2026/08/15 - 2026/08/15
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WT信さん
2026年8月15日「終戦の日(終戦記念日)」。終戦日から81年が経った。
一方私は「終戦の日」の前日、2026年8月16日、予想もしなかった90年もの年月を生き永らえ、90歳の誕生日(卒寿)を迎えた。
現在は長野県小諸市にある自立型老人ホームにお世話に居なっているが、終戦の日は熊本県玉名郡長洲町(当時六栄村)の父の生家の縁側で昭和天皇の玉音放送を拝聴していた。当時私は10歳、六栄小学校3年生。
その前々年まで私の家族は東京の世田谷区に住んでおり、私は松原国民学校に入学した。同学校に4年生の兄が、長女の姉は駒場国民学校の6年生であった。
1945年(昭和20年)、東京空襲を切っ掛けに学徒疎開が実施され始め、父は子供たちがばらばらにされる状況を憂慮し、勤めていた会社を退職し、熊本の田舎の父の生家に家族全員で移り住む道を選んだ。
当時の父の生家は10畳の間が3間ある平屋で、部屋数は全部で11もあった。そこには当時父の長兄の未亡人(息子も故人となっていた)が賄い手伝いの女姓と二人で暮らしていた状況だったので、我々家族が移り住んでも何ら問題ないように思っていた。
ところがその父が帰郷翌年の春には2度目の応召で出征してしまった。
「終戦の日」、出征してしまって父不在の生家では、縁側前のイタチが飛び回る芝生の庭先の、子どもの手では包み切れない太さの柿ノ木はじめ栗、桃などの果物の木畑であった高台地に、近所の人たち共々避難できる横穴防空壕を掘っていた。
防空壕堀りに集まった人たちは、男性不在の近所の女性群と、本土決戦に備えて、当時庭先の高台の、更にその上の高地に建つ寺(信定寺)に駐留していた陸軍の数人の兵隊さん。兵隊さんが穴を掘り、女性たちがその泥を運び出した。
丁度昼休みの休憩時間。その日は田舎の盂蘭盆にもあたり、サツマイモの餡を小麦粉で包み蒸しただけの饅頭が振舞われていたが、しかしそれにしてはみんなそわそわと落ち着かない様子。
正午になり、昭和天皇による玉音放送なる放送が始まったが、私には理解出来なかった。
しかし玉音放送が終わり、ノロノロと口を開き始めた大人たちの口振りから、日本が戦争に負けたようだということは理解できたようだ。
私はその途端大声を上げて泣き出していた。
周りの大人の人たちは「やはり軍人さんの子は違う」と云ってたようだが、「軍人さんの子」だから泣いたのとは少し違った。
私の叔母(父の姉)は獣医中将・陸軍獣医学校校長W家に嫁いでおり、その息子(私の従兄Ý)は海兵出身で終戦の年の5月、特攻隊長として戦死していた。
その運命を悟っていたのかYは存命中に、真っ白の海軍の制服姿と、飛行服に身を包んだ姿の写真を親元に送ってきており、我が家にも同じ写真が送られて来ていた。Yはすこぶる端正な顔立ちであったこともあり、海軍航空隊の隊員姿が幼い私の心を一杯にし、将来は海軍航空隊に行くと決めていた。
そんな事情で私は子供の割には戦争の現実を感じていたと思われ、戦争に負けた以上当然敵の軍隊が日本に攻めてくる、日本人は皆殺しされるとという恐怖心が襲い、大声の泣きを齎していた。
こんなに腹の底から大声で泣いた覚えは、一生に2度しか記憶にない。
もう1度は熊本に移り住んで地元の六栄小学校に通いだしていた頃の話。
通学は各部落ごとに行われ、6年生の部落長が引率し、部落長の命令は通学途上でも、学校の校庭でも絶対であった。
六栄小学校に通いだして間もないある日、6年生の部落長が大声で「ドンゲン~!」と叫び、同じ部落の者は部落長目掛けて一斉に走り出した。何も聞かされていない私はノロノロと皆の後に付いて行ったが、部落長の前に着いた時には長い列ができており、私は列の最後に並んだ。やがて部落長は私と同級生の子を私の前に立たせ、何か命令すると、その子は私の頬を思い切り張り手を食らわしいた。
「ドンゲン~!」の「ドン」はどん尻、「ゲン」はゲンコツのことだとは、これを機会に知ることになった。
私は一瞬、間をおいて大声で泣き出した。その泣き声は校庭いっぱいに響き渡ったと思われる。
何ら理由も知らされず、皆の前で同級生に殴られた悔しさが、声を一段と大きくした。
職員室から一人の男子教師が現れ、部落長に何か話しかけていたが、突然声を荒げて部落長を殴っていた。
以後事情を知った私も気にしていたこともあり、「ドンゲン~!」で殴られることもなかったし、かといって特に苛められた覚えもない。
縁側の庭先は防空壕堀りを中止し、兵隊さんが一斉に信定寺に引き上げたのを機会に、近所の人たちも三々五々帰宅し、静かになった。
私は一人で掘りかけの防空壕を覗きに行った。掘りかけの防空壕の中は薄暗く何も見えなかったが、暫くすると曲がった穴の正面は壁があり、まだ貫通していないことが分かった。
私は置き去りにされていた鍬を担いで、突き当りの壁まで進み、鍬を壁に打ち下ろした。数度目の打ち下ろした鍬は壁に当たる衝撃がなく、鍬の先に小さな光が覗いた。防空壕が貫通した瞬間であった。興奮した。しかし一方で何か悪いことをし仕舞ったのではないかという気持ちが遅い、防空壕が貫通したことを誰にも告げず、急いで家の中に引っ込んだ。
翌日朝早くから兵隊さんがやってきて、防空壕としては使われ無くなった横穴を最後まで綺麗に整備してくれた。
すでに穴が貫通していたことは、私が知る限り話題にならず、私はやっとホットした。
利用される見込みが無くなった防空壕は、後日しみ込んだ出水が溜まり、その中を自家製の竹馬で潜る、子供たちのちょっとした冒険心をくすぐる遊び場となっていたが、いつしか防空壕の上の高台が崩れ、柿ノ木はじめ他の果物の木々も根こそぎ倒れてしまった。
屋敷は未亡人の叔母が故郷に去り、その空きを父の兄(叔父)の家族が東京から移り住み、私たち家族は縁側先の庭で遊ぶのも儘ならなくなっていた。
同行してきた叔父の次女正子(従姉)は、1980年に現代歌人協会賞を始めとし、多くの賞を受賞した歌人と知られていたが、一人住まいになった上に、体を壊した際に、東京の正子の姉の家に移り住んでいた。
以後父の生家は長いこと空き家となった。
正子の死去(2006年)後、正子の姉の息子により、土地・屋敷の全部が長洲町役場に寄付され、現在「ついじ広場」として、地元永方部落が管理している。
*関連資料(よりご理解頂くために!)
歴史と文学と情熱と愛と蜜柑の香る金峰オレンジロード
https://4travel.jp/travelogue/10516828
8,有明海東沿岸風景8 ,4金魚の町長洲と島原半島を結ぶ有明フェリー
https://4travel.jp/travelogue/11123728
WT信の小諸日誌2024
https://4travel.jp/travelogue/11947743
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