2026/10/13 - 2026/10/13
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montsaintmichelさん
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久々に連れ合いと京都の旅を満喫しました。下鴨神社へは実に13年ぶりの参拝になります。
今回は某新聞社が企画した「○○カルチャー OSAKA」に参加し、神服殿「開けずの間」と「玉座」の特別拝観ならびに「十二単の着付けと王朝舞」を堪能し、漬物・味噌の老舗「田辺宗」の漬物会席に舌鼓を打ってまいりました。
コーディネーターはフリーライターで仏教や社寺関連の著書も多い、倉橋みどりさんでした。参加者は20余名で、皆さん相当な歴史通なのか、メモを取られながら宮司さんや倉橋さんのお話に傾聴されている姿が印象的でした。宮司さんには90分程ディープな蘊蓄を披露していただきました。
と言うことで、今回は雰囲気的にメインのデジイチを構えるのが憚られたため、サブのコンデジで勝負いたしました。あしからず!
前編は糺の森にひっそりと鎮座する河合神社と下鴨神社境内の一部をレポいたします。
下鴨神社のHPです。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
-
京阪特急
集合場所「京阪 出町柳駅改札口前」へのアクセスには阪急電車と京阪電車を乗り継ぎました。
京阪特急は、京阪電気鉄道の京阪本線・鴨東線で運行されている特急列車の通称です。こちらは6代目京阪特急専用車両の8000系です。京阪本線は大阪の淀屋橋駅と京都の出町柳駅を結んでおり、ヘッドマークは液晶ディスプレイの「鳩マーク」です。このマークは1952(昭和27)年に一般公募により誕生しました。
何故「鳩」なのかは、沿線にある古社の神使と当時の時代背景にあります。
まず、京阪沿線(京都府八幡市)にある石清水八幡宮では鳩が「神勅の使い」とされていることです。次に、1952年は太平洋戦争の終戦から7年後です。往時、平和の象徴としてもてはやされていた鳩の姿を特急のフロントに掲げることで、新しい平和な時代への願い、今後の明るい鉄道の旅を象徴させる意図が込められていたそうです。 -
出町柳 河合橋
高野川(たかのがわ)は京都市左京区を流れる一級河川です。
滋賀県境に近い京都の奥座敷 大原の山中に源を発します。三千院の近くを流れる律川(りつせん)や呂川(ろせん)と合流し、八瀬渓谷を抜けて南下します。その後、上高野や修学院、高野、下鴨といった左京区の住宅街を巡り、出町柳にある通称「鴨川デルタ」の突端にて西から流れてくる賀茂川と合流し、鴨川となります。
京都北山の山並みがとても近いです。 -
鴨川デルタ
賀茂大橋から望む鴨川デルタです。
賀茂川(左:西側)と高野川(右:東側)が合流して鴨川になる地点にできた三角州の通称です。中央にある鬱蒼とした杜が「糺の森(ただすのもり)」です。
アニメ『たまこラブストーリー』をはじめとする京都アニメーションの作品や数々の映画やドラマのロケ地として登場するため、国内外のファンが聖地巡礼に訪れるスポットでもあります。 -
下鴨神社 一の鳥居 社号標「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」
下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖神社」と称します。
下鴨神社と上賀茂神社はいずれも賀茂氏の氏神であり、平安遷都以降は朝廷から等しく最高峰の崇敬を受けました。そのことは葵祭(賀茂祭)が証明しており、朝廷からの勅使が下鴨神社と上賀茂神社を順番に巡り、両神社が主役となるお祭りになっています。
両社を合わせて賀茂社と総称されますが、ご祭神と創建のルーツに相違点があります。ご祭神の関係性を判り易く言えば、「上賀茂神社の神様(子ども)」を「下鴨神社の神様(母親と祖父)」が見守るという構図です。
下鴨神社のご祭神は賀茂玉依媛命(たまよりひめのみこと:上賀茂神社の神様を生んだ母親)と賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと:賀茂玉依媛命の父親。山城国の開拓主)です。それ故、正式名称を賀茂御祖神社と称し、「御祖」は親の神様という意味です。
一方、上賀茂神社のご祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ:賀茂玉依媛命の子で雷の神様。厄除の神力を持つ)です。正式名称は賀茂別雷神社と称し、ご祭神の名が神社の名称になっています。
次に創建のルーツと立地の違いです。
下鴨神社は人々が住む集落から興った社です。鴨川デルタにある原生林「糺の森」に囲まれており、古くからこの一帯に住んでいた賀茂一族が神聖な森の中で祭祀を行ったのが起源です。
一方、上賀茂神社は神様が降臨した山から始まった社であり、本殿の背後にある「神山」が起源です。太古の昔、その山頂に賀茂別雷大神が降臨したとの伝説があり、神社自体も山岳信仰の色合いの濃いものです。例えば、境内にある円錐形の立砂は神山を象ったものです。 -
下鴨神社 末社 天神宮社
一の鳥居の先の参道右脇、糺の森の手前にひっそりと佇む小さな末社です。その名前の通り、最高神の天照大御神と学問の神様 菅原道真の2柱を祀ります。明治時代初期の神仏分離の際、下鴨神社の旧社家(神職)が、合祀された天満宮と共に総氏神である天照大御神を合わせて祀った社です。
この社には、江戸時代の神道家や下鴨神社の学問所、そして上方落語のルーツである『講談』にまつわる背景があります。
