玉名・荒尾旅行記(ブログ) 一覧に戻る
折角唐津迄行くのだからと、少し前から誘って下さってる、熊本県玉名市天水町在住の親戚筋に当るK・Nさんに会いに行く事にした。<br /><br />熊本には周知の阿蘇のカルデラの他に金峰山と云うカルデラが有り、その一ノ岳を通常金峰山と呼んでいる。<br /><br />有明海が広がる西斜面は日本でも第4位の生産量を誇る蜜柑畑が連なり、その蜜柑畑を貫く広域農道が金峰オレンジロード。<br />金峰オレンジロードを中心に、この一帯に滲む歴史と文学と情熱と愛、そしてそれらをクモの巣のように繋いでいる因縁に心が躍った旅であった。<br /><br />この金峰オレンジロードの中心にお住まいのK・Nさんが最初に案内してくださったのは、夏目漱石ゆかりの場所、小天温泉と峠の茶屋。<br /><br />小天温泉と峠の茶屋との間には、宮本武蔵が籠り五輪書を書いたと云う霊厳洞が有り、その入り口の手前には霊厳洞を守護するかのように五百羅漢が並ぶ。<br /><br />あまりにも有名な&quot;「おい」と声を掛けたが返事がない&quot;は漱石の小説「草枕」の第2節の冒頭部分。<br /><br />その茶店のばあさんに教えてもらって訪れるのが小天温泉。<br /><br />漱石は明治29年(1869)4月,29才で熊本第五高等学校の教授となり、4年3ケ月の熊本での生活の中で妻(鏡子)を娶り、長女が生まれる。<br /><br />熊本赴任の翌年(明治30年12月)早くも小天温泉を訪れ,その後も友人とここを訪れた。<br /><br />当時の小天温泉は小天の名望で、明治23年の第1回衆議院議員選挙で代議士にもなっていた前田案山子の別邸で、そこで漱石が出会ったのが、2度目の結婚に破れ、出戻っていた案山子の長女卓子(つなこ)で、小説「草枕」の主人公那美のモデル。<br /><br /><br />卓子には妹がおり槌子と云った。<br /><br />槌子は、熊本迄人の土を踏まずに行けると豪語した程の広い前田家の草原を、素っ裸で白馬を駆け巡らすという当時の日本女性の枠をはみ出した女性だったらしい。<br /><br />その槌子を見染めた男がいた。<br /><br />その男の名は宮崎寅蔵、後に「滔天」を号とした。<br /><br />生涯を孫文の中国革命を助け、中国革命の為に駆けずり回った男だ。<br /><br />そんな男の志を槌子は理解し、二人は結婚、槌子は世間の圧力と貧窮に耐えて生涯滔天を支え、二人の子供を育てた。<br /><br />滔天は後に浪花節語りとなり、またその活動を自伝的に著した「三十三年之夢」を二六新報に連載するなど、中国革命の意図を世に訴えんと奔走する。<br /><br />京都帝国大学教授の桑原武雄は共同編纂した「日本の名著 近代の思想 」(中公新書 1962)で「三十三年之夢」を取り上げ、滔天を近代日本最大のロマンチストと絶賛している。<br /><br />滔天と槌子との間には男の子が生まれる。<br /><br />しかし二人に子供に掛りあう時間も金も無く、男の子は伊倉高等小学校を卒業するまで小天の前田家に預けられる。<br /><br />その子の名は龍介と云い、後の「白蓮事件」の主人公の一人となる。<br /><br />「白蓮事件」のもう一人の主人公は当時の柳原伯爵の娘で、大正3美人の一人と謳われた柳原燁子(後の通称白蓮)で、大正天皇の生母の姪。<br /><br />事件は白蓮の2度目の嫁ぎ先、九州一の炭坑王伊藤伝右衛門宅に、当時東京帝国大学の法科の学生だった龍介が、左翼系の組織「新人会」の機関誌「解放」に歌人白蓮が書いた戯曲の掲載依頼を送ったことに始まる。<br /><br />後に二人は駆け落ちするのだが、姦通罪が真借り通っていた時代の、貧乏学生と、華族の出での絶世の美人で、大金持ちの奥方に収まっていた女性との駆け落ちは、大事件にならないはずはない。<br /><br />その後の経緯に関心をお持ちの方は、林真理子著「白蓮れんれん」をご覧下さい。<br /><br />世間的に事件が収まり、龍介は弁護士となる。