2026/07/29 - 2026/08/04
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watersportscancunさん
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皆さん、こんにちは。ウォータースポーツカンクン店長の吉田です。
本日は、先日の家族旅行記・第四章をお届けします。
この旅行記は日程を順番に追ったものではなく、旅の中で考えたことをテーマごとに分けて書いています。そのため、時間軸は前後へ飛び回ります。旅程表として読もうとすると、かなり混乱すると思いますので、最初から諦めてください(笑)
今回は、メキシコシティで巡った美術館とギャラリーについてですが、見た作品を一つずつ紹介していくと、旅行記ではなく、私自身も読み返したくないほど長い美術論文になりそうなので、特に強く印象に残った場所や作品、そして、そこから生まれた問いに絞って書いていこうと思います。
……と書きながら、すでにかなり長くなってしまっているので、美術館とギャラリーの話だけでも、やはり何回かに分けて書きます(笑)
美術に興味のない方には、なかなかの苦行になりそうですので、美術編を連続させることは避け、その間に食事やポップカルチャー、街で出会った出来事など、もう少し胃にも頭にも優しい章を挟んでいく予定です。
第四章で取り上げるのは、メキシコシティ中心部にある《Laboratorio Arte Alameda》
18世紀に建てられた旧サン・ディエゴ修道院を利用した、現代美術のための空間です。かつて人々へ信仰を教えた場所に、現代美術が入り込むと何が起こるのか。
そして、「教えること」は人間を自由にするのか。それとも、別の正解へ従わせることなのか。
少々ヘビーな話になりますが、実際にこの場所で感じた衝撃を、できるだけ分かりやすく書いてみたいと思います。
それでは、第四章。
覚悟してお進みください(笑)
***************************************
メキシコシティで訪れた場所の中でも、特に強烈だったのがLaboratorio Arte Alamedaである。旧サン・ディエゴ修道院として使われ、かつては宗教画を展示するPinacoteca Virreinalでもあった建物が、現在は現代美術のための空間になっている。
しかし、ここは単なる美術館ではない。
祈りのためにつくられた建築そのものが、作品の一部として残っている。
一般的なホワイトキューブとは違い、ここでは建物が背負ってきた宗教、教育、征服、支配の記憶から逃れることができない。そして、その空間に置かれていたのが、Josué Mejíaによる《Fábulas para dormir――眠るための寓話》というサイトスペシフィック・インスタレーションである。
会場となったドローレス礼拝堂は赤い光に包まれ、薄暗い空間には、版画を載せた円盤、黒い布、読書灯、古い教科書、鎌が配置されていた。
一つ一つの物を見れば、そこに何があるのかは分かる。
しかし、それらが礼拝堂の中へ置かれた瞬間、意味が変わる。
ここは宗教施設なのか?
学校なのか?
図書館なのか?
それとも、人間に一つの世界観を教え込むための装置なのか?
展示には、1930年代から40年代に労働者向けの夜間学校などで使われた読本や、LEARと呼ばれる革命的作家・芸術家集団の版画が用いられている。
識字教育は、人間を支配から解放する力になる。
文字を読めなければ、法律も労働契約も政治思想も理解できない。教育によって、自分が置かれている状況を知り、抵抗することも可能になる。しかし同時に、教育は国家が国民へ「望ましい正解」を教えるための装置にもなり得る。
何を教科書へ載せるのか?
誰を英雄として描き、誰を歴史から消すのか?
何を知識と呼び、何を迷信や無知として退けるのか?
読み書きを教えることと、特定の世界観を教え込むことは、どこで分かれるのだろう?
しかも、その展示が置かれているのは、かつて人々へカトリックの教えを伝えた礼拝堂である。
スペイン人がメキシコへ持ち込んだ教会もまた、先住民へ文字や技術を教える場所だった。一方で、それまで存在した信仰や宇宙観を否定し、別の正解へ置き換える場所でもあった。
宣教師は知識を持つ側。
先住民は、何も知らず、教えられる側
しかし、先住民は本当に無知だったのだろうか?
