鶴見旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「土光敏夫の生涯展」<br />タウンニュースに載っていたので訪れた。家から歩いても15分くらい。<br />橘学苑中学校・高等学校=獅子ケ谷=の理事長や校長を歴任した土光敏夫氏の生誕130周年を記念し、9月14日(月)から30日(水)まで、同学苑2号館1階で「土光敏夫の生涯展」が開かれる。平日の午前10時から午後4時まで。入場無料、事前申込不要。<br /> 同学苑は1942年、敏夫氏の母・登美氏が「橘女学校」として創立した。法華経の信仰と宮沢賢治の精神に基づき、当時の「信仰のない女子教育」を改革すべく、教育に全てを捧げた。登美氏が45年に急逝した後、敏夫氏が遺志を継いで2代目理事長に就任した。<br /> 土光敏夫氏は88年に逝去するまでの40年以上にわたり、大企業の経営や国家の行政改革という激務と並行して、2度校長に就任。教育現場の責任者として生徒を直接指導するなど、一人一人の個性を大切にする姿勢が学苑の礎を築いた。

「土光敏夫の生涯展」

48いいね!

2026/09/17 - 2026/09/17

83位(同エリア437件中)

0

35

TAKEおじ

TAKEおじさん

「土光敏夫の生涯展」
タウンニュースに載っていたので訪れた。家から歩いても15分くらい。
橘学苑中学校・高等学校=獅子ケ谷=の理事長や校長を歴任した土光敏夫氏の生誕130周年を記念し、9月14日(月)から30日(水)まで、同学苑2号館1階で「土光敏夫の生涯展」が開かれる。平日の午前10時から午後4時まで。入場無料、事前申込不要。
 同学苑は1942年、敏夫氏の母・登美氏が「橘女学校」として創立した。法華経の信仰と宮沢賢治の精神に基づき、当時の「信仰のない女子教育」を改革すべく、教育に全てを捧げた。登美氏が45年に急逝した後、敏夫氏が遺志を継いで2代目理事長に就任した。
 土光敏夫氏は88年に逝去するまでの40年以上にわたり、大企業の経営や国家の行政改革という激務と並行して、2度校長に就任。教育現場の責任者として生徒を直接指導するなど、一人一人の個性を大切にする姿勢が学苑の礎を築いた。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
自家用車
  • タウン誌で<br /><br />近くの橘学苑で「土光敏夫の生涯展」が開催されているのを知って訪れた。

    タウン誌で

    近くの橘学苑で「土光敏夫の生涯展」が開催されているのを知って訪れた。

  • 土光敏夫氏の歩みを知る

    土光敏夫氏の歩みを知る

  • 橘学苑<br /><br />入るのは初めて。

    橘学苑

    入るのは初めて。

  • 橘学苑2号館<br /><br />入って右。

    橘学苑2号館

    入って右。

  • ここから入っていく

    ここから入っていく

  • 記念事業もやっている様だ。

    記念事業もやっている様だ。

  • パネル展示が一杯

    パネル展示が一杯

  • すぐの左側に胸像

    すぐの左側に胸像

  • 創立者 土光登美先生像<br /><br />土光氏の母・登美氏が「橘女学校」を創立した。

    創立者 土光登美先生像

    土光氏の母・登美氏が「橘女学校」を創立した。

  • 土光敏夫 レリーフ像

    土光敏夫 レリーフ像

  • 土光氏の動画が流れている<br /><br />パネル展示を見て行く。

    土光氏の動画が流れている

    パネル展示を見て行く。

  • 橘学苑と土光敏夫<br /><br />敏夫の母・登美は、1942年に橘女学苑を創立したが、3年後に志半ば<br />でこの世を去った。その遺志を受け継いだのが敏夫である。企業人として<br />活躍する一方、教育にも情熱を注ぎ、橘学苑では理事長を務めるとともに、<br />第4代、第7代校長として自ら教育の現場に立った。収入の大半を学校へ<br />寄付するなど、私財を惜しまず教育の発展に尽くした。敏夫は「まず人間と<br />して正しく育つことが先である。学力はその後でよい」と考え、人格形成を何<br />よりも重視した。卒業式では一人ひとりに卒業証書を手渡し、温かく送り出<br />した。その姿は、人づくりを生涯貫いた教育者?土光敏夫を象徴している。