<br /><br />その後龍介は中国に馴染みの深い滔天の息子と云う間柄を期待され、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件を「局地的な紛争」として留め、日本と中国の全面戦争を避けようと目論んだ、当時の首相・近衛文麿の意を受け、秘密特使として中国への船の待つ神戸港に向かうが、意図を察知した憲兵の手で捕らえられ、その後長い期間憲兵による拘束生活を余儀なくされる。<br /><br />後にもし龍介が中国へ渡ることが出来たら、近代日本史のみならず近代世界史は違った道筋を歩んだかもしれないと云われた出来ごとである。<br /><br />弁護士としての宮崎龍介の印象に残る事件がある。<br /><br />1960年、三島由紀夫は「中央公論」に小説『宴(うたげ)のあと』を連載、単行本は新潮社刊。<br /><br />その主人公野口雄賢のモデルとされたのが有田八郎(元外務大臣)と料亭の女将福沢かづのモデルの畔上輝井(東京の白金台の料亭「般若苑」の女将。当時37歳)。<br /><br />有田八郎は1959年2度目の東京都都知事に日本社会党から立候補するが敗北。<br />相手は自民党候補の東龍太郎。<br /><br />有田八郎は三島の『宴(うたげ)のあと』の描写内容を「事実に反すると同時にプライバシーの侵害」として損害賠償を求めて民事訴訟を起こす。<br /><br />東京地裁はモデル小説にもプライバシー権を認め、三島に賠償金の支払いを命じている。<br /><br />これは日本最初のプライバシー侵害訴訟で、その訴訟代理人が弁護士宮崎龍介であった。<br /><br />『宴(うたげ)のあと』自体は文章もきれいで、一気に読んだ記憶がある。<br /><br />話を地元に戻そう。<br />龍介の父寅蔵(滔天)は玉名に隣接する熊本の北の端荒尾に生まれる。<br /><br />その生家は現在荒尾市荒尾に「宮崎兄弟資料館」として残る。<br /><br />寅蔵は成人した男四兄弟の末っ子で、長兄の八郎は、中江兆民の「民約論」(ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論を元とする)の影響を受け、植木町有った植木学校設立に参画。<br /><br />有名な田原坂の直ぐ近くだ。<br /><br />明治10年西南戦争が勃発すると、植木学校の生徒だった人たちを中心に熊本協同隊を結成、熊本協同隊参謀長として薩摩軍に参加、八郎は官軍の弾丸を受け八代市萩原堤で戦死する。<br /><br />関心のある方はその経緯が司馬遼太郎の「翔ぶが如く」第5巻から登場するのでご覧下さい。<br /><br />八郎と寅蔵の間には二人の姉妹がいた。<br /><br />妹富は六栄村永方(現玉名郡長洲町)の築地貞俊に嫁いでいる。<br /><br />築地貞俊は弟の倶哲共々植木学校に席が有り、八郎とも当然顔馴染みであったろう。<br />兄弟そろって熊本協同隊に参加している。<br /><br />西南戦争が終わり、倶哲は養子として築地家を出るがその養子先が小天の野尻家であり、今回の旅を案内して下さったK・Nさんはその孫に当られる。<br /><br />小天は西南戦争の際薩摩軍が官軍を迎え打った土地でもあった。<br /><br /><br />永方(現長洲町)の旧築地貞俊宅の北側の村のメイン道路の坂の右手に、信定寺と云う400年を超すと云われる歴史を持つ寺が有り、その境内の墓地の中程に一見それと判る角塔婆が建ち、それには「我祖貫之裔・・・」と始まる刻印が有り、慶長9年(1604年)築地子五郎兵衛(後のこの寺の初代住職禅念)が父内蔵之丞の為に建てたとある。<br /><br />因みに現在(2023年)の住職公明師が14代で、11世慈雲の時(明治9年),姓を築地から迦統に改め、5代茲南の弟大眼が帰俗して才右衛門と改め、築地姓を継承し、築地貞俊の始祖となっている。<br /><br />明治43年寺が全焼し、過去帳始め関係書類が一切消失し、寺にはこれを証明する資料は無いらしい。<br /><br />がこれを裏付ける文書が「肥後文献叢書第一巻」に、武内大臣後紀貫之裔・・で始まる築地家家系の記載に有る。