2026/06/16 - 2026/06/18
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Pメテオラさん
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私の今回のポーランド、ドイツの旅は、ナチスドイツと第二次世界大戦の遺構を体験することを主眼に据えた旅でした。ベルリンでは、冷戦時代のベルリンの壁関連の場所の他、ナチス、第二次世界大戦がらみの場所へ行きました。
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に端を発し、1990年10月3日ドイツが再統一されて現在の姿になって以降、ベルリンは現代ドイツの首都として目覚ましい発展を遂げています。空襲により中心街の多くが破壊されたため、東京と同じように街並みが新しく現代的なことがベルリンの第一印象でした。
新しいベルリンも楽しみながら、ナチスドイツ台頭から第二次世界大戦の敗北、冷戦と東西分裂の苦難の歴史の断片を見て回りました。将来に悲劇を繰り返さないために、過去の惨禍を一般市民なりにきちんと振り返ることの大切さを噛みしめました。
こうした旅を、「ダーク・ツーリズム」の外来語で片づけるのは簡単です。ダーク・ツーリズムは、憧れや親しみ、探求心が残る墓参や古戦場めぐり、心霊ツアーなどとは別物です。人々が相手方をお互いに尊重し合うことの実践の難しさを、自分自身に問いかけるチャンスとなりました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- エールフランス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
【ベルリンの壁の記憶:1961年-1989年】
ベルリンの歴史やイメージを思い出すとき、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、第二次世界大戦後の冷戦時代を象徴するものの一つであったベルリンの壁でした。ベルリンフィルや、ベルリン国際映画祭ではないのです。裏を返せば、それだけシニアの世代だということです。
到着後、優先的にベルリンの壁に関する場所を回りました。
いまでは、ベルリンの壁があった場所は大部分が市街地化されています。けれども、1枚目の写真のように、ところどころに壁の記憶を残すための銘板があります。また、2枚目の写真のように、壁の跡には石畳が延々と敷かれ、ベルリン現代史最大の出来事を忘れない工夫がなされていました。 -
ベルリンの壁の概要や、都心部付近での位置は、以下のようなサイトを見ると分かりやすく紹介されています。
ウィキペディアでのベルリンの壁の概要や全体図の紹介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
「るるぶ」での都心部付近のベルリンの壁の地図や紹介
https://plus.rurubu.jp/article/853307247
ベルリンの壁は、都心部のほぼ真ん中を横切っていて、しかも首都機能がある場所のほとんどは、東側、つまり共産圏に属していたということですね。
そして、壁の位置は、市街地の通りと一致してない場所がたくさんありました。旧ソビエト連邦側と米英仏側が、道路と関係なく、定規で線引きしたかのような経緯で東西の境界を決めたということが、よく分かりました。 -
【ベルリンの壁記念センター】
都心部で、ベルリンの壁はあまり残っていません。大部分は市街地再開発のため取り壊されました。市民が寄ってたかって壁を崩した場面は有名ですが、人間が金槌やノミを振るったくらいで壊せる壁なんて少量です。
現存し、保存されているベルリンの壁を見るために、都心部の北寄り、Sバーンのノルトバンホーフ駅近く、ベルナウアー通り沿いにある「ベルリンの壁記念センター」を訪れました。
駅を出ると、すぐそばにニ重の壁が目に入り、その間がグリーンベルトのような緑地帯になっていました。遊歩道脇に屋外模型があり、ベルリンの壁がどういう形状で通っていたか、分かりやすく紹介されていました。 -
ベルリンの壁記念センターと公園には、たくさんの中高生が来ていました。夏休み入り直前だったので、課外授業で訪れていたようです。楽しそうに友人たちとおしゃべりしつつも、この実地体験が、いつかどこかで生きることを願って止みません。
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ベルリンの壁は、鉄筋コンクリート造です。また、二重構造で、二枚の壁の間は50メートル以上空いていて、第一の壁を突破した逃亡者が丸見えになるような構造です。また、壁は荒れていて落書きも多く、当時のままで放置されているように見えますが、崩落しないように人知れずメンテされているとのことでした。