江戸時代後期、この一帯には下鴨神社の私設学問所「秀穂舎」が置かれ、神職の子弟らが学んでいました。1811年頃、塾長として招かれたのが、全国を旅して庶民に神話を説いて回った神道家・神道講釈師 玉田永教(えいきょう)でした。永教は元々は大阪の露天神社(お初天神)の近くに住んでおり、下鴨に居を移した際、自邸内に故郷の天満宮を勧請して祀ったのが天神宮社の起源です。
明治時代になると、新政府の改革に伴って永教の孫 三矢田清三郎は大阪へ戻り、講釈師の流派である玉田派を創設しました。これが現代に続く上方講談の基礎を築きました。
やがて主を失った邸内の天満宮は、その後周辺にあった天神宮と合祀され、下鴨神社の旧社家により天神宮社として守り継がれるようになりました。
因みに天神宮社は、下鴨神社の第35回式年遷宮(2036年斎行予定)の継続事業のひとつとして、再建されることが決まっています。 -
秀穂舎(しゅうすいしゃ:重文)
この門は、華表門と言い、鳥居の形をベースにした特殊な構造です。門の両脇に立つ柱の上部に2本の横木(冠木と笠木)を渡しています。江戸時代後期の社家の旧浅田家住宅であり、かつては私設学問所「秀穂舎」でもありました。因みに「華表」は、古代中国で宮殿や朝廷の前に立てられた柱に由来する言葉であり、ここが格式高い学問の場であることを示す門構えと言えます。
神職の子弟や地域の若者を集めた秀穂舎に、神職 賀茂秀豊が塾長として招いたのが天神宮社に登場した玉田永教でした。往時、日本古来の精神や歴史を学ぶ国学や神道の研究が盛んであり、秀穂舎には全国から著名な文人や神道家、学者が招かれ、熱心な講義や議論が行われていました。
表門前に見られる人物を象った石柱は、「石人文官」と呼ばれ、李氏朝鮮から渡来した石人像です。朝鮮半島では王族や貴族の墓の前に守護や儀礼のために文官や武官を象った石人像を建てる文化がありました。つまり、秀穂舎が格式高い学問所であることの証左と言えます。 -
糺の森 御陰通
下鴨神社境内に広がる広大な原生林です。ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の登録区域の一部であり、平安京が造営される以前の山背国の原野の姿を今に留める自然遺産です。
広さは約12万4千平方m(東京ドーム約3個分)に及び、ケヤキやエノキ、ムクノキなどの落葉広樹林が自生し、樹齢200~600年以上の巨木が鬱蒼と生い茂っています。因みに平安京時代には495万平方mもの敷地があったそうです。
「糺の森」の語源には諸説あり、「地形や水の清らかさに由来する説」と「神職や信仰に由来する説」の2つに大別されます。
1.地形に由来する説(只洲 = ただす)
高野川と賀茂川が合流する鴨川デルタに位置することから、文字通り「ただの(普通の)中洲」を意味する「只洲(ただす)」と呼ばれ、それに「糺」の字が当てられたとの説です。これが最も現実的で有力な地形由来説です。
2.水の清らかさに由来する説(直澄 = ただす)
この森は古くから清水が湧き出る土地でした。そこから「真っ直ぐに澄んだ清らかな水」を意味する「直澄(ただす)」と表現され、音が同じ「糺」に置き換わったとの説です。
3.「偽りを糺す(正す)」という信仰の説
古くからこの森には偽りを暴き、罪や不正を正す神(糺の神)が祀られていると信じられてきました。
下鴨神社のご祭神 賀茂建角身命が、縺れた縄を解きほぐすように「民衆の争いを聞きただし(糺し)、解決に導いた」という説話由来の説です。因みに平安時代の『源氏物語』や『枕草子』、和歌などに詠まれています。
「憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺の 神にまかせて」
『源氏物語』光源氏
「いかにして いかに知らまし 偽りを 空にただすの 神なかりせば」
『枕草子』中宮定子
「偽りを ただすの森の 木綿襷(ゆふたすき) かけつつ誓へ 我を思はば」
『新古今和歌集』平貞文
4.神名(多多須)に由来する説
糺の森の南側に鎮座する下鴨神社の摂社 河合神社のご祭神 多多須玉依姫命(たたすたまよりひめのみこと=玉依姫命)の「多多須」が変形して「ただす」になったという、江戸時代の国学者 伴信友などが唱えた説です。
いずれにせよ、糺の森に一歩足を踏み入れた刹那、自然と背筋がスクッと伸び、姿勢が「正される」のは間違いありません。 -
かつて下鴨神社のHPにあったマップです。
マップには河合神社の境内に鴨長明の方丈が描かれていますが、現在は近隣に移設されています。
「掲載許可受諾済」
現在のものはこちらを参照ください。(説明文がなくなっています)
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/ground -
摂社 河合神社 東鳥居
糺の森の参道から紅葉橋を渡ると目の前が河合神社です。
正式名は「鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社」と言い、元は賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったそうです。「鴨河合」とは鴨川デルタを表し、小社宅とは『日本書紀』に「社戸」と記されている本宮(下鴨神社)のご祭神と同系統の神を指します。
ご祭神は神武天皇の母神 多多須玉依姫命(ただすたまよりひめのみこと=玉依姫命)です。玉のように美しいことや女性の守護神であることから、「日本第一美麗神」として美容や縁結び、安産などのご利益で信仰されています。尚、一般的には神武天皇の母神は「玉依姫命」ですが、河合神社の解説では「多多須玉依姫命」と拘られており、これは「下鴨の地(ただす)」との関係性を強調した結果と思われます。
上述の「下鴨神社のご祭神と同系統の神を指します」に違和感を持たれた方も多いと思います。神話を忠実に辿れば、賀茂玉依姫命(下鴨神社の神)と神武天皇の母神 玉依姫命は別の神様です。では何故、「同系統」と語られるようになったのでしょうか?
