2026/09/17 - 2026/09/17
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「土光敏夫の生涯展」
タウンニュースに載っていたので訪れた。家から歩いても15分くらい。
橘学苑中学校・高等学校=獅子ケ谷=の理事長や校長を歴任した土光敏夫氏の生誕130周年を記念し、9月14日(月)から30日(水)まで、同学苑2号館1階で「土光敏夫の生涯展」が開かれる。平日の午前10時から午後4時まで。入場無料、事前申込不要。
同学苑は1942年、敏夫氏の母・登美氏が「橘女学校」として創立した。法華経の信仰と宮沢賢治の精神に基づき、当時の「信仰のない女子教育」を改革すべく、教育に全てを捧げた。登美氏が45年に急逝した後、敏夫氏が遺志を継いで2代目理事長に就任した。
土光敏夫氏は88年に逝去するまでの40年以上にわたり、大企業の経営や国家の行政改革という激務と並行して、2度校長に就任。教育現場の責任者として生徒を直接指導するなど、一人一人の個性を大切にする姿勢が学苑の礎を築いた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車
-
タウン誌で
近くの橘学苑で「土光敏夫の生涯展」が開催されているのを知って訪れた。 -
土光敏夫氏の歩みを知る
-
橘学苑
入るのは初めて。 -
橘学苑2号館
入って右。 -
ここから入っていく
-
記念事業もやっている様だ。
-
パネル展示が一杯
-
すぐの左側に胸像
-
創立者 土光登美先生像
土光氏の母・登美氏が「橘女学校」を創立した。 -
土光敏夫 レリーフ像
-
土光氏の動画が流れている
パネル展示を見て行く。 -
橘学苑と土光敏夫
敏夫の母・登美は、1942年に橘女学苑を創立したが、3年後に志半ば
でこの世を去った。その遺志を受け継いだのが敏夫である。企業人として
活躍する一方、教育にも情熱を注ぎ、橘学苑では理事長を務めるとともに、
第4代、第7代校長として自ら教育の現場に立った。収入の大半を学校へ
寄付するなど、私財を惜しまず教育の発展に尽くした。敏夫は「まず人間と
して正しく育つことが先である。学力はその後でよい」と考え、人格形成を何
よりも重視した。卒業式では一人ひとりに卒業証書を手渡し、温かく送り出
した。その姿は、人づくりを生涯貫いた教育者?土光敏夫を象徴している。 -
橘学苑と土光敏夫
敏夫は、教育とは画一的なエリートを育てることではなく、一人ひとりの個
性を伸ばし、人間として成長させることだと考えていた。橘学苑についても、
「似たようなエリートばかり作る教育なんかつまらない。それぞれの個性ある
人間に育てようというのが橘だ」と語っている。また、家庭教育についても、
子どもの成績や一流校への進学ばかりを重視する風潮を批判し、「しては
いけないこと」など、人として守るべき基本を教えることの大切さを訴えた。
学力だけでなく、人格と個性を育てることこそ教育の本質であるという考え
は、土光敏夫の教育観の根幹をなしていたのである。 -
幼少期・青年期の土光敏夫
敏夫の学生生活は、住み込みの家庭教師をしながら学業に励む日々で
あった。当時の東京高等工業学校では、理論を学ぶだけでなく、作業
服を着て実習に取り組み、日本の工業の発展に貢献する技術者を育て
ようという気風があった。敏夫もその環境の中で技術者としての基礎を培っ
た。一方で、娯楽はポート競技の応援と寄席通いであった。ボート部の
応援団長やクラスでは級長にあたる「生長」を務めるなど、仲間をまとめ
る役割も担った。学生時代に培われた責任感と統率力は、後に数々の
組織を率いる土光敏夫のリーダーシップへとつながっていくのである。 -
幼少期・青年期の土光敏夫
東京高等工業学校の卒業生は、当時、企業から引く手あまたの存在で
あった。しかし、生長(級長)を務めていた敏夫は、「全員の就職が決まる
まで自分の進路は決められない」と考え、最後まで同級生を見届けた後、
自らの道を選んだ。幼い頃から物作りに興味を持ち、機械や技術への関
心を深めていた敏夫は、機械技術者であった伯父?常次郎の影響も受
け、石川島造船所(現・IHI)への入社を決意した。この選択が、日本を
代表する技術者、そして経営者へと成長していく第一歩となったのである。 -
サラリーマン時代(IHI)
入社後、敏夫はタービン設計部門に配属された。当時、日本のタービ
ンは外国製に頼っており、国産化が大きな課題であった。敏夫は辞書を
片手にドイツ語の専門書や技術雑誌を読み込み、睡眠時間を削って研
究に没頭した。午後11時に就寝し、午前4時に起床する生活を続け
るほと努力を重ねた。その後、スイス・チューリヒのエッシャー?ウイス社へ
留学し、最新技術を学んだ。この経験は石川島における国産タービンの
製造・販売の発展につながり、技術者?土光敏夫の基礎を築くこととなっ
たのである -
サラリーマン時代(東芝)
1965年、敏夫は経営難に陥っていた東芝の再建を託され、社長に就
任した。当時の東芝には優秀な社員が多くいた一方で、前社長時代か
らのぜいたくな慣習が残されていた。社長室には専用の浴室や調理場、
専属のコックまで備えられていたが、敏夫は「身辺を飾る者に本物はいな
い」という信念のもと、就任後すぐにそれらを廃止した。経営者自らが無
駄を改め、率先して改革を実践する姿勢を示したことが、社員の意識を
変え、東芝再建への大きな第一歩となったのである。
(1971年入社式で訓示を聞いた) -
サラリーマン時代(東芝)
敏夫は東芝の社長に就任してからも、地位や肩書によって特別扱いを受