    橘学苑と土光敏夫

    敏夫の母・登美は、1942年に橘女学苑を創立したが、3年後に志半ば
    でこの世を去った。その遺志を受け継いだのが敏夫である。企業人として
    活躍する一方、教育にも情熱を注ぎ、橘学苑では理事長を務めるとともに、
    第4代、第7代校長として自ら教育の現場に立った。収入の大半を学校へ
    寄付するなど、私財を惜しまず教育の発展に尽くした。敏夫は「まず人間と
    して正しく育つことが先である。学力はその後でよい」と考え、人格形成を何
    よりも重視した。卒業式では一人ひとりに卒業証書を手渡し、温かく送り出
    した。その姿は、人づくりを生涯貫いた教育者?土光敏夫を象徴している。

  • 橘学苑と土光敏夫<br /><br />敏夫は、教育とは画一的なエリートを育てることではなく、一人ひとりの個<br />性を伸ばし、人間として成長させることだと考えていた。橘学苑についても、<br />「似たようなエリートばかり作る教育なんかつまらない。それぞれの個性ある<br />人間に育てようというのが橘だ」と語っている。また、家庭教育についても、<br />子どもの成績や一流校への進学ばかりを重視する風潮を批判し、「しては<br />いけないこと」など、人として守るべき基本を教えることの大切さを訴えた。<br />学力だけでなく、人格と個性を育てることこそ教育の本質であるという考え<br />は、土光敏夫の教育観の根幹をなしていたのである。

    橘学苑と土光敏夫

    敏夫は、教育とは画一的なエリートを育てることではなく、一人ひとりの個
    性を伸ばし、人間として成長させることだと考えていた。橘学苑についても、
    「似たようなエリートばかり作る教育なんかつまらない。それぞれの個性ある
    人間に育てようというのが橘だ」と語っている。また、家庭教育についても、
    子どもの成績や一流校への進学ばかりを重視する風潮を批判し、「しては
    いけないこと」など、人として守るべき基本を教えることの大切さを訴えた。
    学力だけでなく、人格と個性を育てることこそ教育の本質であるという考え
    は、土光敏夫の教育観の根幹をなしていたのである。

  • 幼少期・青年期の土光敏夫<br /><br />敏夫の学生生活は、住み込みの家庭教師をしながら学業に励む日々で<br />あった。当時の東京高等工業学校では、理論を学ぶだけでなく、作業<br />服を着て実習に取り組み、日本の工業の発展に貢献する技術者を育て<br />ようという気風があった。敏夫もその環境の中で技術者としての基礎を培っ<br />た。一方で、娯楽はポート競技の応援と寄席通いであった。ボート部の<br />応援団長やクラスでは級長にあたる「生長」を務めるなど、仲間をまとめ<br />る役割も担った。学生時代に培われた責任感と統率力は、後に数々の<br />組織を率いる土光敏夫のリーダーシップへとつながっていくのである。

    幼少期・青年期の土光敏夫

    敏夫の学生生活は、住み込みの家庭教師をしながら学業に励む日々で
    あった。当時の東京高等工業学校では、理論を学ぶだけでなく、作業
    服を着て実習に取り組み、日本の工業の発展に貢献する技術者を育て
    ようという気風があった。敏夫もその環境の中で技術者としての基礎を培っ
    た。一方で、娯楽はポート競技の応援と寄席通いであった。ボート部の
    応援団長やクラスでは級長にあたる「生長」を務めるなど、仲間をまとめ
    る役割も担った。学生時代に培われた責任感と統率力は、後に数々の
    組織を率いる土光敏夫のリーダーシップへとつながっていくのである。