<br /><br />”貫之の孫(?)紀隆村が天徳年間に西国目付となり肥後坂下手永、大野郷を賜り、繁根木八幡宮(現玉名市にあり)を建立。<br />隆村の嫡紀国隆は3人の息子にそれぞれ五十五丁の土地を与え、3人の息子は与えられた土地の名を姓として、中村蔵人太郎時隆、築地蔵人次郎国秀、大野蔵人三郎秀隆と名乗り、大野蔵人三郎秀隆が大野家の総領となる。”<br /><br />その後大野家一族は肥後の名門菊池家の庇護の下で、幾つかの城を築くが、今に残る城跡の一つがK・Nさんが案内してくれた高道城。<br />現在残るのはその本丸だった部分。<br /><br /><br />築地貞俊の郷、永方(現長洲町)の直ぐ南に、小さい川が流れており、菜切川と云う。<br /><br />その対岸の目と鼻の先にこんもり緑に囲まれた野原八幡宮が有る。<br /><br />ここは1200年代、現在の埼玉県東松山市の小代郷にいた小代氏が頼朝に仕え、後に宝治合戦で活躍した功により、野原八幡宮のある野原荘の地頭職となり、蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に移住・定着したのが熊本小代家。<br /><br />領地を接する大野家と小代家の争いはその以前から絶え間なく続き、戦国時代の天正10年、九州の領有権を争う、3大家の薩摩の島津、豊後の大友、肥前の竜造寺が相争う戦乱の中で、大野家側と小代家は最後の決戦を強いられる。<br /><br />武門の誉れ高い関東武士の小代家と、地方の豪族武士大野家の対決は当然のように大野家の全面敗北、大野家側は女子供逃がした後、全員討ち死にしたと伝えられる。<br /><br />しかし信定寺にある角塔婆は、大野家滅亡の際、戦死した市郎代太夫隆重の末子蔵人清隆が肥前に逃れ、数年後に永方に帰住すとある。<br /><br />玉名市築地にある、花火で有名な現四十九池神社の脇に池が有り、大野家側の女子供は全員この池で入水自殺したと云う伝説も残る。<br /><br />また玉名市築地にある真言宗の蓮華院誕生寺は大野家の姫が嫁いだと云う名刹で、やはり天正10年の戦乱で全焼し、ようやく昭和5年に蓮華院が、昭和53年に奥の院が再興された。<br /><br />世界一の梵鐘を持つ奥の院には、平成17年4月10日より14日までダライ・ラマ法王が訪問されているが、私はたまたまその前日奥の院を訪れている。<br /><br />チベット援助のNPOをしておられ、ダライ・ラマ法王と並んで立っておられる写真を見せて下ったK・Nさんも、私が訪れた当日、奥の院で準備に奔走しておられたらしい。<br /><br />この旅では因縁というか不思議な繋がりを幾度も感じさせられる。<br /><br /><br />因縁話をもう一つ。<br />貫之のDNAのなせる技だろうか、築地貞俊の孫築地正子は女流歌人として知られる。<br />正子は戦後東京から永方に移り住み、近くを流れる菜切川をタイトルとした歌集「菜切川」で現代短歌女流賞を受賞している。<br /><br />またサラダ日記で有名な俵万智のエッセイ風の歌集「あなたと読む恋の歌百首 」で、白蓮の歌と並んで正子の歌が収録されているのも不思議な縁と云えるかもしれない。<br /><br /> 幾億の生命の末に生まれたる  二つの心そと並びけり (柳原白蓮)<br /><br /> モジリャニの絵の中の女が語りかく 秋について愛についてアンニュイについて(築地正子)<br /><br />柳原白蓮も築地正子もそして俵万智も「心の花」の同人。<br /><br /><br />最後にとっておきの因縁話をします。<br /><br />この度の金峰オレンジロードの旅の切っ掛けを作ってくださったのは、小天のK・Nさんの従兄で長年京都にお住まいで、妙心寺でお仕事をしておられる、M・Iさんだった。<br /><br />M・Iさんによると妙心寺住職の息子さんが、埼玉県新座市にある平林寺で修行をされているとの事。<br /><br />その平林寺になんと「草枕」主人公那美のモデルと云われる前田卓子の墓が有ると云う。<br /><br />卓子には腹違いの弟、六男の利鎌が居た。