文字体系、暦、天文学、建築、薬草、農業、儀礼。
彼らはヨーロッパとは異なる方法で、すでに高度な知識を持っていた。にもかかわらず、征服した側の知識だけを「教育」と呼び、征服された側の知識を「迷信」として退ける。そこには、教える側が自分自身を正当化するための物語がある。
やがて革命後のメキシコでは、国家が教会に代わり、労働者や農民へ新しい社会の正解を教えようとした。教える内容は、カトリックの教義から、革命、労働、国民国家へと変わった。
しかし、「知識を持つ者が、持たない者へ正解を与える」という構造は、どこまで変わったのだろうか?
教会と国家。
宣教師と教師。
宗教画と教科書。
信仰とイデオロギー。
《眠るための寓話》という題名も皮肉である。
教育は、人間を目覚めさせるためのものなのか?
それとも、新しい物語を信じさせ、安心して眠らせるためのものなのか?
そして同じ建物の中で、この問いをさらに激しく突きつけてくる作品が続く。
宗教画に描かれた宣教師やイエスの顔が意図的に削り取られ、その傷口の奥から、アステカの神をかたどった石像の顔がこちらを覗いている。スペイン人はこの土地へ来ると、それまで存在した神々を「偶像」と呼び、神殿を破壊し、その上に教会を建てた。
新しい神が現れたのではない。もともとそこにいた神を地中へ押し込み、その上から別の神の像を被せたのだ。
この作品は、その歴史を逆方向から掘り返している。宣教師の顔を削ると、その奥から、消されたはずの神が現れる。しかし、完全な姿で復活するわけではない。ただ傷口の向こう側から、じっとこちらを見ている。消されたものは、なくなったのではない。
見えない場所へ追いやられただけなのだと分かる。
宗教画における顔は、単なる身体の一部ではない。神や聖人の権威が宿り、信者を見つめ返す場所である。その顔を削り取ることは、絵を破壊する以上に、そこに与えられていた絶対的な権威を、一度無効にする行為になりえる。
さらに凄まじい作品も展示されている。
神の降臨を描いた宗教画から、天使や神の顔が削り取られ、その顔の部分が穴になって向こう側が透けて見えるようになっている。そして、その絵が置かれた向こうは、ちょうど建物の明かり取りの窓がある。
想像の通り、その削り取られた神々の顔から、本物の太陽の光が射し込んでいるという作品である。
描かれた神を消したことで、初めて本当の光が降臨する。そこにはもう神の顔はない。それなのに、神の存在だけが以前よりも強くなっている。いや、これは本当にキリスト教の神の光なのか?
太陽は、キリスト教がこの大陸へ持ち込んだものではない。スペイン人が来る遥か以前から、太陽はこの土地の人々にとって、世界の秩序そのものだった。だとすれば、この穴から差し込んでいる光は、顔を失ったキリスト教の神が姿を変えて現れたようにも見えるし、その下へ押し込められていた古い神々が、別の形で戻ってきたようにも見える。
しかも、これは単純な復讐ではない。
キリスト教の神を排除し、アステカの神を元の場所へ戻せば済む話でもない。五百年という時間の中で、二つの信仰はすでに分けることができないほど混ざり合い、傷つけ合いながら、現在のメキシコをつくっているという事実がここで強烈に戻って来る。
だからこれらの作品は、新しい正解を置かない。表面を削り、傷を開き、その奥に別の像と光を覗かせるだけだ。
しかし、その穴を見た瞬間に問いが生まれる。
神とは、誰にとっての神なのか?
信仰と支配は、どこで入れ替わるのか?
他者の神を「偶像」と呼び、自分たちの価値観を「教育」や「救済」と呼ぶ権利を、いったい誰が持っているのか?
この二つの作品群は、普通の美術館へ移した瞬間、その力の多くを失う。かつて信仰を教えた礼拝堂へ国家教育の資料を置き、宗教画に穴を開け、その建物の窓から本物の光を入れるから成立している事が分かる。
壁も窓も、作品の背景ではない。
征服と布教の歴史を実際に見てきた建物そのものが、作品の一部なのだ。
私はここで、教育や信仰の価値を否定したいわけではない。
教育によって救われる人も、知識によって自由を得る人もいる。信仰によって生きる力を得る人もいるのだから。
ただ、
「私たちはあなたたちより多くを知っている。だから正しいものを教えてあげよう」
という善意ほど、時に強い支配へ変わるものはない。
誰が、誰を教育するのか?
何を知識と呼び、誰の知識を無知と決めるのか?
そして、教える側の正しさを、いったい誰が疑うのか?
そんなことを考えながら展示を見終え、帰り際にキュレーターの名前を確認しようと案内板を見た。そこで、最後にもう一つ、見事なオチが待っていた。
協賛・支援者の欄には、Fundación Jumex Arte Contemporáneo、Fundación Colección Jumexをはじめ、国家の文化支援制度や美術機関の名前が並んでいた。これだけ国家、資本、教育、宗教による支配へ皮肉を突きつけておきながら、その展示を支えているのが、巨大飲料資本から生まれたJumexの財団だったりする(笑)
ここまで含めて、一つの作品なのではないかと思ってしまった。
資本は、必ずしも自分への批判を禁止するとは限らない。むしろ批判するための場所を提供し、展示費用を支払い、その批判さえ文化的な価値として自らの内部へ回収していく。権力を批判する作品も、美術館へ入れば制度の一部となり、企業に支援されれば、その企業の文化的な評価を高めるものにもなる。
では、資本に支えられた資本批判は無効なのか?
それとも、資本の金を使って資本を批判することこそ、現代美術に残された一つの戦い方なのか。簡単に答えは出ない。ただ少なくとも、作品をつくる側も、展示する側も、それを見る私たちも、この構造の外に立っているわけではない。
削られた穴は空白ではなかった。それは塗り潰された歴史へ通じる入口であると同時に、宗教、国家、教育、資本が複雑につながる、現在の社会構造を覗き込む穴でもあったのだ。
礼拝堂を出たあとも、この問いは消えなかった。。。
……というより、少し考えすぎて、完全にお腹いっぱいになってしまった(苦笑)
本当はこのあと、さらに何軒かギャラリーを回る予定だった。しかし、もう一枚絵を見ても、頭の中へ入る余地がない。芸術にも一日の許容というものがある(苦笑)
そこで、まずはアラメダ公園を歩きながら、熱を持ちすぎた頭を少し冷やすことにした。木々の下を歩き、露店や行き交う人々を眺めているうちに、教会、国家、教育、資本について考えていた私たちが、なぜかどこをどう変更してそうなったのか、気が付くと雑多な店が並び、人と商品と音が入り乱れる街の中にいた。
おもむろに娘が言う。
「パパ、この近くに韓国のアイスが買える店があるから、ついでだしそこ行こう。。。」
ついでが最初から目的であったことに、その時気が付いた。。。彼女がスマホの画面を見ながら歩いていたからだ(苦笑)
旧修道院で五百年に及ぶ支配の構造を考えたあと、テピート方面で韓国アイスを食べる。。。
予定していたギャラリー巡りとは、ずいぶん違う一日になったが、旅とは本来こういうものなのだと思う。決められた場所を予定通りに消費するのではなく、一つの体験によって次の行動が変わり、思いがけない場所へ流されていく。
問いに満腹になったら、公園を歩けばいい。
それでも重ければ、韓国アイスを食べればいい(笑)
そんな脱線まで含めて、この日のメキシコシティは、忘れられない一日となった。
では、写真で旅を振り返ります。。。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
赤い光に包まれた礼拝堂と、宙に浮かぶ版画の円盤。建築と作品の境界が消え、祈りの空間そのものがインスタレーションへ変わっています。
-
宣教師が先住民へ教えを与える壁画。その足元には、読書灯と革命後の教育を象徴する読本が置かれています。宣教師と教師、宗教と国家が、一つの空間で重ねています。
因みに、この読書灯と教科書は、カルデナス政権下の1930年代、労働者や農民の夜間学校で使われた教科書が置かれています。
当時のメキシコは「社会主義教育」を掲げ、読み書きを教えるだけでなく、労働、貧困、階級、そして資本家による搾取について考えることまで教育の中に組み込んでいました。
しかも、挿絵を手がけたのは、革命思想を芸術によって広めようとした **LEAR(革命的作家芸術家同盟)**の芸術家たちです。
メキシコも革命後はかなり社会主義へと国家そのものが揺れていた時代です。 -
ところがここが歴史の皮肉です。
革命を制度化していった国家は、やがてPRIによる長期支配へと姿を変え、経済成長と資本との結びつきを強めていく。
その結果、1960~70年代には、かつて国家自身が「搾取とは何かを考えろ」と教えたはずの労働者、農民、学生たちが、今度は国家そのものを問い始めることになります。
すると国家は、「考えろ」と教える側から、「それ以上考えるな」と抑え込む側へと回っていくのです。
忘れないでください。この革命教育の教材が展示されているこの場所は、かつて別の「正しさ」を人々に教えていた教会の礼拝堂です。
宗教から国家へ
革命から体制へ
教育から統制へ
教育とは誰のためにあるのか??
そして、「正しい世界」を決めるのは誰なのか??
この問いは、このあと別の美術館で目にすることになる、真っ黒な部屋の中に残された国家暴力の記憶へと、思いがけずつながっていきます(続章でこのインスタレーションについては触れます)
メキシコは「死のフライト」と言われる国民虐殺まで行うようになります。。。 -
この教会そのものが、かつてのアステカ帝国の都、テノチティトランの上に築かれた植民地時代の建築である事を展示しています。
つまりこの空間で、征服以前の世界の上にキリスト教が重なり、その宗教空間の中に、今度は革命後の国家が作った社会主義教育の記憶が持ち込まれている。
征服、宗教、革命、国家、教育。
異なる時代の「正しさ」が、同じ場所に幾重にも積み重なっている。だからこそ、この作品はここでしか成立しえないインスタレーションになっているのです。
作品だけを切り離して別の美術館へ移せば、途端にその意味の多くを失ってしまう。そして写真に撮って記録することはできても、この礼拝堂に立った時の空気、天井の高さ、光、静けさ、自分の身体と作品との距離まで写し取ることはできない。
写真で伝えられるのは、おそらく半分だけです。
この場所に実際に来て、この空間に自分の身体を置いた人間だけが感じ取れるものまで含めて、作品になっている。
だからこそ、「訪れる」という行為そのものに意味が生まれ、それ自体が作品の一部になっている。
ここに現代美術の強さと面白さがあるのだと思います。
100億円だから価値がある、というような「所有すること」を中心とした価値とは少し違う。作品を高価な物体として持ち帰るのではなく、今、この場所、この瞬間にしか成立しない「問いを生む装置」として経験する。
持ち帰ることはできない。
写真でも完全には残せない。
けれど、そこで自分の中に生まれた問いだけは持ち帰ることができる。
それこそが旅をすることの意味にも、実は繋がっていくのです。 -
聖職者の顔だけが削り取られ、その奥から別の時代の顔が現れる。権威の象徴だった顔を消すことで、覆い隠されていた歴史がこちらを見返します。
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キリスト教の聖人の内部から、先スペイン期の石像が姿を現します。新しい信仰が古い神を消したのではなく、その上を覆っていただけだったことが視覚化されています。
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磔刑上のキリストは、その身体だけを切り抜かれてることで、空白になった輪郭によって、かえってその存在を強く浮かび上がらせています。
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そしてこれが今回一番の強烈なインスタレーション。。。
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神や天使の顔を削り取った穴から、本物の太陽光が差し込む。神の姿を消したことで、初めて「降臨」そのものが現実に起きているように見せる作品。
こちらについては、本文で触れているので、繰り返しません。。。しかし、この空間に入った時の、不思議な感覚は今でも忘れる事が出来ない。。。 -
教会を出ると二匹の猫が、まるでコピペしたように全く同じ格好で日向ぼっこをしていました。
それを見た娘が一言。
「なんでこの猫たち、同じ格好で寝てるんだろう?」
……確かに、なぜだろう??
そして困ったことに、私自身もその問いに一瞬真剣に頭を巡らせてしまいました(苦笑) さっきまで「これは何を意味しているのか」「なぜここに置かれているのか」と問い続けていたせいで、娘と同様、私もすっかりコンセプチュアル・アートの世界から抜け出せなくなっていました。
どうやらこの時点で、親子ともども現代美術でかなり満腹になっていたようです。ただの猫の昼寝にまで意味を探し始めたら、そろそろ休憩の時間です(苦笑) -
しかし、教会を出ても、メキシコシティは終わらない。
行政のポスターの上に、別の紙が貼られ、剥がされ、落書きが重ねられ、さらにその上から別の誰かが自分の痕跡を残していく。
先ほどまで美術館の中で見ていた《Pentimento》が、今度は街の壁で無署名のまま続いているように見えて来る。。。
計画された現代美術よりも、こちらの方がよほど正直な「都市の地層」かもしれないな。。。などと、再び考えはじめて止まらなくなる(汗) -
若いというのはいい。切り替えが早い(^^;
教会を出たあとも、猫の寝姿にまで意味を見出そうとしていた先で、娘は懸命にスマホをのぞき込んでいました。
てっきり彼女も、その延長で何か調べているのだと思っていたのですが……どうやら違ったようです。気がつけば、私は娘に巧妙に誘導され、アルメダ公園を抜け、雑多な店が並ぶテピート方面、、、辿り着いたのは、娘のお目当てだった韓国食材店でした(汗)
そこで購入したのは、何でも今流行りの韓国アイス(笑)
娘はとっくに「教育とは誰のためにあるのか」という世界から、「どのアイスを食べるのか」という現実世界へ帰還していたらしい(笑)
冷たいアイスを口にすると、教会、革命、社会主義、国家、教育……と、散々ヒートしていた頭が、ようやくクールダウンしていくのが分かりました。
現代美術のあとは、アイスくらいがちょうどいい。
……と思ったら!!
一個、約1,500円
今度は別の意味で頭がヒートしてしまいました(笑)
「資本家による搾取とは何か」を考えさせる展示を見た直後にしては、妙にタイミングがいい(苦笑)
とはいえ、これは国家による社会主義教育ではなく、娘による巧妙な消費誘導ですが。。。(笑)
しかし、どうやら私は、教会を出てもまだ「誰が誰を導いているのか」というテーマから逃れられなかったようです。 -
さて、韓国アイスを買ったところで夕食にはなりません。
この日の夕食はどうしようかと考えていたところ、家族から返ってきたのは、前日にも聞いた同じ言葉。。。
「食事でまで疲れたくない」(苦笑)
再び同じことを言われ、私が頭の中で組み立てていた“食文化まで含めて思考する旅は、あっさり却下されました。
そして向かった先は、なんとまたしても日本食(汗) -
シティにある日本食居酒屋、その名も「ワンワン酒場」へ行くことになりました(笑)
旧修道院で宗教と教育、植民地主義と国家、さらには資本の構造について散々考え、テピート方面の雑踏を歩き、韓国のアボカドアイスを買い、最後は日本式居酒屋へ。
こうして並べてみると、この脈絡のなさこそ、現在のメキシコシティそのものなのかもしれません(^^;;
もっとも、この店もまた「本物の日本食とは何か」という、別の問いを私に投げかけてくることになるのですが――それは、また後の章で触れる事にします。
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