2026/07/21 - 2026/08/11
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一人旅のラクさん
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2026年の7月21日から8月11日にかけて、新疆ウイグル自治区南部(南疆)を旅行してきました。
今回は7月24日の、トルファン郊外での観光について書きます。
旅程
7/21 「蘭州→ハミ」、車中泊
7/22 「蘭州→ハミ」、ハミ瓜園・左公文化苑・哈密回王府・阿勒屯古街観光、ハミにて宿泊
7/23 「ハミ→トルファン」、カレーズ民族園・葡萄沟景区観光、トルファンにて宿泊
7/24 火焔山・高昌故城・吐峪沟村・ベゼクリク千仏洞観光、トルファンにて宿泊
7/25 「トルファン→焉耆→コルラ」、コルラにて宿泊
7/26 鉄門関・ボステン湖(大河口景区・阿洪口莲海世界)観光、コルラにて宿泊
7/27 孔雀公園観光、「コルラ→クチャ」、クチャにて宿泊
7/28 スバシ故城・キジル千仏洞観光、クチャにて宿泊
7/29 旧市街(クチャ王府)近辺観光、「クチャ→アクス」
7/30 多浪河国家湿地公園・温宿古城観光、アクスにて宿泊
7/31 「アクス→アラル」、塔河源景区・三五九红色文化旅游区観光、「アラル→アクス」、アクスにて宿泊
8/01 「アクス→カシュガル」、喀什古城観光、カシュガルにて宿泊
8/02 牛羊大巴扎・アパクホージャ墓・昆仑塔・遇见喀什(演劇)観光、カシュガルにて宿泊
8/03 「カシュガル→ヤルカンド」、旧市街近辺観光、ヤルカンドにて宿泊
8/04 「ヤルカンド→ホータン」、和田博物館・和田玉博物館観光、ホータンにて宿泊
8/05 赞木庙(牛角山遺跡)・乌鲁瓦提风景区(ユルンカシュ河)観光、ホータンにて宿泊
8/06 「ホータン→チャルクリク」、チャルクリクにて宿泊
8/07 ミーラン遺跡観光、チャルクリクにて宿泊
8/08 若羌楼兰博物館・吾塔木烽火台観光、「チャルクリク→ウルムチ」、車中泊
8/09 「チャルクリク→ウルムチ」、国際大バザール観光、ウルムチにて宿泊
8/10 水磨沟风景区観光、ウルムチにて宿泊
8/11 新疆自然博物館観光、「ウルムチ→蘭州」
※当時の元/円レートは、1元=24円弱くらいです。
※日本ではなく私の留学先の蘭州がスタート地点になっています。あらかじめご了承ください。
それではここから本編です。
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こんにちは。4日目の昼です。
今日はタクシーを300元でチャーターしてトルファン郊外の観光をしていきます。 -
まずは高昌国時代の遺跡、高昌故城に行くことにします。
しばらく走ると向こうに火焔山が見えて来ました。 -
火焔山は西遊記に登場することで非常に有名な山です。
西遊記の中では炎が燃え盛る山として登場し、その火を消す唯一の道具である芭蕉扇を借りるため孫悟空が牛魔王と戦いました。 -
火焔山の近くで少し車を止めてもらいました。
近くには芭蕉扇のモニュメントがあります。 -
赤と茶の異なる色の地層と縦に溝が入っているのが特徴的。
夏には地表の温度が70度に達することもあるらしく、西遊記で燃える山に喩えられたのも頷けます。 -
再びタクシーに乗り込み移動。
高昌故城はこの火焔山から少し南に行った場所にあります。 -
14時ちょうど、高昌故城につきました。
高昌故城はトルファン東部にある正方形の形をした古代の街の遺跡です。
5-7世紀にかけてトルファン一帯を支配した高昌国の時代に最盛期を迎え、天竺に向かう途中の玄奘がしばらく滞在したことでよく知られています。 -
チケット代はかなり高めの70元(学生老人は半額)、景区専用のカート代が別途30元です。
高昌故城に関する展示があるそうなので、予習も兼ねてまずはそちらの方から見ていきます。 -
高昌故城の歴史。
高昌故城の歴史は長く、その起源は紀元前1世紀に漢の駐屯地として用いられた時まで遡ります。
4世紀になると本格的に都市として運用されていくようになり、5世紀中頃には沮渠氏北涼および高昌国の首都として栄え、630年には玄奘も訪れました。
その後640年から約150年にわたる唐の支配のあと、9世紀からは瓦解したウイグル(回鶻)の勢力が天山ウイグル王国(高昌回鶻、西ウイグル王国とも呼ばれる)が根付き、およそ600年にわたってウイグル統治下における繁栄を続けました。
しかし1383年にモンゴル系のチャガタイ・ハン国の攻撃によって街は灰と化し、放棄されてしまいました。 -
玄奘三蔵に関する展示。
折角なので有名な玄奘の高昌国におけるエピソードを紹介することにします。 -
天竺への旅の途中、伊吾国(現在のハミ)から当時の高昌国の王麴文泰による手引きによって高昌国に辿り着いた玄奘は、麴氏による熱烈な歓迎を受けました。
というのも彼は熱心な仏教徒であったため、既に名を轟かせていた玄奘の来訪は彼にとってこの上ない喜びだったのです。 -
