには下鴨神社 本殿に祀られている神々の家族が祀られています。ご祭神は賀茂建角身命(祖神:中社)、伊賀古夜日賣命(祖神の妃:東社<右>)、賀茂玉依媛命(娘:西社<左>)です。因みにご祭神は、河合神社にある三井社と同じで、下鴨神社のご祭神2柱に母神である伊賀古夜日賣命が加わっています。
奈良時代初期(713年)に編纂が始まった『山城国風土記』の逸文には、前身となる「蓼倉里 三身社(たてくらのさと みみのやしろ)」の名が記されています。「蓼倉」とは、奈良~平安時代において、この一帯を指す古い地名でした。
名称が三身社から三井社へ転じた理由は「3柱の神様(三身:みみ)を祀る社」が長い年月の間に呼び易い言葉へ訛ったためとされます。同風土記には「三柱の神が身を坐すが故に、三身社と号す」と書かれていますが、その結びには、「今 漸く三井社(みついしゃ)と云ふ」と記され、年月と共に訛化したことが判ります。つまり、「三身(みみ)」→「みつい」との流れです。そして下鴨神社の境内には御手洗池など湧水や井戸(御井:みい)があることから、水信仰や井戸と「みつい」の音が結び付いて「三井」に定着したと考えられています。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿(重文)
本殿の南側にある舞台風の建物が拝殿です。壁のない吹き抜けの構造は舞殿を彷彿とさせ、実際に舞台として特別な儀式などに使用されています。桁行二間、梁間一間の平屋建で、屋根は曲線を描く入母屋造の檜皮葺、正面を妻側とする妻入で造営されています。江戸時代初期の1628(寛永5)年の式年遷宮の際に造営されたもので、1967(昭和42)年に重文に追加指定されました。
この拝殿の舞台で、後ほど紹介する十二単の着付けと王朝絵巻が繰り広げられます。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 末社 諏訪社・小杜社・白髭社
拝殿の奥(西端)には南北方向に諏訪社、小杜社、白髭社の3棟の三井神社の末社が連なります。
諏訪社は北側(画像の右奥)に位置し、ご祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。諏訪大社のご祭神として有名な力持ちで武勇に優れた神様です。国譲り神話では大国主神の息子として登場し、強力を宿すことから武運長久の神として崇められています。「勝負運」「開運」「諸産業の発展」のご利益で知られています。
小杜社は中央に位置し、古来「こもり」の響きから、子どもを守る社として親しまれてきました。ご祭神は水分神(みくまりのかみ)。本来は分水嶺に祀られ、生活や農耕に欠かせない水を司る神様です。全国の水分神社に共通しますが、古代の「みくまり(水配り)」という音が、「みこもり(御子守り)」→「こもり(子守)」へと訛化しました。その結果、本来の水神としての信仰に加え、「子授け」「安産」「子育て」の守護神としても篤く信仰されています。
白髭社は南側(画像の左端)に位置し、ご祭神は猿田彦神。天孫降臨の際、天の道案内をした「みちびきの神」です。白髪と白い髭を蓄えた長寿の姿で描かれることが多いため「白髭」の名があります。物事を良い方向へ導いてくれる神様として、「交通安全」「旅行安全」「厄除け」「延命長寿」の篤い信仰があります。
尚、歴代賀茂斎院斎王の神霊は、元々は当所の西方にあった賀茂斎院御所に祀られていましたが、文明の乱(1407年)により社殿が焼失。その後、糺の森の鴨社神宮寺境内に遷座していたものを、1921年に白髭社に合祀していました。現在は、第34回式年遷宮事業(2017年)により、賀茂斎院御歴代斎王神霊社が再興され、糺の森に戻られています。 -
下鴨神社 摂社 三井神社
中央にある棟門の左右には間口4間ある東西廊下(重文)が繋がっており、棟門と廊下が一体となって三井神社の聖域を囲む、格調高い屋敷構えをしています。
奈良時代に編纂された『山城国風土記』には、下鴨神社という名称が記されておらず、この三井社のみが記載されていることから、歴史学者の間では三井神社こそが後の下鴨神社の起源となった神社だとも考えられており、古代の賀茂氏の信仰を語る上で外せない神社です。
また、平安時代の『延喜式神名帳』(927年)では特に霊験あらたかとされる最高位の「名神大社」に指定され、朝廷からも篤く崇敬されていたことが判ります。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 棟門(重文)
名前は「棟門」と言いますが、建築様式では一間薬医門に分類され、屋根は切妻造の檜皮葺です。1628(寛永5)年の式年遷宮による再建です。
右端にある樹木が「擬雪」という名の白玉椿です。
1793(寛政5)年に光格天皇が下鴨神社に参拝した際、遺愛の白玉椿を奉納しました。花は中輪、半八重咲きで、花の色が雪を彷彿とさせるほど白いため「擬雪」と名付けられました。しかし残念ながら、長年の風雪で枯れてしまったそうです。この由緒を未来へ残すため、2015年の第34回式年遷宮の奉祝記念として、三井グループにより三井家へ下賜されていた同種の株が植栽奉納されました。これは単なる名前の偶然の一致ではなく、三井神社と旧三井財閥の間には江戸時代から続く結び付きがありました。三井家には下鴨神社および三井神社を氏神として崇敬してきた歴史があります。
一方、光格天皇と下鴨神社のつながりの発端は1788(天明8)年の天明の大火でした。御所(内裏)が焼失した際、天皇は夜半に輿での避難を余儀なくされました。その際、最初に避難先として身を寄せられたのが下鴨神社でした。