その由来には「河合神社独自の由緒(歴史の書き換え)」という背景が潜みます。
河合神社の正式名にある「小社宅」が示す下鴨神社と同系統の神とは、本来は賀茂一族の祖先神 賀茂玉依姫命を指しました。しかし平安時代中期以降、河合神社のご祭神が「賀茂の玉依姫」から「神武天皇の母神 玉依姫」へ上書きされました。天皇家の祖先「神武天皇の母神」という国家最高峰の神格を、名前が同じ「玉依姫」にすり替えたのです。その目的は賀茂氏の神社の権威を高めるためでした。
しかしあからさまにはできないため、折衷案として捻出されたのが「多多須玉依姫命」という名称です。「下鴨の地(ただす)の玉依姫」として、賀茂須玉依姫命の影を忍ばせつつ、実体は神武天皇の母神であるというトラップを仕掛けたのです。 -
摂社 河合神社 神門
歴史書の創建に関する記録には、平安時代前期の858(天安2)年に編纂された『文徳実録』に「鴨川合神」と記されたのが最古です。しかし先ほども述べたように、これ以前から、鴨デルタ地帯に社家の邸内神もしくは氏神として祀られていたと考えられています。
一方、平安時代中期(927年)の『延喜式神名帳』には、現在の正式名称の通り「鴨川合坐小社宅神社」と記されています。往時は朝廷から重視されており、一時期は本宮の下鴨神社よりも神格が高かったほど、由緒ある古社です。
その後、1887(明治10)年に下鴨神社の第一摂社として定められ、現在に至ります。尚、現在の社殿は江戸時代中期の1679(延宝7)年の式年遷宮の際、社殿を修造したものです。 -
摂社 河合神社 神門
神門は格式高い四脚門で屋根は桧皮葺です。江戸時代(1678年)の式年遷宮の時期の面影を今に伝える佇まいです。
神門に掲げられている菊紋は、天皇および皇室の象徴である十六八重菊の御紋です。河合神社の神紋は双葉葵ですが、これと並んで神門や社殿の要所に菊の御紋が掲げられています。これは平安時代から朝廷と深い結びつきがあり、『延喜式神名帳』にて「名神大社」という、最高峰の格式を与えられていたからです。
また、本宮の下鴨神社は、平安京を守る国家守護の最高神として皇室の崇敬を集めてきました。その第一摂社である河合神社もまた同じ機能を果たしていたことが判ります。 -
摂社 河合神社 舞殿
神門を潜ると正面に鎮座するのが舞殿です。
その奥に拝殿と幣殿、本殿の順に控えます。舞殿の最たる役割は、神様に芸能を愉しんでいただくことです。それ故、多くの神社では、神様が鎮座する本殿の真正面に舞殿が配置されています。本宮の下鴨神社も例外ではありません。 -
摂社 河合神社 舞殿
妻入、入母屋造、檜皮葺で、黄金色に輝く吊燈籠がずらりと並んだ豪華絢爛な舞殿です。
その吊燈籠には下鴨神社の紋章である双葉葵や細かい彫刻が付されています。
素木造のシックな社殿の中にあって、黄金色に輝く吊燈籠は華やかさを演出します。 -
摂社 河合神社 鏡絵馬
ご祭神 多多須玉依姫命は日本一の美麗神と讃えられ、女性には美麗祈願の神社としておススメです。美麗の祈願絵馬は珍しい手鏡の形をした「鏡絵馬」で、裏は朱色の地に双葉葵が描かれており、初穂料1000円也。この値段が高いか安いかは、ご利益次第ですね! -
摂社 河合神社 お化粧室
傍らにある「お化粧室」で、鏡絵馬に普段使いの化粧品でメイクを施して奉納します。化粧道具がなくても、置かれているクレヨンなどを使ってお化粧をすることもできます。鏡絵馬を奉納すると「美しい女性であるために」という小さなカードと美人の素となる御供米をいただけます。
境内では美肌効果が期待できるカリンを使った「かりん美人水」などが女性を中心に人気を集めています。 -
摂社 河合神社 拝殿
縁結びや安産の守護神として信仰され、ご祭神は『記紀神話』に登場する海の神の娘「(多多須)玉依姫命(初代天皇 神武天皇の御母神)」です。前述したように、下鴨神社のご祭神 賀茂玉依媛命(賀茂建角身命の御子神)とは同名神ですが別の神様とされます。
因みに「玉依媛命」という名称は、様々な神話に登場し、「神を宿す母」の象徴とも言える一般名詞的な意味合いのため、混乱を招くことが多いようです。ましてや河合神社は、敢えてご祭神をすり替えてしまったという経緯の持ち主ですから、殊更判り難い神様になっています。 -
摂社 河合神社 本殿
ご神体は「秘中の秘」のため公式には明かされていません。一般的に女性の神様を祀る場合は、三種の神器「八咫鏡」を模した鏡がご神体として納められています。特に河合神社は、鏡絵馬での美麗祈願が有名であり、神道における「鏡を依り代とする信仰」や「鏡に自らの内面と外面の美を映す」という意味合いとも合致します。因みに13年前の参拝時には、拝殿の先に大鏡が置かれていました。
本殿の回廊に安置されている狛犬は江戸時代の1679(延宝7)年に制作された木製の神殿型狛犬です。一般的な神社で見かける石造りの狛犬とは異なり、ご神体に近い場所を守るために独特の色彩と意匠を有します。
例えば、たてがみや眉、顎髭(あごひげ)、尾は白く彩色されています。また、眉と髭が白く強調されているため、顔の表情がはっきりと浮かび上がります。
一方、一般的な神社では左右どちらも狛犬と呼びますが、本殿前の一対は古式に則り、左右の役割が異なります。