しかしいずれ旅立ってしまう玄奘をどうしても引き留めたくなった麴文泰は、この高昌国で死ぬまであなたに仕えさせてほしいと懇願します。
しかし玄奘もそういうわけにもいかないのでその頼みを断っていると、とうとう麴文泰は「高昌国に留まらないのであれば漢に強制送還してやるぞ」と脅す様になってしまいます。 -
しかし玄奘三蔵の決意は固く、彼の脅しに対してハンガーストライキで対抗します。
日に日に弱っていく玄奘を見た麴文泰は遂に折れ、「師よどうか西にお行き下さい、それよりもまず食事をしてください。」と言って、彼の天竺行きを認めました。 -
玄奘の天竺行きを認めた麴文泰は態度を一転して彼の旅を支える立場へと回り、少年僧4人、使用人25人、黄金百両、銀三万枚、30頭の馬、衣服などを支給したほか、玄奘の旅路を円滑なものにするため高昌国以西の24カ国に「玄奘を頼む」という旨の書簡と絹織物を送り、彼の旅路を支えました。
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玄奘の天竺行きに際してまだ一カ月の猶予があった玄奘は「仁王般若経」の説法を行い、麴文泰もこれを熱心に聞いたそうです。
玄奘が高昌国を去る日、麴文泰は泣きながら別れを惜しみ、交河故城(現在のトルファン市街西部にある街)の外十数里にわたって玄奘を見送りました。
この様な麴文泰の支援に感謝した玄奘はインドからの帰りに再び高昌国に立ち寄ることを約束しますが、その頃には既に唐の侵攻によって高昌国は滅びており、麴文泰も亡き後でした。
紹介が長くなりましたが、そろそろ遺跡の方へと向かいます。 -
前述の通り故城内は景区専用のカートに乗って観光します。
故城内には幾つか停留所があり、所々で停まりつつ観光していくというスタイルです。 -
それではカートに乗って遺跡へと向かいます。
カートには私しか乗っておらず、遺跡の中ですれ違った観光客も1組だけだったので人はかなり少なめ。
移動しているとトルファンの火のような熱風が顔に吹きつけてきます。 -
遺跡内の様子。
版築の建物の跡がいくつも残っています。 -
最初の停留所の東南小仏寺に着きました。
ここは街の東南部にあるお寺で、天山ウイグル王国後期の13-14世紀に建設されました。
チベット仏教の影響が強く、手前の仏塔は曼荼羅を表しているそうです。 -
奥の四角い建物の中は入り口から覗き込むことができ、中には仏画や仏像の跡などが残っていました。
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東南小仏寺の近くにある2号建築遺跡。
なんの建物かは書いてませんでしたが、南北に25m東西に13mの広さがあるそうです。 -
建物の中。
それではまたカートで移動します。 -
次に来たのは北部建築遺跡区という建物が沢山ある場所。
東西560m南北200mに渡って版築の建物が並んでいます。 -
地上と地下に分かれた構造をした建築物が多いのが特徴みたいです。
では再び移動。 -
可汗堡遺跡という場所に着きました。
可汗堡というのは王宮を意味しており、宮殿地区であったと推定されています。
周りは高さは6-8mの壁に囲まれており、西側には庭園建築、南部には居住区が広がっていました。
また東側には寺があったと推定されており、445年に建てられた碑石や壁画、回鶻語の文といった文化財が見つかっているそうです。 -
中の様子。
左奥には15mもある方形状の塔があります。
ではまた移動します。 -
最後の停留所の西南大仏寺にやってきました。
ここは天山ウイグル王国時代に建てられた庭院式の大きな仏教遺跡です。
周囲は壁で囲まれており、中には大きな仏塔を中心に僧房や講経堂(講義や説法を行う場所)などの建物があります。 -
遺跡の中の様子。
塔がある建物の手前には広場があります。 -
右側にあるドーム型の講経堂。
中国で1986年に放送された西遊記のテレビドラマがここで撮影されたらしく、その時の撮影の様子の写真が展示されていました。 -
中の様子。
屋根は無く壁には仏龕(仏像を置いていた穴や窪み)らしきものがあります。 -
仏龕。
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仏塔がある主殿の様子。
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塔の側面には仏像が置かれていた跡があります。
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主殿の後ろにある僧房。
ではそろそろカートで入り口まで戻ります。 -
入り口まで戻ってきました。
ずっと外にいたので熱中症気味になってしまいましたが、南西大仏寺は建物の近くまで寄れて中々見応えがありました。 -
ではタクシーに乗りこんで吐峪沟村という観光地に向かいます。
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15時50分、高昌故城から30分ほどで吐峪沟村に着きました。