また、光格天皇は、衰退していた朝廷の権威を取り戻すため、中世以降に途絶えた宮中行事や国家儀式の復興に生涯を捧げた名君として知られています。その一環として、下鴨神社・上賀茂神社でかつて催行されていた賀茂臨時祭(勅祭)を復活させました。国家の安泰を願い、途絶えていた国家祭祀を自らの代で復興させるため、天皇自ら賀茂両社への熱心な崇敬と参拝(法楽和歌の奉納など)を重ねられました。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 棟門
この棟門の最大のインパクトは、門の手前から奥を覗き込んだ時の視覚的効果にあります。
正面に立つと長方形をした開口部の中央に拝殿が控え、その奥に3棟並んだ本殿が見通せるように軸線が整えられています。門そのものは詫び寂びを湛えた古式蒼然なものとし、その奥に潜む核心的な社殿をクローズアップさせる額縁効果を果たしています。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿(重文)
特別拝観などでは三井神社 拝殿の舞台で十二単を1枚ずつ着付ける作法を目の前で拝見できます。1枚重ねる毎に変化する色彩の妙と衣紋者(えもんじゃ:着付け師)の無駄のない所作と阿吽の呼吸そのものが伝統芸術として確立されています。着付けが仕上がるとその姿のまま、優雅を極めた王朝舞へ移行するという趣向です。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
葵祭で斎王代が身に纏う十二単(正式名称:五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも))の着付けは、単に衣服を着せるに留まらず、その前後の所作を含めた伝統的な儀礼です。現代の衣服とは異なり、紐は最終的に1本だけで結び、それ以前に使っていた下層の紐を引き抜ながら着重ねていく、手品を彷彿とさせる一連の着付け作法が特徴です。最終的には、腰部分の裳の紐1本だけで全ての衣服が締められます。何故こうするかと言えば、衣服の枚数毎に紐で結ぶと息苦しくて動けなくなるからです。
ここからは十二単の着付けの順番と作法を解説していきます。
まず、一番下に着るのが胸元を紐で締めた白い絹の長袖の小袖です。
その上から、緋色の丈の長い袴を穿いています。ここから観客の前で重ねの着付けが始められます。基本的には内側の長い服から外側の短い服へ順に重ねていきます。
①単(ひとえ):
最初に着る、最も丈が長く裏地のない絹の着物です。仕立てに吉野折などの工夫がなされており、この新緑を彷彿とさせる萌黄色が重ねの差し色になります。重ねの差し色とは、衣服を重ね着した際、同系色の並びの中に敢えて対照的な色を1枚挟み込むことで、全体の印象を引き締める配色技術です。今回の場合は、紅葉への移ろいから遠く外れた新緑の萌黄色ということです。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
②五衣(いつつぎぬ)
5枚の裏地のない絹の衣服を少しずつずらして重ねていき、1枚の重厚な上着のように羽織らせます。襟元や袖口、裾から見えるグラデーションや配色といった5色の袿(うちぎ)の重ねの色目が十二単の美しさの最大のポイントです。これらは襲の色目(かさねのいろめ)と呼ばれ、四季折々の自然(桜、紅葉、梅など)を表現します。葉のクロロフィル(緑色)が減少し、徐々にアントシアン(赤色)が増して紅葉が進んでいく過程を衣服の色目で再現しています。平安時代の女性たちは、こうした配色センスで教養(風流)や美意識を競い合いました。
因みに平安時代初~中期は、『紫式部日記』や『栄花物語』にあるように、衣を10~20枚も着重ねて豪華さを競い合ったそうです。例えば、藤原道長の娘 彰子(一条天皇の妃)が出産した折、お祝いに集まった侍女たちが袿を20枚前後も着重ねていたと記されています。あまりの重さに、自力で立ち上がれず、這うように移動したり、他人に支えられながら歩いたともあります。これを見た道長は、あまりの過熱ぶりに呆れ、着物の袖をめくり上げて枚数を数えさせました。そして、多過ぎる分の着物をハサミで切り落としたそうです。
このようにあまりにもエスカレートしたため、平安時代末期~鎌倉時代に5枚を正規の基準とする「五衣の制」が定まり、室町時代以降にそれが定着して「五衣」と呼ばれるようになりました。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
平安時代には十二単を「唐衣裳装束」や「女房装束」と呼んでいました。
因みに十二単という呼称は、『源平盛衰記』の記述を後世に誤解して広まった俗称です。壇ノ浦の戦いで入水する建礼門院の装束を「藤がさねの十二単の御衣を召されたり」と記しています。しかしこの「十二単」は、我々がイメージする「女房装束」を指すものではなく、「肌着の上に袿を12枚重ね着している状態」を意味しています。しかもこのケースでは、海へ身を投げた際、衣装の重みで海底へ沈むための覚悟を込めた「死に装束」でもありました。しかし、後世に「豪華な宮廷女性の重ね着スタイル=十二単」と勘違いされ、俗称として定着したそうです。
また、十二単という名称ですが、常に12枚を着重ねる訳ではないそうです。実際には10~12枚前後を着用しており、現代の皇室の儀式などでは袴を除けば10枚の構成です。語呂が良いため12という数字で表現したようです。このように重く、窮屈で肩が凝るものを正装として着用していた理由は、平安時代の平均気温は現代よりも1~2℃低く、通年のドレスコード(正装)に加え冬期には防寒対策の側面もあったようです。
では夏場をどう凌いだのでしょうか?