向かって右(阿形)は、たてがみが巻き毛になっており、獅子の姿をしています。
向かって左(吽形)は、たてがみが後方に流れています。また、頭部には節のような角が生えており、これが本来の狛犬の姿です。 -
摂社 河合神社 貴布禰(きふね)神社と任部(とうべ)社
本殿に向かって左脇に並ぶ2つの社は貴布禰神社と任部社という摂社・末社です。
「貴布禰神社」(右)のご祭神は高龗神(たかおかみのかみ)です。
京都北部に鎮座する貴船神社の水の神様を勧請したものです。1161年の古文書にも「河合神社の御垣内に祀られていた」と記されるほどの古社です。
「任部社」(左)のご祭神は八咫烏命(やたがらすのみこと)です。八咫烏は、日本国土を開拓した神の象徴として、また蹴鞠の祖神とされることから、日本サッカー協会のシンボルマークになっています。尚、八咫烏は下鴨神社のご祭神 賀茂建角身命の化身ともされます。
因みに八咫烏とは熊野の大神 素盞嗚尊のお仕えで、「八咫」は大きく広いという意味です。神武東征の際、八咫烏が道案内したと伝えられており、熊野の神々の使いとされます。太陽の化身で3本の足があり、天・地・人を表します。天は天神地祇、地は大地のことで自然環境を指します。つまり太陽の下に、神と自然と人が血を分けた兄弟であるということを象徴しています。 -
摂社 河合神社 末社 六社(むつやしろ)
6つの小さな社が長屋風の建物の中に合体して祀られている、ユニークな末社です。
かつて河合神社周辺で信仰されていた氏神や神社の神様が、時代の流れと共にこの場所に集められ、ひとつの社殿にまとめられたものです。
向かって右から順に、次のような神様が祀られています。勝負運にはじまり、旅の安、仕事(商売繁盛)、日々の暮らし(台所の火の神)、学業成就、そして縁結びまで、生活に関わる様々な神様が勢揃いしていますので、ここでお参りすればオールマイティです。タイパ重視ならココです!
1. 諏訪社:建御名方神(たけみなかたのかみ):勝利の神・武運長久
2. 衢(みち)社:八衢弗乃神(やちまたふのかみ):旅の安全・道開きの神
3. 稲荷社:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ):五穀豊穣・商売繁盛
4. 竈(かまど)社:奥津日子神・奥津比売神:台所・火の神・家内安全
5. 印鑰(いんやく)社:天児屋根命(あめのこやねのみこと):鍵や印鑑の神・学問や言葉の神
6. 由加(ゆか)社:神御産巣日神(かみむすびのかみ):縁結び・五穀豊穣・厄除け -
摂社 河合神社 末社 三井(みつい)社
神門の背面(南側)に鎮座するのが三井社です。別名「三塚(みつづか)社」とも呼びます。太古の昔、下鴨神社は蓼倉郷(たでくらごう)と呼ぶ地域をはじめ広大な神領を領有していました。この三井社は、その蓼倉郷に祀られていた分霊社をひとつに合祀し、総社としたものと伝えます。
東(左)・中・西(右)の3つの社が合体されており、下鴨神社の主祭神を含む父・母・娘の神様が肩を寄せ合って祀られており、仲睦まじいお社です。
中社:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと):下鴨神社のご祭神(八咫烏の化身・賀茂氏の祖神)
西社:伊賀古夜日売命(いがこやひめのみこと):その妃
東社:賀茂玉依媛売命(たまよりひめのみこと):その娘・下鴨神社のご祭神
因みに本宮の下鴨神社 本殿には母親 伊賀古夜日売命は祀られていません。本宮はあくまで「山城国の開拓主(父)」と「国家を揺るがす強力な神(上賀茂の神)を産んだ聖なる巫女(娘)」という、神格の高さや国家守護の側面を強調した神社になっています。因みに下鴨神社にある摂社 三井神社 本殿には、この三井社と同じ3柱が祀られています。 -
摂社 河合神社 西鳥居
こちらは下鴨本通から直接糺の森(河合神社)へ入るルートに位置しています。
バス停「下鴨神社前」や周辺の駐車場からアクセスし易いのがこちらの入口です。 -
下鴨神社 南口鳥居
糺の森の参道を歩いた先、鮮やかな朱塗りの楼門の手前に威風堂々と屹立するのが南口鳥居(明神鳥居)、 通称「二の鳥居」です。
葵祭の行列(路頭の儀)が下鴨神社に到着した際、乗馬している人々はこの南口鳥居前で馬から下りなければならない(下乗)という、重要な結界となる鳥居です。 -
下鴨神社の境内マップ
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下鴨神社 楼門(重文)
神社のシンボルとも言える壮麗な下鴨朱色が目にも鮮やかな門です。
入母屋造、檜皮葺の2階建ての門であり、高さ30mあることから聳える感じがする楼門です。正面幅は約11m(三間)、奥行きは約6m(二間)あり、神社建築の楼門としては最大級の規模を誇ります。
現在の楼門は1628(寛永5)年に再建されたものと伝えます。提灯には十六八重菊紋が付されており、これは天皇と皇室の紋です。多くの神社は最高でも十六単菊紋止まりで、この神紋を使えるのは伊勢神宮と両賀茂神社、八幡宮の一部に限られています。