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ベルリンの壁記念センター一帯の壁は、直接触れます。触ったからと言って、心に響くものがあるわけでもありません。けれども、この壁が、ドイツ分断の象徴であり、この壁の所為で多くの犠牲者が出たことを思うと、感慨深いものがありました。
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緑地の一部には、壁越えに失敗して亡くなった方を慰霊するための記念碑と慰霊写真が展示してありました。合掌。
1989年11月の、ベルリンの壁の崩壊直前まで犠牲者はいます。壁越え、地下トンネル掘りなど突破作戦は様々だったようです。当たり前ですが、ベルリンの壁の崩壊は予見できなかったので、最後の最後まで、壁越えを試みる人はいたのです。 -
【ベルリンの壁記念センター】
ベルナウアー通り沿いに歩いていくと、ベルリンの壁記念センターの建物があり、3階相当の高さの屋上へ上がれます。保存された東側の監視塔と、その先に、東側の威信をかけて建設したテレビ塔が見えました。感慨深げな風景です。 -
ベルリンの壁記念センター屋上から見える監視塔を間近かに見ました。壁で囲われていて側に近づけません。当然、非公開。理由や背景は不明です。
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【写真で学ぶベルリンの壁の28年】
ベルリンの壁記念センターの展示は、1961年の壁建設から1989年11月9日の壁の解放までを、写真中心に追った内容でした。視覚に訴えるので、とても分かりやすいです。写真の多くが、旧西側から撮影されたものであることは仕方なしだと思いました。 -
ベルリンの壁は、まったく予期せぬタイミングで突発的に解放され、世界中で大ニュースになった記憶が、まざまざと蘇りました。写真からも、当時の驚きと喜びが伝わってきました。
もう、この歴史的事件から37年も経つのですね。(2026年現在)私もシニアになった訳です。がっくり。 -
【イーストサイド・ギャラリー】
ベルリンの壁記念センター前から市電に乗って、南東方向へ30分ほど走ると、有名ポイントのひとつである「イーストサイド・ギャラリー」に着きました。
ここは、1990年に当局の決断により、ベルリンの壁をキャンバスにして、芸術家たちに思い思いに壁画を書いてもらった場所です。 -
イーストサイド・ギャラリーの道路側は東ベルリン、反対の川側は西ベルリンでした。いまでは、川沿いの公園にようになり、リバーサイド・ウォークが気持ちいい場所となりました。
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【独裁者のキス】
イーストサイド・ギャラリーが人気スポットなのは、ベルリンの壁が残っていることより、壁画の一つがとっても有名になったからです。1979年10月にソビエト連邦のブレジネフ書記長が東独のホーネッカー議長を訪問、男同士で熱いキスを交わした構図が超人気となりました。私も、その壁画をじっくり見て、かわりばんこに記念写真を撮りました。 -
【明るい観光名所、チェックポイント・チャーリー】
付近一帯は、観光地でもあり商店街でもありました。「死」とは直接、関係ないので、とても明るい雰囲気です。ベルリンが東西に分かれていた頃、外国人が東西を往来する際に通った検問所も、ベルリン現代史にちなんだ人気観光スポットです。「チャーリー」は、人名に聞こえますが、ABCの「C」を特定するとき使う「チャーリーのC」という意味。 -
私も、同行の友人と一緒の記念写真を撮ってもらいました。
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チェックポイント・チャーリーを旧東ベルリン側からみた風景です。
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【ナチスの主要機関跡付近のベルリンの壁】
チェックポイント・チャーリーから徒歩10分くらいの場所にもベルリンの壁が残っています。ヴィルヘルム通りとニーダーキルヒナー通りの交差点あたりです。付近一帯は、ナチスの主要機関が並んでいたので、壁とともに、半地下状の拘禁施設の跡などが保存、公開されていました。 -
このあたりのベルリンの壁は保護されていて、触れません。柵から手を伸ばしても、ぎりぎりで届かないようになっていました。