まず、素材の工夫です。風がよく通る生絹や薄くシースルーな紗や羅で涼しげな美しさを演出しました。
次に、目や耳から涼しさを取り入れました。 卯花(=白と緑)や青苔(=青と薄青)」など、視覚的に涼しげなコーディネートに切り替えました。また、部屋の近くに泉水を引いて風鈴を鳴らしたり、庭に氷室から切り出した氷の塊を置いて冷風を室内へ送り込みました。
最後に、プライベート空間での大胆な着崩しです。儀式以外は五衣の上に着るアウターを着ませんでした。また、 一番下に着る単と袴だけという、ラフな姿で寛ぐのも一般的でした。『枕草子』や『紫式部日記』にも、侍女たちがだらしなく着物をはだけたり、団扇で風を送って涼むリアルな描写があります。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
③打衣(うちぎぬ)
五衣の上に重ねる衣服です。かつて絹の生地を叩いて光沢を出したことからこの名があり、シルエットを美しく保ち、内側から独特の輝きを放つ役割をします。
平安時代には職人や女房たちが熱心に生地を叩いて作っていたそうです。夜静かに響く砧(きぬた)を打つ音は、秋の訪れを感じさせる風物詩として、和歌にも詠まれています。
「風の音に 添へてぞ聞ゆる 遠遠に 誰が衣打つ 砧なるらむ」
『新古今和歌集』(秋・下)俊成卿女
今回は、五衣の襲の色目(紅葉への移ろい)を強調するために、最初に重ねた単と同系色の黄緑色を差し色として採用しているのかもしれません。
④表着(うわぎ)
打衣の上に重ね、露出面積が最も広い、主役級の袿であり、最も豪華な織物で作られた上着です。独自の美しい紋様が織り込まれ、季節などに合わせて色柄が選ばれます。
また、表着は、その下の五衣の美しい襲の色目を見せるため、敢えて五衣よりも少し小さめに仕立てられています。このミリ単位のサイズ調節により、襟元や袖口から虹のように折重なり合った色目がチラリとのぞく「平安の美」が完成します。
チラリズムが平安の昔からあったとは吃驚です! -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
⑤裳(も)
表着の腰に結び付ける白く長い布地です。現代のドレスの引き裾のように、長い尾のように引きずって歩きます。後ろに垂らす裳身(もづく)は1枚の布ではなく、細長い布を8~10枚ほど横に縫い合わせたもので、プリーツのように折りたたまれています。
平安時代の宮廷では裳を後ろに引いて歩くことが大人の高貴な女性のドレスコードでした。平安時代の女子は12~14歳の頃に成人式である裳着(もぎ)の儀式を行いましたが、そこで初めてこの裳を腰に結んで大人の女性の仲間入りをしました。
⑥唐衣(からぎぬ)
最後に羽織る、背丈の短い格調高い上着です。前面を合わせずにだらりと垂らすように羽織ります。裳と合わせて着用することで宮廷における成人女性の最高正装(第一礼装)が完成します。尚、「唐」は中国由来ということではなく、平安時代において「唐」は「最高級の」「非常に豪華な」「格調高い」というニュアンスを持つ褒め言葉でした 。
また、唐衣は着用する女性の身分や夫の地位、年齢が判るようになっていました。皇后や皇太子妃などの最高位の唐衣には、地模様の上に更に別の高級な糸で別の模様を浮き上がらせて織る、二重織物が許されていました。更には、身分により着けてはならない色が決められていました。例えば、鮮やかな深赤や青みのある紫などは最高位の女性しか着られず、一般の女房たちは許された色の中から選ぶしかありませんでした。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
着付けを行う人を衣紋者(えもんじゃ)と呼びます。往時は天皇や貴族の前で腰を高く上げて立つことを無礼としたため、衣紋者は、終始膝をついた姿勢のまま、一切無駄のない流麗な動きで手際よく着付けていきます。この衣紋者の挙動自体もひとつの芸術の域に昇華しています。
最後に髪を唐の髪(からのかみ)や大垂髪(おすべらかし)に整え、手に華麗な檜扇を持たせれば、平安成人女性の正装が完成し、そのまま雅な王朝舞へ移行します。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
今回披露された十二単には、国宝『源氏物語絵巻』の復元模写を基に新調された装束が使われており、その主役である五衣の襲の色目は、紅葉が徐々に色づく移ろいを表したグラデーションとなっています。これは、下鴨神社の象徴である糺の森の木々が紅葉する秋の情景を切り取った平安絵巻の雅な色目と言えます。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
下鴨神社で奉納される王朝舞は、平安時代の宮廷文化を今に伝える優雅な舞踊であり、次のような特徴があります。
最大の特徴は舞手が平安貴族の正装である十二単を身に纏い、瀟洒な三井神社 拝殿の上で舞う点です。
今でも十二単は総重量が10kg程あり、平安時代には20kgを超えていたそうです。動くのも難儀で重厚な装束ですが、その重み故にゆっくりとしたしなやかな動作が自然に生まれ、独特の平安王朝の雅を醸します。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
もうひとつ特徴的なのは髪飾りと檜扇です。