因みに、提灯の菊紋の裏側は神紋「双葉葵」となっています。双葉葵はひとつの茎からハート型の葉が2枚向かい合って生える日本固有の植物です。神紋の由来は、「双葉葵」は古くは「あふひ」と書かれ、「あふ(逢う)」+「ひ(神霊の力・太陽)」 = 「神様に出逢うこと」・「神様の力に触れる日」という古語に因みます。また、上賀茂神社のご祭神の降臨の際、「葵と桂の葉を飾り祭りをせよ」という神託が下ったとの神話にも拠ります。「双葉葵」は神様と人々を結ぶ草、聖なる植物として古くから大切にされてきました。 -
下鴨神社 楼門
楼門の組物には最も格式が高い三手先技法が採用されています。これは、肘木を階段状に3段階(3手)外側へ突き出させ、屋根の重さを分散させ、深い軒を実現可能とさせるための構造です。
全体的な特徴は、余計な彫刻や装飾を排し、直線を基調とした和様を強調している点です。これにより、流麗に反らせた屋根の曲線美と相俟って、均整の取れた美しさを際立たせています。
また、2階部分には高欄を巡らせ、楼門独特の雰囲気を醸しています。この高欄は四隅にある親柱の周囲に格式高い跳高欄という意匠を散らせています。高欄の横木(架木)が親柱を突き抜け、斜め上方へ反りながら跳ね出す独特の曲線を描いています。 -
下鴨神社 楼門
伝統的な神社建築においては、敢えてシンメトリーにせず、僅かに崩すことで美しさを引き立てる手法が取られます。
楼門2階は、正面に連子窓が2箇所、板戸が1箇所配されていますが、これが左右対称ではなく中央軸から板戸を少しずらした配置です。これにより、建物全体に心地よいリズムが生まれ、単調さを嫌う平安~江戸時代の宮廷建築の洗練された美意識を表現しています。
一方、連子窓の緑色(古くは青丹)は、神聖な植物の生命力を表すと共に、宮殿や高位な社殿にしか許されなかった最高格の色です。連子窓は縦の木連子が細かく並び、内側からは外がよく見えますが、外からは内側が見え難いという視覚効果を持ちます。また、板戸(朱色)は視界を遮る壁としての役割を持ちます。
この2つを組み合わせることで、階上から境内の様子を隠れて監視できるという、実用的な物見の機能を持たせています。 -
下鴨神社 楼門 西回廊
こちらが「○○カルチャーOSAKA」の参加者です。皆さんA宮司さんを囲んで説明に傾聴されています。90分程丁寧かつディープなお話をしていただきました。
因みに当方は離れて写真を撮っていますが、イヤホンを付けているので説明は「軽聴」できております。ただし、メモはできていないので、宮司さんの数多ある蘊蓄の中で特に記憶に残ったものに肉盛りしてお披露目していく所存です。
右奥の西回廊(干支大絵馬前)では結婚式の記念撮影が行われています。
因みにその場所は、「剣の間」と呼ぶ一間のスペースになっており、葵祭(賀茂祭)の際、勅使が帯刀する剣を解くための小部屋です。古来、本殿へ入る際、高貴な身分の者でも武装したまま進むのは神への冒涜とされ、厳禁でした。そのため、神域の境界に当たる楼門の西回廊に小部屋が設けられ、武装を解除して身を清める儀礼を行いました。
では何故、東回廊にはなく、西回廊だけにあるのでしょうか?
下鴨神社の西本殿には父親神 賀茂建角身命、東本殿には娘神 賀茂玉依媛命が祀られています。これは、陰陽道や宮廷の儀礼において、「西」は軍事や格式の高い公的なもの(右近衛府など)と深く結び付いているからです。西回廊が選ばれたのは必然のことでした。 -
下鴨神社 楼門 西回廊「剣の間」 干支大絵馬
令和8年の干支大絵馬「午」は日本画家 塩谷榮一氏の作品です。
右下に「榮一」と記し、落成款識印を押されています。また、世相を反映してか、左上方には「平和」の文字が躍ります。更には、草間彌生さんや葛飾北斎へのオマージュではないと思いますが、白いドット柄の午に波飛沫が印象的です。中央下には氏の真骨頂である「龍の咆哮」まで描き切った大作です。
塩谷氏は御年85才の「龍の画家」として著名ですが、このように干支大絵馬も手掛けられていたとは吃驚です。氏の座右の銘は禅語「俊鳥不栖林、活龍不滞水」。優れた鳥は狭い林の中でのんびり安住することはない。生きた龍は澱んだ水の中に留まりはしない。そして、しなやかに力強く前へ進み続ける。この言葉は氏の生き様にも重なります。 -
下鴨神社 舞殿(重文)
スケールは雲泥の差ですが、河合神社の境内レイアウト同様、楼門を潜ると広場があり、その中央に舞殿が鎮座しています。
特別な殿舎ではないそうですが、目立つ場所に建てられている瀟洒な建物のためか妙に存在感を放ちます。
現在の舞殿は1628(寛永5)年に再建されたものと伝えます。 -
下鴨神社 舞殿
賀茂祭(葵祭)の際、この舞殿にて、勅使がご祭文を奏上され、舞楽『東游(あずまあそび)』 が奉納されます。
天井は格式高い折上格天井になっており、建物の格という点では舞殿が橋殿の上位にあるようです。橋殿にも凝った格天井が嵌められていますが、舞殿の方がより手の込んだ造りになっています。また、床も舞殿の方が一段高くなっています。 -
下鴨神社 橋殿(重文)
吹き放ち構造なので舞殿のように見えますが、橋殿の名が示す通り、御手洗川の流れを跨いで建立されています。現在のものは1628(寛永5)年に造替されたものです。
御蔭祭の際にご神宝を奉安する御殿です。古くは御戸代会神事や奏楽、里神楽、倭舞が行われていたようです。また、行幸や御幸の際、公卿や殿上人の控え所と定められていました。