  • 幼少期・青年期の土光敏夫<br /><br />東京高等工業学校の卒業生は、当時、企業から引く手あまたの存在で<br />あった。しかし、生長(級長)を務めていた敏夫は、「全員の就職が決まる<br />まで自分の進路は決められない」と考え、最後まで同級生を見届けた後、<br />自らの道を選んだ。幼い頃から物作りに興味を持ち、機械や技術への関<br />心を深めていた敏夫は、機械技術者であった伯父?常次郎の影響も受<br />け、石川島造船所(現・IHI)への入社を決意した。この選択が、日本を<br />代表する技術者、そして経営者へと成長していく第一歩となったのである。

    幼少期・青年期の土光敏夫

    東京高等工業学校の卒業生は、当時、企業から引く手あまたの存在で
    あった。しかし、生長(級長)を務めていた敏夫は、「全員の就職が決まる
    まで自分の進路は決められない」と考え、最後まで同級生を見届けた後、
    自らの道を選んだ。幼い頃から物作りに興味を持ち、機械や技術への関
    心を深めていた敏夫は、機械技術者であった伯父?常次郎の影響も受
    け、石川島造船所(現・IHI)への入社を決意した。この選択が、日本を
    代表する技術者、そして経営者へと成長していく第一歩となったのである。

  • サラリーマン時代(IHI)<br /><br />入社後、敏夫はタービン設計部門に配属された。当時、日本のタービ<br />ンは外国製に頼っており、国産化が大きな課題であった。敏夫は辞書を<br />片手にドイツ語の専門書や技術雑誌を読み込み、睡眠時間を削って研<br />究に没頭した。午後11時に就寝し、午前4時に起床する生活を続け<br />るほと努力を重ねた。その後、スイス・チューリヒのエッシャー?ウイス社へ<br />留学し、最新技術を学んだ。この経験は石川島における国産タービンの<br />製造・販売の発展につながり、技術者?土光敏夫の基礎を築くこととなっ<br />たのである

    サラリーマン時代(IHI)

    入社後、敏夫はタービン設計部門に配属された。当時、日本のタービ
    ンは外国製に頼っており、国産化が大きな課題であった。敏夫は辞書を
    片手にドイツ語の専門書や技術雑誌を読み込み、睡眠時間を削って研
    究に没頭した。午後11時に就寝し、午前4時に起床する生活を続け
    るほと努力を重ねた。その後、スイス・チューリヒのエッシャー?ウイス社へ
    留学し、最新技術を学んだ。この経験は石川島における国産タービンの
    製造・販売の発展につながり、技術者?土光敏夫の基礎を築くこととなっ
    たのである

  • サラリーマン時代(東芝)<br /><br />1965年、敏夫は経営難に陥っていた東芝の再建を託され、社長に就<br />任した。当時の東芝には優秀な社員が多くいた一方で、前社長時代か<br />らのぜいたくな慣習が残されていた。社長室には専用の浴室や調理場、<br />専属のコックまで備えられていたが、敏夫は「身辺を飾る者に本物はいな<br />い」という信念のもと、就任後すぐにそれらを廃止した。経営者自らが無<br />駄を改め、率先して改革を実践する姿勢を示したことが、社員の意識を<br />変え、東芝再建への大きな第一歩となったのである。<br />(1971年入社式で訓示を聞いた)

    サラリーマン時代(東芝)

    1965年、敏夫は経営難に陥っていた東芝の再建を託され、社長に就
    任した。当時の東芝には優秀な社員が多くいた一方で、前社長時代か
    らのぜいたくな慣習が残されていた。社長室には専用の浴室や調理場、
    専属のコックまで備えられていたが、敏夫は「身辺を飾る者に本物はいな
    い」という信念のもと、就任後すぐにそれらを廃止した。経営者自らが無
    駄を改め、率先して改革を実践する姿勢を示したことが、社員の意識を
    変え、東芝再建への大きな第一歩となったのである。
    (1971年入社式で訓示を聞いた)

