2026/04/18 - 2026/04/18
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gianiさん
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2026/04/18
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住友忠隈炭鉱は、筑豊炭田では唯一の住友系でした。
三菱は1881年、三井は1889年に政府系炭鉱を買い取って業界参入しましたが、住友は1894年と大きく出遅れます。
忠隈は狭い範囲に見所が揃い、歩きやすい環境です。一年経つごとに炭鉱遺構が消えていく現状を考え、記録としてアップしました。尚、証言/記憶による情報は貴重ですが、矛盾点も多々あるので、写真判読(撮影時期を考慮)を最優先しています。
炭鉱の全体像をイメージする上で少しでも役に立てば幸いです。
※炭鉱会社は、石炭は金属ではないので鉱ではなく砿(常用外)の字を使用しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは飯塚駅。
新飯塚駅の隣です。
飯塚市街は、旧飯塚宿/飯塚(菰田)/新飯塚(芳雄)の順に拡大します。飯塚駅 駅
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1893(M26)年開業で、1970年築の駅舎は現在リフォーム中です。
交番がぽっつりと残されます。飯塚駅周辺は、住友忠隈炭鉱と共に発展しました。駅から本部事務所跡までの道のりは、僅か数百メートルです。 -
駅前のロータリー
1893(M26)年の開業当時、山陽本線は翌年の日清戦争開戦へ向けて、広島へ向けて伸張工事中でした。そんな鉄道発展途上の中、若松~飯塚は石炭輸送のために複線化も進行していました。 -
ちょっと横を見るとこんな感じ。
高層マンションは、再開発の序章みたいです。
筑豊興業鉄道は、1891年に若松~直方を開業していましたが、麻生忠隈炭坑の石炭を輸送するために飯塚まで延長します。 -
熊添川に架かる駅前の菰田橋は、1931年の親柱が遺されています。
菰田村は1889年の町村制施行に伴い、飯塚村/徳前村と合併して飯塚町となります。旧菰田村は、長崎街道の宿場町を擁する旧飯塚村と両輪で発展しました。 -
ボタ山が見えます。筑豊富士とも呼ばれる風光明媚な姿で、今は緑に覆われています。忠隈炭鉱の遺物で、人工物で唯一富士の名称を戴いています。
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同じ場所から1957年に撮った写真。
忠隈炭鉱は、筑豊御三家の麻生太吉によって開発され、1891年には主力坑となるものの、1894(M27)年に大断層にぶつかり、放棄せざるを得なくなります。ちょうど業界進出を狙っていた住友吉左衛門が買い取りに応じ、優良鉱区に生まれ変わります。 -
上の写真の先に見える踏切
飯塚駅方向の眺め。石炭輸送関連の側線が構内に沢山並んでいました。 -
反対側の眺め
左側の草むらは嘗て住友の敷地で、本部事務所/七坑(主力坑)/巻上機/発電所等が建ち並び、引き込み線から石炭列車が発着しました。 -
忠隈炭鉱の周辺図
水色の実線が閉山時の市町村界です(水路と紛らわしくてスイマセン)。飯塚駅を擁する飯塚市、旧忠隈村を吸収した嘉穂郡穂波町、樋渡の部分は嘉穂郡稲築町です。2006年に稲築町は新制嘉麻市に、穂波町は飯塚市に吸収合併されます。
赤矢印は1957年の写真の撮影方向、黄●は上の写真の踏切、灰色は忠隈鉱の施設が集中するエリア。 -
1933年の様子
こちらは横からの構図で、飯塚駅から筑豊本線が右カーブするところに七坑巻上機がそびえています。選炭所/貯炭槽(ホッパー)が線路上に跨がり、貨車へ石炭を直接積めるようになっています。現在草むらの部分では、出炭/選炭/出荷が流れ作業で行われる心臓部でした。 -
飯塚から先は、単線です。2003年開通のR201飯塚庄内田川バイパスが斜めに横断し、炭鉱閉山後の光景を大きく変えています。
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R201バイパスを潜って、筑豊本線の公民館前踏切まで来ました。
ここまで線路沿いに発電所やボイラー等が並んでいました。上の地図で緑●の場所です。 -
公民館前踏切から線路沿いに300m程進むと忠隈踏切があるので渡ります。上の地図で水色●の所です。
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1966年の光景
閉山から半年後の光景です。 -
踏切を渡ると上り坂、ミラーの所を右へ曲ります。