けることを好まず、常に社員と同じ目線に立つことを大切にした。その姿勢は、
石川島播磨重工業の社長時代に、社用車ではなくバスや電車で通勤して
いたことにも表れている。また、会社の実情を自ら確かめるため、工場や事業
所にも足を運び、現場の声に耳を傾けた。当時の東芝には優秀な技術者
や社員が多く、敏夫は、一人ひとりが仕事への責任と誇りを持って取り組む
ことが、会社再建への道につながると考えた。自ら率先して行動し、社員と
現場を大切にする姿勢が、東芝再建を支える大きな力となったのである。 -
東芝の悲劇―あなたの会社も例外ではない (1966年) (カッパ・ビジネス) 三鬼陽之助 著
入社前に読んだ。土光さんへの期待が込められていた。以前は、社長室にお風呂があったとか。 -
サラリーマン時代(経団連)
東芝会長を退任した敏夫は、ブラジルで農園を営み、静かな生活を送るこ
とを考えていた。しかし、その才能と実績を惜しむ財界から強く求められ、1974
年に経団連会長へ就任した。就任後、敏夫が取り組んだのは、財界自身
の体質改善であった。当時、企業と政治の関係には不透明な部分があり、
財界にも改革が求められていた。敏夫は、まず自らが模範を示すべきだと考
え、夜の料亭で行われていた政治家との会合を改め、朝の時間を利用し
た「朝食会」での意見交換の場を設けた。財界もまた責任ある存在として
行動すべきだという姿勢は、多くの経営者に影響を与えたのである。 -
臨調行革と土光敏夫
1980年代初め、日本の財政は国の借金が100兆円を超えようとする深
刻な状況にあった。鈴木善幸首相は、行政改革によって財政再建を進
めるため、臨時行政調査会の設置を決断した。その会長に推されたのが
土光敏夫である。敏夫は当初、高齢を理由に固辞したが「国家のため
に力を貸してほしい」という強い要請を受け、引き受ける決意をした。その
背景には、母・登美から教えられた西郷隆盛の「国家のために尽くす」
という精神があった。さらに敏夫は、改革が途中で骨抜きにならないよう、
政府に四つの条件を示し、異例の念書を交わして改革に臨んだのである。 -
NHKでメザシの土光さんが有名に
最近も再放送された。
朝の食卓がメザシだったのが印象的。
「NHK特集 85歳の執念 行革の顔・土光敏夫」放送年度:1982年度
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010266_00000 -
我独慙天地(我独り天地に慙ず)
この言葉は、土光敏夫先生が自ら筆を執り、掛け軸
としてしたためられたものです。
「我独天地」は、奈良時代の道鏡事件を背景に、
和気清麻呂の精神を表す言葉として後世に伝えられ
てきました。称徳天皇の信任を受けた僧・道鏡が皇
位を望んだ際、清麻呂は宇佐八幡の神託を奉じ、皇
統を守る立場からこれに異を唱えました。その結果、
流罪という重い処罰を受けることとなりますが、世の
評価や自身の安否よりも、天地すなわち普遍的な道
義と良心に恥じない選択を貫いたとされています。
この言葉は、孤独の中にあっても信念を曲げず、己の
行動を天地にのみ問い続ける覚悟を象徴するもので
す。経団連会長や臨時行政調査会の指導者として、
厳しい決断を迫られる場面に幾度も立ち会った土光
先生もまた、この言葉に自らの生き方を重ねておられ
たのではないかと推察されます。 -
1986年(昭和61年)11月に勲一等旭日桐花大綬章を受章
-
三省録 高校2年生
-
三省録 高校2年生
-
東芝の改革
-
1970年 日本万国博覧会
東芝IHI館。
当時、私も入館した。 -
家庭での土光敏夫
敏夫は、「個人は質素に、社会は豊かに」という信念のもと、自らの生活
にも厳しいく約を貫いた。自宅は華美とは無縁の質素な住まいで、広い
庭の一角には菜園を設け、自ら野菜を育てていた。食卓には好物のメ
ザシや野菜の煮物などが並び、その暮らしぶりから「メザシの土光さん」
と親しまれた。会社の社長や財界の代表となっても特別扱いを嫌い、家
庭では無駄を省き、「足るを知る」生活を実践した。その飾らない暮らしは、
多くの人々に深い共感と尊敬を集めたのである。 -
直子夫人と自宅庭
-
富山県中部山岳国立公園 弥陀ヶ原高原
-
使っていた杖、木刀
元気なころの土光の睡眠時間は5時間。毎朝4時半に
起床。目が覚めると、枕もとのスタンドを付け、布団に
もぐったまま本を読む。しばらく読んでから起き出し、ま
だ暗くとも雨戸という雨戸を全部明け放して、仏間に向
かう。仏前に正座してお経をあげること三十分。表へ出
て近くを散歩、時には5~6キロも歩き回る。家に戻って、
今度は庭で木刀を振る。朝食後、新聞を読んで6時半
には、横浜市鶴見区北寺尾の家を出る。石川島重工業
の社長のころまで、自覚近くのバス停から鶴見駅までバ
スに乗り、国電で東京まで通っていた。東ぎ時代になっ
てから乗用車になったが、朝が早いので交通渋湯がなく
短時間で日比谷に着いた。
《中略》
午前四時に起床、お経をあげたあと、庭に出て木刀を取る。
普通の人なら、木刀を持つと何百回というように素振り
をするのだが、土光は素振りはしない。「えいっ、えいっ、
やあっ」とかけ声を上げ、手当たりしだいに庭の木々を
ひっぱたいてゆく。ときには、飛び上がって高いところに
ある枝を振り払う。これが、土光の早朝の体操だ。
資料提供:土光敏夫 21世紀への遠産 志村温一部署 文系香机社より -
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