ここは火焔山の谷の中にある1700年の歴史を持つ小さな村です。
と言っても完全に観光地化されているので、歴史の重さとかよりは村の雰囲気を楽しむ感じみたいです。 -
景区の地図。
谷の中には川が流れており、それに沿うように村があります。
入場料は30元(学生老人は15元)、別途景区のカート代が10元かかります。 -
ではカートに乗ってチケット売り場から村の方へと向かいます。
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村へと入りました。
観光地感はありますが、異国感があって雰囲気は悪くありません。 -
干し葡萄屋。
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小川も流れています。
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村の中央にモスクがありました。
中に入れるようなので入ってみます。 -
中には休憩所があるみたいです。
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現在も使われているかは不明ですが、建物の中には絨毯が敷いてある祈りのスペースもありました。
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さっきからずっと熱中症気味なので、モスクの向かいにある喫茶店で休憩することにします。
今日の最高気温は44度なのですが、火焔山は地表が熱されるため実際にはもっと暑く感じます。 -
キンキンに冷えたスイカジュースを飲んで休憩。
余談ですがここの主人の兄チャンが日本の漫画が好きらしく、ワンピースやナルトなんかを読んだことがあるそうです。 -
少し休憩したので再び行動開始。
村の東側の斜面を登っていきます。 -
あまりひと気の無い村のはずれの方まで来てみました。
山の斜面にある様な建物はもう使われていないようです。 -
家の残骸。
おそらく観光地する過程で放棄されたんですかね。 -
ナンを焼く窯のあと。
ではもう少し高台の方まで登ってみます。 -
村が一望できるぐらいの高さまで登ってきました。
ここからだと谷の中に村があるのがよくわかります。 -
村側の景色。
それでは再びカートに乗って入り口まで戻ります。 -
入り口の方まで戻ってきました。
正直何があるというわけでも無いですが、雰囲気も良くて中々ゆっくりできました。
それではタクシーに乗って、今日のメインのベゼクリク千仏洞へと向かいます。 -
千仏洞までは火焔山の谷間にあるムルトゥク川に沿って走ります。
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17時ちょうど、ベゼクリク千仏洞(柏孜克里克千佛洞)に着きました。
ここは南北朝時代に造営が始められた約1500年もの歴史持つ石窟寺院です。
現存する石窟は83個で、その内壁画がある石窟は40数個あります。
日本の大谷探検隊が1902年にここを訪れ、壁画などを剥ぎ取り日本に持ち帰ったことでも知られています。 -
入場料は40元(学生老人は20元)です。
解放されている石窟は第16窟、17窟、20窟、27窟、31窟、33窟、39窟の計7つでした。 -
折角なので先にベゼクリク千仏洞で残っている石窟や仏画の特徴について述べておこうと思います。
先程壁画が残っている石窟は40数窟だと言いましたが、その多くが宋・元代、つまり天山ウイグル王国時代の中後期に描かれたものです。
トルファンにはかなり早い時期に仏教が伝わって根付いたものの、8世紀末にモンゴル高原からやってきた新しい支配者ウイグルはマニ教を信仰していました。
そのため当初はマニ教の信仰が盛んになったものの、ウイグルの定住化につれて仏教への改宗が進み、11世紀には再び仏教が信仰されるようになりました。
仏教を受容したウイグルは仏教を手厚く保護し、このために天山ウイグル王国の中後期に仏寺や石窟の造営が多く行われたのです。
しかしこの時代に描かれた仏画は以前信仰されていたマニ教の影響を受けていため、ウイグル流入以前の仏画とは異なる特徴が見て取れるのだと言います。 -
階段を下って石窟が掘られている場所までやってきました。
確認したところ、カメラでの撮影は禁止ですがフラッシュ無しのスマホでの撮影ならOKだそうなので、石窟内の写真も載せていくことにします。 -
と言っても仏画や石窟の様式のあれこれについては全くの素人なので、石窟の中にある説明書きと私の感想を中心に書いていくことにします。
ではまず第16窟から見ていきます。
11世紀に掘られたらしいです。 -
第16窟の中の様子。
他の石窟もそうですが、大体の壁画と仏像は各国探検隊による持ち去りやイスラム教、文革等の影響によって破壊されています。
奥の方には横たわっている仏像が置かれていたそうですが、今は破損して台座だけが残っているみたいです。 -
残っていた壁画。