都心近くで、大勢の観光客が行き来しているので保護しているようでした。中には、壁を叩いたりして崩す輩もいそうですから。 -
【ポツダム・プラーツ(広場)でもベルリンの壁展示】
ニーダーキルヒナー通りから、地図を見ながらベルリンの壁跡沿いを歩き、ポツダム・プラーツ(広場)に着きました。ドイツ統一後、昔日の賑わいを取り戻すべく大規模再開発をして蘇った場所です。ちょうど、ベルリンの壁の残りを展示して、屋外回顧展をやっていました。ベルリン市民にとっては、壁があった時代は、まだまだ忘れえぬ記憶なのだと、実感しました。 -
【ポツダム・プラーツからブランデンブルク門へ続くベルリンの壁】
小休止のため入ったカフェの店内は、ベルリンの壁上に作られたようです。
道路の奥の方が、ベルリンの象徴であり、ドイツ統一の象徴でもあるブランデンブルク門へ至る道です。 -
【虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑】
ポツダム・プラーツ(広場)からブランデンブルク門へ向かう途中に、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑があります。コンクリート製のさまざまな大きさの直方体が窪地に並んでいるだけの記念碑です。 -
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑は、隙間の通行も昇り降りも自由です。何の装飾もなく、無言でたたずむコンクリートの碑が、事の重大さを静かに、けれども強い意志を持って物語っているようでした。
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たくさんの学生さんが、先生と思しき大人の説明を聞いていました。特段、暗い雰囲気や深刻な様子もありません。このあたりが、反戦と政治をすぐさま直結したがる日本の大人やマスコミ、教育体系と違うようです。
歴史の汚点を追求するのではなく、その惨劇を二度と繰り返さないために、一人一人が考える時間を若いうちに体験できることは素晴らしいことです。 -
【ドイツ統一の象徴ブランデンブルク門】
ポツダム・プラーツ(広場)から歩いてくると、ブランデンブルク門側面を右手にみながらドイツ国会議事堂のガラスドーム屋根が見えてきます。きっと、現代ドイツ、現代ベルリンを象徴する風景のひとつでしょう。 -
冷戦時代の東西分裂時には、このブランデンブルク門のすぐ西側にベルリンの壁があったため、あたり一帯は殺伐として寂れていたようです。だからこそ、1990年のドイツ再統一のシンボルとして、一躍、有名な場所になったようです。門の両側に伸びる大通りも、ベルリンという都市の背骨のように美しい道でした。
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【ドイツ国会議事堂と放火事件】
ドイツ国会議事堂は、いまでこそ立派で現代風の改造が施されていますが、ナチス時代の記憶が染みついた歴史的建造物として眺めると感慨深げです。
国会議事堂は、1933年2月27日夜に放火で内部が全焼しました。ヒトラー首相就任後1カ月余での出来事です。いまだに真相は不明だそうですが、ナチスはユダヤ人の陰謀だと主張。国民も無言の了解で事態の推移を許したのです。
こういう流れは、他人事ではありません。ほんのちょっぴり、関わり合いを避けているうちに、歴史が示すとおりになったのは、日独然り、他国然りです。 -
【ブランデンブルク門と国会議事堂を鳥瞰】
後日、TV塔の展望台から撮ったブランデンブルク門と国会議事堂付近の写真です。背後に大きな公園が拡がり、ベルリンが緑豊かな都心部を持っていることが分かります。
ブランデンブルク門の手前側は、かつて東側に所属していたウンター・デル・リンデン通りです。森鴎外がドイツに留学していた明治半ばごろにはベルリン随一の繁華街だったようですが、いまでは観光客がそぞろ歩きする観光ポイントです。 -
【閑話休題。東独発祥のアンペルマン歩行者信号マーク】
いきなり話はそれますが、ベルリン市中の歩行者用信号機の人型マークは、帽子をかぶったデザインです。多分、言われないと気づかないでしょう。
アンペルマンのニックネームで親しまれるデザインは、なんと東独発祥。ベルリン観光の隠れた人気者になっています。
1枚目の写真が、赤のアンペルマンです。 -
2枚目の写真が、緑のアンペルマンです。
ドイツのイメージには似合わない、何となくユーモラスなデザインが、それも共産圏発祥なんて驚きです。アンペルマン信号機は、今では旧西ベルリンにもいっぱい設置されていますし、他のドイツの都市でも見かけるようになったそうです。 -