  • サラリーマン時代(東芝)<br /><br />敏夫は東芝の社長に就任してからも、地位や肩書によって特別扱いを受<br />けることを好まず、常に社員と同じ目線に立つことを大切にした。その姿勢は、<br />石川島播磨重工業の社長時代に、社用車ではなくバスや電車で通勤して<br />いたことにも表れている。また、会社の実情を自ら確かめるため、工場や事業<br />所にも足を運び、現場の声に耳を傾けた。当時の東芝には優秀な技術者<br />や社員が多く、敏夫は、一人ひとりが仕事への責任と誇りを持って取り組む<br />ことが、会社再建への道につながると考えた。自ら率先して行動し、社員と<br />現場を大切にする姿勢が、東芝再建を支える大きな力となったのである。

    サラリーマン時代(東芝)

    敏夫は東芝の社長に就任してからも、地位や肩書によって特別扱いを受
    けることを好まず、常に社員と同じ目線に立つことを大切にした。その姿勢は、
    石川島播磨重工業の社長時代に、社用車ではなくバスや電車で通勤して
    いたことにも表れている。また、会社の実情を自ら確かめるため、工場や事業
    所にも足を運び、現場の声に耳を傾けた。当時の東芝には優秀な技術者
    や社員が多く、敏夫は、一人ひとりが仕事への責任と誇りを持って取り組む
    ことが、会社再建への道につながると考えた。自ら率先して行動し、社員と
    現場を大切にする姿勢が、東芝再建を支える大きな力となったのである。

  • 東芝の悲劇―あなたの会社も例外ではない (1966年) (カッパ・ビジネス) 三鬼陽之助 著<br /><br />入社前に読んだ。土光さんへの期待が込められていた。以前は、社長室にお風呂があったとか。

    東芝の悲劇―あなたの会社も例外ではない (1966年) (カッパ・ビジネス) 三鬼陽之助 著

    入社前に読んだ。土光さんへの期待が込められていた。以前は、社長室にお風呂があったとか。

  • サラリーマン時代(経団連)<br /><br />東芝会長を退任した敏夫は、ブラジルで農園を営み、静かな生活を送るこ<br />とを考えていた。しかし、その才能と実績を惜しむ財界から強く求められ、1974<br />年に経団連会長へ就任した。就任後、敏夫が取り組んだのは、財界自身<br />の体質改善であった。当時、企業と政治の関係には不透明な部分があり、<br />財界にも改革が求められていた。敏夫は、まず自らが模範を示すべきだと考<br />え、夜の料亭で行われていた政治家との会合を改め、朝の時間を利用し<br />た「朝食会」での意見交換の場を設けた。財界もまた責任ある存在として<br />行動すべきだという姿勢は、多くの経営者に影響を与えたのである。

    サラリーマン時代(経団連)

    東芝会長を退任した敏夫は、ブラジルで農園を営み、静かな生活を送るこ
    とを考えていた。しかし、その才能と実績を惜しむ財界から強く求められ、1974
    年に経団連会長へ就任した。就任後、敏夫が取り組んだのは、財界自身
    の体質改善であった。当時、企業と政治の関係には不透明な部分があり、
    財界にも改革が求められていた。敏夫は、まず自らが模範を示すべきだと考
    え、夜の料亭で行われていた政治家との会合を改め、朝の時間を利用し
    た「朝食会」での意見交換の場を設けた。財界もまた責任ある存在として
    行動すべきだという姿勢は、多くの経営者に影響を与えたのである。

  • 臨調行革と土光敏夫<br /><br />1980年代初め、日本の財政は国の借金が100兆円を超えようとする深<br />刻な状況にあった。鈴木善幸首相は、行政改革によって財政再建を進<br />めるため、臨時行政調査会の設置を決断した。その会長に推されたのが<br />土光敏夫である。敏夫は当初、高齢を理由に固辞したが「国家のため<br />に力を貸してほしい」という強い要請を受け、引き受ける決意をした。その<br />背景には、母・登美から教えられた西郷隆盛の「国家のために尽くす」<br />という精神があった。さらに敏夫は、改革が途中で骨抜きにならないよう、<br />政府に四つの条件を示し、異例の念書を交わして改革に臨んだのである。