青色の顔料は長い年月によって酸化してしまうと黒っぽくなります。 -
両側には経変画という経典の内容を絵に表したものが残っています。
一部にはドイツの探検家ル・コックが壁画を切り取っていったと思しき跡が残っていました。 -
次に第17窟。
ここも11世紀に掘られたものです。 -
第17窟の中。
正面と側面には計7体の仏像がありましたが、今は全て破損してしまったそうです。
こちらの石窟もドイツのル・コックと、日本の大谷探検隊によって壁画が剥ぎ取られました。 -
破損した仏像のあと。
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天井部にある経変画。
第16窟のものよりかなり状態が良くて見応えがあります。 -
次に第20窟。
こちらは10世紀に掘られました。 -
ここの石窟は少し特殊で、以前掘られた石窟の中にさらに石窟があるという構造をしています。
それゆえ真ん中にある中堂の外側は回廊になっており、壁には本行経というという壁画が描かれていたらしいです。 -
中にある石窟の様子。
中心には大悲観音、側面には毘沙門天が描かれていたと説明にありました。
またこちらの石窟の壁画もル・コックに剥ぎ取られ、現在はロシアのエルミタール美術館で展示されているそうです。 -
次に第27窟。
ここは11-12世紀に掘られました。 -
中の様子。
正面と側面に菩薩像があったらしいですが、現在は破損してしまったようです。 -
菩薩像のあと。
背中部分の火焔宝珠紋という部分だけ残ってが残っていました。 -
天井部分には千仏描かれています。
西側の壁画の回鶻族供養人像といった壁画が、イギリスの探検家スタインやドイツのル・コックによって持ち去られているらしいです。 -
次に第31窟。
11世紀に掘られました。 -
側面にある本行経業という壁画。
釈迦牟尼仏が数世に渡って仏を供養したことで、ついに自らが仏になったという物語を表現したものらしいです。 -
正面には温染経文という壁画と寝仏像があったそうですが、すでに破損してしまいました。
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仏画。
ここの石窟の壁画はかなり状態が良かったです。
しかし一部の壁画はスタインによって持ち去られたみたいです。 -
次に第33窟。
11世紀に掘られました。 -
側面の壁画。
本行経変という壁画が描かれています。
こちらも釈迦牟尼仏が前世で仏に心を捧げたことで、自らが仏になったという物語を表しているらしいです。 -
正面の涅槃経変という壁画。
寝仏像があったそうですが破損してしまっています。
日本の大谷探検隊が側面後部の壁画を持ち去り、現在は韓国の国立博物館に保存されているらしいです。 -
最後に第39窟。
ここは12世紀に掘られました。 -
中の様子。
正面には観音菩薩があったそうですが今は破損しています。 -
側面の壁画。
後方の壁画はスタインに持ち去られたらしいです。 -
天井部の千仏。
千仏だけならここが一番見応えがありました。 -
ということで開放されている7つの石窟を見終わりました。
破損している部分もかなり多かったですが、場所によってはかなり綺麗に残っている場所もあって見応えがありました。 -
ではタクシーに乗って市街へと戻ります。
一日中観光して暑さでバテバテです。 -
帰る途中に撮った火焔山。
そろそろ腹が空いたのでホテルではなく飯屋の方まで行ってもらうことにします。 -
市街中心部にある疆客·新疆风情という店にやってきました。
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酸味が効いた冷たい混ぜ麺。
夏バテにちょうどいいです。 -
小皿のポロ。
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羊串。
焼き方がいいのか香ばしくて美味しかった。 -
冷たいヨーグルト。
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デザート2種。
観光客用の店ですが、店内も清潔で料理も美味しかったので結構オススメです。
それではホテルに帰ります。 -
20時20分、ホテルに帰ってきました。
明日は列車でコルラへと向かいます。
ということで今回はここまでです。
今日も前回に引き続きトルファンを観光してきました。
実は24年の冬にもトルファンに来たことがあるのですが、その時は天候不良で全ての観光地が急に閉館してしまい全く観光出来なかったので、その時のリベンジを果たせてよかったです。
時間はコルラ編です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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旅行記グループ 夏の南疆鉄道の旅
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