現在は、中秋の名月のお月見の頃には名月管絃祭、お正月の神事では神事芸能が奉納されます。 -
下鴨神社 輪橋(そりはし)と光琳の梅
御手洗祭りや葵祭の斎王代の禊ぎに使われる御手洗川に架けられているのが輪橋です。その傍らには梅の木があり、「光琳の梅」と呼ばれます。この梅は、尾形光琳筆『紅白梅図二曲屏風』(国宝:熱海のMOA美術館所蔵)のモデルだそうです。光琳は江戸時代の京都画壇の代表的画家・工芸家で、『紅白梅図二曲屏風』は晩年の作と言われ、二条城の東方にある自宅で描かれたと伝えられます。 -
下鴨神社 御手洗池
御手洗池は、「足つけ神事」などの祓の神事が行なわれ、清水に足を浸し無病息災を祈る古い神泉です。普段はこのように水はほとんど流れていませんが、土用の時期になると池底から水が湧き出すという不思議な池です。その湧水の水疱を象って団子にしたのが、みたらし団子だと言われています。
鎌倉時代、後醍醐天皇が御手洗池の水を掬ったところ、最初にひとつ、少し間があってから4つの泡が浮き上がったとの故事に由来します。名物のみたらし団子は、この故事に因んで、先端の団子の次は少し隙間を開けて串に刺されています。 -
下鴨神社 御手洗池
立秋の頃、夜の帳が下りる18時半~19時頃、ここで「矢取りの神事」(夏越神事)が行われます。この神事は、池の中央に円を描くように50本の斎串(イグシ:矢を象った木串)を立て、裸男がそれを奪い合うというお祓いの儀式です。斎串が矢に似ていることからその名があります。
この神事の由来は次のような下鴨神社にまつわる神話に基づくものです。
賀茂玉依姫命が瀬見の小川で川遊びをしていたところ、上流から1本の丹塗の矢が流れてきました。姫がその美しい矢を持ち帰り、寝床の傍らに置いて就寝したところ、不思議にも懐妊し、上賀茂神社のご祭神 賀茂別雷大神が生まれました。
この神聖な矢は神霊が宿る依り代とされ、厄除開運や安産、無病息災、商売繁盛、諸願成就の絶大な力を持つとされます。 -
下鴨神社 御手洗社(重文)
井戸の上に建立されていることから「井上社」とも呼ばれ、御手洗池の東端に佇みます。1915(大正4)年に重文に指定されており、境内を流れる聖なる湧水 御手洗池と深く結び付いています。近くに寄って耳を澄ますと、水音がかすかに聞こえ、心が洗われる思いがします。
桁行一間、梁間一間のこじんまりしたお社ですが、屋根は檜皮葺、建築様式は一間社流造と格式が高く、小さな本殿を守るように唐破風付きの覆屋が掛けられています。現在の社殿は、隣り合う細殿や橋殿と同じく、1628(寛永5)年の式年遷宮の際に建て替えられたものです。 -
下鴨神社 御手洗社
ご祭神には瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀ります。川の神、あるいは水の神様とされ、人が身に付けた罪や穢れを水の力で大海原へと押し流して清めてくれる、お祓い(災難除け)の神様です。ご利益には災難除けや病気平癒、安産、身体健全などがあります。
実はここの瀬織津姫命は、水の神様であるだけでなく、下鴨神社のご祭神とも深い縁があります。まず、水源である御手洗池で門番の如く悪霊や災厄を遮断し、浄化してくれるのがこの神様です。次に、賀茂玉依姫命は清浄な川で神の矢を授かり、無事に神子を産むことができたことから、出産と神子誕生を支える母性の水としての縁があります。最後に、神話における最高位の巫女(賀茂玉依姫命)の役割を現代に受け継ぐ斎王代が行う「御禊の儀」において、穢れを引き受け、下流へ流し去る役目を担う神様でもあります。 -
下鴨神社 細殿(重文)
御手洗池の階段は伊勢神宮の五十鈴川を彷彿とさせます。葵祭のヒロイン「斎王代」が池に手を浸して清める禊の儀の神聖な場所でもあります。
左端にある建物が細殿です。
創建年代は不詳ですが、平安時代に編纂された下鴨神社の記録『神殿記』に細殿の名があり、この時代にはすでに存在していたと考えられています。古くから天皇の行幸や上皇・法皇・関白などが賀茂詣に訪れた際、歌会や茶会を催すための専用の殿舎となりました。
現在の細殿は江戸時代初期の1628(寛永5)年の式年遷宮の際に建て替えられたものです。それ以降、修理を重ねながら約400年もの間、往時の姿を留めています。桁行五間、梁間二間と前後に細長く、屋根は檜皮葺です。天井は折上二重格天井という凝った造りになっている他、屋根は向拝付入母屋造という、この用途の建物としては贅沢な構造です。
因みに京都府神社庁の案内板には「向拝付流造」と記されています。これは、正面中央の向拝の迫り出しと共に横長の建物であるが故、正面屋根が長く葺き下ろされた「流造」を彷彿とさせるシルエットに見えるからです。ただし、神社庁は注記にて「境内全体の建築的な系統や正面に長く流れる屋根の意匠を強調して伝えるため、象徴的に『流造の系譜を引く向拝付きの構え』という意味でその名が使われることがあります。」と認めています。 -
下鴨神社 細殿
江戸時代中期~幕末にかけて、京都で大火や政変が起きた際、細殿は度々歴史の表舞台に登場しました。
京都の街を焼き尽くした1788(天明8)年の天明の大火の際は御所も炎上しました。その際、三種の神器のひとつ、八咫鏡を祀る内侍所(賢所)が焼け出され、一時的にこの細殿に奉安されたそうです。