    臨調行革と土光敏夫

    1980年代初め、日本の財政は国の借金が100兆円を超えようとする深
    刻な状況にあった。鈴木善幸首相は、行政改革によって財政再建を進
    めるため、臨時行政調査会の設置を決断した。その会長に推されたのが
    土光敏夫である。敏夫は当初、高齢を理由に固辞したが「国家のため
    に力を貸してほしい」という強い要請を受け、引き受ける決意をした。その
    背景には、母・登美から教えられた西郷隆盛の「国家のために尽くす」
    という精神があった。さらに敏夫は、改革が途中で骨抜きにならないよう、
    政府に四つの条件を示し、異例の念書を交わして改革に臨んだのである。

  • NHKでメザシの土光さんが有名に<br /><br />最近も再放送された。<br />朝の食卓がメザシだったのが印象的。<br />「NHK特集 85歳の執念 行革の顔・土光敏夫」放送年度:1982年度<br />https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010266_00000

    NHKでメザシの土光さんが有名に

    最近も再放送された。
    朝の食卓がメザシだったのが印象的。
    「NHK特集 85歳の執念 行革の顔・土光敏夫」放送年度:1982年度
    https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010266_00000

  • 我独慙天地(我独り天地に慙ず)<br /><br />この言葉は、土光敏夫先生が自ら筆を執り、掛け軸<br />としてしたためられたものです。<br />「我独天地」は、奈良時代の道鏡事件を背景に、<br />和気清麻呂の精神を表す言葉として後世に伝えられ<br />てきました。称徳天皇の信任を受けた僧・道鏡が皇<br />位を望んだ際、清麻呂は宇佐八幡の神託を奉じ、皇<br />統を守る立場からこれに異を唱えました。その結果、<br />流罪という重い処罰を受けることとなりますが、世の<br />評価や自身の安否よりも、天地すなわち普遍的な道<br />義と良心に恥じない選択を貫いたとされています。<br />この言葉は、孤独の中にあっても信念を曲げず、己の<br />行動を天地にのみ問い続ける覚悟を象徴するもので<br />す。経団連会長や臨時行政調査会の指導者として、<br />厳しい決断を迫られる場面に幾度も立ち会った土光<br />先生もまた、この言葉に自らの生き方を重ねておられ<br />たのではないかと推察されます。<br />

    我独慙天地(我独り天地に慙ず)

    この言葉は、土光敏夫先生が自ら筆を執り、掛け軸
    としてしたためられたものです。
    「我独天地」は、奈良時代の道鏡事件を背景に、
    和気清麻呂の精神を表す言葉として後世に伝えられ
    てきました。称徳天皇の信任を受けた僧・道鏡が皇
    位を望んだ際、清麻呂は宇佐八幡の神託を奉じ、皇
    統を守る立場からこれに異を唱えました。その結果、
    流罪という重い処罰を受けることとなりますが、世の
    評価や自身の安否よりも、天地すなわち普遍的な道
    義と良心に恥じない選択を貫いたとされています。
    この言葉は、孤独の中にあっても信念を曲げず、己の
    行動を天地にのみ問い続ける覚悟を象徴するもので
    す。経団連会長や臨時行政調査会の指導者として、
    厳しい決断を迫られる場面に幾度も立ち会った土光
    先生もまた、この言葉に自らの生き方を重ねておられ
    たのではないかと推察されます。

  • 1986年(昭和61年)11月に勲一等旭日桐花大綬章を受章

    1986年(昭和61年)11月に勲一等旭日桐花大綬章を受章

  • 三省録 高校2年生

    三省録 高校2年生

  • 三省録 高校2年生

    三省録 高校2年生

  • 東芝の改革

    東芝の改革

  • 1970年 日本万国博覧会<br /><br />東芝IHI館。<br />当時、私も入館した。

    1970年 日本万国博覧会

    東芝IHI館。
    当時、私も入館した。

  • 家庭での土光敏夫<br /><br />敏夫は、「個人は質素に、社会は豊かに」という信念のもと、自らの生活<br />にも厳しいく約を貫いた。自宅は華美とは無縁の質素な住まいで、広い<br />庭の一角には菜園を設け、自ら野菜を育てていた。食卓には好物のメ<br />ザシや野菜の煮物などが並び、その暮らしぶりから「メザシの土光さん」<br />と親しまれた。会社の社長や財界の代表となっても特別扱いを嫌い、家<br />庭では無駄を省き、「足るを知る」生活を実践した。その飾らない暮らしは、<br />多くの人々に深い共感と尊敬を集めたのである。