<br /><br />利鎌の生母が無くなり、利鎌は母親程も年の違う卓子と暮らし、苦学しながらも東京帝国大学哲学科に進む。<br /><br />その利鎌が平林寺で修行をしたことが有り、後に利鎌を養子とした卓子も平林寺を訪れていたに違いない。<br /><br />卓子は存命中に平林寺に利鎌のための墓を建立。<br /><br />その墓に今は卓子も眠っているらしい。<br /><br />平林寺には季節ごとに何度も足を運んでいるが、卓子の墓の存在は、この旅を通して始めた知った。<br /><br />近いうちにこの目で確かめようと思う。<br /><br /><br />滔天が何度も訪れたであろう中国を垣間見る旅に、明日出発します。<br />https://4travel.jp/travelogue/10521498<br /><br />追記;久しぶり平林寺を訪れ、卓子が利鎌と共に眠る墓に参って来ました。<br /><br />驚いたことに、つい最近まで空堀であった、野火止用水の平林寺掘りに水が流れていました。<br /><br />新たに水に恵まれた平林寺掘りは、卓子が眠る平林寺の片隅の墓の直ぐ後ろで音もなく静かに流れ、二人もさぞ喜んだであろうと、思わず心が緩む佇まいでした。<br /><br />追記No2因縁話番外編<br />去る10月13日NHKで「英雄たちの選択・・・決戦!西南戦争 ラストサムライ 西郷隆盛の真実」という番組を見た。<br /><br />それが改めて西郷軍側に参戦した熊本協同隊のことを思いださせた。<br /><br />熊本協同隊は宮崎八郎等が自由民権を標榜して設立された植木学校の生徒を中心にして編成され、投票で宮崎八郎が参謀長として実質的に熊本協同隊の指揮官となる。<br /><br />宮崎八郎と共に植木学校に籍を置いていた、築地貞俊とその弟、倶哲兄弟は共に熊本協同隊に参戦、特に貞俊は隊の幹部として教導長と云う役を担っていたが、熊本城攻撃のさ中に負傷し、以後最前線から外れていた。<br /><br />それが幸いしたか西南戦争終結後、戦争責任のお咎めもないどころか、1888年(明治21年)村制が施行されると、貞俊は熊本県玉名郡六栄村の初代村長に推挙されている。<br /><br />それから6年後(1898年)の第5回衆議院議員選挙には貞俊は熊本2区から立憲自由党の代議士として立候補したが次選。<br /><br />驚いたことにその前の第4回衆議院議員選挙に同じ立憲自由党から立候補したいるのが、夏目漱石の小説「草枕」の主人公那美こと卓子の父前田案山子で、やはり次選だったのだが、同じ立憲自由党の候補者であったとすると、貞俊と案山子は当然お互いに知己であったと云う新たな因縁を見出した。<br /><br />貞俊と宮崎八郎の妹で貞俊に嫁いだ富は11人の子宝に恵まれていたが、その10番目の息子の名を邦輔と云った。宮崎龍介とは5歳年下の従妹同士。<br /><br />時代が進み、第2次大戦終結後2年の年月をえて邦輔は2度の徴兵からようやく六栄村に戻り、翌々年には13代目の六栄村村長に当選し、続いて町村合併で生まれた腹栄村村長となった。<br /><br />六栄村の初代村長を築地貞俊が担い、息子の邦輔が六栄村に幕を引く因縁となる。<br /><br />邦輔はその後の更なる町村合併で腹栄村に終始符を打ち、新しい長洲町の助役として、長洲港の整備と 長崎県尾多比良港間のフェリーの就航、新産業都市の指定、日立造船の誘致等に奔走している。<br /><br />昭和42年の春、結婚して間もない頃、私は妻を連れて長洲を訪れ、多比良港についても下船しないという条件付きで、運よく竣工前のフェリーのテスト航行の船に乗船させて貰った。<br /><br />行路では噴火前のきれいな雲仙岳が、帰路には大野氏一族の親城・日嶽(ひだけ)城が建っていた云う小岱山が、それぞれ正面に控えていたのが目に浮かぶ。<br /><br />肥後 日嶽城(鶴城)は、今から650年程前の南北朝時代の半ば頃、当時の大野別 符(玉名町・築山・滑石・岱明町一帯)の地頭であった、大野氏一族の滅亡ともなった山城(砦)であったと云われている。<br /><br /><br />