また、幕末の1854(嘉永7)年に御所周辺で嘉永の大火が起きた際、後に明治天皇となる幼少期(2歳)の祐宮(さちのみや)と英照皇太后の安全確保のための安座所(避難所)として細殿が使用されています。
更には、1863(文久3)年、第121代 孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂行幸を行いました。これは天皇が公式に御所の外へ出るという、幕末の大イベントでした。この際、天皇にお供した江戸幕府14代将軍 徳川家茂の侍所として細殿が使われています。 -
下鴨神社 中門(重文)
舞殿の奥には古式蒼然とした中門が屹立します。
中門は目にも鮮やかな下鴨朱色の楼門とは対照的に落ち着いた色合いを基調とした切妻造、檜皮葺の四脚門です。門の両隣は賀茂祭の際に雅楽を奏した楽屋(がくのや)が設けられ、その先に東西回廊が連結しています。
この中門を潜ると十二支を祀る言社があり、その奥の正面に幣殿が控え、そのまた奥に東西2つの本殿が肩を並べて鎮座しています。
賀茂社から下鴨神社が分立した理由については、「強大化した豪族 賀茂氏の勢力を削ぐための朝廷による統制(政治的介入)」との説が有力です。
往時、京都北部を拠点とした賀茂氏は、強い経済力と政治的影響力を有していました。歴史学者 井上光貞氏の説によると「朝廷は賀茂氏の勢力がこれ以上大きくなり、中央政権を脅かすのを警戒した」としています。そこで賀茂神社を「上・下」に分割し、組織や権力を分散させることで賀茂氏の弱体化を狙った政治的判断としています。
また、奈良時代以前から葵祭(賀茂祭)は全国から人が集まるエネルギッシュな祭りでした。8世紀前半、祭りの最中に群衆や賀茂氏一族の間で暴動が起こったと伝えます。朝廷はこれを治安上の課題と捉え、祭りの拠点や利権を2つの神社に分散させ、その勢力を分散・統治するために分離独立を促したとの側面もあります。
更には、政治的な理由以外にも、ご祭神を整理する目的もありました。元々上賀茂の地では息子 別雷神とその一族の氏神(母親と祖父)が合祀されていました。分立に際し、「雷の力を持つ神様(息子)」を上賀茂神社に残し、「その神様を生み育てた山城国の氏神(母親と祖父)」を下鴨神社へ分離させました。これにより、下鴨神社は「賀茂御祖神社」という独自性を持った神社となりました。 -
下鴨神社 東本殿(国宝)
下鴨神社と朝廷との本格的な関係は、奈良時代(8世紀中頃~後半)の分立・経済的保護を契機に始まり、平安京遷都後に「王城鎮護の社」として濃密に結び付きました。
朝廷との関係の主な流れは次の通りです。
奈良時代(740~50年頃)
元は一体だった賀茂社から下鴨神社が分立。750(天平勝宝2)年、朝廷が下鴨神社に封戸(税を収める戸)を寄進し、経済的な保護を始めました。因みに封戸は、国から与えられた特権であり、特定の地域(世帯)から直接税金をもらうことができる権利です。奈良時代の一般庶民は働いて得た米や特産品などを一度「朝廷」に納税していました。この特権により安定した財政基盤が確保でき、後に平安京を守る強大な神社へと発展することができました。
平安京遷都以降
平安京遷都後、国家と首都を守る「王城鎮護の神社」として朝廷から篤い崇敬を受けるようになりました。807(大同2)年、神社の最高位「正一位」の神階が授与され、賀茂祭(現 葵祭)が朝廷の行事「勅祭」と定められました。
嵯峨天皇の時代~(810年以降)
伊勢神宮に倣い、皇女が斎王として奉仕する賀茂斎院の制度が定められ、約400年間に亘り皇室との深い絆が連綿と続けられてきました。 -
下鴨神社 東本殿
1854(安政元)年に起こった内裏炎上の際、皇族方は下鴨神社を避難場所になされました。敷地内では身分や役割に応じて部屋が割り振られ、数ヶ月間寝泊まりされたそうです。神服殿には孝明天皇が入られ、開けずの間(玉座の間)を寝室兼執務室(仮御所)とされました。また、細殿には英照皇太后と往時2歳だった祐宮(さちのみや:後の明治天皇)が入られて生活の拠点とされました。尚、舞殿には最も神聖な内侍所(賢所の御鏡:八咫鏡)が奉安されました。
しかし避難生活とは言え、天皇がのんびり過ごされていた訳ではありません。黒船来航(1853年)の翌年で大混乱時の御所炎上であり、孝明天皇は強い危機感を抱かれました。それ故、天皇は下鴨神社に滞在中に36回に亘り国事安寧を祈る宣命を捧げられました。皇后様も、女官を通じ、絶え間なくお祈りを続けられたそうです。
数ヶ月の滞在の後、天皇一家は聖護院へ拠点を移され、最終的には桂宮邸を仮内裏として御所の再建(安政の内裏造営)を待たれたそうです。 -
下鴨神社 拝殿(重文)
下鴨神社が天皇の臨時の避難先(仮御所)として定められたのは、平安時代、遅くとも11世紀初期頃にまで遡ります。天皇の避難場所(里内裏や御所被災時の御座所)として下鴨神社がその対象となった経緯には3つの理由があります。
1.皇室の氏神としての深い結びつき
下鴨神社と上賀茂神社からなる賀茂社は、平安京遷都以前からの古社であり、遷都後は山城国 一宮として、また皇城鎮護として朝廷から特別扱いされていました。天皇家にとり賀茂の神様は、国家や皇室を護る強固な後ろ盾であり、避難先として最初期から選ばれるのは極自然なことでした。