頭髪に日陰の糸と呼ばれる白い絹の飾り紐を垂らし、金銅製の梅の飾り(心葉:こころば)を付けます。その起源は日陰蔓というシダ植物の蔓を頭に巻きつけて垂らしたものです。『古事記』に記された、天照大御神が天の岩戸に隠れて世界が暗闇になった際、天宇受売命が日陰蔓を体に纏って神がかりの踊りを舞ったとの故事に因みます。
そして松と梅の絵柄が描かれた檜扇を手に持ち、雅楽の和琴や笛の音色に合わせてスローモーションのような動作で優雅に舞います。女性用の檜扇には華やかな装飾が施されています。まず、39枚もの柾目の檜檜の薄板(橋)を重ね、下部を要で留めています。次に、扇の表面には、胡粉や金泥、緑青などの鮮やかな絵の具を使い、松や梅などの吉祥文様が手描きされています。最後に、最も目を引く特徴が、両端から垂れ下がる6色の長い飾り紐(錺糸)です。紐の結び目には蜷結びという伝統技法が使われています。平安時代、美しい色彩や紐を結ぶことには、邪気や悪霊を追い払う魔除けの力があると信じられていました。
因みに平安時代初期には、檜扇は「カンペ」として使われていたそうです。紙が超高級品だった時代、木に宮中行事のスケジュールや作法を書き留めて持ち歩いたのが始まりです。それが女性の手に渡ると、「男性に顔を見られないようにするための目隠し」として発展し、そのために扇の装飾が美術品のように進化していったようです。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
下鴨神社の王朝舞は、糺の森の樹木の葉が擦れる音をBGMに、雅楽(管絃)が奏でる「越殿楽」に合わせ、摺り足を中心とした緩やかでゆったりとした動きで構成されています。
視覚的には十二単の色彩の重なりを色々な角度や姿勢から愛でる究極の静の芸術と言えます。目の前で繰り広げられる五感を擽る王朝舞は、まるで平安絵巻の世界にタイムスリップしたかのような感覚に浸れます。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
王朝舞は、平安時代の宮廷の優雅な身のこなしや舞楽・御神楽の伝統をベースに、現代風に復元されたものだそうです。ベースとなったのは、奈良時代に唐や高麗から伝わった舞楽や雅楽です。
701年の大宝律令により、宮廷に雅楽寮(うたづかさ)という役所が置かれ、天皇の儀式や特別な宴会で舞を奉納する仕組みが作られました。9世紀の仁明天皇時代に平安の楽制改革が行われ、大陸から伝わった多様な舞を左方(中国系:赤の装束)と右方(朝鮮系:緑の装束)に整理し、日本独自の優雅なスタイルへとブラシュアップさせました。仁明天皇は、舞楽をこよなく愛し過ぎたあまり、自ら雅楽を作曲したり、新しい舞のステップの考案まで行ったと伝えます。また、天女が袖を5回翻して舞った伝説に基づく五節舞(ごせちのまい)など、日本神話や情緒を取り入れた舞がこの時代に宮廷の主役となりました。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
五節舞は、伝統的な宮廷音楽である雅楽において、歴史上「唯一の女性による舞(女舞:おんなまい)」として重要な位置を占める舞踊です。と言うのは、宮廷芸能(雅楽・国風歌舞)では男性だけが舞うのを原則としており、唯一例外的に認められた舞だったからです。この舞は、大嘗祭や新嘗祭といった国家の農耕祭祀の席において、五穀豊穣を祝って神様に奉納されてきました。2014年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で主人公 まひろが舞ったことで話題になった舞踊です。まひろと藤原道長の関係が激変する、運命のターニングポイントの演出に用いられていました。
天武天皇(7世紀後半)が吉野の宮で琴を弾いていた時、天女が天空から舞い降りてきて、衣の袖を5回翻して(振って)舞ったという神秘的かつ幻想的な伝説を起源とします。この「5回袖を振った」ことから「五節」の名が付けられ、五穀豊穣を祈る田舞の系譜も引き継いだものとされます。宗教的な意味合いが強かったため、天女の再現として未婚の女性が舞うことが正当化されました。平安時代の宮中では、この舞を踊る舞姫に選ばれることは貴族の娘たちにとり最高の名誉だったそうです。
一方、貴族にとり、娘を天皇や最高権力者の目に留まらせることは一族の繁栄を左右する一大イベントでした。人前に出ないはずの美女たちが一堂に会して美を競う、いわば宮廷の公式ミスコン的存在だったようです。 -
下鴨神社 摂社 三井神社 拝殿
『源氏物語』の「紅葉賀」の巻には光源氏が美しい舞を披露して人々を感動させるシーンが描かれています。朱雀院の50歳のお祝いの席で、当時20歳の光源氏と親友でありライバルでもある頭中将が、紅葉が美しく舞散る庭園で、天皇に捧げる「青海波(せいがいは)」という舞を踊るシーンです。この時に、桐壺帝があまりの美しさと優雅さに感動して涙を流すという描写です。このエピソードにより「青海波=極上の美の象徴」というイメージが定着したそうです。
宮廷や平安貴族たちにとり必須の教養・嗜みとして広く舞われていたようです。 -
下鴨神社 西唐門
平安貴族になった気持ちのまま唐門を潜ったその刹那、現実へと引き戻されます。 -
下鴨神社 神服殿
神服殿が最初に建てられた年代は不詳ですが、文献や神社の歴史から、遅くとも平安時代末期には建っていたと考えられています。尚、現在の建物は1629(寛永6)年に実施された大規模な造営の際に再建されたものです。