歴史と文学と情熱と愛と蜜柑の香る金峰オレンジロード

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2010/10/19 - 2010/10/21

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WT信

WT信さん

折角唐津迄行くのだからと、少し前から誘って下さってる、熊本県玉名市天水町在住の親戚筋に当るK・Nさんに会いに行く事にした。

熊本には周知の阿蘇のカルデラの他に金峰山と云うカルデラが有り、その一ノ岳を通常金峰山と呼んでいる。

有明海が広がる西斜面は日本でも第4位の生産量を誇る蜜柑畑が連なり、その蜜柑畑を貫く広域農道が金峰オレンジロード。
金峰オレンジロードを中心に、この一帯に滲む歴史と文学と情熱と愛、そしてそれらをクモの巣のように繋いでいる因縁に心が躍った旅であった。

この金峰オレンジロードの中心にお住まいのK・Nさんが最初に案内してくださったのは、夏目漱石ゆかりの場所、小天温泉と峠の茶屋。

小天温泉と峠の茶屋との間には、宮本武蔵が籠り五輪書を書いたと云う霊厳洞が有り、その入り口の手前には霊厳洞を守護するかのように五百羅漢が並ぶ。

あまりにも有名な"「おい」と声を掛けたが返事がない"は漱石の小説「草枕」の第2節の冒頭部分。

その茶店のばあさんに教えてもらって訪れるのが小天温泉。

漱石は明治29年(1869)4月,29才で熊本第五高等学校の教授となり、4年3ケ月の熊本での生活の中で妻(鏡子)を娶り、長女が生まれる。

熊本赴任の翌年(明治30年12月)早くも小天温泉を訪れ,その後も友人とここを訪れた。

当時の小天温泉は小天の名望で、明治23年の第1回衆議院議員選挙で代議士にもなっていた前田案山子の別邸で、そこで漱石が出会ったのが、2度目の結婚に破れ、出戻っていた案山子の長女卓子(つなこ)で、小説「草枕」の主人公那美のモデル。


卓子には妹がおり槌子と云った。

槌子は、熊本迄人の土を踏まずに行けると豪語した程の広い前田家の草原を、素っ裸で白馬を駆け巡らすという当時の日本女性の枠をはみ出した女性だったらしい。

その槌子を見染めた男がいた。

その男の名は宮崎寅蔵、後に「滔天」を号とした。

生涯を孫文の中国革命を助け、中国革命の為に駆けずり回った男だ。

そんな男の志を槌子は理解し、二人は結婚、槌子は世間の圧力と貧窮に耐えて生涯滔天を支え、二人の子供を育てた。

滔天は後に浪花節語りとなり、またその活動を自伝的に著した「三十三年之夢」を二六新報に連載するなど、中国革命の意図を世に訴えんと奔走する。

京都帝国大学教授の桑原武雄は共同編纂した「日本の名著 近代の思想 」(中公新書 1962)で「三十三年之夢」を取り上げ、滔天を近代日本最大のロマンチストと絶賛している。

滔天と槌子との間には男の子が生まれる。

しかし二人に子供に掛りあう時間も金も無く、男の子は伊倉高等小学校を卒業するまで小天の前田家に預けられる。

その子の名は龍介と云い、後の「白蓮事件」の主人公の一人となる。

「白蓮事件」のもう一人の主人公は当時の柳原伯爵の娘で、大正3美人の一人と謳われた柳原燁子(後の通称白蓮)で、大正天皇の生母の姪。

事件は白蓮の2度目の嫁ぎ先、九州一の炭坑王伊藤伝右衛門宅に、当時東京帝国大学の法科の学生だった龍介が、左翼系の組織「新人会」の機関誌「解放」に歌人白蓮が書いた戯曲の掲載依頼を送ったことに始まる。

後に二人は駆け落ちするのだが、姦通罪が真借り通っていた時代の、貧乏学生と、華族の出での絶世の美人で、大金持ちの奥方に収まっていた女性との駆け落ちは、大事件にならないはずはない。

その後の経緯に関心をお持ちの方は、林真理子著「白蓮れんれん」をご覧下さい。

世間的に事件が収まり、龍介は弁護士となる。

その後龍介は中国に馴染みの深い滔天の息子と云う間柄を期待され、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件を「局地的な紛争」として留め、日本と中国の全面戦争を避けようと目論んだ、当時の首相・近衛文麿の意を受け、秘密特使として中国への船の待つ神戸港に向かうが、意図を察知した憲兵の手で捕らえられ、その後長い期間憲兵による拘束生活を余儀なくされる。