【ナチスの焚書をしたオペラ広場の静寂】
ナチスの痕跡はベルリンにも少なからず残っています。
ネオナチ信奉者の聖地になり兼ねないとして、取り壊されたり、人知れず残っているのものもありますが、ナチスは形に残らない面でもドイツを破滅に追い込みました。
1933年5月10日、ここのオペラ広場他で、反ドイツ的と決めつけた書物を公衆の面前で焼き払ったのでした。(地図では、ベーベル広場の表記。委細不明) -
オペラ広場には、ナチスの焚書を記録する銘板が埋め込まれ、ガラス越しに地下書庫の様子が見えるようになっています。
銘板そのものか、その近くには、ドイツを代表する詩人であるハインリッヒ・ハイネが1847年に言ったとされる、「書物を蔑ろにするとき、それは国民か民族の崩壊につながる」のような語句が添えられていました。
まさに至言。その書物が権力者批判、馴染みのない芸術活動の擁護や道徳律への疑義であっても、文化活動を力づくで抑圧する者に未来はないのです。
「けれども、こうした抑圧は、日々、日常生活でも起きていますね。謹厳実直な先生や長老の『ふしだらな』の一言で、破棄される本とか漫画などを思い出してください」
こんな歴史の一場面の記憶まで辿れたベルリン訪問は、とても有意義なものでした。ただし、猛暑には参りました。 -
【史上最大の空輸作戦の地、テンペルホーフ空港跡】
テンペルホーフ空港跡も、現代ベルリン史の生き証人のひとつでしょう。
1948年6月から1949年5月にかけて、東独および東ベルリンを占領していたソビエト連邦は、米英仏の占領政策に反発して西ベルリンを封鎖しました。東独領の中に離れ小島のように隔離された西ベルリン向けに、米軍は物資の大規模な空輸作戦を展開しました。そのときの西ベルリンの到着地がテンペルホーフ空港でした。 -
ソビエト連邦側は、結局、西ベルリンの封鎖を解除しました。
テンペルホーフ空港は、そのときの主役としてばかりではなく、ナチス時代に、当時、世界一長いコンクリート造の空港ビルが建設されたことでも歴史に登場します。
いまでは、空港自体は閉鎖されましたが、長くて大きな空港ビルは、一部は博物館となり、その他は放置されるか、イベント会場として使われています。 -
テンペルホーフ空港の滑走路跡は、広々とした公園になっています。空港ビルを回り込んで、滑走路付近へ行くと、長々と横たわるコンクリート造のターミナルビルが見えます。
ナチスは、巨大なだけの建造物を作るのが好きだったようです。占領地に、大きいだけのコンクリート造のビルが残っていたり、サイズは大きいものの技術的な魅力に乏しい高速鉄道計画を作ってみたりしたようです。
ハコものだけが好きな政治が、ロクな成果を生まないのは古今東西共通なようですね。 -
【ベルリン空襲の生き証人カイザー・ヴィルヘルム記念教会】
ここも、ベルリン現代史を実感するうえで欠かせないポイントです。
前記のテンペルホーフ空港とともに、旧西ベルリンにある第二次世界大戦の戦跡です。教会自体は、ドイツ帝国建設時に在位していた初代皇帝ヴィルヘルムⅠ世(在位1871年~1888年)を称えるために建立されたものが、ベルリン空襲を受けて鐘楼を残すのみとなった外観が有名。
現代的なビルが立ち並ぶ市中に建っているので、とても目立ちますし、そのコントラストが観光客の目を惹くポイントのようです。 -
私が初めに思ったのは、「平均より頑丈に造った皇帝陛下のための教会だからこそ、猛攻を受けても、これだけ残ったのだ」ということでした。
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内部の地上階は、簡単な展示室になっていて無料で回れますが、奥の方は確か有料拝観区域でした。空襲直後は、石造りの壁だけ残して丸焼けだったことが分かります。
上空からの爆撃、つまり上方向からの力には、精緻な石造建造物も強いことが分かります。地震のような横方向からの力にはどうなのでしょう、と私は思って見ていました。
もちろん、戦争の遺構を直接見られたことに大満足した上での感想です。 -
カイザー・ヴィルヘルム記念教会そのものの宗教的機能は、真向いの新教会で執り行われています。とてもモダンな空間で、プロテスタントなので祭壇もシンプルです。
「この思い切りの良いデザイン変更方針、私は好きです」 -
【反対側のカーデーベー・デパート付近から見たカイザー・ヴィルヘルム記念教会】
教会の周りは繁華街です。カーデーベー・デパートや若い人たちが集まるユーロ・センターなどがあってベルリンの賑わいが感じられる街です。
ベルリン現代史の遺構や記念スポットめぐりも、ここが最終地点となりました。了
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