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白壁の道を進んでいきます。
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左へカーブする手前に、忠隈一区公民館が。
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左カーブした突き当りに神社の石垣が見えます。右折します。
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鳥居を見ると宝満宮とあります。
1906(M39)年に奉納された鳥居が。
裏には、麻生太吉が寄進したことが刻まれています。息子は早世しますが、孫の多賀吉は吉田茂の娘と結婚し、曾孫の太郎は首相、妹の信子は三笠宮家(寬仁親王)へ嫁ぎ、華麗なる一族を形成します。 -
忠隈村で最初に炭鉱(日本坑法に準拠する)を開いたのが麻生太吉で、1874(M7)年に3300平方メートルの鉱山借区(鉱区)を許可されました。1886(M19)年には鉱区を19.6haに拡張します。時代を見越して、忠隈では機械化を想定した坑道の配置や坑木の組み方等を実践します。
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1906年に住友忠隈炭坑から寄付があったことを記した玉垣も。
1891(M24)年の豪雨で筑豊炭田は廃坑が相次ぎ、麻生の主力坑だった笠松炭鉱が廃坑に追い込まれます。忠隈は最期の希望として、当時珍しかった蒸気機関を10基/排水ポンプを14基を投資して坑内を排水、1893年には鉄道による石炭輸送といった具合でインフラを整備します。 -
忠隈炭坑のボタ石で築かれた塚も。
住友は本業が順調で、銅の精錬用コークスと蒸気機関用の石炭需要が急増しました。半年前に買収した庄司炭鉱(幸袋)は鉱区も狭く、白羽の矢が立ったのが忠隈でした。別子銅山で培った断層突破のノウハウを武器に、鉄道や機械化対応済の忠隈で飛躍します。 -
陸軍元帥を務めた杉本元筆の慰霊碑
飯塚の徴兵を管轄する小倉師団長だった時の起毛です。 -
宝満宮は大宰府から1270年に勧請し、旧忠隈村の村社となります。記録では、1561年に大友宗麟vs秋月種実の戦闘で焼失し、小早川隆景が再建したとあります。門司城の戦いを中心とする毛利vs大友の戦闘です。
※太吉は宝満宮を深く崇敬して、大宰府宝満宮参拝用に人道トンネルを掘って寄進します。宝満宮 竈門神社 寺・神社・教会
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宝満宮を出て、反時計回りに歩きます。
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二坑(1896-1906)
右側には、住友が最初に開坑した二坑が存在しました。坑内はガスが多く、1902年に安全灯(防火灯)/扇風機導入で換気を改善しますが、炭層を掘り尽くして僅か10年(M39)で廃坑になります。炭住が建ち、跡形もなくなります。 -
忠隈商店街
左へカーブして、十字路を横断します。昭和に入ると、通り沿いには様々な商店が並び、ヒロッパと呼ばれる60軒ほどの商店街を形成します。飯塚市街へ通じる唯一のルートだったので、炭鉱従事者以外も通行/買い物に訪れて賑やかでした。 -
十字路の先
商店街のセンターとは思えない姿です。 -
真っ直ぐ進まず十字路を左へ曲がると、忠隈三区公民館があります。
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道を引き返すと、ボタ山が大きく見えます。
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1956年の様子。
先の丘の上にも炭住が並びます。 -
元の道を進みます。ようやく右側にお店(の跡)が見えてきました。向かいには、天道店(日用品/食品)/駐在所/青山呉服店/江崎鮮魚店等が並びました。これらは炭鉱指定店と呼ばれ、炭鉱の購買会で扱えない商品を提供し、住友が買物に便利な一等地に建物を提供する等の便宜を図りました。大概は個人店で、露天や行商も多く存在しました。
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左の空き地の先には、炭鉱指定店の深谷荒物店が建ちました。
右には、巨大なボイラーの煙突が見えます。
1990年頃には7店舗が営業していましたが、現在はゼロです。 -
本坑(1885-1945)
右に忠隈住民センターが建ちます。正面の白い壁の辺りには、麻生太吉による本坑(本道270m)がありました。住友は買収から数か月後に断層を突破し、28000tを出炭します。20度の傾斜で、本道は540mでした。
本坑/二坑に続き、三坑へ向かいます。公民館前踏切へ移動します。 -
忠隈炭鉱の坑口を地図上にプロットしました。実線は、エンドレス軌道です。
本坑(1885-1945):黄
二坑(1896-1906):橙
三坑(1900-53):赤 主力坑
四坑(1919-45):紫
五坑(1919-45):水
六坑(1921-45):青
七坑(1927-61):緑 主力坑
新二坑(1948-54):灰
八坑(1960-65):黒 -
三坑(1900-53):主力坑
踏切の真横に忠隈二区公民館があります。閉山翌年の1966年に建てられました。この辺りに三坑の坑口がありました。三尺/五尺層を採掘するために開設され、終戦まで主力坑として炭鉱を支えます。三坑の採炭に伴い、1906年には選炭場も移設されます。 -
道路の反対側は炭住が幾らか建ちますが、農地(水田)が広がりました。
鉱山借区(鉱区)は大深度の世界で、地表の所有権(地権)とは別物です。住友買収時の鉱区は2.2平方kmでしたが、この時期に2.9平方kmまで拡張します。 -
昭和30年代の光景
手前を解説すると、左下のSLの煙に沿って駅から歩いてきた線路が写ります。線路沿いに左から貯炭槽/本部事務所/工作所、ボイラー室/火力発電所(煙突3本が目印)がありました。煙突の先を踏切から斜めに今歩いている道が続き、三角形の水田地です。 -
左側の崖は炭鉱施設が立ち並び、右側は水田です。
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奥は微高地です。
三坑は、採炭を運搬するための本卸/人道卸/鉄管卸の3卸(坑道)が並行して掘られました。北向きに15度の傾斜で、総延長は1300mでした。坑口から540mの地点で、右側へ35度の方向(≒北東)へ分岐し(又卸:本卸/人道卸/鉄管卸を備える)、総延長は520m/傾斜は20度でした。卸/本卸にはレールが敷かれ、炭車が往来しました。 -
正面も丘なので、T字路に突き当たります。
この道は、山王谷と呼ばれた谷戸を遡ります。山王谷は、麻生太吉が1874(M7)年に鉱区を取得して狸堀りを始めた地区で、忠隈炭坑の元祖地点です。坑口から出たボタでかなりの部分が埋められ、ここが谷口になっています。 -
谷地を埋めた最前線で、その上にも炭住が建ちます。
三坑の卸と又卸は、それぞれ櫛状に水手(排水)坑道が掘られました。卸は13対/又卸は10対です。卸/又卸の炭車はケーブルカーの原理で動かしましたが、出炭が好調につき、1906年にはエンドレス捲き/選炭機、1910年には排水ポンプの電化と設備投資が進みます。本坑の排水は三坑へ流しました。 -
T字路を左折すると、緩い坂道が続きます。
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後ろを振り返ります。味のある光景です。
三坑は主力坑かつ線路沿いなので、選炭機/工作所等を設置して効率化を図ります。1909(M42)年には新しい本部事務所が三坑近くに落成し、本坑そばから移転します。 -
坂を上り切りると、左は本坑跡です。三坑から本坑までは350m程の道のりで、直線距離だと250mです。1945年に廃坑になると、住民の洗濯場となりました。
本坑の周りには、歴史スポットが多くあります。 -
忠隈住民センター
炭鉱の共同浴場跡に建ちます。本館と繋がる右側のボイラー煙突のある謎の建物へ行くと、 -
忠隈浴場というプレートが。150円という破格の入湯料です。
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券売機を見ると、今も150円のままです。
残念ながらボイラーが修理不能で、3月末を以て浴場は閉鎖という張り紙が。タオルを用意して臨んだのに、、、 -
気を取り直して、本坑跡を発ちます。向こうに煉瓦遺構が見えます。
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四坑(1919-45)
正面奥の家の辺りが四坑の坑口で、本坑は目と鼻の先です。第一次世界大戦中の好景気を反映して、同年には五坑/六坑も開坑します。これら3坑は、最も浅い八尺層を採炭しました。3年後には三坑でも八尺層を採掘します。煉瓦遺構は、四坑の巻上機台座です。 -
四坑の搬入搬出用スキップ(炭車)を巻き上げる櫓が立ちました。
いつもここに路駐している白い車が、今日はありませんでした。住友忠隈炭砿 巻き上げ機台座 名所・史跡
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ここからワイヤーを巻いたり緩めたりしました。
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中に入ると、こんな感じ。隣の家が土台として借用しています。
煉瓦はイギリス積みと呼ばれるもので、長辺を手前に並べたら、次の段は短辺を手前に並べます。 -
煉瓦遺構の先には、常楽寺があります。
天道駅近くにある常楽寺が鉱員に説教をしに来ていましたが、需要が大きいのでここに分院しました。という歴史から分かるように、真宗大谷派です。ボタ山麓の墓地には、1899(M32)年に忠隈炭砿が身寄りの無い坑夫の慰霊塔「衆魂之碑」を立てています。 -
山の神公園
常楽寺先の高台には、坑内の安全を願った神社がありました。鉱山と表記するように、炭鉱は地形に関わりなくヤマと呼ばれました。別子銅山は伊予国ということもあり、山の神を祀る大山祇神社から勧請するのが住友流です。 -
園内には、忠隈炭砿之跡という石碑があります。
閉山後の1966年に、住友石炭鉱山社長による文章が刻まれています。忠隈は、住友が石炭採掘に参入した最初の炭坑なので、会社発祥の地と言えます。この後は、石狩炭田をメインに事業を拡大します。 -
此の地は住友石炭鉱業発祥の地である。
即ち明治二十七年麻生太吉氏より鉱区を譲りうけ住友忠隈炭鉱を拓いた。これが住友の事業として石炭業界に進出した最初のものである。
爾来日に月に進展、操業を重ねること実に七十有余年、住友石炭興隆の礎としてその間能くその使命を全うした。茲に天の命あり開山するに当り記念の碑を建立して永く後世にその栄光を伝えんとするものである。
昭和四十一年九月 住友石炭鉱業株式会社社長 石松正鐵 誌す -
こんな町中に昔は炭鉱があったというギャップが、筑豊炭田の面白い所です。
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斜面には、カラフルな幼稚園の建物が見えます。
公園を後に、道を更に進みます。 -
現在穂波幼稚園として使用されているのは、1939年に住友が厚生施設として建てた元体育館です。閉山翌年に、幼稚園に生まれ変わりました。公道からは裏側しか見えません。麻生太吉から1909年まで、道路の向かい(忠隈51番地)に本部事務所がありました。
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本坑/四坑周囲は桐の木谷と呼ばれ、ボタで埋められます。1827年に桐の木谷の武八が五尺層の露頭を見つけ、石炭を販売していたというのが、忠隈で最古の採炭記録です。
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では、三坑に代わって主力坑となった七坑跡周辺へ向かいます。
本坑跡の角を右に曲がります。北区に入ります。 -
こんな感じです。
道の左側は、手前から質屋/薬局といった感じで商店が並んでいました。 -
七坑(1927-65)
最初の交差点右前前に、緑の丘があります。左前は手前より本部事務所、七坑が並びました。七坑は、大焼層と呼ばれる深層群を採掘するために日本初の傾斜竪坑(巻上坑:傾斜43度/延長400m,人車坑:傾斜28度/延長600m)を採用しました。1927(S2)年に人車坑の巻上機が完成し、採掘がスタートします。 -
右側には、コンクリート橋の跡が遺ります。
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左側は新旧混在、右側は区画整備された新興住宅街、道路は線路へ向かって下っています。左は旧忠隈二区テンクラ町で一般住宅、右側は炭鉱施設(工作所/購買会等)跡です。工作所は機械/車両等を製造修理、購買会は炭鉱が開設した商店で日用品/炭坑用品を扱っていました。
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炭券
鉱員の給与は日払いで、炭券で支払われました。写真は10斤券の表面です。炭坑事務所が発行し、購買会/炭坑指定店での支払いに使用できました。事務所での換金は月1,2回で、急な出費のために金融機関で融通(換金)すると、3ないしは5割の手数料が差し引かれました。 -
住友(大手)の炭券は信用があったので、一般の商店でも通用することがありました(廃坑になると炭券は無効になるという但し書きがあります)。裏面を見ると、忠隈を買収した明治27年4月の発行です。購買会では生鮮品/理髪等のサービスは無かったので、一般の商店を利用する必要がありました。時代が進み、戦後の労働基準法では給与は全額通貨払いが義務付けられます。
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ボイラー室と発電所の様子。
高い煙突が目印です。製品にできない低カロリーの石炭を、汽缶(ボイラー)/火力発電用に燃やして有効活用しました。1923年には電力自給を達成し、炭住にも配電しました。手前には、エンドレス(炭車の軌道)が横断しています。 -
閉山後間もない頃の光景。
公民館横踏切から<形で本坑跡まで道が続きます。四辻には公衆浴場(現住民C)が建ちます。テンクラ町の周りは、炭鉱施設が撤去されて草むらになっています。三角形の水田も奥にあります。 -
写真は、事務所の奥に七坑の坑口が写っています。垂直に降りる竪坑が多い中、忠隈の傾斜竪坑は極めて稀です。エレベータ(垂直)よりもエスカレータ(傾斜)の方が大量移動に向いているという原理に基づき、垂直距離で280m下まで移動できます。麻生時代20年間で70万tを出炭しましたが、七坑開坑で年間40万tを達成します。
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七坑炭車坑の巻上機(1929)
昭和4年には炭車坑の巻上機が完成し、本格稼働します。人車坑と比べて大きな負荷が掛かる(重量/角度)ので、ケーブルやモーターを強化しています。左下に見える重りでバランスをとるのは、昇降機(エレベータ)と同じです。煙突と巻上機の櫓は、視覚的インパクトの大きい炭鉱施設です。 -
住宅街は、空き地をクッションにR201バイパスと対峙します。
炭車坑から巻き上げられた炭車は、転覆機(チップラー)の上で積載物を選炭機へ降ろします。粗炭(積載物)は格子に掛けられ、塊炭と小塊粉に分別します。塊炭は手選別で精炭と硬炭に選別され、精炭は貯炭槽/硬炭は浸缶場へ運ばれ、炭と塊に分別されます。炭は発電所/汽缶の燃料に、硬は廃棄されます。 -
一方の小塊粉は、6ミリ孔子の回転篩に掛けられ、篩を通ったものは貯炭槽に送られます。選炭場/貯炭槽は写真のように線路の真上に設置され、下の貨車へ直接積みます。小塊は手選別で小塊と硬炭に分けられ、小塊は貯炭槽/硬炭は浸缶場へ運ばれて燃料炭と硬(ガタ/ボタ)に分けられます。
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ボタ/ガタ(硬)の処理
当初は、坑口そばの桐ノ木谷/山王谷へ投棄しました。谷が埋まると廃棄場を新設してピラミッド状に積み重ねるようになり、1931年以降ボタ山が出現します。忠隈のボタ山は、日本でも最初期のものです。炭鉱内で発生したボタは各坑口からエンドレス(貨物用ケーブルカー)軌道で運搬され、五坑→七坑/発電所/汽缶場/三坑→本坑→四坑→ボタ山という敷設です。
先程の十字路の橋は、エンドレス軌道の跡です。 -
橋跡は、小山に隣接します。
ここに住友が経営する忠隈病院や職員クラブ等がありました。炭鉱従事者のうち住友社員は坑員を管理する業務に携わり、背広を着たホワイトカラー、炭鉱住宅とは比較にならない職員住宅に住み、歴然とした処遇の差がありました。 -
現在の航空写真を見ると、丘の部分だけ未開発です。
石炭業界の斜陽化
朝鮮戦争の硬直化/休戦に伴う1953(S28)年の景気後退で、全国で閉山/大量解雇が相次ぎます。構造的危機も表面化し、この年を機に業界は衰退していきます。忠隈では1953年に、老朽化著しい三坑と戦後に開坑した新二坑(1948-53)を廃坑にします。この年に開坑した八坑は7年間塩漬けにされます。この時点で採炭していたのは七坑だけでした。 -
閉山後間もない写真を見ると、細長い丘が見えます。航空写真に写っている丘の正体です。周囲は城ヶ崎と呼ばれました。ちなみにその奥のコンクリートのシールドのような筒は、七坑の坑口です。
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ぐるりと一周すると、崖沿いに忠営公民館。崖沿いは商店が多かったようで、キタッパと呼ばれました。飯塚駅へ通じる明治~昭和の街道ルートでした。
1954年には加賀炭鉱、57年には浦田炭坑/日の出炭坑が租借権(他人の鉱区で採炭する権利)を設定し、忠隈はリストラを加速します。1961(S36)年には住友石炭鉱業としては閉山し、第二会社の忠隈炭鉱へ引き継がれます。前年の出炭量は13万tまで落ち込みます。忠隈炭鉱も1965(S40)年に閉山し、忠隈からヤマの火は消えます。 -
崖には、所有権をあらわす境界標が。1966年創立で、初代社長は麻生太郎。斜陽化していた石炭部門を背負い、グループの屋台骨を石炭からセメント業へシフトしました。崖に立っていた紅白の看板は株式会社麻生の名義なので、今もこの土地の持ち主です。1894年に住友と結んだ売買契約はかなり特殊で、閉山後も麻生産業(当時)の土地所有権が各所で残存します。
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崖の向かいには、炭車軌道の跡が遺っています。
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こんな感じでトンネルと橋も遺っていますが、
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軌道内は、庭やら家やらが建ち、かなりワイルドです。
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麓には、典型的な炭住が。ハーモニカ長屋と言います。見分け方の一つは、屋外の壁沿いに流しがあることです。
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忠隈交差点でR201バイパスを横断します。向かいのアンテナの立つ五穀山が大きな目印です。
黒だいや/白だいやという羊羹で有名な1950年開店の老舗和菓子屋があります。亀屋延永 飯塚店 グルメ・レストラン
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印象的なビルを右手に坂を下って左へ曲がると
La Sofia グルメ・レストラン
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最初に侵入した城ヶ崎踏切です。
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踏切を背に進むと、左側に段々に整地された丘が現れます。ここに五坑(1919-45)と八坑(1960-65)がありました。ここがエンドレスの基点です。両坑は、飯塚市菰田地区に坑口があります。丘の上は、炭住が並びました。
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踏切から更に川を遡って振り返ると、プレハブがあります。
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住石マテリアルズの営業所、旧社名は住友石炭鉱業です。かつては東証一部に上場していましたが、住友の炭鉱は全て閉山したので、細々と輸入炭を扱います。名前とは裏腹に、現在株式の過半数を所持するのは株式会社麻生で、2008年以降は麻生グループ傘下です(今は東証スタンダード)。
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炭住の立っていた丘は、こんな感じで整地されています。
菰田では、1957(S32)年に日の出炭坑が租借権(他人の鉱区で採炭する権利)を設定し、忠隈はリストラを加速しました。 -
炭鉱時代から営業しているお店。名物おばあちゃんがいます。
電話ボックスが残っているのは、駐在所があった余韻でしょうか。購買会/商店街/共同浴場がありました。 -
こんな感じで川の上に建ち、奥は炭住です。
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心地よい雰囲気です。
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左側は空き地で、正面には道路に合わせて嵩上げした消防署があります。共に、炭鉱のグラウンド跡です。
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閉山後の写真を見ると、谷間と山地を区切る整地された崖が見えます。右下には、グラウンドがそのまま活用されています。
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R201の右向かいも丘になっています。
真ん前に、元体育館とボタ山が見えます。丘の先(体育館の横)には、戦後に新二坑(1948-54)が開かれました。 -
丘は、職員住宅(住友社員:エリート幹部)でした。丘の上なので山手住宅と呼ばれ、高級ブランドのシンボルでした、
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消防署の向かい側を川に沿って遡ります。
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こんな感じで、右にボタ山の麓です。エンドレスの終点がここで、ボタ山が築かれました。
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ボタ山の最前線でエンドレスは分岐し、最先端で炭車から投棄しました。
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山はどんどん大きくなっていき、線路も順次伸ばしていきました。レール沿いが稜線となりました。
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古い炭住が遺ります。ここは泉町と呼ばれました。六坑の購買会/商店街/共同浴場がありました。
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この奥には、六坑(1932-45)が開かれました。東側には専用のエンドレスと六坑のボタ山がありましたが、今は崩されて整地されています。雨が降ると山麓が崩れて、周辺集落に危険が伴うからです。こうして、筑豊に数百あったボタ山は次々と消えていきました。1970年になると九州でも高速道路建設が始まり、ボタ山のボタは路盤の盛土に代わる素材として最適であると分かり、土木工事でリサイクルされました。
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浦田公民館
1954(S29)年には加賀炭鉱、57年には浦田炭坑が租借権(他人の鉱区で採炭する権利)を設定し、採掘を続けました。
これで炭鉱を一周しました。周囲では大規模再開発が進んでいますが、忠隈炭鉱では炭住/独身寮跡が運転免許センター関連になったくらいです。 -
鉱害と恩恵
住友が第二坑で採炭を始める(1896年)と、周囲で井戸枯れが頻発します。1900年には住居の陥没、1904年には耕地陥没/溜池破損が顕著になり、補償金支払いで決着させます。三坑の通気竪坑が掘られた堀池地区では、農地が陥没します。戦後に施行された土地改良工事のために選炭場との間にボタを運ぶ専用架道が建設されました。 -
井戸枯れで自分の首を絞めた忠隈は、1907年に浄水場を建設し、炭鉱/炭住エリアに上水道を供給します。穂波町域に公設水道が開通したのが1950年代なので、大きな恩恵と言えます。炭住は、町域よりも早い時期に電力も供給されます。
写真は閉山時の忠隈の鉱区で、4.7平方kmまで拡大しました。鉱区の大半は飯塚市域です。石炭露頭は穂波町でしたが、炭層は北東方向へ走っているので、こうなります。周囲を他鉱区に囲まれています。隙間は、遠賀/穂波川の川筋です。 -
飯塚駅と旧飯塚宿を結ぶ駅通り橋。穂波川に架かる人道橋で、赤いストライプがアクセントです。
グリーンホテルどっとん 宿・ホテル
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これは1950年代の姿で、朱塗りゆえに赤橋と呼ばれていました。その歴史を語るストライプでした。三菱飯塚/住友忠隈炭鉱周囲の人たちは、ヒロッパ/キタッパと続く忠隈商店街を越え、城ヶ崎踏切を渡って飯塚駅前を通過して、この赤橋(駅通り橋)を渡って旧市街へ行くのが定番ルートでした。
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ボタ山の稜線美を遺憾なく堪能できるのは、芳雄橋からの眺めだと言われます。真っ黒だった山肌は今は緑で覆われて雰囲気は変わってしまいましたが、山崩れのリスクは低減しています。観る角度にもよりますが、3連の嶺が描く稜線美から筑豊富士と呼ばれます。黒い山肌が雪化粧すると、とりわけ美しかったそうです。
ボタ山(筑豊富士) 名所・史跡
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おまけ
南尾越えの先、南尾二区(ボタ山の南側)。三菱飯塚炭鉱との境目が曖昧です。 -
忠隈二区
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忠隈三区
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これだけ炭住が遺るのは、珍しいです。
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山王谷上部から谷口を見下ろす。忠隈二区。
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忠隈二区
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エンドレス軌道跡
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菰田地区
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菰田地区
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ボタ山南側
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