    家庭での土光敏夫

    敏夫は、「個人は質素に、社会は豊かに」という信念のもと、自らの生活
    にも厳しいく約を貫いた。自宅は華美とは無縁の質素な住まいで、広い
    庭の一角には菜園を設け、自ら野菜を育てていた。食卓には好物のメ
    ザシや野菜の煮物などが並び、その暮らしぶりから「メザシの土光さん」
    と親しまれた。会社の社長や財界の代表となっても特別扱いを嫌い、家
    庭では無駄を省き、「足るを知る」生活を実践した。その飾らない暮らしは、
    多くの人々に深い共感と尊敬を集めたのである。

  • 直子夫人と自宅庭

    直子夫人と自宅庭

  • 富山県中部山岳国立公園 弥陀ヶ原高原

    富山県中部山岳国立公園 弥陀ヶ原高原

  • 使っていた杖、木刀<br /><br />元気なころの土光の睡眠時間は5時間。毎朝4時半に<br />起床。目が覚めると、枕もとのスタンドを付け、布団に<br />もぐったまま本を読む。しばらく読んでから起き出し、ま<br />だ暗くとも雨戸という雨戸を全部明け放して、仏間に向<br />かう。仏前に正座してお経をあげること三十分。表へ出<br />て近くを散歩、時には5~6キロも歩き回る。家に戻って、<br />今度は庭で木刀を振る。朝食後、新聞を読んで6時半<br />には、横浜市鶴見区北寺尾の家を出る。石川島重工業<br />の社長のころまで、自覚近くのバス停から鶴見駅までバ<br />スに乗り、国電で東京まで通っていた。東ぎ時代になっ<br />てから乗用車になったが、朝が早いので交通渋湯がなく<br />短時間で日比谷に着いた。<br />《中略》<br />午前四時に起床、お経をあげたあと、庭に出て木刀を取る。<br />普通の人なら、木刀を持つと何百回というように素振り<br />をするのだが、土光は素振りはしない。「えいっ、えいっ、<br />やあっ」とかけ声を上げ、手当たりしだいに庭の木々を<br />ひっぱたいてゆく。ときには、飛び上がって高いところに<br />ある枝を振り払う。これが、土光の早朝の体操だ。<br /><br />資料提供:土光敏夫 21世紀への遠産 志村温一部署 文系香机社より

    使っていた杖、木刀

    元気なころの土光の睡眠時間は5時間。毎朝4時半に
    起床。目が覚めると、枕もとのスタンドを付け、布団に
    もぐったまま本を読む。しばらく読んでから起き出し、ま
    だ暗くとも雨戸という雨戸を全部明け放して、仏間に向
    かう。仏前に正座してお経をあげること三十分。表へ出
    て近くを散歩、時には5~6キロも歩き回る。家に戻って、
    今度は庭で木刀を振る。朝食後、新聞を読んで6時半
    には、横浜市鶴見区北寺尾の家を出る。石川島重工業
    の社長のころまで、自覚近くのバス停から鶴見駅までバ
    スに乗り、国電で東京まで通っていた。東ぎ時代になっ
    てから乗用車になったが、朝が早いので交通渋湯がなく
    短時間で日比谷に着いた。
    《中略》
    午前四時に起床、お経をあげたあと、庭に出て木刀を取る。
    普通の人なら、木刀を持つと何百回というように素振り
    をするのだが、土光は素振りはしない。「えいっ、えいっ、
    やあっ」とかけ声を上げ、手当たりしだいに庭の木々を
    ひっぱたいてゆく。ときには、飛び上がって高いところに
    ある枝を振り払う。これが、土光の早朝の体操だ。

    資料提供:土光敏夫 21世紀への遠産 志村温一部署 文系香机社より

  • 記念文庫

    記念文庫

  • 記念文庫

    記念文庫

  • 記念文庫

    記念文庫

48いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP