2026/09/11 - 2026/09/16
891位(同エリア2018件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2026/09/11
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飛行機での移動
羽田空港:11時10分発~デリー空港:16時30分(ANA NH837便)
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徒歩での移動
インディラ・ガンディ国際空港 第3ターミナル
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車での移動
デリー空港~ホテル(ハイアット・セントリック・ジャナックプリ・ニューデリー)
2026/09/12
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Metro Station Janakpuri West
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朝食(ホテル・ビュッフェ)
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車での移動
ホテル~フマユーン廟
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車での移動
フマユーン廟~クトゥプ・ミナール
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車での移動
クトゥブ・ミナール~ランチ
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車での移動
ランチ~アグラ
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この旅行記スケジュールを元に
当初2026年は、カタール航空を利用して、アイルランド旅行の予定でした。
ただ、ホルムズ海峡の封鎖・・・・中東を経由するのは諦めました。
とりえあずアイルランドはまたの機会に。
そして、その次の候補がオーストリア・チェコ旅行でした。
ただ、夫がヨーロッパはイランを越えて行くので、止めておこうと。
そこで目を向けたのがアジアでした。
特に昔から行きたいと思っていたのが「タージマハル」。
後回しにしていたインドに行くことにしました。
「インド」はあまりにも有名です。知らない人などいません。
ただ、一言でインドを説明することは困難です。
まず2026年のインドの総人口は約14億7,662万人です。
2023年には中国を抜いて世界第1位です。
そして世界の人口の約17.8%を占めています。
次に2011年の国勢調査の結果、宗教については以下のとおりです。
ヒンドゥー教は79.8%
イスラム教は14.2%
キリスト教は2.3%
シク教1.72%(頭にターバンを巻いてます。)
仏教は0.7%(発祥の地でありながら、現代のインドでは少数派です。)
ジャイナ教 0.37%(非暴力と厳格な菜食主義です。)
ゾロアスター教、ユダヤ教、土着の信仰は約1.1%
そんなインドに実際に足を運んで、インドの空気を感じ、喧騒・混沌を実感しました。
特にインドは若者が多い国です。そんな意味でも溢れるエネルギーを感じました。
【旅程】
9月11日(金)
羽田空港発:11時10分発 ANA NH837便 ★
デリー空港着:16時10分 ★
ホテルへ ★
9月12日(土)8時ホテル発
フマユーン廟入場観光 ★
クトゥプ・ミナール入場観光 ★
デリーからアグラへ移動 ★
アグラにてハイティー ★
ホテルへ ★
9月13日(日)8時ホテル発
タージマハル入場観光
アグラ城入場観光
アグラからジャイプールへ移動
アバネリのチャンド・バオリ観光
ホテルへ
9月14日(月)8時30分ホテル発
風の宮殿観光
アンベール城入場観光
ジャンタル・マンタル入場観光
9月15日(火)7時ホテル発
ジャイプールからデリーへ移動
デリーにて買物
空港へ
デリー空港発:18時00分発 ANA NH838便
羽田空港着:5時55分着
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- その他
-
インド旅行は入国までにいくつかの準備が必要です。
●まず、ビザが必要です。現在3つのタイプがあります。
1 スティッカービザ(一般的な大使館で申請するタイプ)
2 アライバル・ビザ(現地空港で取得するタイプ)
3 e-visa(オンラインで申請できるタイプ)
アライバル・ビザはかなり混むとの情報だったので、私はe-visaを取得しました。
質問事項がいくつかあります。
A パーソナル情報(婚姻状況、宗教、身体的特徴等)
B パスポート情報
C 申請者の連絡先(住所、電話番号、Email)
D 家族の詳細(父・母・配偶者名、両親及び祖父母のパキスタン国籍等)
E ビザについて(旅行者用、〇年用、入国回数、旅行日、出国港)
F 目的(滞在先、予約ホテル、旅行会社名(住所)、ホテル(住所)、犯歴、亡命歴、学歴)
G 職業詳細(職業、役職、会社名、住所、電話番号)
H インドと日本の連絡先(住所、電話番号)
I 宣言(他のパスポートを所持してない等々・・・)
この質問の中には、えっ!と思うものもありました。
そして写真についても、通常のサイズとは違いますのでご注意ください。縦長ではなく、正方形サイズです。
なお写真については下記に回答させていただきました。
https://4travel.jp/os_qa_each-86904.html
ビザ申請料は25ドル(5月16日、日本円で4,262円でした。)
● e-arrivalの申請
最近は紙の入国カードから事前にオンラインで申請するタイプになっています。
72時間前から申請ができます。
実際には72時間前の前日に申請できました。
● Air Suvidhaの申請
インド渡航の全ての国際線の旅客に対し、オンラインの健康自己申請が義務化されてます。72時間前から申請できます。
これは昨今のエボラ出血熱などのコンゴ、ウガンダ、南スーダンなどの国への渡航歴、フライト便名や座席等々の質問があります。) -
ミールサービスです。
私の座席は1番後ろでした。
従って降りるのが1番最後でした。
↓
入国審査に向かって歩いていると、何やら行列ができていました。
Biometric Registration (For first time travellers)とありました。
初めてのインド入国者は生体認証登録をする必要があるようです。
場所は入国審査のエスカレーターを降りる手前の左にありました。
パスポートを翳して、両方の親指、右左の他の4本の指、顔認証・・・。
指紋がうまく撮れず、係員に手を押してもらいました。
なぜか周囲の人は全員指紋を採ってましたが、夫はパスポートだけでOK
なぜかは不明です???
↓
その後は、事前に「地球の歩き方」で確認していたe-visaのイミグレカウンター31-38番に行きました。ただ、ちょっと様子が違います。確認したところあっちだと言われました。
行ってみると、掠れてほぼ見えない字で「e-visa」と微かな表示がありました。
確か41以降だったと思います。(-_-;)
その後は列の最後尾に並び、順番を待っていました。隣はクルーのカウンターで、早くもANAのクルーがやってきてスムーズに済ませてました。
ようやく私たちの前の前の順番になって、横から車いすのご家族がやってきました。そこで暫く時間がかかりました。隣のカウンターの人たちはスイスイ終わってます。(-_-;)
そして、ようやく私の番になり、念のためにプリントしていたe-visa等の書類を提示しました。
ところが、私は旅行会社からの最終連絡に記載されていたAir Suvidhaの申請を見落としてしまっていのたです。(-_-;)
そのため、この申告書がないと入国できない、と指摘されてしまいました。
実は今年の6月25日からインドに入国する国際線利用者は、この健康登録書を提出しなければなりません。
そのため、一旦並んだ列から離れて、QRコードの表示されている場所まで行きました。
さらに悪いことは続くもので、空港内のwifi状態は悪く、端末でパスポートを読み込ませたりログイン用のIDやパスワードが必要になります。手っ取り早く、ドコモの「世界そのままギガ」に接続して申請することに。入力完了して、最後にメールに6桁のパスワードが送られてきてコピペしようとして、スワイプしました。その瞬間、何かの間違いで画面を消去してしまい、せっかく申請が完了する直前でやり直すことに・・・・。この時点で非常に焦ってました。
なにしろ現地のガイドさんを待たせています。
冷や汗をかいていると現地のANAの職員がやってきました。それもそのはずバゲージクレイムに残されているのは私たちの荷物だけ。
事情を説明したろころ、「私がしてもいいですか?」と入力してくれました。ただ、残念ながらアドレスの確認ミスで、いくら待っても反応なしです。しまいには用紙を持ってきてくれて、その紙で申請することになりました。
皆さんも、このような事のないようお気をつけください。
※ 現在インド・ルピー(INR)は日本では、両替できる場所が少ないです。
基本的にインド国外への持ち出しが認められていないようです。
そのため日本国内の銀行でもできません。
私はトラベレックスのオンラインを利用しました。また夫の分は羽田空港第3ターミナルの京急近くのトラベレックスでしました。
全て500ルピー紙幣のみでした。
2026年10月11日のレートは、1ルピーが1.64円
2026年8月30日のトラべレックスのレートは、1ルピーが2.15円でした。
かなりお高くつきましたが、入国に手こずったので、事前に両替しておいて良かったと思います。 -
軽食です。
9月12日から13日まで、第18回 BRICS summit(ブリックス・サミット)が開催されました。
事前に「たびレジ」に登録してましたので、メールでお知らせがありました。
到着した日は11日、多くの店舗など閉まっているとのこと。
既にVIPは到着しているようです。
ブラジル・ロシア・インド(議長国)・中国・南アフリカ・エジプト・エチオピア・イラン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦(UAE)・インドネシアが参加国です。
BRICKのBはブラジル、Rはロシア、Iはインド、Cは中国、Sは南アフリカです。 -
まずは、ガイドさん、運転手さん、長らくお待たせして申し訳ありませんでした。
それでも笑顔でお迎えしてくださいました。
インドはこの時期はモンスーンです。この日も昼頃までは天気でしたが、ザーーッと通り雨があったようです。ただ、この時間帯は雨は上がっていて、空港から外に出ると物凄い湿気を感じました。
さて、写真はデリーの市内ですが、街中に象の像がありました(*^-^*)
インドで象は知恵、力、繁栄、幸運、忍耐を象徴しています。象の神であるガネーシャもいます。 -
こちらはAIに生成してもらった画像です。
窓から写真は撮ったものの、全体的な様子が撮れなかったのでAIにお願いしてみました。
3車線道路を、こんな感じで、クラクションの音がビービー鳴り止みません。
いつぶつかってもおかしくないような状況でした。 -
Hyatt Centric Janakpuri New Delhi
(ハイアット・セントリック・ジャナクプリ・ニューデリー)
ロビー付近の様子です。 -
こちらはお部屋です。
空調の効きが良く寒いくらいでした。
そのため、夜は空調をOFFにして眠りました。 -
壁にはフマユーン廟などの絵が描かれています。
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こちらは夕食のレストランです。
機内で一緒だったJTBのツアーの方々とご一緒でした。
今回は全員1人旅との事でした。 -
ビュッフェ形式の夕食です。
早速、現地のビール、キング・フィッシャービールをいただきます。
入国審査でヘトヘトで食欲もありません。
とりあえずは、お腹を壊さないように注意しながらチョイスしました。
ジュース、フルーツ、サラダはパス。
なにしろ、エジプト旅行の際に、かなり気をつけていたにもかかわらず、お腹を壊した前歴があります。食事などには人一倍注意しました。
結果、ちょっと味気ない盛り合わせになってしまいました。(-_-;) -
デザートは色々ありましたが、この2つに。
吃驚するほど甘かったです。 -
夕食の後は夫の喫煙タイムに付き合って外に出てみました。
念のために旅行前に確認したところ、インドでは電子タバコは禁止されています。
煙草の持ち込みも、AIによると100本と制限がありました。
喫煙できる場所も決まっているので注意が必要です。
ただ、このホテルでは、メインエントランスに向けてスロープを登った右の端が喫煙可能な場所でした。 -
12日の早朝の様子です。
ハイアット セントリック ジャナックプリ ニューデリー ホテル
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ホテルの向かいは駅のホームです。
左右両側にはショッピングモールもあります。 -
こちらはホテルの左隣になります。
部屋から大きなエスカレーターが見えました。 -
ホテル前の通りはNajafgarh Road(ナジャフガー・ロード)です。
まだ朝早いため人も少ないです。 -
そしてMetro Station Janakpuri West(ジャナクプリ・ウエスト・メトロ駅)です。
この駅は日本が造ったそうです。そして電車は韓国とのこと。 -
自動改札です。
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朝の散歩から戻りました。
実はこのエスカレーターホールですが、よく見るとエスカレーターの側にはインドの地図がありました。
インドはデカン半島の中心部だけでなく、バングラデシュやブータンを挟んで、ダージリンやアッサムが北東の端に出っ張っています。 -
朝食にやってきました。
昨日と同じレストランです。 -
ジュースはやっぱり諦めて、カフェラテにしました。
夫はジュースを飲みましたが、何も問題なし。
でも、私は経験上、やめておきました。
それと、このソーセージはチキンソーセージです。
インドでは牛は神聖ですので食べません。
また、イスラム教徒は豚は食べません。 -
最後にチャイをいただきました。
グラスに入ってますが、ホットです。 -
ガイドさんとは8時にホテルロビーで待ち合わせ、いよいよ観光に出かけます。
道には2匹の牛がいます。
昔からよく牛が道を歩くことは聞いていましたが、現在でもちゃーんといました。
中央分離帯で草を食んでいたり、道路の隅っこでゴミを食べていたり・・・。
中には混雑している道路を、のんびり歩いている牛もいます。牛は神聖ですので、車はみんな避けて行きます。 -
この日はブリックス・ サミットの会議が近くで行われました。
こちらはフマユーン廟のチケット売場です。 -
今回は行きませんでしたが、「フマユーン廟世界遺産博物館」がこの先50m先にあるようです。
ニザームッディーン地区の700年にわたる遺産などを所蔵しているようです。 -
ゲートでは、このチケットを使用します。
今回観光した場所全てが、入場の際にこのようなコインを使用しました。
最後には返すシステムになっています。 -
門から入った先です。
時間的にも早かったせいか、観光客は少なかったです。 -
廟内の庭園です。芝生も綺麗に整えられています。
遠くに門が見えます。 -
美しい庭園です。
このフマユーン廟の庭園はチャールバーグ(四分庭園)で、建築と自然が融合した美しい庭園です。 -
かなりボケていますが、朝早かったので、人はほとんどいません。
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Bu Halima Enclosure (ブ・ハリマ門)
元々は白ではありませんが、風化や光の当たり方、そして近年の修復作業(古いセメントの除去など)によって、このように白っぽい砂岩や漆喰の淡い色になりました。
門の2階部分に大きなアーチ状の空間があります。バルコニー窓で特徴的な形をしています。
Bu Halima(ブ・ハリマ)というのは、皇帝フマユーンの乳母または宮廷の貴婦人でした。
この門は、ブ・ハリマの墓園へと続いています。
タイル細工の痕跡は今も残っています。庭園の西側の壁は、訪問者が通行できるように10世紀に破壊されました。 -
Arab Sarai Gateway(アラブ・サライ門)
・・・・1560~61年
この門は、過去100年の間に一部が崩壊し安定性が損なわれました。
そのため保存修復作業は、崩壊したアーチ、ヴォールト、木製門、床と台座、ファサードの砂岩ブロック等が含まれていました。
アガ・カーン文化財団はドイツ大使館の共同出資を受け、インド考古調査局と提携して、2013~14年にこの遺跡の修復を行いました。
ニッザームッディーン都市再生プロジェクトに沿って、熟練の職人が伝統的な材料、道具、建築技術を用いて修復作業を行いました。2015年、保存修復後、この16世紀の門は、フマユーン廟の世界遺産に登録されました。
【木製門の修復】
左:元の木製の扉は、長年の風雨、湿気で劣化していました。
右:扉は取り外され、元の材料、腐食した木材部分を新しい物に交換されました。
【ムガル様式のタイル装飾の修復】
門の建築記録に基づき、天蓋のタイル装飾が修復されました。これにより、ムガル時代の建造物が本来の壮麗さを保ち続けるため最終的な仕上げが施されました。
【入口ホールの修復】
既存の壁龕の設計と形状に基づき伝統的な材料と技術を用いて、崩落した入口室を再建します。 -
インディアン・バニヤン(ベンガル菩提樹)
ガジュマルの木のようです。
枝から何本も細く紐のように気根が垂れ下がっています。
赤砂岩の囲い壁に囲まれています。 -
West Gate(西門)
ブ・ハリマ門からまっすぐ直進すると、この西門に突き当たります。
高さは16mあります。
こちらは正にムガル帝国建築という感じです。赤砂岩と白大理石のコントラストが美しい門です。
門の壁面(左右の上部など)をよく見ると、六芒星のような幾何学模様が彫られています。 -
大きなアーチ型通路に入り、中の暗い通路から、太陽の光を浴びて輝くフマユーン廟の本堂がドラマチックに見えます。
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フマユーン廟展
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門の左右の部屋には展示物がありました。
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まずは、廟を先に観ることにします。
後で寄ります。 -
Humayun's Tomb(フマユーン廟)
この時間は8時40分位です。
この美しい景観をほぼ独占です。
目の前を歩いているのはガイドさんだけです。 -
インド考古学調査局によると、この修復プロジェクトを実施するにあたり、30エーカーの庭園が周囲にあり、他の保全作業とともに、3kmの水路が修復され、3.5kmの歩道の緑が修復されました。
約3,000台分のトラックの余剰土が除去され、4kmの砂岩が削られ、当時のムガルに好まれた2,500種の植物が植えられました。
また、25,000平方メートルの歩道が復元され、雨水収集システムが導入された井戸が発見されました。
そして車椅子でのアクセスが可能になりました。
かなり大掛かりなプロジェクトだったようです。 -
西門をくぐってすぐの場所から庭園を見渡すと、まっすぐ伸びる水路の先にフマユーン廟の本堂がそびえ立ち、水路と建物が完全に左右対称(シンメトリー)になる美しい絶景を見ることができます。
この美しさに魅かれて、インドに来ました。
教科書でタージマハルを学んだ時から、1度はインドに来てみたいと思ってました。
それが実現し、タージマハル以前に、ここに既に建築されていたことを知りました。 -
このフマユーン廟は、インド初の本格的なイスラム建築です。
尖塔型のアーチ、ペルシア建築由来の巨大なドーム、そしてインド独特の工芸技術である象嵌細工とチャトリと呼ばれる小塔など、ペルシア、イスラム、インドの伝統的様式が融合した建造物です。
ちなみに白いドームは大理石です。フマーユーン廟 史跡・遺跡
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水の循環を計算した高度な仕組みの庭園の主役は「流れる水」です。
水が溜まっているのではなく、水路にわずかな傾斜がつけられ、敷地内の井戸から汲み上げられた水がゆっくりと絶え間なく流れる仕組みになっていました。
水路が交差する場所には、四角形や八角形の美しい池や噴水が設けられており、涼しげな空間を作り出します。
特に暑さの厳しいデリーにおいて、王族たちが涼むための癒やし空間だったのです。
インドにペルシャ様式の四分庭園を本格的に導入し、「庭園の中に巨大な墓廟を建てる」というスタイルを最初に取り入れたのが、このフマユーン廟です。
この美しいデザインと哲学は、のちに造られる「タージ・マハル」の完璧なモデルとなりました。
フマユーン廟での成功があったからこそ、タージ・マハルが誕生したと言っても過言ではありません。 -
この緑のネットが、とっても残念です。
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階段です。
急な階段です。
足元にお気をつけください。 -
2階に登って来ました。
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アーチ状天井をもつイーワーンです。
イーワーンは一方が完全に開き、三方が壁に囲まれて天井がアーチ状になっているイスラム建築の空間です。
主に赤色の砂岩からできていますが、白色の部分は大理石になっています。
そして幾何学的な文様のデザインで、象嵌の手法も採り入れられています。 -
あちこちに六芒星が描かれています。
六芒星はユダヤ教のダビデの星を連想します。
イスラム教では預言者ダーウードです。
五芒星は、イスラム教では預言者スレイマン(旧約聖書ではソロモン)です。
皇帝フマユーンは占星術・天体観測びいきでした。息子である第3皇帝のアクバルが、父を偲んで、この廟を造った際に、宇宙の調和や天体の運行(魔除けや縁起の良い宇宙的シンボル)を表す意匠として取り入れたようです。
また、この他にも中東やイスラム世界や古代インドの伝統において「完全さ」「調和」「安定」「宇宙の結合」を示す装飾・護符のモチーフとして使われていました。 -
廟から西門方向の様子です。
四分庭園であることがわかると思います。
またしても、工事の緑のネットが残念ですが・・・・(-_-;) -
透かし彫りの窓(ジャリ)です。
壁には、大理石や赤砂岩を細かくくり抜いた「ジャリ」と呼ばれる繊細な透かし彫りのスクリーン窓がはめ込まれています。直射日光を遮りつつ、レースのような幾何学模様の影と柔らかな光だけを室内に落とすため、幻想的な雰囲気です。 -
廟内には入れませんが、覗いて見ました。
室内はイスラム建築で「楽園」を象徴するオクタゴン(八角形)の構造をしています。中央の広い主墓室を囲むように、角にも小さな部屋が配置されています。
主墓室は、外観の華やかさとは対照的に、厳かで洗練された空間になっています。
中心には皇帝フマユーンの石棺が安置されています。
※本物の遺体は地下に埋葬されており、見えているのはレプリカだそうです。
中央が皇帝フマユーンの棺のはずです。
中央ではなく、周囲の少し小さな部屋や通路にある石棺は、フマユーンの妻(ハジ・ベグムら)や、のちの時代に亡くなった皇子、皇族たちの棺です。
実はフマユーン廟には150人以上の皇族が眠っているため「ムガル帝国の寄宿舎」と呼ばれています。
フマユーン廟にあるたくさんの石棺には名前が刻まれていません。その代わりに、棺の上に彫られた「記号」で性別が見分けられるようになっています。
男性の棺は、上面に「筆箱(筆記用具の箱)」の形が彫られています。当時、公の文書や命令を書くための筆箱は、男性(統治者や戦士)の象徴でした。
女性の棺は上面に「書板(文字を書く平らな板)」の形が彫られています。これは、男性から発せられた命令を受け取る側の象徴とされています。
皇帝フマユーンの棺には、もちろん立派な「筆箱」が彫られています。 -
ムガール帝国の創始者はバーブルです。
バーブルは中央アジア(現在のウズベキスタン)のフェルガナに生まれました。
元々はティムール朝の流れを汲みます。またバーブルの母はチンギス・ハーンのモンゴル帝国系です。バーブルが生まれた頃は、ティムール朝は衰退の一途を辿っていました。そして滅びました。
ムガール帝国の君主は次のとおりです。
初代:バーブル(在位1526年 - 1530年)
2代:フマユーン(在位1530年 - 1540年、1555年 - 1556年)
3代:アクバル(在位1556年 - 1605年)
4代:ジャハーンギール(在位1605年 - 1627年)
5代:シャー・ジャハーン(在位1627年 - 1658年)
6代:アウラングゼーブ(在位1658年 - 1707年)
・・・・・・・・・
17代:バハードゥル・シャー2世(在位1837年 - 1858年)
インド大反乱によりビルマへ追放→ムガル帝国の滅亡 -
フマユーン廟とは、ムガール帝国の第2皇帝フマユーンの墓のことです。
フマユーンは戦いに敗れてペルシアに亡命し、その後、ペルシア(サファヴィー朝)の支援を受けてアグラとデリーを奪還しました。
ただし1556年に事故で亡くなってしまいました。詳しくは別途記します。
1565年、ペルシア出身の王妃のハミーダ・バーヌー・ベーグムは、亡き夫のために墓廟の建設を命じました。この王妃は、フマユーンの最初の最愛の王妃だったそうです。
ただ、実質的な建設は、フマユーンの息子である第3代皇帝アクバルの治世下で行われ、約7年の歳月をかけて完成しました。
1565年~1572年かけて建設されました。 -
周囲を見回してみました。
白い建物が見えます。拡大して見るとかなり劣化していますが、こちらも誰かは不明ですがムガル時代の廟です。 -
ヨガで瞑想をしているのでしょうか・・・。
あるいは、ヴェーダ吟唱でマントラを唱えているのでしょうか。
いずれも、インドでは無形文化遺産になっています。 -
「ムガル帝国の寄宿舎」
実は、ここにはフマユーンだけでなく、歴代の皇妃や皇子など、150人以上の皇族が埋葬されているため、こう呼ばれることもあります。
ムガル帝国の終焉の地(1857年)でもありました。
インド大反乱(セポイの乱)の際、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世がイギリス軍に追われ、この廟に逃げ込みました。彼はここで捕らえられ、ムガル帝国は事実上崩壊しました。 -
遠くに見える白いドームはGurdwara Damdama Sahib(グルドワラー・ダムダマー・サーヒブ)です。
これはシーク教の寺院で1783年に建てられました。
グル(グル・ゴービンド・シン師)と王子の出会いの場所として知られています。
白い大理石の建物で、ここから見てもドームが美しいです。 -
1947年のインド・パキスタン分離独立の際には、数万人規模のイスラム教徒の難民キャンプとして使用され、一時期は建物や庭園が大きく荒廃しました。
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この廟はペルシャ人建築家ミルザ・ギヤースを招いて設計されたため、伝統的なペルシャ様式と、インド独特の赤砂岩の建築技術が融合しています。
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Barber's Tomb(ナイ・カ・グンバッド)床屋の墓
廟内から眺めました。
このように皇帝のすぐ側に床屋さんの墓があるのには理由があります。
当時、皇帝の喉元にカミソリを当てられる理髪師は、暗殺を防ぐためにも、絶対に裏切らない、最も信頼された側近でなければなりませんでした。
そのため、皇帝の近くにお墓を建てることが許されました。
逆光でよく撮れていませんが・・・・・。 -
Barber's Tomb
四隅に青いタイルで飾られた小さなドーム(チャトリ)が載っています。
フマユーン廟と似ています。職人としては破格の贅沢さで造られました。
なお、本廟が1570年に完成した少し後の1590年代の建築のようです。ムガル帝国全盛期の高い建築技術が詰まった建物です。 -
フマユーン廟の東にはヤムナー川が流れています。この川はアグラにあるタージマハルの側にも流れています。
ヤムナー川はインド北部を流れる全長1,370kmの川です。
ガンジス川最大の支流です。
今回はヒンドゥー教の聖地、Varanasi(ヴァラナシー)には残念ながら行きませんでした。(本当は行きたかったのですが。)
インドの母なる大河であるガンジス川(ガンガー)とその岸辺には84のガートがあります。ガートは沐浴場ですが火葬場になっているものもあります。
ヒンドゥー教は輪廻転生の思想があります。輪廻から解脱して天国にいくためガンジス川に遺灰を流します。
関連書物として、遠藤周作の「深い河」は、考えさせられる内容になっています。 -
格子(ジャリ)は、よく見ると外側が広く、内側に向かって細くなるように絶妙な角度で石が削られています。
これは、中にいる女性(皇族)たちが外の景色をはっきりと見られる一方で、「外にいる一般の人からは、中にいる高貴な女性たちの姿が見えないようにする」という、当時のイスラム世界のプライバシー(パルダ制度)を守るための、高度な建築の知恵でもあります。 -
イスラム教は偶像崇拝が禁止されています。
そのため神の創造した宇宙の秩序を表現する方法として、数学的・幾何学的文様が発展しました。
この星型モチーフは宇宙や天界を象徴しているかのようです。
白い壁面に赤茶色のラインが配置されています。
格子上の窓はJali(ジャリ)と呼ばれる石彫りの透かし窓です。
直射日光を遮り、涼しい風と光を取り込めるようになっているようです。 -
こちらは連続したアーチ構造になっています。この廟を支える基壇の側面です。
よく見ると柱の部分には八角形の星型文様があります。
イスラム建築ではKhatam(ハータム)、Rub el Hizb(ルブ・エル・ヒズブ)と呼ばれる神聖なシンボルです。
イスラムでは、楽園には8つの門があると信じられています。ここは地上の楽園なのです。
また、赤砂岩の表面を彫り込み、カットした白大理石をはめ込んだインレイ(象嵌)を施してあります。これは高度な技術です。
また、尖塔アーチが規則正しく等間隔で続き、奥行きとリズミカルな美しさ、そしてシンメトリーのルールで統一されてます。 -
このペルシャ式庭園(チャールバーグ)敷地内は、格子状の水路で4つに区切られた「四分庭園」が広がっています。これはインドで初めて導入された本格的なペルシャ式庭園であり、「地上の楽園」を表現しています。
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※ これはフマユーン廟ではありません。
こちらはスペインのアルハンブラ宮殿です。
ナスル朝の王宮です。
1238年に着工し150~170年にかけ増改築が重ねられました。
そして1492年には陥落しました。
フマユーン廟は1565年着工で1570年に完成しています。 -
※ これもフマユーン廟ではありません。
アルハンブラ宮殿のライオンの中庭です。
フマユーン廟は、アルハンブラ宮殿などのスペインのイスラム建築から直接影響を受けたわけではありません。
ただ、どちらも自然と幾何学建築が調和しています。
このように水盤や噴水、十字の水路、水と幾何学模様の楽園です。
共通点があるように思い、2枚の写真を加えました。 -
1990年代以降、アーガー・ハーン文化トラスト(AKTC)とインド考古調査局(ASI)によって、大規模な復元プロジェクトが実施されました。水路に再び水が通され、当時の美しい姿が見事に蘇りました。
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涼し気な噴水です。
実はフマユーンについて、義理の妹が書いた回顧録があります。その中で、秘宮の設計についてこのように書かれています。
『秘宮は八角形の大きな建物である。そこで祝宴が行われた。その向かいにあるもう1つの小さな建物も八角形であった。それぞれ2つの八角形の建物の内部にはさまざまの装飾が施されていた。
宴会場である大きな八角形の建物の中には宝石をちりばめた玉座が置かれていた。玉座の上と下には金を刺繍した敷物が広げられ、1ガズ半(約1.5m)の長さの真珠の数が吊るされていた。各連の端には2個の反射するガラス製の地球儀が付けられていた。およそ3-40本の真珠の連が作られ、吊るされていた。
小さな八角形の建物の中には金をちりばめたカーテン付きの寝台の枠が置かれ、壁のいくつかの窪みには薬の容器、長音の瓶、宝石をちりばめた水差し、純金・純銀の製品が置かれていた。
西方には謁見室、東方には庭園、南方には大きな八角形の建物、北方には小さな八角形の建物があった。
これらの3つの建物の上には3つの上階がありった。
1つ目は「ハーナ・イ・ダウラト (幸運の館)」と呼んでいた。その中には戦争の武具、たとえば宝石をちりばめた刀、矢筒、黄金をちりばめた短刀付きのベルト、幅広の両刃の短刀、金の刺繍を施した矢筒覆いが置かれていた。
2つ目は「ハーナ・イ・サアーダト(至福の館)」と呼んでいた。
その中には、礼拝用の繊毯、書物、宝石をちりばめた筆入れ、見事な紙入れ、細密画やアルバムが置かれていた。
3つ目は「ハーナ・イ・ムラード(願望の館)」と呼んでいた。その中にはカーテン付きの黄金をちりばめた寝台の枠、白檀の容器、クッション、足元にも特別の掛布団が置かれていた。掛布団の前には素晴らしい金の刺繍をした1枚の長い食卓代わりの布があった。あらゆる種類の果物やシャーベット、そして歓楽、歓喜、贅沢なものが用意されていた。』
また、オマルコートでのアクバルの誕生についても記述があります。
『ハミーダ・バーヌー・ベギムが妊娠しておられた。陛下のご出発の3日後、949年神聖なラジャブ月4日日曜日(1542年10月14日)の早朝、パーディシャー陛下、世界の避難所、世界の征服者たるジャラールッ・ディーン・ムハンマド・アクバル・パーディシャー・ガーズィーが誕生された。月は獅子座にあった。誕生は月が不変の座にある時のことであり、これは大きな吉兆であった。占星術師たちは「この時刻にお生まれの御子は幸運の持ち主であり、ご長命であられるでしょう」といった。
下が1クロフ(約30キロ)の地点におられる時にタルディー・ムハンマド・ハンがその知らせをお伝えした。猊下はまことに喜ばれ、この吉報のゆえにタルディー・ムハンマド・ハンのこれまでの諸々の過失を許された。そして以前に猊下がラーホールで見られたとまったく同じジャラールッ・ディーン・ムハンマド・アクバル・パーディシャーという名を付けられた。』
さらにフマユーンの死についても記述があります。
『963年ラビーゥ・ル・アッヴァル月11日金曜日(1556年1月24日)、メッカ巡礼から帰った臣下たち、グジャラートから到着した臣下たち、さらにカーブルから来た臣下たちが、デリーのフマューンの宮廷に到着した。
フマユーンは図書館の屋上に出て、中央モスクに集まった人々の謁見の礼 (komish)を受けた。フマーューンは先の臣下たちにメッカ、グジャラート、カーブルについていろいろと尋ねた。その後、その夜、昇るはずの金星を見るために算術師たち全員を呼んだ。金星が昇る時刻に会議を開き、臣下たちを昇進させる予定であった。
夕刻、フマューンは図書館の屋上から下に下りようとした。2段目まで下りた時、ムクリー・ミスキーンという名のモスクのムアッズィン(=祈りへの呼びかけ人)が祈りに来るようとの時ならぬ呼びかけの声(アザーン)をあげた。フマーューンはこのアザーンを聞くと、アザーンに敬意を表するため、そこにひざまずこうとした。階段が急で、階段の石が滑りやすかった。そのためフマユーンがひざまずこうとした時、足が長衣の裾の中でもつれ、バランスを崩し、頭から階段の下に転落した。右のこめかみに大きな打撃を受け、右耳から出血した。
この恐ろしい事故のことは、ただちに息子のアクバルをはじめ、各地の高官たちに伝えられた。しかし、事故のことは、17日間、一般の人々には伏せられた。高官たちが各地から集まって、いかにすべきかが協議された。
フマューンは事故の3日後に死去した。すなわち、フマューンは1556年1月27日に死去したのである。』
そして、アクバル大帝の即位についても書かれています。 -
全体的には赤い砂岩ですが、外殻ドームは総白大理石で、その頂点までの高さは約38mです。
ドームは建物の外側から見える「外殻ドーム」と、室内から見える「内殻ドーム」の2枚のドームを重ねた二重ドームになっています。
フマユーン廟は、インドの建造物で初めて本格的な二重ドームを採用したことで、建築史において非常に重要な足跡を残しました。
二重ドームにしたのは、建物を外から見たときに、遠くからでも目立つような「高くて堂々とした美しいドーム」にしようとすると、天井が非常に高くなります。
また、もしドームが1枚だけだと、室内から見上げたときに天井が不自然に高すぎてガランとした印象になり、声が響きすぎてしまいます。二重にすることで、内側の天井を低く抑え、居心地が良く、音響的にも適切な空間を作ることができたのです。
この建築技術は、もともとサマルカンド(ウズベキスタン)などのイスラム建築で発展したものです。ペルシャ人建築家によってムガル帝国に持ち込まれました。
ドームの外側には贅沢に白い大理石が貼られており、赤砂岩とのコントラストが美しさを生み出しています。
そして外ドームと内ドームの間には大きな空洞があり、これが断熱材のような役割も果たしています。
このフマユーン廟で成功した二重ドームの技術が後に更に洗練され、タージ・マハルへと受け継がれていくことになります。 -
西門に戻って来ました。
先ほどは八角形でしたが、こちらは六芒星で、古くから魔除けや幸運をもたらす縁起の良い文様です。
実は現在では六芒星は「ダビデの星」を連想しますが、これは19世紀以降のことで、この当時の16世紀は宗教の垣根を越えて「神聖な幾何学模様」の1つでした。
そして、フマユーン廟を建設した息子の皇帝アクバルは、異なる宗教の融和や寛容政策を勧めました。
アクバル皇帝は「アクバル大帝」と呼ばれるように、圧倒的な宗教的寛容さと柔軟さがありました。
特に、この当時のイスラム国家では、ヒンドゥー教徒などの非イスラム教徒に対して、シズヤ(人頭税)を課していました。アクバル大帝は「全ての臣民は平等であるべきだ」として、この税を廃止しました。
そしてヒンドゥー教徒から絶大な支持を得ました。
また、力による征服ではなく、インドの地元のラージプート族の有力者の娘を妻に迎え、帝国の高官や将軍として採用し、帝国の基盤を盤石にしました。
アクバル大帝はイスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教、ゾロアスター教、ジャイナ教など、あらゆる宗教指導者を宮廷に集めて議論をし、宗教の壁を越えようとした人物でした。
現在の世界には、このような大帝が存在しないのが残念です。 -
西門は御覧のように壁に取り囲まれています。
実はこの先に井戸があったようです。
石積みの井戸です。
チャールバーグ(四面庭園)の灌漑システムに使用された実用的な井戸でした。
デリー産の珪岩と石灰モルタルで作られた円形のシャフトが特徴のようです。 -
先ほど見損なった展示物を拝見します。
ニザムディン都市の再生について表されています。 -
イサ・カーンの廟の庭園の発掘調査で発見された遺物です。
赤砂岩で作られていたようです。 -
Sunder Nursery (スンダル・ナースリー)
フマユーン廟に隣接する16世紀の歴史的公園複合施設です。
16世紀にムガル帝国によって建設されました。 -
フマユーン廟の修復について記載されています。
水路の修復のため3.5kmの砂岩が手彫りされました。
噴水は考古学的発掘に基づいて再導入されました・・・・・等々。 -
ここにも透かし彫りの窓(ジャリ)があります。
美しいです。 -
近づくと外側を覗くことができます。
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アミール・クスローとスーフィーの伝統について記載されてます。
この地域にはスーフィー(イスラム神秘主義)の伝統が色濃く残っています。
13~14世紀の高名なスーフィー聖者のハズラト・ニザームッディーン・アウリヤーと、弟子であり詩人・作曲家のアミール・クスローの遺産が息づいてます。 -
イサ・カーンの墓の尖塔の修復の状況です。
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Emperor Humayun(皇帝フマユーン(1508~1556年))
1533年、バドシャー・ナスィールッディーン・ムハンマド・フマユーンは、ディンパナー(信徒の避難所)と名付けた都市の建設を命じました。フマユーンは最初のムガル皇帝ザヒルッディーン・ムハンマド・バーブルの息子であり、偉大ナジャラールッディーン・ムハンマド・アクバルの父でした。
フマユーンには生まれつきの優しさと、信頼感がありました。チラー・ブミの子どもでさえ少なくとも火を恐れることをすぐに覚えますが、フマユーンは違いました。この奇妙な男には聖人のような資質がありました。
フマユーンは決して約束を破りませんでした。
グルバダン・ベギム(皇帝フマユーンの妹) -
フマユーン廟のジオラマです。
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ヤムナー川から汲み上げられた水と、北側と西側の井戸から汲み上げた水は、水路を通って運ばれ、水路を満たしました。
写真はテラコッタ製の中央の池です。パイプを通して4つの庭園の噴水に水が供給されました。 -
コーランによると、楽園の庭にはザクロ、いちじく、オリーブ、なつめやしの木が植えられています。
ザクロはオリーブ、なつめやしとともに天国の楽園に生育する4つの植物の1つです。
ムガル帝国の皇帝たちは自分たちが作った庭園についを綿密に記録しました。
バーブル(ムガル帝国初代皇帝)はカブール近郊に造られたバグ・エ・ワファでフマユーンが生まれた事を記しています。
彼は「それは美しかった・・・・ザクロの実は赤く、オレンジの木は緑で、マンゴーとニームは壁沿いに植えられ、ザクロの木立に沿った小道の終点には庭園の裏側にハイビスカスが植えられていました。」と書いているそうです。 -
信仰を持ち、正しいことを行う者たちを、聖なる川が流れる楽園へと導き入れるでしょう。彼らはそこに永遠に住むでしょう。これはアッラーの約束です。
~聖コーラン~
絵は庭園を造る皇帝バーブル -
「私はあらゆる場所に美しい庭園を造りました.........全ての庭園に薔薇と水仙を植えました。人が住める場所ならどこにでも水車を建て、流水を作り、幾何学空間を作ることができるはずです。」
~皇帝バーブル~
絵は庭園で過ごす王子たち(ウズベキスタンの絵画) -
ニザームッディーンという名前は、歴史と文化に富んだ遺産の風格を漂わせています。その遺産と周辺地域の重要性は、デリーの人々、ひいてはインドの人々にとって決して見過ごせないものです。
この地域は毎年、世界中から何百万人もの観光客や巡礼者が訪れます。過去7世紀にわたり、これほど多くの墓が建てられてきた理由もそこにあります。
また、立派な墓を建てるほど裕福ではなかった人々の、碑文のない墓も多く存在します。聖者のダルガー周辺の景観に点在するキルジー・ローディ朝とムガル帝国時代の記念碑的な建造物の中でも、フマユーン廟は最も壮観です。 -
1955年、霊廟内の修復作業により、壁面に残っていたタイルが撤去されました。
その後、近年では長期的な保存を確保するとともに、ムガル帝国の建築家が設計
した通りの外観に建物を再現するため、セメント系材料は撤去され、伝統的な石灰漆喰に置き換えられました。 -
インドでは、ムガル帝国は王家のテントの色である赤砂岩を建築物に使用しました。赤と白のコントラスト(以前デリーでハルジー朝とトゥグルク朝の支配者によって使用された)は、デザイン上重要であり、巧みに用いられました。輝く白い大理石のドームが主要建造物の正面を飾っています。これは大きな台座の上に建てられており、各正面には17の白い石灰漆喰のアーチがあり、赤い砂岩が白い大理石が象嵌され縁取られています。
世界中のイスラム建築(そしてユダヤ教、キリスト教、ヒンドゥー教の建築物)に見られる六芒星は、小さな天蓋を飾る上質な石灰漆喰のセラミックタイル、装飾的な石の床、大理石で覆われたミナレットとともに目立つ装飾です。 -
「神は天と地の光である。」
「神の光のたとえは、壁龕があり、その中にランプがあるようなものである。
ランプはガラスで囲まれ、ガラスは輝く星である。祝福された木、東でも西でもないオリーブの木から灯された。
その油は、光の上に光が降り注ぐ中で、火にほとんど触れなくても光り輝く。
神は御心にかなう者を御自身の光へと導かれる。」
と記されているように、神々しい気持ちになります。 -
園内の掃除をしている方がいました。
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10m先にIsa Khan's Tomb(イサ・カーン廟)があります。
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Isa Khan's Tomb(イサ・カーン廟)
ブ・ハリマ門をくぐり、庭園を進むと、右手側に「イサ・カーン廟」へと続く城壁のような入り口が見えてきます。
フマユーン廟が四角形なのに対し、こちらは美しいオクタゴナル(八角形)の形をしています。実はフマユーン廟よりも約20年古い、1547年頃に建てられました。フマユーンの敵対勢力だったスール朝の高官イサ・カーンのお墓です。
屋根の上にある小さなドーム(チャトリ)には、当時の鮮やかな青いタイルが今も少しだけ残っています。また、周囲の庭園は「インド最古の沈床式庭園(サンクン・ガーデン)」であることが近年の調査で判明し、建築史的にも重要なスポットです。 -
イサ・カーン廟は、フマユーン廟(1570年頃完成)よりも古い1547年に建てられました。フマユーンを一度インドから追い出したライバル、シェール・シャー(スール朝)の宮廷で活躍した高官イサ・カーンのものです。
ムガル帝国以前に流行した「オクタゴン(八角形)のモスク付き墓廟」の最高傑作と言われています。この「八角形にドームを載せる」というスタイルがベースとなり、のちのフマユーン廟へと進化を遂げました。細かな幾何学の透かし彫り窓や、色鮮やかな装飾タイルが見事です。 -
たくさんの石棺がありました。
大きめのものが2つ、小さめのものが4つが並んでいます。
中央にある最も立派な赤砂岩と大理石の石棺が、主である高官イサ・カーンのものです。
周囲にある他の5つの石棺には、彼の家族(妻や子供たち)が一緒に祀られています。 -
手前の棺(女性)は、上面が平らで、四角い「書板(文字を書く板)」のレリーフが彫られています。美しい花の装飾も施されています。
奥の棺(男性)は、上面に立体的な「筆箱(ペンケース)」の彫刻が載っています。これがイサ・ーカン本人の棺です。
* ここもフマユーン廟と同じく、実際の遺体はこの真下の地下室にひっそりと埋葬されています。 -
ボケてしまいましたが、壁に描かれたレリーフです。
八角形の堂内の「真西の壁」に彫られたミフラーブです。
イスラム教徒の聖地メッカの方角を示すため重要です。インドから見るとメッカは西にあるため、西側の壁に造られます。
アーチ型の美しいフレームで囲まれており、よく見るとコーランの一節(カリグラフィー)がアラビア文字で刻み込まれています。また、アーチの端にはインドの伝統的な彫刻技術の影響を受けた細かな花のメダリオン(円形装飾)があしらわれています。
フマユーン廟(ムガル帝国)よりも古い「ロディ様式・スール様式」と呼ばれる時代の、重厚な美しさが、この静かな廟内に残っています。 -
イサ・カーン庭園廟
フマユーン廟より20年早く建てられ、15世紀初頭から16世紀初頭にかけてのサイイド朝とローディー朝時代にデリーの王家の墓に用いられた建築様式です。壁、モスク、門がそのまま残る唯一の八角形に囲まれた複合施設です。
遺跡を破壊しないように景観を元のレベルに戻すために、約32万5000立法フィートの土砂を取り除くという膨大な作業が必要でした。
景観保存作業は、建築様式の真正性に配慮して実施され、フマユーン廟の世界遺産として完成度を回復しました。
アガ・カーン文化財団は、世界記念物基金の共同出資を受け、インド考古調査局と提携して、2011年から2013年にかけて、イサ・カーンの庭園廟、モスク、門の保存修復を行いました。天蓋とファサードのタイル装飾は2014年に修復される予定です。
・・・とのこと。もう12年経過しましたので、現在は完全な状態でしょう。 -
写真
左上:フマユーン
右上:グルバダン・べギム(バーブルの娘で、フマユーンとは母違いの妹)
左下:歓談するバーブル(右)と長男のフマユーン(右)
右下:幼年期のアクバルが、カーブルで、おじカームラーンの息子で年長の従兄弟のイブラーヒームと彩色された太鼓をめぐって争い、イブラーヒームを組み敷いている場面
フマーューンは占星術や化学、数学などに大きな関心を示し、宮廷会議の開始と終了を人々に知らせる合図の仕方、権力の象徴としての矢の分配、ヤムナー川の4つのはしけの建造、船上バーザールの設置、庭園の設置、動く橋、分解して移動させることが可能な3階建ての宮殿、種々の帽子、天幕、天空の星などに対応する円い絨毯、曜日ごとに色の異なる衣服の着用、上記の内容によって太鼓を打つ数を変えることなど、多くの発明をしたと伝えられています。フマーューンが発明した大天幕の1つは、天空の12星座に対応する12の部分からなり、それぞれには格子造りの窓が設けられ、そこから光が差し込むよう設計されました
また、ディーン・バナーと呼ばれたデリーの新しい城の設計にもかかわりました。
実はフマユーンが19歳の頃、父バーブルはバダフシャーン総督の任にあり、手紙にこのように書いています。
「お前は淋しい淋しいと書いてるが、孤独の淋しさは君主にそぐわないものである。もし、足かせをはめられたら、あきらめることを考えよ。
もし、単騎で進むこととなれば、あくまで自らの道を独り進め。
君主の務めほど大事な務めは他にない。淋しがることは君主の務めにふさわしくない。」
結構厳しい内容です。おそらく君主にふさわしく育てようとしたのでしょう。
参考文献
『フマーユーン・ナーマ ムガル朝皇帝バーブルとフマーユーンに関する回想録』
ベギム・グルバダン著 -
次はクトゥプ・ミナールに向かいます。
右手に見えるのは確か国立病院だったと思います。
それにしてもフマユーン廟を見終わって、少しだけ違和感を感じているのですが・・・・。
現在のインドには圧倒的にヒンドゥー教徒が多いのですが、彼らは墓を持ちません。輪廻転生の思想があるため、基本的には墓に埋葬することなく、火葬して遺骨や遺灰を聖なる川、ガンジス川に流します。
そんなヒンドゥー教の方々は、彼らにとっては侵略者であったイスラム教徒の墓をどんな気持ちで捉えているのでしょうか?死生観が違うためかなり違和感を持っているのではないでしょうか?
ガイドさんに聞くには、ちょっと憚られたので質問しませんでした。
ただ、反発を感じながらも受容しているのでしょうか。
現在は観光スポットとして収益を上げているため受け入れているのでしょうか。
なかなか微妙な問題です。
特に私のように、ほとんどがイスラムのスポットを訪れる観光客に対しての思い等々、結構気になりました。(-_-;) -
チケット売り場の様子です。
少し混み始めました。
フマユーン廟と同様のコインで入場します。 -
Qutb Minar(クトゥブ・ミナール)はこの先です。
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注意事項が記載してあります。
1 この遺跡はプラスチック・フリーゾーンです。
2 遺跡内での飲食及びアルコール飲料の持ち込みは禁止されています。
3 保護区域内でのあらゆる種類のカメラスタンド/三脚の使用は禁止されています。
4 保護区域内でのあらゆる種類の商業目的の写真撮影/ビデオ撮影は禁止されています。 -
入場口です。
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クトゥブ・ミナールの見取図です。
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Qutub Minar(クトゥブ・ミナール)
1993年に世界遺産に登録されたクトゥブ・ミナールとその建物群です。
「ミナール」と言うので「ミナレット」かと思っていたのですが、ガイドさん曰く「勝利の塔」とのことです。
インド最古のイスラーム遺跡群です。
フマユーン廟よりもっと古い建築物です。
1192年、クトゥブ・ウッディーン・アイバクが、1192~1210年、北インドを制圧した記念の勝利の塔です。
当時ゴール朝(現在のアフガニスタン)の王に仕えていたアイバクが、チャーハマーナ・ラージプートに勝利し、そのままデリーに留まりました。
アイバクは元奴隷だったため、奴隷王朝とも呼ばれました。 -
Muhammad Quli Khan(ムハンマド・クリー・カーン廟)
17世紀初頭、皇帝アクバル(1556-1605年)によって、Adham Khanの弟であるQili Khanのために建設されました。
王宮でアクバルを殺害しようとして不名誉な死を遂げたAdahm Khanとは異なり、Quli Khan はムガル帝国に立派に仕え、皇帝とは良好な関係のもとで亡くなったらしいです。 -
高さは約72.5m、基部の直径14.32mから頂点の直径2.75mへと細くなっています。
階段は379段あります。
周辺には葬祭建築があり、特に1311年に建てられたインド・イスラム芸術の傑作である壮麗なアラーイー・ダルワーザー門や、北インド最古のクワト・ウル・イスラムを含む2つのモスクがあります。
これらは約20のブラフマン寺院の材料を再利用して建てられています。
クトゥブ・ウッディーン・アイバクは1階を完成させ、2階、3階、4階は後継者であるイルトゥトゥミシュ(1211~1236年)によって完成させました。クトゥブ ミナールとその建築物群 史跡・遺跡
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クトゥブ・ミナールは昔は7階建てだったものの、飛行機が衝突して5階建てになった・・・とのことでした。
ただ、後で事実関係を調べたところ、どこにもこの情報がありません。
どうも単なる噂のようです。
それもこの上空はニューデリーのインディラ・ガンディ国際空港へと着陸する航空機の侵入ルートにあたり、下から見ると、塔のすぐ上を飛行機がかすめるように見えます。そのため、尾ひれがついて事故の噂が創作されたようです。
実は、1368年の落雷によって最上層が崩壊し、その後1803年の大地震でも崩壊する被害がありました。
また、1981年12月4日(金)、無料の開放日に300~400人もの観光客たちが密集してしまった結果、惨事が起きました。
突然の停電により、窓の少ない塔内が完全な暗闇になり、誰かが足を踏み外したのをきっかけに、「塔が崩れるぞ」「崩落する」というデマが広がりパニック状態に陥った人々が一斉に出口に殺到し、狭い螺旋状の階段で上から押し寄せる群衆の圧力で45名の人々(大半が地元の小学生たち)が将棋倒しとなり折り重なるように下敷きになってしまいました。
さらに、最下層の鉄製の扉が内開きだったため、押し寄せる人の重みで扉が開かず被害が拡大した模様です。
この悲惨な事故を受け、インド政府は、翌日からクトゥブ・ミナールの内部への立ち入りを永久に禁止することに決定しました。 -
Alai Darwaza(アラーイー・ダルワーザー)(1311年)
クトゥブ・ミナールの奥の方にちょっとだけ見えます。
クワット・ウル・イスラム・モスクは、1193年にクトゥブ・ウッディーン・アイバクによってラージプートに対する勝利を記念して始められました。
クワット・ウル・イスラム・モスクの南門は、ハルジー朝(1296~1316年)がモスクを拡張した際にアラーイー・ダルワーザーとして知られるようになりました。
モスクは元々クトゥブ・ウッディーン・アイバクによって建てられイルトゥトゥミシュによって南北に拡張され、更にアラーウッディーン・ハルジーによって南北だけでなく東側にも拡張されました。
そして回廊とアラーイー・ダルワーザーのような4つの門が設けられました。
ただ、南北のアラーイー・ダルワーザーを除くこれらの門は崩壊してしまいました。
アラーイー・ダルワーザーは、赤い砂岩と大理石に精緻な彫刻が施された壮麗な正方形のドーム型建築物です。 -
世界最高峰の赤砂岩等の塔です。
コーランやカリグラフィ(アラビア文字)やアラベスク模様が刻まれています。
よく見ると様々な石が積み重なっているようです。
かつて、すぐ側には27ものヒンドゥー教やジャイナ教の寺院がありました。それを破壊解体して剥ぎ取ってます。
これは他の国や地域でも似たようなことが起きてます。人間は考えることが同じです。(-_-;)(-_-;)
それとデリー近郊やラジャスタン地方の採石場(砂岩の名産地)から運ばれたようです。 -
このクトゥブ・ミナールは元々12~13世紀初頭は赤砂岩がメインの色合いでした。
ただ、前述したとおり1368年の落雷による大破のため(当時は第4層まで)に上部が完全に崩壊してしまいました。
そのため、当時のデリー・スルタン朝の君主であるフィローズ・シャー・トゥグルクが修復と同時に、壊れた第4層を修理し、新たに第5層(最上階)を継ぎ足しました。
ちょうどこの14世紀後半、イスラム建築で赤い砂岩に白い大理石を組み合わせたコントラストを際立たせる手法がトレンドになっていました。そのため、赤砂岩に加えて白大理石がふんだんに混ぜ込まれることになったようです。 -
鍾乳石状のペンデンティブと小さなアルコーブを備えた張り出しバルコニーは、とても繊細で美しいです。
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Quwwat-ul-Islam Mosque(クワット・ウル・イスラム・モスク)のドームです。
このドームもヒンドゥー教やジャイナ教の寺院から解体された部材を組み替えて造られています。
イスラム教のモスクには礼拝のための広い空間とドーム天井が不可欠ですが、当時インドに突如としてやってきたイスラム建築家たちは、ゼロから大量の石を切り出してドームを造る時間的余裕がありませんでした。
そこで27の寺院のドーム状になったマンダパと呼ばれる拝殿の天井部をブロックごとに1度バラバラにして、モスクの天井としてパズルのように組み直したようです。 -
再利用されたドームの内部には、イスラム建築では描かれないヒンドゥー教の幾何学的な蓮の花の文様や聖なる植物の彫刻が残ってます。
偶像崇拝を禁止しているイスラム教ですので、顔や生き物などの彫刻は削り取られましたが、植物や幾何学模様はそのまま流用されました。
実は12世紀当時のインドの現地職人たちは、まだ煉瓦や石などを放射状に組み合わせて造る技術を持っていませんでした。
彼らは石をすこしずつ内側へずらしながら積み上げる「コーベル(持ち送り)式」という技法でドームを造りました。
そのため、初期のモスクのドームはイスラム風のデザインを目指しつつも、構造はインド伝統のヒンドゥー建築の技術で支えれました。 -
これは白いのですが、大理石ではありません。
柱は経年の風化などの影響で白っぽくなっているものの、大理石のような光沢はなく、ザラザラした砂岩特有の石肌です。
こちらもヒンドゥー教の寺院を再利用しているものです。 -
アラーイー・ダルワーザーには、セルジューク朝(1038~1157年)の特徴もいくつか見られ、これはハルジー朝の建築に影響を与えました。
これらの特徴の中でも特に重要なのは、尖った馬蹄形のアーチ、スクインチ、そしてアーチの蓮のつぼみのような縁飾りです。
これらのセルジューク朝の影響は、中央アジアと西アジアへのモンゴルの攻撃から逃れてインドに移住してきた芸術家や職人たちの流入によってインドにもたらされました。
インドは彼らに安全だけでなく、それぞれの専門分野での仕事も提供したため、クトゥブ・ミナールやアラーイー・ダルワーザーのような貴重な建物が作られました。 -
アーチ・スクリーン(大障壁)
赤砂岩で作られた巨大な壁面には、コーランの1節を表すカリグラフィ(アラビア文字)緻密な植物文様の彫刻がびっしりと描かれています。 -
アーチの向こうにクトゥブ・ミナールが聳えてます。
クトゥブ・ミナールは、ただの塔だとは聞きましたが、それでもモスクなどもあり、戦勝の記念塔であるのは勿論ですが、アザーンを行うためのミナレットでもあります。
やはりイスラム教徒にとってミナレットと言って間違いないと思います。 -
北西の奥の部分にあります。
Ala-ud-din Khalji(アラー・ウッディーン・ハルジー)の廟
この遺構を建築したアラーウッディーン・ハルジーは、在位1296~1316年です。
ハルジー朝の最盛期を築いたスルタンでした。
モンゴル帝国の度重なるインド侵攻を退けた軍事的天才です。
『ムガル人(モンゴル人)はイスラーム軍を極度に恐れたので、ヒンドゥスターンを征服するという夢は彼らの頭からきれいに消え去った』
~バラニ(歴史家)~ -
マドラサ(神学校)
L字型に配置された部屋の数々は当時、学生たちがイスラム法や神学を学ぶためのマドラサでした。
これは、ちょっと珍しく、廟(墓)とマドラサ(学校)が同じ敷地内に一体化して建てられた最初の例です。それがインドで初めて採用されたのが、このアラーウッディーン・ハルジーの遺構です。
エジプトやシリアなどでは、12世紀から13世紀にかけて徐々にこれらを一体化した複合施設が作られるようになりました。
中央付近にはかつてアッラー・ウッディーン自身の廟がありました。
現在はドーム状の屋根が完全に崩落し、壁や土台だけが残っています。 -
ここがビュースポットだとガイドさんに教えていただきました。
廟と学校を一体化した複合施設にはイスラム建築の発展と支配者たちの明確な意図があったようです。
イスラム教では、死後も誰かが自分のためにドゥアー(祈り)を捧げてくれることが天国での救いに繋がると信じられています。
マドラサを併設することで日常的にコーランを学び祈りを捧げてくれる学生が常に側にいます。死後も墓前で祈ってもらえます。
次にスルタンにとって最先端の学問を教える学校を建設することは、社会に貢献する慈善事業でした。お墓の隣に一大教育機関を併設することで、「信仰深く、知性や国力に投資した偉大な王」をアピールする狙いもあったようです。
墓・学校・モスクを1つにまとめる建築スタイルは、とても合理的だったため、後のムガル帝国時代へと進化を遂げていきました。 -
この周辺にはたくさんのリスがいました。
すばしっこくて可愛らしかったです。(*^-^*)
ちょっと痩せていましたが。 -
マドラサ(学校)の小部屋です。
これは学校の個別の教室か、学生若しくは教師が寝泊まりしていた小部屋だったかもしれません。
この部屋の正面にはメッカの方向を示すミフラーブらしき窪みがあります。
この部屋は礼拝スペースを兼ねていたのかもしれません。
基本的には1人1室だったようです。
コーランの暗誦や深い瞑想や自習のためには集中できる場所が必要です。 -
こちらは、先ほどの部屋よりは幾分広さと高さがあります。
よく見るとイスラム建築技法のペンティブの跡があります。おそらくかつては美しいドーム状の屋根があったと思われます。
この周辺は他からは少し距離があり、とても静かな場所です。
瞑想や祈りの場にふさわしいと感じました。 -
マドラサの門からのクトゥブ・ミナール
マドラサの中庭から外へ出るアーチからのフレーム内に納めた1枚です。
横にガイドさんがいますが。
手前の暗いアーチはアラーウッディーン・ハルジーの時代(14世紀初頭)の石造りです。
当時の若い学生たちも、同じように暗い教室から外に出て聖なる塔を見ていたのでしょう。
そんな想像をしてしまう1枚です。 -
Iron Pillar(デリーの鉄柱(アショーカ王の柱))
アショーカ王が建てたのではなく、アショーカ王より700年近くも後のグプタ朝・チャンドラグプタ2世に比定される王の名前が刻まれています。
高さは7.5m、重さ6トンです。
1600年以上もの間、雨ざらしであるにもかかわらず、ほとんど錆びていません。
かつては世界の「オーパーツ(その時代に作れるはずのない遺物)」の筆頭としてオカルト的に語られていました。 -
1600年も錆びないのは不思議ですが、それには理由がありました。
【高濃度のリンがバリアに!】
当時のインドの職人たちは、鉄鉱石を精錬する際に木炭を燃料として使ってました。この方法により、鉄の中に現代の鉄よりも多くの「リン」が混ざる結果になりました。鉄柱が雨や空気に触れると、まず表面の鉄とリンが化学反応を起こし、「リン酸鉄水素化合物」という極めて薄いバリアが表面を覆い、その膜がそれ以上の酸素や水素の侵入を防いだため、内部まで錆が進行しませんでした。
【驚異的な純度の鉄!】
この鉄柱は、当時の鍛冶職人たちが熱い鉄の塊を何度も何度も叩いて(鍛造)不純物を叩き出し、繋ぎ合わせて作られました。その鉄の純度は99.72%と、現代の高級鋼鉄に匹敵する純度です。不純物が少ないため、錆のきっかけとなる亀裂や腐食が起きにくくなりました。
【乾燥したデリー!】
デリーは年間を通じて湿度が低く、乾燥した気候です。日本の梅雨のような環境にあったら保護膜が完成する前に錆びていた可能性が高いかもしれません。デリーの気候が初期のバリア形成を手助けしました。 -
鉄柱には古いサンスクリット語の碑文が刻まれています。
「ヴィシュヌ・パダ(ヴィシュヌ神の足跡という意味の丘)にチャンドラ王(グプタ朝のチャンドラグプタ2世)がヴィシュヌ神を称える奉納用の柱(ガルダ柱)として建てた。」と記されています。
つまり元々は現在のマディヤ・プラディーシュ州にあるウダヤギリ石窟の近くに立っていたとされ、神像の頭上を飾るシンボルでした。
それが11~13世紀頃に、この地を支配した王たちによって戦利品、あるいは権威の象徴としてデリーに運ばれ、この中庭に設置されたようです。
かつては、鉄柱に背中を向けて、後ろ手で鉄柱を回して指が届いたら、願い事が叶うというジンクスがあったのですが、観光客が触って手の汗や脂で、流石の鉄柱も根元が少し錆び始めてしまい、現在は保護のために御覧の様に柵ができました。
(-_-;)
イスラム教のモスクに建て替えられても、なぜかヒンドゥー教の鉄柱が、庭の中央に残っているのは皮肉なものです。(*^-^*)
この鉄柱が、周囲のヒンドゥー教寺院がことごとく破壊されたにもかかわらず、イスラム勢力によって破壊されずにそのまま残されたのには訳があります。
それれは偶像が描かれていない「ただの柱」だったためです。
イスラム教が徹底的に禁止し、破壊の対象としたのは、神や人間、動物の姿を模した「偶像」でした。周辺の寺院は壁や柱に神々がびっしりと彫られていたため破壊や削り取りの対象となりましたが、この鉄柱はもともと神のシンボルを掲げるための「旗竿」として造られたものでした。
頂部にはヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥「ガルーダ」や「ヴィシュヌ・チャクラ(輪宝)」の装飾があったと言われてていますが、イスラム勢力(あるいはそれ以前の段階)は頂部のシンボルだけを取り除き、本体はただの「幾何学的な鉄の柱」として残したのです。これにより、イスラムの教義(偶像崇拝の禁止)に直接反することもなく破壊を免れたのです。
また、「イスラムの勝利」を視覚的に証明する戦利品にするため、モスクの名前である「クッワト・ウル・イスラム」とは、アラビア語で「イスラムの威光・力」を意味します。
征服者であるクトゥブッディーン・アイバクやその後のスルタンたちは、異教徒の王が建てたこの鉄柱を、あえてモスクの中庭の中心部に配置しました。
これは「ヒンドゥーの聖なる遺物を、イスラムが完全に支配している」という構図を示すためです。つまり、破壊するよりも、モスクの中に取り込んで支配下に置く方が、「イスラム勢力の勝利と権威」を強く誇示できる戦利品として利用価値が高かったのです。
そして、当時の技術では「破壊も移動も困難」だったのも大きな理由です。
この鉄柱は高さ約7.2m、重量は6トンを超えます。さらに、古代インドの驚異的な鍛造技術によって作られた高純度の可鍛鉄であり、非常に強固です。
12世紀末の技術でこれを粉砕したり、別の場所へ運び出したりすることは重労働であり、実用的ではありませんでした。
実際に、後世の1739年にデリーへ侵攻したナディール・シャーというペルシャの支配者が、モスク内にあるこの鉄柱を不快に思い、大砲を至近距離から撃ち込んで破壊しようとした記録があります。ただ大砲の直撃を受けても鉄柱にはわずかな窪みができただけで、ビクともせず立ち続けました(現在もその砲弾の跡が柱の中ほどに残っています)。
このような理由が重なった結果、奇跡的に現在まで生き残ることができたのです。
めでたし・めでたし(^^♪ -
ヒンドゥー・ジャイナ教の伝統モチーフが 石柱の表面に刻まれています。
イスラム建築の構造の中にヒンドゥー教やジャイナ教の優れた石彫技術が融合したインドの歴史を象徴する貴重な建築遺構です。 -
27のヒンドゥー教・ジャイナ教寺院は、この周辺に密集していました。
12世紀末に、イスラム勢力に征服される前、ここにはラージプート族のトマール朝やチャウハーン朝(プリトヴィーラージ・チャウハーンなど)の王城である「Qila Rai Pithora (キラ・ライ・ピトラ)」という大要塞都市がありました。
その中心的な信仰の場として、多数の寺院が一帯に建てられていたのです。 -
インド伝統建築で豊穣や吉祥を象徴するKalasha(聖なる水瓶・壺)のモチーフです。壺から美しい植物の蔓や紐、編み込まれた装飾です。
転用された柱に元々彫られていた神像や天女や神々などの顔や体は、モスクへの転用時に削り取られたり、破壊されたりした痕跡が今も残っています。
ただ、幾何学模様やこのような水瓶・植物の装飾はそのまま残されました。 -
イスラム征服前は、ヒンドゥー教の神々や、ジャイナ教の開祖(マハーヴィーラなど)を祀る聖域として、王族から庶民まで多くの人々が参拝に訪れていました。
この柱は本来は神像が安置された本殿の周囲を取り囲む回廊を支える柱として使われていました。 -
ヴィシュヌ神は、ヒンドゥー教の最高三神「Trimurti(トリムルティ)」の1神で、世界の「維持者(宇宙の秩序の保持者)」「守護者」としての役割を担っています。
イスラム征服前、この場所にあったヴィシュヌ寺院は、宇宙の秩序を維持するヴィシュヌ神の加護を祈る王権と信仰の最高拠点でした。
世界の調和と平和を維持するヴィシュヌ神は、歴代の王(グプタ朝やトマール朝の王たち)にとって「理想の統治者」でした。王たちは神の化身(アヴァターラ)であるラーマ王やクリシュナ神に自らを重ね合わせ、国家の安泰や戦争の勝利を祈願する国家的な儀礼をここで行いました。
信徒たちは寺院の最も奥深い聖所(ガルバグリハ)に安置されたヴィシュヌ神の像を拝み、神と視線を合わせる「ダールシャン」という儀式を行いました。これにより、神の祝福と守護のエネルギーを直接受け取ることができると信じられていました。
ヴィシュヌ神に花や果物、お菓子、水などを捧げ(プージャーと呼ばれる礼拝儀礼)、神がそれを受け取った後、聖なる「お下がり」として信徒たちに配られました。人々はこれを食べることで体内に取り込みました。
そして回廊の柱の周りを、信徒たちは時計回りに歩いて回る「プラダクシナー(繞行)」を行いました。また、境内ではヴィシュヌ神の功績を称える神話の朗読や、神を賛美する歌(バジャン)が日常的に捧げられ、人々が集う宗教コミュニティの中心でした。 -
Kalasha(カラシャ)は、ヒンドゥー教において単なる「水入れ」ではなく、「宇宙の源泉」「無限の豊穣」を表す極めて重要な神聖モチーフです。
ヒンドゥー教の神話では、神々と悪魔が不老不死の霊薬「アムリタ」を得るため海をかき混ぜた際、最後にアムリタが満ちた黄金の壺(カラシャ)が海から現れました。このため、カラシャは「永遠の命」「幸福」「健康」の象徴とされています。
器(壺)は、大地、あるいは創造神ブラフマーの胎内
中の水は、 生命の源である聖なる水(ガンジス川の水など)
植物(蔓や葉)は、宇宙に満ちる生命力、繁栄、物質的な豊かさ
カラシャはすべての障害を取り除き、吉祥を招くため、寺院の入り口や柱、あるいは本殿の屋根の最頂部に必ず配置されます。参拝者を神聖なエネルギーで迎え、邪悪なものを払うため彫られたのです。 -
クッワト・ウル・イスラム・モスクの回廊に残る柱には、カラシャ以外にも、インドの精神世界や宇宙観を凝縮した数多くのヒンドゥー教(およびジャイナ教)のシンボルが刻まれています。
イスラム教の「幾何学模様やアラビア文字による装飾」とは一線を画す、生命力にあふれた代表的なモチーフの1つが 蓮の花です。
柱の台座や、梁との結合部などに非常によく見られます。
蓮は泥水の中から芽を出し、汚れをつけず清らかな花を咲かせます。この姿から、世俗の欲望や苦しみ(泥水)に満ちた世界に生きながらも、それに染まらずに清らかな魂や悟り(解脱)を保つことの象徴とされています。
ヒンドゥー教では、維持神ヴィシュヌやその妻である豊穣の女神ラクシュミー、創造神ブラフマーなどが蓮の花の上に座った姿(蓮華座)で描かれます。そのため、蓮の彫刻があるだけで、その場所が「神聖な神の領域」であることを示します。
柱の上部やアーチの基部などに、口を大きく開けた獅子や怪物のような顔が彫られていることがあります。
魔除けの守護神はシヴァ神の怒りから生まれたとされる聖獣の顔です。「あらゆる邪悪なもの、災いを飲み込む」と信じられており、寺院の聖域に魔が入るのを防ぐ結界の役割を果たしていました。
そのため顔の一部が削られていても、輪郭が残っている柱が多くあります。 -
イスラム建築においても、神の創造した世界の美しさを表現するために、植物の蔓や葉を幾何学的に配置したアラベスクが発展しました。
そのため、ヒンドゥー教やジャイナ教の職人たちが彫った、生命力あふれる蓮の花や絡み合う蔓の彫刻は、イスラム教徒の目にも「神聖で、自分たちの美意識とも深く共鳴するもの」として映ったはずです。
偶像は厳しく排除されましたが、自然を愛でる心やその美しさは宗教の垣根を越えて響き合い、美しい彫刻たちは破壊を免れ、その姿を見せてくれているのだと感じます。
こうした歴史に思いを馳せながら遺跡を見ると、ただの「破壊と征服の歴史」だけではなく、文化や美意識が不思議な形で融合していった生命力を感じました。 -
Tomb of Iltutmish(イルトゥトミシュ廟)
この建築はデリー・スルタン朝(奴隷王朝)の第3代君主であるシャムスッティーン・イルトゥトミシュが、自分の没年(1236年)の前年である1235年に自ら建設した大理石の墓です。
クフィ体やナフ体のアラビア文字によるコーランのカリグラフィやアラベスク模様のイスラム様式が壁面を埋めてます。
また、建築に携わった地元のインド職人たちの影響で蓮の花、鎖と鈴、房、ひし形などヒンドゥー教のモチーフも様々な箇所に散りばめられてます。
また、西側の壁には祈りのためのミフラーブ(メッカの方向を表す窪み)があり白い大理石であしらわれてます。ちゃんと写ってませんが・・・。
なお、このお墓もフマユーン廟と同様にセノタフ(模擬墓石)で、イルトゥトミシュの遺体はこの地下埋葬室に眠っています。 -
天井がなくオープンエアになっています。
元々は円形のドームの屋根がありましたが、後世に崩落してしまいました。
(初期の建築で、四角い構造の部屋の上にドームを載せただけの未熟な建築技法だったためかと思います。)
ただ、その結果、自然光が白大理石を美しく照らしてくれてます。
(*^-^*) -
次は向こうに見える未完の柱の方に向かいます。
-
Alai Minar(アラーイー・ミナール)
ハルジー朝の君主であるアラーウッディーン・ハルジー(在位1296~1316年)1311年に建設を開始しました。
クトゥブ・ミナールの2倍の高さ、約145mの世界最大の塔を目指していました。
ただ、1階部分(高さ24.5m)まで積み上げたところで彼が病死したため未完に終わっています。
巨額の費用と労力が必要で、後継者も建設を引き継ぐことができませんでした。
アラーウッディーン・ハルジーは、モンゴル帝国の襲来を何度も退けた王です。その権力を象徴するためにこのプロジェクトに挑みました。
王の野望が感じられると同時に歴史の儚さも感じました。(-_-;) -
中央に穴がありますが、これは塔の内部に造られる予定だった螺旋階段(または通路)の入口もしくは明り取り・資材搬入用の開口部です。
この塔はゴツゴツしていまっすが、実は以下のような構造で造られました。
塔の中心には強固な芯(柱)があり、その周りを登るための通路が螺旋状に配置され、さらに外壁が覆うという三重構造になる予定でした。
建設が途中で止まったため、剥き出しの芯と周囲を巡る通路の階層部分が断層のように見えています。この穴は上の階層へと続く通路や窓があった場所であり、もし塔が完成していれば壁面の一部として綺麗に装飾され、内部に光を取り入れたり、建設中に上層階へ資材を引っ張り上げるための重要な開口部になるはずでした。
ゴツゴツしているのは、骨組みだけが完成した段階で工事がストップしてしまったためです。
本来はクトゥブ・ミナールのように表面を滑らかにし、緻密なカリグラフィや彫刻が施される予定でした。残念です。 -
この上に人がいました。
勝手に登った人かと思いきや、点検作業の人たちでした。
梯子を使って登ったようです。
それにしても、天気が良くなってきたため、暑く眩しいです。 -
梯子が掛けてあります。
-
アラーウッディーン・ハルジーは、重要な建築のAlai Darwaza((アラーイー・ダルワーザー)アラーイーの門)も手掛けました。
クワット・ウル・イスラーム・モスクの南側の大門です。
こちらはハルジー朝の完成した傑作です。
当時のインド人職人たちは、石を少しずつずらして積む単純な技法しか知りませんでした。ただ、アラーイー・ダルワーザーはキーストーンの重力分散を利用した科学的イスラム式アーチとドームです。 -
アラーウッディーン・ハルジーは門を造るだけでなく、インド最古のクワット・ウル・イスラーム・モスク自体を2倍の広さへと拡張し4つの門を造る予定でした。
ただ完成したのは南門だけです。
頭の中で完成予想図の構想を練っていたようです。
もし完成していれば145mの巨塔の2倍の高さ、イタリアのピサの斜塔の2.5倍にもなったようです。
壮大なスケールだったでしょうね。 -
この付近は樹々のおかげで日陰ができて、一休みできます。
-
実は何度も塔を見上げていたら、軽い眩暈を感じました。
白っぽく見えたのでサングラスもしたのですが・・・。
それと暑さが相まって、熱中症気味に・・・。幸い木陰のベンチがありましたので、そこで少し休憩し水分補給をしました。 -
クトゥブ・ミナールとアラーイー・ダルワーザー、クワワット・ウル・イスラム・モスクの入口。
この景色もこれが最後です。 -
この先に塔の上部が残っているという話でした。
でも飛行機事故はデマだったようですので・・・・・。
インドあるある~な感じです。
ただ、飛行機事故ではありませんが、地震などはありました。
ロバート・スミス少佐は、1828年にクトゥブ・ミナールの頂上にムガル様式のチャトリを設置しました。ただ、クトゥブ・ミナールと調和していないことで厳しい批判を受けました。20年後の1848年、インド総督サー・ヘンリー・ハーディンジの指示で撤去されました。(-_-;)
それが、この写真の奥にあります。 -
「WAVES」レストランです。
これからランチです。ウェイブス インド料理
-
まずはビールをいただきます。
やっぱりKingfisherを。 -
インドらしい、象さんの絵が描かれていました。
-
お店は結構広く、壁の先には奥の席があり、そちらにはテレビがありました。
-
中国の習近平国家主席がデリーに到着したとニュース報道されてました。
この日のインドはBRICS SUMMITのニュースで持ち切りでした。 -
ランチです。
この日はタンドゥリ料理でした。
インド初のランチにもかかわらず、暑さで食欲がありません。
実はクトゥプミナールで上を何度も見上げていたら、少し眩暈を感じました。
熱中症の一歩手前の状態だったのかもしれません。
そのため、このお皿のものを食べるだけで精一杯でした。(-_-;)
ごめんなさいm(__)m -
これは食後のチャイです。
本当に食欲がなく、胃液まで出てきそうだったのですが、このチャイ(砂糖なし)を飲んだら、すーっとすっきり胃もたれも収まりました。
本当に吃驚!魔法のドリンクと言っても過言ではありません! -
食事の後は、アグラまで移動です。
途中、綺麗なハイウェイを通って移動しました。
そして、こちらが到着したアグラのホテルです。
次はいよいよタージマハルです。
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