元々神服殿は、神様の衣服(夏と冬の御神服)を奉製するための御殿であり、賀茂玉依媛命には十二単、賀茂建角身命には束帯が御神服として奉られていました。しかし朝廷との関係が深まるにつれ、緊急時の仮御所や勅使殿の役割も担うようになりました。因みに勅使殿とは、葵祭などで朝廷から派遣された勅使が滞在する場所です。
神服殿の内部には、天皇陛下がご行幸された際、御座所となる「開けずの間(玉座の間)」と呼ばれる一室があります。そこには玉座(木製の椅子2脚)が設えられており、天井は折上二重格天井という最上級の格式になっています。
通常、神服殿の内部や玉座は非公開ですが、特別拝観などの機会には神職の案内のもとで開けずの間と玉座を拝見できます。ただし、撮影は厳禁です。 -
下鴨神社 神服殿
天皇の避難場所に選ばれたのは、単に御所の近隣と言う地の利だけではなく、宮廷の危機管理上の不文律として、あらかじめ避難所に定められていたからです。
平安京遷都以来、朝廷は下鴨神社を都を守る最重要神社として崇敬しました。このように皇室との結び付きが強いことから、御所に有事があれば下鴨神社に身を寄せるというのは朝廷にとり自然な発想でした。
それ故、御所が火災などに見舞われた際、孝明天皇の避難先として神服殿が使用されたようです。そうした経緯で、1854(安政元)年4月6日の夜、御所が炎に包まれた際、迷うことなく下鴨神社が避難場所になったのです。
因みに、下鴨神社への緊急避難が適用されたのは孝明天皇が初めてではありません。1789(寛政元)年の天明の大火の際にも、光格天皇が下鴨神社へ緊急避難されたそうです。
避難先に定められた最大の理由は安全性でした。往時の京都の火災は賀茂川の西側で広がることがほとんどでした。そのため、川を渡った先にある下鴨神社は火の手が及び難い安全地帯でした。更には、下鴨神社は広大な糺の森に囲まれており、周囲の火災から物理的に隔離された防火シェルターだったことです。 -
下鴨神社 神服殿
神服殿や開けずの間が持つ避難先に相応しい条件については、安全性以外にも寝食や執務を可能にする空間設計と高い隠匿性という両面もありました。
境内の他の建物(細殿や回廊など)は、細長く奥行きが浅く、儀式や通路としての役割が中心です。しかし、神服殿は桁行5間(約11m)、梁間4間(約9m)と寝殿造の名残のある長方形をしています。元々神様の衣服(御神服)を広げて奉製・仕立てるための場所であり、中に遮るものが少なく、潤沢な空間が確保されていました。この構造ゆえ、天皇が避難して数ヶ月間滞在することになっても、衣服の着替えや寝食、執務をこなすための仮御所として機能したのです。
また、神服殿の内部には、神職すら立ち入れない「開けずの間」という一室があり、ここに天皇・皇后両陛下の玉座が設えられています。この部屋は、外から様子が窺えない高いプライバシーとセキュリティを兼ね備えた隠し部屋構造になっています。
更には、建物を覆う檜皮葺の入母屋屋根は、軒が深く、建物の周囲に日陰を作る構造になっています。この深い軒は、雨風が建物内部に吹き込むのを防ぐだけでなく、外を歩く群衆や敵の目から室内の様子を見え難くする目隠しの役目も果たしていました。建築自体も堅牢に造られており、周囲を遮る糺の森の物理的な結界と相俟って、避難するのに相応しい居住空間でした。 -
下鴨神社 神服殿
1854(安政元)年4月6日の夜、京都の街を焼き尽くす御所(内裏)炎上が発生しました。この時、孝明天皇は、女官と子どもを最優先に非難させ、近臣たちにはその護衛を務めさせました。そして全員の避難を確認した後、三種の神器を自ら抱え、警護もほとんど付けずに普段着のまま、格式の低い板輿(一部は徒歩)で下鴨神社へ避難されました。這う這うの体で神社に到着した天皇は、そのまま神服殿へ入られました。
しかし、緊急避難であり、まともな食事の用意などありませんでした。そこで、神職や駆けつけた近臣たちがとりあえずの食事として用意したのが「握り飯」でした。高貴な天皇が、宮廷料理ではなく、握り飯を手で持って頬張らざるを得なかったのですが、天皇は「温かいご飯はかくも美味なるものか」と感激されたそうです。何故なら、御所では毒見などにより時間が経ち、ご飯が冷めてしまうからです。この逸話は火災の凄まじさと緊迫した状況をリアルに物語るエピソードとして歴代天皇家や下鴨神社で語り継がれているそうです。 -
下鴨神社 神服殿 開けずの間(玉座)
1994(平成6)年、現 上皇ご夫妻(往時は天皇・皇后両陛下)は下鴨神社を公式参拝されました。神服殿「開けずの間」の向かって左側に天皇陛下の玉座、その右隣に皇后陛下の御椅子が並んでいますが、玉座に座るのを遠慮されたそうです。これは気まぐれなどではなく、伝統的な儀礼と神聖な場所に対する深い敬意から発せられたものでした。そのお姿は下鴨神社の神職たちの間でも深く印象に残るエピソードとして語り継がれているそうです。
この真相にある皇室のしきたりについて紹介いたします。
玉座は天皇陛下がご行幸された際の御座所として設えられています。しかし、本殿に向かって礼拝される際、天皇陛下は御椅子に腰掛けたままで拝まれることはないそうです。
歴代天皇陛下は、神社の境内に足を踏み入れる際、常に「自分は神様に仕え、国民の平安を祈る存在である」との謙虚な姿勢を崩されません。それ故、自身のために用意された玉座であっても、神様のすぐ近くの神聖な御殿の中では、安易に腰掛けて寛ぐことはなされず、神様への敬意を最優先して立礼をされるのが本来の作法だそうです。「開けずの間」にある「座らずの椅子」というのも何だか妙な取り合わせです。