後にもし龍介が中国へ渡ることが出来たら、近代日本史のみならず近代世界史は違った道筋を歩んだかもしれないと云われた出来ごとである。

弁護士としての宮崎龍介の印象に残る事件がある。

1960年、三島由紀夫は「中央公論」に小説『宴(うたげ)のあと』を連載、単行本は新潮社刊。

その主人公野口雄賢のモデルとされたのが有田八郎(元外務大臣)と料亭の女将福沢かづのモデルの畔上輝井(東京の白金台の料亭「般若苑」の女将。当時37歳)。

有田八郎は1959年2度目の東京都都知事に日本社会党から立候補するが敗北。
相手は自民党候補の東龍太郎。

有田八郎は三島の『宴(うたげ)のあと』の描写内容を「事実に反すると同時にプライバシーの侵害」として損害賠償を求めて民事訴訟を起こす。

東京地裁はモデル小説にもプライバシー権を認め、三島に賠償金の支払いを命じている。

これは日本最初のプライバシー侵害訴訟で、その訴訟代理人が弁護士宮崎龍介であった。

『宴(うたげ)のあと』自体は文章もきれいで、一気に読んだ記憶がある。

話を地元に戻そう。
龍介の父寅蔵(滔天)は玉名に隣接する熊本の北の端荒尾に生まれる。

その生家は現在荒尾市荒尾に「宮崎兄弟資料館」として残る。

寅蔵は成人した男四兄弟の末っ子で、長兄の八郎は、中江兆民の「民約論」(ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論を元とする)の影響を受け、植木町有った植木学校設立に参画。

有名な田原坂の直ぐ近くだ。

明治10年西南戦争が勃発すると、植木学校の生徒だった人たちを中心に熊本協同隊を結成、熊本協同隊参謀長として薩摩軍に参加、八郎は官軍の弾丸を受け八代市萩原堤で戦死する。

関心のある方はその経緯が司馬遼太郎の「翔ぶが如く」第5巻から登場するのでご覧下さい。

八郎と寅蔵の間には二人の姉妹がいた。

妹富は六栄村永方(現玉名郡長洲町)の築地貞俊に嫁いでいる。

築地貞俊は弟の倶哲共々植木学校に席が有り、八郎とも当然顔馴染みであったろう。
兄弟そろって熊本協同隊に参加している。

西南戦争が終わり、倶哲は養子として築地家を出るがその養子先が小天の野尻家であり、今回の旅を案内して下さったK・Nさんはその孫に当られる。

小天は西南戦争の際薩摩軍が官軍を迎え打った土地でもあった。


永方(現長洲町)の旧築地貞俊宅の北側の村のメイン道路の坂の右手に、信定寺と云う400年を超すと云われる歴史を持つ寺が有り、その境内の墓地の中程に一見それと判る角塔婆が建ち、それには「我祖貫之裔・・・」と始まる刻印が有り、慶長9年(1604年)築地子五郎兵衛(後のこの寺の初代住職禅念)が父内蔵之丞の為に建てたとある。

因みに現在(2023年)の住職公明師が14代で、11世慈雲の時(明治9年),姓を築地から迦統に改め、5代茲南の弟大眼が帰俗して才右衛門と改め、築地姓を継承し、築地貞俊の始祖となっている。

明治43年寺が全焼し、過去帳始め関係書類が一切消失し、寺にはこれを証明する資料は無いらしい。

がこれを裏付ける文書が「肥後文献叢書第一巻」に、武内大臣後紀貫之裔・・で始まる築地家家系の記載に有る。

”貫之の孫(?)紀隆村が天徳年間に西国目付となり肥後坂下手永、大野郷を賜り、繁根木八幡宮(現玉名市にあり)を建立。
隆村の嫡紀国隆は3人の息子にそれぞれ五十五丁の土地を与え、3人の息子は与えられた土地の名を姓として、中村蔵人太郎時隆、築地蔵人次郎国秀、大野蔵人三郎秀隆と名乗り、大野蔵人三郎秀隆が大野家の総領となる。”

その後大野家一族は肥後の名門菊池家の庇護の下で、幾つかの城を築くが、今に残る城跡の一つがK・Nさんが案内してくれた高道城。
現在残るのはその本丸だった部分。


築地貞俊の郷、永方(現長洲町)の直ぐ南に、小さい川が流れており、菜切川と云う。

その対岸の目と鼻の先にこんもり緑に囲まれた野原八幡宮が有る。

ここは1200年代、現在の埼玉県東松山市の小代郷にいた小代氏が頼朝に仕え、後に宝治合戦で活躍した功により、野原八幡宮のある野原荘の地頭職となり、蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に移住・定着したのが熊本小代家。

領地を接する大野家と小代家の争いはその以前から絶え間なく続き、戦国時代の天正10年、九州の領有権を争う、3大家の薩摩の島津、豊後の大友、肥前の竜造寺が相争う戦乱の中で、大野家側と小代家は最後の決戦を強いられる。

武門の誉れ高い関東武士の小代家と、地方の豪族武士大野家の対決は当然のように大野家の全面敗北、大野家側は女子供逃がした後、全員討ち死にしたと伝えられる。

しかし信定寺にある角塔婆は、大野家滅亡の際、戦死した市郎代太夫隆重の末子蔵人清隆が肥前に逃れ、数年後に永方に帰住すとある。

玉名市築地にある、花火で有名な現四十九池神社の脇に池が有り、大野家側の女子供は全員この池で入水自殺したと云う伝説も残る。

また玉名市築地にある真言宗の蓮華院誕生寺は大野家の姫が嫁いだと云う名刹で、やはり天正10年の戦乱で全焼し、ようやく昭和5年に蓮華院が、昭和53年に奥の院が再興された。

世界一の梵鐘を持つ奥の院には、平成17年4月10日より14日までダライ・ラマ法王が訪問されているが、私はたまたまその前日奥の院を訪れている。

チベット援助のNPOをしておられ、ダライ・ラマ法王と並んで立っておられる写真を見せて下ったK・Nさんも、私が訪れた当日、奥の院で準備に奔走しておられたらしい。

この旅では因縁というか不思議な繋がりを幾度も感じさせられる。


因縁話をもう一つ。
貫之のDNAのなせる技だろうか、築地貞俊の孫築地正子は女流歌人として知られる。
正子は戦後東京から永方に移り住み、近くを流れる菜切川をタイトルとした歌集「菜切川」で現代短歌女流賞を受賞している。

またサラダ日記で有名な俵万智のエッセイ風の歌集「あなたと読む恋の歌百首 」で、白蓮の歌と並んで正子の歌が収録されているのも不思議な縁と云えるかもしれない。

 幾億の生命の末に生まれたる  二つの心そと並びけり (柳原白蓮)

 モジリャニの絵の中の女が語りかく 秋について愛についてアンニュイについて(築地正子)

柳原白蓮も築地正子もそして俵万智も「心の花」の同人。


最後にとっておきの因縁話をします。

この度の金峰オレンジロードの旅の切っ掛けを作ってくださったのは、小天のK・Nさんの従兄で長年京都にお住まいで、妙心寺でお仕事をしておられる、M・Iさんだった。

M・Iさんによると妙心寺住職の息子さんが、埼玉県新座市にある平林寺で修行をされているとの事。

その平林寺になんと「草枕」主人公那美のモデルと云われる前田卓子の墓が有ると云う。

卓子には腹違いの弟、六男の利鎌が居た。

利鎌の生母が無くなり、利鎌は母親程も年の違う卓子と暮らし、苦学しながらも東京帝国大学哲学科に進む。

その利鎌が平林寺で修行をしたことが有り、後に利鎌を養子とした卓子も平林寺を訪れていたに違いない。

卓子は存命中に平林寺に利鎌のための墓を建立。

その墓に今は卓子も眠っているらしい。

平林寺には季節ごとに何度も足を運んでいるが、卓子の墓の存在は、この旅を通して始めた知った。

近いうちにこの目で確かめようと思う。


滔天が何度も訪れたであろう中国を垣間見る旅に、明日出発します。
https://4travel.jp/travelogue/10521498

追記;久しぶり平林寺を訪れ、卓子が利鎌と共に眠る墓に参って来ました。

驚いたことに、つい最近まで空堀であった、野火止用水の平林寺掘りに水が流れていました。

新たに水に恵まれた平林寺掘りは、卓子が眠る平林寺の片隅の墓の直ぐ後ろで音もなく静かに流れ、二人もさぞ喜んだであろうと、思わず心が緩む佇まいでした。

追記No2因縁話番外編
去る10月13日NHKで「英雄たちの選択・・・決戦!西南戦争 ラストサムライ 西郷隆盛の真実」という番組を見た。

それが改めて西郷軍側に参戦した熊本協同隊のことを思いださせた。

熊本協同隊は宮崎八郎等が自由民権を標榜して設立された植木学校の生徒を中心にして編成され、投票で宮崎八郎が参謀長として実質的に熊本協同隊の指揮官となる。

宮崎八郎と共に植木学校に籍を置いていた、築地貞俊とその弟、倶哲兄弟は共に熊本協同隊に参戦、特に貞俊は隊の幹部として教導長と云う役を担っていたが、熊本城攻撃のさ中に負傷し、以後最前線から外れていた。

それが幸いしたか西南戦争終結後、戦争責任のお咎めもないどころか、1888年(明治21年)村制が施行されると、貞俊は熊本県玉名郡六栄村の初代村長に推挙されている。

それから6年後(1898年)の第5回衆議院議員選挙には貞俊は熊本2区から立憲自由党の代議士として立候補したが次選。

驚いたことにその前の第4回衆議院議員選挙に同じ立憲自由党から立候補したいるのが、夏目漱石の小説「草枕」の主人公那美こと卓子の父前田案山子で、やはり次選だったのだが、同じ立憲自由党の候補者であったとすると、貞俊と案山子は当然お互いに知己であったと云う新たな因縁を見出した。

貞俊と宮崎八郎の妹で貞俊に嫁いだ富は11人の子宝に恵まれていたが、その10番目の息子の名を邦輔と云った。宮崎龍介とは5歳年下の従妹同士。

時代が進み、第2次大戦終結後2年の年月をえて邦輔は2度の徴兵からようやく六栄村に戻り、翌々年には13代目の六栄村村長に当選し、続いて町村合併で生まれた腹栄村村長となった。

六栄村の初代村長を築地貞俊が担い、息子の邦輔が六栄村に幕を引く因縁となる。

邦輔はその後の更なる町村合併で腹栄村に終始符を打ち、新しい長洲町の助役として、長洲港の整備と 長崎県尾多比良港間のフェリーの就航、新産業都市の指定、日立造船の誘致等に奔走している。

昭和42年の春、結婚して間もない頃、私は妻を連れて長洲を訪れ、多比良港についても下船しないという条件付きで、運よく竣工前のフェリーのテスト航行の船に乗船させて貰った。

行路では噴火前のきれいな雲仙岳が、帰路には大野氏一族の親城・日嶽(ひだけ)城が建っていた云う小岱山が、それぞれ正面に控えていたのが目に浮かぶ。

肥後 日嶽城(鶴城)は、今から650年程前の南北朝時代の半ば頃、当時の大野別 符(玉名町・築山・滑石・岱明町一帯)の地頭であった、大野氏一族の滅亡ともなった山城(砦)であったと云われている。


同行者
一人旅
交通手段
ANAグループ JRローカル 自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 前田卓子

    前田卓子

  • 中央背広姿が孫文。右の羽織袴の男が滔天。左の女性が富(築地貞俊夫人)。写真左から3人目着物姿が築地貞俊。孫文と滔天の間に座っている青年が宮崎龍介。<br /><br />(この写真は昭和58年11月、滔天の甥宮崎真英氏より私が頂戴したものです。)

    中央背広姿が孫文。右の羽織袴の男が滔天。左の女性が富(築地貞俊夫人)。写真左から3人目着物姿が築地貞俊。孫文と滔天の間に座っている青年が宮崎龍介。

    (この写真は昭和58年11月、滔天の甥宮崎真英氏より私が頂戴したものです。)

  • 信定寺に建つ角塔婆

    信定寺に建つ角塔婆

  • 真言宗の蓮華院誕生寺

    真言宗の蓮華院誕生寺

  • 平林寺<br /><br />2008 桜・桜・桜・新座市(平林寺・半僧坊祭)編<br />http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10234162/<br /><br />平林寺の紅葉づくし<br />http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10410841/<br /><br /><br /><br />

    平林寺

    2008 桜・桜・桜・新座市(平林寺・半僧坊祭)編
    http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10234162/

    平林寺の紅葉づくし
    http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10410841/



  • 平林寺に建つ、夏目漱石の小説”草枕”の主人公”那美”のモデルと云われる、<br />熊本の小天温泉の宿の娘前田卓子の墓。

    平林寺に建つ、夏目漱石の小説”草枕”の主人公”那美”のモデルと云われる、
    熊本の小天温泉の宿の娘前田卓子の墓。

  • 有明フェリー

    有明フェリー

  • 日立造船

    日立造船

  • 雲仙岳

    雲仙岳

  • 小岱山

    小岱山

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