2.広大な糺の森による防火・防犯上の安全性の担保
第一に求められるのは延焼しない安全な空間と敵の襲撃を防御できる堅牢さです。下鴨神社を囲む糺の森は、火の気が及び難い天然の防火帯でした。更には、森に囲まれており外からの侵入を防ぎ易く、御所からの距離も比較的近いため、有事の際に駆け込み易いという軍事的・地理的な利点がありました。
3.神聖な衣類を調達できる神服殿の存在
天皇の避難先に定められた神服殿は元々神様に捧げる衣服を調達するための御殿でした。天皇が着の身着のままで避難してきても、衣服や物資の調達において神服を扱うこの建物は好都合でした。 -
下鴨神社 拝殿
単に避難先として定められていただけでなく、江戸時代には大火の際、歴代の天皇が下鴨神社へ緊急避難されています。
1788(天明8)年に京都の街の大半を焼き尽くす天明の大火が発生した際、第119代 光格天皇が夜中に御所を脱出し、下鴨神社へ避難されています。
1854(嘉永9)年、御所の女中が梅の木の毛虫を焼き殺そうとしてその火が引火し、内裏が全焼する大火事が発生しました。その際、第121代 孝明天皇は警護のほどんどいない状態で、自ら三種の神器を抱え、格式の低い板輿(一部は徒歩)で下鴨神社 神服殿へ駆け込まれています。 -
下鴨神社 中門よりの舞殿
孝明天皇に関するもうひとつのエピソードが1863(文久3)年3月11日に催された「賀茂行幸」です。孝明天皇は「天皇は御所から出られない」という常識を覆し、黒船来航による国難を乗り切るため、約230年ぶりとなる異例の社外行幸を敢行しました。京都に上洛していた第14代将軍 徳川家茂や大名たちを引き連れ、下鴨神社・上賀茂神社を参拝して攘夷を祈願しました。
天皇が将軍を従えて直々に行進する姿は、沿道を埋め尽くした民衆に強烈な印象を与え、幕府よりも天皇の方が偉いという尊王を加速させる契機となりました。この華麗な大行列の様子は、摂社 三井神社の回廊に絵馬『孝明天皇賀茂御祖神社参拝行幸之図』として掲げられています。
因みに行幸当日は大雨だったそうです。大名たちは楼門の回廊で衣服を乾かしましたが、天皇は神服殿に入られて着替えられたそうです。 -
下鴨神社 幣殿
幣殿の「幣」は神様へ捧げるお供え物(幣帛:へいはく)を意味します。神職が祭祀を行う際、神様にお供え物を献上したり、祝詞を奏上したりするための儀式空間です。また、神様が鎮座される最も神聖な本殿に、邪気や一般の人が直接入らないようにするための結界としての役割も果たします。
賀茂行幸の舞台裏は「長州藩の政治的フェイク」や「将軍と天皇の奇妙な信頼関係」、「仮病を画策する幕府幹部」など、ドタバタの人間ドラマが満載でした。
行幸を仕組んだ黒幕は毛利定広を中心とした長州藩過激派グループ。目的は、祈願ではなく、天皇が前を行き、最高権力者 徳川将軍がその後ろを平伏して歩く姿を民衆に見せ付けることでした。つまり、「幕府の時代は終焉、今後は天皇の時代」という尊王攘夷を加速させるのが目的でした。
長州藩は幕府をハメようと行幸を画策したのですが、当事者の孝明天皇と徳川家茂は実は互いに信頼し合う仲であり、思惑が狂いました。その経緯は妹の和宮の嫁ぎ先に端を発します。天皇は当初、家茂に嫁がせるのには大反対でした。しかし、行幸の直前に初めて家茂と会った際、家茂の真面目で優しく誠実な人柄に好印象を持ったのでした。そのため長州藩の思惑とは裏腹に、行幸中のふたりは始終和やかな雰囲気だったようです。
長州藩に主導権を握られ、メンツを潰された幕府も黙っていませんでした。この翌月に催行された石清水八幡宮行幸の際、長州藩は天皇から将軍へ「攘夷の指揮権を授ける儀式(節刀授与)」をねじ込もうとしました。もしこれが実行されれば、幕府は外国と戦争を始める時期を宣告しなくてはなりません。それを察した将軍名代 一橋慶喜は、行幸の途中で急に腹が痛くなったと仮病を使って戦線を離脱し、儀式に穴を開けて事なきを得ました。
この行幸の数ヶ月後、長州藩が京都から追放されるという公武合体派によるクーデター「8月18日の政変」が起きました。その結果、三条実美ら過激な尊王攘夷派の公家7名が朝廷から追放されました。 -
下鴨神社 西本殿(国宝)
最奥に鎮座する東本殿には賀茂玉依媛命、西本殿には賀茂建角身命が祀られており、共に国宝指定の最高峰の神社建築です。現在の両本殿は江戸時代末期の1863(文久3)年に造営されたものですが、一対の社殿が左右対称に並ぶ姿は平安時代の雅な王朝美を今に伝えます。
本殿は神社建築様式「流造」の究極の完成形とされます。檜皮葺屋根の前面は流麗に前方へ長く伸びて庇となっています。檜皮葺独特の重厚感を持たせながら、周囲の自然に溶け込むような柔らかい曲線の妙が見られます。 -
下鴨神社 西唐門(重文)
檜皮葺屋根を持つ比較的小さな平唐門です。
一間一戸の向唐門であり、派手な彫刻で飾る安土桃山時代の唐門とは異なり、周囲の建物と調和する、シンプルながらも洗練された気品ある佇まいをしています。
この続きは、秋思秋愁 京都②下鴨神社<後編>でお届けいたします。
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