因みに現在ある玉座は、皇居にあるものを採寸し、公式参拝に合わせてそっくっりなものを高島屋に注文したものだそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可受諾済」
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/about/special -
下鴨神社 舞殿と神服殿(後方)
神服殿は、南側の格式高い折上二重格天井を配した「開けずの間(玉座の間)」 とそれに隣接する板敷きの「勅使や斎王代が控える間(勅使殿)」、その手前(東側)にある板敷の「外陣(特別拝観で立ち入れる場所)」で構成されています。
北側にある勅使殿は、天皇の代理である勅使の控えの間や葵祭のヒロインである斎王代が身支度や着替えをする部屋となっています。それ故、お雛様で見られる伝統的な「畳の台座」が中央にひとつあるだけです。
とは言え、「開けずの間」とその隣の「勅使殿」との境界は御簾や金屏風で目隠しされているだけです。壁や仕切りがない理由は、平安時代の寝殿造を色濃く残しているためです。ひとつの広間を必要に応じて御簾や屏風、几帳といった可動式調度品で区切って合理的に使用していました。
尚、勅使殿の天井には小組格天井が用いられています。細く削り出した木材(格縁)を細かい間隔で格子状に組み上げたものです。一般的な寺院などの格天井は、一辺が数10cmある大きな正方形の格子ですが、普段の生活では見られないほど繊細な格子模様になっています。この細さと立体感が、遠目から見ると細い竹や葦を美しく並べたように見える理由です。
仕切りのないひとつの空間だからこそ、天井の意匠を違えることで部屋の役割や格式を区別しています。 -
下鴨神社 解除所(げじょのところ)
天皇や皇族がご行幸される際や神事の前に自らお祓い(解除)をされる神聖な場所です。一般の神社では神事の度に臨時に祓所を設けるのが通例ですが、このように常設の解除所が設けられているのは他に類を見ません。
白い玉砂利を敷き詰めた正方形の区画で、周囲を石組と注連縄だけで囲うシンプルながらも神聖な空間です。建築物を持たないこうした形態は原始的な祭祀遺構や庭園の原型のひとつとも言われます。 -
下鴨神社 摂社 出雲井於(いずもいのへ)神社(重文)
楼門を潜って左手奥にあります。
ご祭神は建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)で、通称「比良木社」や「柊社」と呼ばれます。これは、社の周囲に植えた植物の葉が、どれも柊の葉のように鋸歯状になるという不思議な伝承があるためです。また、別の場所にあった「柊社」という建速須佐乃男命を祀る社が、後に出雲井於神社に合祀されたため、その名が残ったとも伝わります。
神社の歴史は古く、下鴨神社の本殿よりも先にこの地に鎮座していた下鴨神社で最古の神社で、厄除けや方除けの神様として信仰を集めています。現在の一間社流造の本殿は1561(永禄4)年に造営されており、現在の下鴨神社境内で最古の社殿です。
下鴨神社のある場所は、大宝律令(701年)以降に出雲郷と呼ばれ、出雲と関係の深い土地柄だったそうです。「井於」とは鴨川の畔を表し、「出雲郷の鴨川の畔にある神社」という意味です。
因みに下鴨神社のご祭神 賀茂建角身命は、古代の氏族伝承や『神氏系図』において、出雲神話の主役 大国主神の系譜に連なる子孫とされます。また、その娘 賀茂玉依姫命も出雲系の血を引く女神ということになります。一方、京都の賀茂氏は、地元の先住民族というだけでなく、そのルーツを辿れば出雲から京都へ移動してきた出雲系氏族との説が有力です。 -
下鴨神社 供御所(くごしょ:重文(右側の建物))
神様に供える神饌(お食事)を調理したり、神事の後に神職や関係者が集まって直会を行ったりした社殿です。現在の建物は1628(寛永5)年に造営されたものです。
一重(平屋建)、入母屋造、檜皮葺の桁行9間、梁間3間の建物です。実務的な神の台所としてはとても横に長く、堂々とした大型の造りになっているのが特徴です。
内部は「東の間」「中の間」「西の間」の3部屋に分かれており、それぞれ調理する内容や目的が厳格に区別されていました。
東の間(供御所)は主にお米や野菜、酒などの一般的な神饌を調理・調製する空間です。
中の間(贄殿:にえどの)は魚介類や鳥類などの生鮮品(贄)を専門に調理する空間です。匂いや穢れが他の食べ物に移らないよう、部屋が分けられていました。
西の間(侍所:さぶらいどころ)は神事を終えた後、神前に捧げたお下がりを皆でいただく「直会」や「勧杯の儀」を行う空間です。
供御所は神聖な場所であるため一般公開されていません。しかし、下鴨神社で結婚式を挙げた新郎新婦とそのゲストだけが披露宴や会食の会場として使用できます。 -
下鴨神社の御朱印です。
右上を飾る色鮮やかな緑色の神紋「双葉葵」のスタンプが朱色のスタンプと美しいコントラストを描いています。
御朱印は中門手前右にある「ご祈祷・御朱印受付所」にて授与していただけます。
初穂料は500円也。 -
出町橋
賀茂川は京都市を流れる淀川水系の一級河川であり、京都を代表する名河川「鴨川」の上流に当たる呼称です。
京都市北区・右京区の境にある桟敷ヶ岳付近に源を発し、出町柳で北東から流れてくる高野川と合流して鴨川となります。更に京都盆地を南北に縦断し、伏見区下鳥羽付近で桂川に合流します。
河川法上の正式名称は全域を通して「鴨川」と表記されますが、京都の慣例として 出町柳にある鴨川デルタ(賀茂川と高野川との合流点)より上流を「賀茂川」と呼びます。この使い分けは、上流の一帯(上賀茂など)が古代に賀茂氏の本拠地であったことに由来します。 -
田辺宗
待望のランチタイムです。
田辺宗は、1875(明治8)年に創業した、出町柳に店を構える京漬物と味噌の老舗です。京都には数多くの漬物店がありますが、田辺宗は「漬物と味噌の両方の製造販売業者協会に加入している、京都で唯一の店」というのが売りです。漬物店として創業後、1928(昭和3)年に味噌の製造も開始しました。
漬物と味噌、どちらも一級品の技術を有し、店内には昔ながらの大きな桶が所狭しと並び、白味噌や赤だし、合わせ味噌など十数種類の味噌が創業以来の量り売りされています。
https://www.tanabeso.jp/about/ -
ごはん処 田辺宗
店舗2階には、老舗の味をその場で堪能できる直営レストラン「ごはん処 田辺宗(旧店名:葵匠)」が併設されています。
京漬物盛合御膳(お漬物9種盛り)や京漬物寿司西京焼御膳など、自慢の漬物や味噌汁、西京焼き、ウニ湯葉などを一度に味わえる贅沢な御膳が愉しめます。 -
ごはん処 田辺宗
前菜の京漬物寿司3貫と柴漬け巻、おにぎりです。
左から瓜の奈良漬け、柚子大根の京漬け、ヤングコーンの京漬けです。奈良漬は2年かけて毎月酒粕を漬け替えて丁寧に作られている自慢の一品です。
また、4代目女将が創作したヤングコーンやトマトの京漬けは田辺宗ならではのモダンな漬物です。
京漬物寿司は酢飯に漬物を載せるだけでなく、シャリとネタの間に隠し味として特製合わせ味噌や特製タレが忍ばせてあります。 -
ごはん処 田辺宗
揚物は生麩味噌田楽(左)。
室町時代から親しまれている伝統的な京料理のひとつです。こちらは生地にヨモギを練り込んだ「あわ麩」です。
焼物は銀鱈西京焼(右)。
田辺宗のメニューの中でも、銀鱈西京焼は絶大な人気を誇ります。 -
ごはん処 田辺宗
中央上のグラスに入っているのが先付のウニ湯葉。
田辺宗特製「湯葉ウニ味噌」の隠し味が効いています。味噌のほのかな甘みとコクがウニと湯葉の味わいを引き立てています。
前菜のトマトの京漬け(左端)と小鉢は冷奴(右端)。トマトを丸ごと1玉、特製の調味液に湯むきして漬け込んだ、隠れた大人気商品です。
手前が甘味の白味噌わらび餅。白味噌のほんのりとした塩気とまろやかな甘みが、わらび餅のプルプル・もちもちとした食感と絶妙にマッチしています。 -
ごはん処 田辺宗
香物は漬物と味噌を合わせて6種盛り。右手前は山椒ベースの香辛料です。これらをおにぎりをほぐしながら一緒に食せば、7種の味変が愉しめる趣向です。尚、山椒は銀鱈や生麩味噌田楽に添えても美味です。
白味噌漬けチーズは、西京味噌のまろやかな甘みと塩気がチーズに染み込むことで、高級なカラスミやウニを思わせるような濃厚で深みのある味わいがあります。
汁物は味噌汁。
右端の赤いビリ辛味噌は冷奴に付けます。
とても美味しかったです。ごちそうさまでした!
ただし、塩分の摂りすぎですので、夕飯は減塩を徹底したいと思います。 -
田辺宗
ランチ後、現地解散となりました。
この並びに豆大福で有名な1899(明治21)年創業の老舗和菓子店「出町ふたば」がありますが、生憎、火曜日は定休日です。
しかし、気を取り直してもうひとつの甘味処へ向かいます。
ここからなら徒歩で10分強、丁度良いダイエットウォークになります。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
京阪本線・叡山電鉄「出町柳駅」から徒歩7分程の場所にあります。
江戸時代末期の1856(安政3)年の創業。初代当主は出町橋近くに店を構えましたが、幕末の争乱を避けて郷里に引き上げた後、明治初年に再び出町柳で出店しました。更には、戦時中の強制疎開で現在地に移り、今日まで暖簾を守り続けられています。満月の名声を不動のものとしたのは、大正時代に2代目当主が開発した「阿闍梨餅(あじゃりもち)」です。
本店の魅力は、隣接する工場から届く、ほんのり温かい出来立ての阿闍梨餅を1個単位で購入でき、しかも店内で食べることができることです。
http://www.ajyarimochi.com/ -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
阿闍梨餅の名前は、天台宗や真言宗などにおける高僧の位を表す梵語「阿闍梨」に由来します。比叡山延暦寺には、地球1周分に相当する距離を約7年かけて歩き続ける、仏教界屈指の過酷な修行「千日回峰行」があります。この荒行を終えた僧侶が「阿闍梨」という高僧の位を授かります。万が一途中で断念する場合は、自害しなければならないという、まさに命がけの掟がある決死の苦行です。
阿闍梨餅は、阿闍梨になるための修行中、網代笠を被って餅を食べて飢えを凌いだという伝承から誕生しました。阿闍梨餅の真ん中が少しぷっくりと盛り上がったユニークな形をしているのは、網代笠を模しているからです。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
庇瓦の上など京町家の屋根の上で見かけるいかめしい顔をした小さな瓦人形は、「鍾馗(しょうき)さん」と呼ばれ、魔除け・厄除けの守り神です。
鍾馗さんの由来には、大別して「中国の伝説」と「京都由来の誕生秘話」の2つの説があります。
唐の時代、玄宗皇帝が重い病に臥せった時、夢の中に大男が現れて悪鬼を退治してくれました。その男が「鍾馗」と名乗り、「かつて科挙に落第して自殺した自分を皇帝が手厚く葬ってくれた恩を返しに来た」と告げます。皇帝が夢から覚めると病気は治っており、それ以降、鍾馗が「疫病除け・魔除けの神」として祀られるようになりました。
何故、京町屋の屋根に据えられているのかについては江戸時代の民話が関わっています。
京都三条にある薬屋が立派な鬼瓦を設置しました。すると、その鬼瓦が跳ね返した邪気が道路を挟んだ向かいの家の奥さんを直撃し、原因不明の重病を患ってしまいます。困り果てた向かいの主人が、「鬼に勝つには鬼を退治する鍾馗を置くしかない」と瓦職人に造らせ、屋根の上に据えました。すると奥さんの病気は忽ち完治したと伝えます。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
店内にある扁額「阿闍梨餅」は包装紙にある隷書体と同じ筆致で趣があります。
また、入口の庇の上に掲げられている大看板「阿闍梨餅」の文字は比叡山延暦寺の千日回峰行を満行した大行満大阿闍梨の上原行照(ぎょうしょう)氏の揮毫です。織田信長の比叡山焼き討ち以降、現在までに僅か48人しかいない達成者のひとりです。1994(平成6)年に7年間に亘る千日回峰行を満行され、その後も修行を続け、比叡山には23年7ヶ月もの間、籠もられていました。2002年には、8日間に亘って一切の食事・水・睡眠をとらず、十万本の護摩木を炎の中に投げ入れ続けるという超人的な祈りの行を満行されています。
現在は、滋賀県近江八幡市にある琵琶湖畔の古刹 天台宗 伊崎寺の住職を務められています。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
京都の伝統的な趣を色濃く残した風格漂う町家造(京町家)です。天井を高くして吹き抜けにしており、開放的ながらも重厚感に溢れています。この構造は、町家の台所などの竈の煙や熱を逃がし、天窓から明かりを取り込むために作られた「火袋」と呼ばれる伝統構造を彷彿とさせます。また、 太い梁が縦横に走っており、旧き佳き伝統建築の構造美につい見とれてしまいます。
戦後に現在地へ移転してきた建物ですが、外観から内部に至るまで京町屋の知恵と美意識が息づいています。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
店内の左手の壁にはお面が並べてあり、訪れる人たちの目を愉しませる隠れた名物となっています。中央にある絵馬風の「馬」のお面は、今年の干支に因んだお面です。お面は伝統的な職人技や情緒が感じられる味わい深い表情をした作品が選ばれています。
「阿闍梨餅」も人気商品ですが、もう一つの看板菓子が明治時代初期に考案された「満月」です。旧九條公爵御用達にもなった銘菓でしたが、戦後30年近く生産が途絶えていたそうです。それを近年になって若主人が苦心の末に復元し、現在は土日祝限定で本店にて販売されています。入口の暖簾にも「満月」とありますが、五摂家のひとつであった九条家から、1900(明治33)年に誕生した菓子に「眞菓 満月」という名前を賜った歴史があります。 -
阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月 本店
こちらはイートイン・スペースではなく、商品の焼き上がりを待つための待合・休憩室兼ギャラリーです。お茶とセットの甘味などの提供はありませんが、特別にバラ売りで購入した出来立ての阿闍梨餅をここに腰掛けて味わえます。また、足元に開かれたガラス窓越しに、亀の形をした石などが配された趣のある坪庭が眺められます。格子戸からは柔らかな午後の日差しが漏れてきます。 -
阿闍梨餅
「生地のもちもち感」と「粒餡のしっとり感」が口の中でほどよく溶け合い、お互いを引き立て合うよう、水分量や甘さのバランスが計算され尽くされています。
餡には大粒で風味とコクが際立つ京都・兵庫産の高級ブランド小豆「丹波大納言」が使われています。丹波大納言小豆は、煮ても皮が破れにくい(切腹しない=縁起が良い)という特性があり、皮を極限まで薄く柔らかく仕上げられるため、粒々の食感はしっかりあるのに口の中に皮が残りません。
美味しくいただきました。ごちそうさまでした!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ その1
京都四条南座限定「三笠」
文化の日に観劇に行ってまいりました。
「南座」の場内で買える名物の三笠(どら焼き)は老舗 井筒八ッ橋本舗が手掛ける南座限定の三笠です。小倉と抹茶の2種類の味があり、しっとりとした生地の中に粒餡と一緒に生八ッ橋が丸ごと1枚包まれています。生八ッ橋ならではのシナモンの爽やかな香りにモチモチ感が加わり、普通の三笠とは一味違う京都らしさが味わえます。尚、表面には南座場内限定品の証として「南座」の文字や劇場の紋が焼き印されています。 -
おまけ その2
南座の向かい側(川端通四条上ル)にある北座ビル1階には井筒八ッ橋本舗 祇園本店があり、こちらでも生八ッ橋入りの三笠を取り扱っています。ただし、南座仕様ではありません。
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